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新年、音楽会始めを能で寿ぐ 青木涼子「現代音楽 X 能」 vol.9   

2022年1月12日 @サントリーホール、ブルーローズ


シルヴィア・ボルゼッリ(宮沢賢治):「旅人」

稲森安太己(梁塵秘抄):「舞うもの尽くし二首」

ミケル・ウルキーザ(オスカー・ワイルド「幸せな王子」):「小さなツバメ」


青木涼子(能声)

上村文乃(チェロ)


新年明けましておめでとうを寿ぐ今年最初の音楽会が期せずして、青木涼子さんの「現代音楽 X 能」になりました。能で年初めを飾るのはなんかお目出度くない?という程度にしか能を認識していない能天気具合。ああこれも能だわ。


新曲委嘱世界初演シリーズも9回目。今回はチェロのソロと能声のために書かれた3人の作曲家の作品。長引く新型コロナの影響で今回も海外の作曲家の方はオンラインでの参加(作品の紹介と質疑応答)。前回の vol.8-2 は配信で観たのだけど、安達真理さんのヴィオラのソロと涼子さんの声がシームレスに溶けあい繋がっててびっくりしたのだけど、チェロだとより楽器的というか、声を支える通奏低音みたいな感じに聞こえて、重ねてびっくりしたのでした。上村さんは、古楽の分野でもご活躍中の方だけど、現代音楽もお手の物みたいな感じで、涼子さんとの音楽の対話も刺激的でした。お二人の線対称的な(対になってる)白黒のデザイン(弦楽器のイメジ?)のドレスもステキでかっこよかったです。


イタリアのボルゼッリさんの「旅人」は、宮沢賢治の2つの詩に基づいた曲。一つ目の詩の前半の短い単語の音を繰り返す打楽器的な音の扱いから、詩の後半の散文的な言葉遣いを経て、叙情的な旅人の詩につながる旋律的な音の扱いが上手かったです。わたしは後半が好きでした。それにしても、詩の選び方のセンスと言ったら。もちろん、提案した人(涼子さん?)がいらっしゃるのでしょうけど、それでも最終的に2つの詩を選んだ作曲家の感受性って凄い。


日本の特殊な伝統文化に全く新しい音楽を作るのは、こうして外国人と日本人の作品が同時に聴き比べられると、いつも思うのだけど、わたしが(感覚が近い)日本人のせいもあるのかもだけど、日本人の作品に一日の長を感じてしまうのね。今日も稲盛さんの「舞うもの尽くし二種」が、古典的な能楽とは全然違うのに一番しっくりきました。西洋の楽器であるチェロの扱いも謡に寄せていくことなく、自由に書きながらも能謡に自然に収まるように感じられるのは、体に染み付いてるものがあるからでしょうか。稲盛さんが使ってみたかった楽器はファゴットっておっしゃって、うわっ!それ聴いてみたかったって思いましたw


今日、最も問題作だったのは、スペインのウルキーザさんの「小さなツバメ」。有名な「幸福の王子」の物語を基にした作品。明確な物語があるけど、日本語のテキストは完全な散文(リズムも自由)。モノオペラ的で(でも能も歌劇ではあるよね)、謡い手は舞台中央のマスクの前に立ったり後ろに立ったり(立ち位置で役柄(王子の像とツバメ)を変えてる)、扇を使ったり(ツバメの羽ばたき)、ワウワウチューブという特殊な打楽器(音がワウワウワ~って揺れる)を使ったり。演劇性を表に出して面白いし意欲的だとは思ったんだけど、わたしの素人意見では、実験的な分、完成度が少し足りなかったかな。でも、それより問題なのは、テキストが日本語だったこと。日本の詩に作曲した訳ではないし、外国語(この場合は英語)のできたら詩文を使って欲しかった。世界に1人しかいない能声楽家が日本人で、日本で演奏されるからなのかもしれないけど(質疑応答で、ウルキーザさんに「どうして日本語にしたんですか?」と聞いてみたかった)。涼子さんが日本で行なっているこのプロジェクト、でも、これからは海外で再演されたり新作が発表されることもあるでしょうし、外国の方が、この音楽をどういう風に感じるのか、興味があります(多分、日本人とは違う感覚でしょう)。能謡が外国語でも謡えるのかとか、ほんといろいろ興味尽きないの。涼子さんはコツコツと種を蒔いてるけど、芽が出てたくさんの花が咲いたらいいな、と思います。たくさんの素敵な作品が生まれて、再演されて、現代音楽の能をうたう人が出てきて、外国人の能声楽家も生まれて。








# by zerbinetta | 2022-01-12 01:39 | 室内楽・リサイタル

青木涼子  「能 X 現代音楽」 Vol.8   

2020年10月20日 @赤坂区民センター 区民ホール


青木涼子 新曲委嘱世界初演シリーズ 「能 X 現代音楽」 Vol.8


ロベルト・HP・ブラッツ:「涼子の能」

フレデリック・デュリユー:「有ったんだって」

ディアナ・ロタル:「般若」


青木涼子(能謡)

辺見康孝、亀井庸州(ヴァイオリン)、安田貴裕(ヴィオラ)、北嶋愛季(チェロ)


陰ながら応援している能声楽家の青木涼子さん。と言ってもうっすらと軟弱なファンなので、公演を聴くのは1年ぶり。10年目を迎えた新曲委嘱世界初演シリーズ 「能 X 現代音楽」(能 X 現代音楽シリーズはいくつかあるみたいなので数え方がよくわからないのだけど)Vol.8です。今回は、ドイツからプラッツさん、フランスのデュリユーさん、ルーマニアのロタルさんの作品です。本来は、作曲家の皆さんが会場にいらして自作についてのお話があるんですけど、今回、covid-19の感染拡大のせいで、作曲家は来日できず、ヴィデオによる解説と演奏の後、海外と会場をつないだオンラインでのディスカッションです。司会をするのは音楽ファシリテーターの飯田有さん。


プラッツさんの「涼子の能」(なんか漫画のタイトルみたい)は、3首の和歌(拾遺和歌集、新古今、古今和歌集から)を謡った3つの場面からなる動きはあまりないけれども演劇的な(能舞台的な)作品。ただ、一度聴いただけなので、少ない言葉の背景にたくさんの意味が込められている(というか背後の世界がより大事な)和歌が(新古今以外)、どう解釈されているのかは、よく分かりませんでした。もちろんわたしの力不足なんですが。


デュリユーさんの「有ったんだって」は、鮎川信夫の現代口語の詩につけた意欲的な、でももしかすると日本の文化に対して無垢な感覚を持った自然さが、伝統に無意識に縛られたわたしに違和感っぽい先鋭的な感じを抱かせたのかもしれない、わたし的には、今日一番面白かったかな。多分、古典の能には出てこない(?)繰り返し発せられる撥音、促音の「あったんだって」が新鮮なリズムと可愛らしさ(涼子さんの歌い方も)が耳に残ります。質疑応答のとき、どなたか(多分、作曲家の細川さん)が、「あったんだって」はフランス語の語感に似てると感じましたか?というような質問をしてましたね。


ロタルさんの「般若」は、有名な道成寺のお話をルーマニアの神話との対称性をヒントにした、作曲者の言葉を借りれば「バルカン半島風の能の小品」。ルーマニアの神話では、有益な象徴である蛇は人の特性を獲得することで悪意のある類人猿の生き物「ズメウ」になるのに対して、女が人の怨念を持って蛇になる。それがどのように作品に昇華したのかは、やっぱりわたしには1回聴いただけではよく分かりませんでしたが、よく歌われた歌曲っぽささえ感じるのが面白かったです。


謡の伴奏(囃子)って、横笛や鼓などの打楽器なので弦楽四重奏は、能の世界からはもっとも遠い楽器(あとはピアノ)だと思うのだけど、作品を作ったり、演奏したりするのに違和感ないのかな。という日本人っぽい感じを抱いたんだけど、西欧人にはそこはあんまり問題ないのかな。音高が決まってるピアノの方が難しそうかしら。弦楽四重奏は、みなさんこういう音楽に手慣れていらして(何回か涼子さんと共演されているメンバーですよね)、音楽の空間を見事に作り出していました。

ロタルさんの作品に最も顕著だったのだけど、今日の作品はどれも歌(謠ではない)が感じられたのが、能謡が西洋の方に少し踏み出したみたいで面白かったです。どの作品にも西洋(と言っても現代のボーダレスの背景に今なお存在する根としての西洋だと思うのですが)が感じられたのです。


今、青木涼子さんは能声楽者として孤高の活動をしていらっしゃって、新しい作品はどれも涼子さんの声を前提にして書かれています。その音楽が未来に引き継がれていくには、再演されたり、これらの作品を演奏する新しい演奏者が出てくることが(もしかすると西欧音楽の歌い手が彼ら彼女らのやり方で歌って作品に新しい息を吹き込むこともあるかもしれない)、どうしても必要だと思うのだけど、でも、楽譜がまだ整備されていなかった昔の音楽だって、演奏者と作曲者の境界が曖昧で当て書きのように自由に音楽が作られていたのが、少しずつ今に繋がって行ったように、わたしたちは今、新しい音楽の誕生を聴いているのかもしれませんね。600年の時と洋の東西を超えて21世紀に生まれた新しい音楽がいつか古典になる世界を想像しながら生まれたての音楽を聴いているのは、なんて幸運なことでしょう。


音楽会の模様はYouTubeで配信されています。ぜひご覧くださいね。






# by zerbinetta | 2020-10-20 16:08 | 室内楽・リサイタル

タイムカプセル 福間、飯守/日フィル シューベルト、ブラームス   

2020年10月10日 @サントリーホール


シューベルト:交響曲第7番

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番


福間洸太朗(ピアノ)

飯守泰次郎/日本フィルハーモニー交響楽団


本来ならラザレフさんが振る予定、残念ながら指揮者、曲目変更になりました。どうしようもないことだけど、オーケストラの事務局の人は大変。まだまだ夜明けが見えないけれど、どうか無事にこの苦難を乗り越えて、と心から応援。しかできないのが悔しい。


と書きつつ、手のひらを返すように、わたし、泰次郎さん苦手なんだわ。大御所で人気のある人で納得の人選でしょって白いわたしは言うのだけど、黒いわたし(素)は、将来有望な若手を呼んで欲しかったなぁとナナメ目線。「未完成」もブラームスの協奏曲も大好きな曲だし、しばらく聴いていないのでまっいいか(態度悪し)。


「未完成」交響曲が書かれたのは、ベートーヴェンが最後のピアノ・ソナタを書いてた頃、第九交響曲を作曲する前(1822年)。そして、そのまま眠りについて、トリスタンが初演された年(1865年)に起こされた(誰がキスしたんだろう)。生まれ年が二つあるみたいことよね。そして予想通り、泰次郎さんの演奏は、セカンド・バースデイの様式。ワーグナーの楽劇のような、ファーフナーの大蛇が出てくるような雰囲気をときに醸し出すように重厚に演奏したの。多分、最初にこの曲を聴いた人たちは、このような響きでこの音楽を知ったのだと思う。そして何故か、シューベルトのこの音楽は、それに応えるかのようにも演奏できちゃう(正しいこととして)凄さ。だから、わたしは、これもひとつのあり方だとは思うし、納得もするのだけど、やっぱり好きなのは、作曲された時代(ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ群が書かれた時代)の様式の演奏が好きなのよね。シューベルト25歳の時の作品なので、死の淵に立ってるような音楽ではないと思うのよ。


反対に(かな?)、ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、作曲家25歳のときに初演された若書きの作品。だけど、ブラームらしい渋くて(実際まるで晩年の作品みたいな枯れっぷり)、50分を超える大曲には重厚な演奏が好まれるみたい。で、泰次郎さんだしそういう演奏を予想したのだけど、意外や結構テンポ速め。へ~って思ったけど、答えは、一通りオーケストラで盛り上がったあと、涼風がすうっと肌を撫でるように爽やかに入ってきたピアノに驚いたところにありました。なんて軽やかに弾くんだろう。虚を衝かれた。でもこの初めての感覚がいいのよね。だってやっぱりこの曲、若者ブラームスの曲だから。若さゆえの過剰。ピアノの機能(音が減衰してしまう)への挑戦、メロディ・メーカーではないと謙遜しながら、次から次へと新しい旋律が出てくる1楽章。野心的な棘を老獪に枯らしてしまわないで、瑞々しさで柔らかく包み込む。透明でキラキラしたブラームス。2楽章も月夜に光る泉の暗さ。生命力に溢れて健康的な音楽。ピアニストの福間さんは、素敵好青年って感じで、耳でも目でも惚れちゃったよ。

この音楽はきっと、泰次郎さんと福間さんが話し合って創ったんでしょうね。オーケストラがコロナ仕様で普通より小さかったのもプラスに働いたよう。泰次郎さんはちょっと不器用にアップアップしたりしながら、能くピアニストをサポートしていました。一瞬、泰次郎さんへの評価が上がりました。(後で冷静に考えたら、最近彼のブラームスに惚れてるフルシャさんだったらもっとステキにコラボレイションができたんじゃないってなった(泰次郎さんには厳しいわたし))

アンコールに同じ作曲家の6つの小品から第2番。同じように爽やかな情感にあふれたポストルディウム。胸に温かいものを残して音楽会が静かに閉じられたのでした。





# by zerbinetta | 2020-10-10 00:29 | 日本のオーケストラ

メシアン好きで良かった サントリー音楽賞受賞記念演奏会 読響   

2020年10月6日 @サントリーホール


メシアン:「峡谷から星たちへ」


児玉桃(ピアノ)

日橋辰朗(ホルン)、西久保友広(シロリンバ)、野本洋介(グロッケンシュピール)

鈴木優人/読売日本交響楽団


2017年のサントリー音楽賞を授与された読売日本交響楽団の受賞記念演奏会。もちろん、近年の読響の躍進の最大の要因は、首席指揮者のカンブルランさんと彼らの共同作業による一連のメシアン作品の上演であることは間違いないので、彼らのメシアンがプログラムに上がることは、自明の理とも言えることだったんだけど、covid-19の世界的大流行のおり、カンブルランさんの来日は叶わなくなり、オーケストラのクリエイティヴ・パートナーの鈴木優人さんが代わりに指揮、さらにプログラムが合唱付きの大作「我らの主、イェス・キリストの変容」から「峡谷から星たちへ」に変更になりました(後者の変更はチケット販売前に行われたのでわたしは知りませんでした)。「峡谷から星たちへ」は、独奏ピアノ、3管編成の管楽器とたくさんの打楽器を使うんだけど、弦楽器は13人のソロで合計44人(足し算あってるかな?)。人数的には小さなオーケストラと言っていいよね。演奏に1時間40分くらいかかる大曲だけど。


正直に言うと、カンブルランさんが来られなくなったと聞いて、聴きに行くのどうしようかなぁと思ったの。この曲、メシアン好きのわたしにもちょっと彼の作品としては弱いし生半可な演奏ではわけわかんなくなるような気がしてたから。キャリアの中で長年メシアンを採り上げていてメシアンを得意とするカンブルランさんならいざ知らず、まだ若くて、メシアンが好きと言っても実際に指揮したのは「トゥランガリーラ」くらいのメシアンの指揮に関しては初心者の優人さん。でも、もしかすると化けるかもしれない、この曲が演奏されることは滅多にないのでチャンスは逃せないしね(「アッシジ」も「彼方の閃光」も逃しちゃった人)。そして、聴きに行って大正解でした!


読響ってわたしの(数年前の古い)印象だと、トップは上手いけど弦の後ろの方の人はテキトーに弾いてる的なあまり良い感じではなかったんだけど(今はみんなちゃんと弾くのかしら?でも指揮者によって全員真面目に弾くと上手い)、今回は、弦はソロなので心配なし。読響の良いとこばかりが聞こえてきた。皆さん本当に上手かったし、ホルン・ソロの作品「星々のあいだを翔ける叫び声」の日橋さんの演奏、(難しい曲なので)ドキドキしながら聴いてたんだけど拍子抜けするほど完璧でびっくり。

児玉さんのピアノ、左手の音が豊かに響いて房状和音がとてもきれい。前のめりにならない端正な演奏でオーケストラと協奏して、ときおりドビュッシーのような響きが聞こえるのも新鮮でした。


わたし、さっきも書いたように、この曲に対する評価はあまり高くなかったの。明け方に窓の外の鳥の声と一緒に聴くのは好きなのだけど。その評価が劇的に変わったわけではないけれども、でもやっぱり生で聴くと違うね。ホールの音(と言っても響きが良いとかそういうのじゃなくて)ホールを満たしている空間のしじまが、宇宙に充満するエーテルのようにこの音楽には不可欠な要素。音楽ってステージの上の楽器だけでは完結しないのね。もちろんそれだけじゃなくてそれぞれ楽器から直接伝わってくる振動とか、奏者の仕草とか、も明らかにこの曲の大事な一部になってるの。それが分かっただけでも大きな成果。あと、特殊奏法が意外と多くてびっくり。メシアンってあんまり特殊奏法求めないでしょ。


優人さんは、丁寧にこの音楽を作っていたし、各楽器をきちんと際立たせて鳴らす明晰な音楽がとても成功していたと思うのだけど、メシアン慣れしているオーケストラに助けられたように思えるところもやっぱりありました。カンブルランさんが振ったらもっと踏み込んだ、刺激的な演奏が聴かれたかもしれないけど、それはそれ、優人さんのマイル・ストーンになる演奏会だったと思います。これから先、優人さんが経験を重ねて、どんな素敵なメシアンを聞かせてくれるのか今から楽しみだし、その時、今日の演奏を思い出せることが幸せに思えます。これからもずっとメシアン好きでいよう。


オーケストラの人たちはみんな、舞台から捌けるときにすぐマスクをしていました。covid-19 の感染リスクは舞台上ではなくて、舞台を降りたところが高いので、読響は危機管理意識が高いなぁと感心しました(ハッと気がついたのでわたしが聴いた他のオーケストラではここまでしていないはず)。この習慣、他のオーケストラにも伝染していって欲しいです。読響、めっちゃ好感度上がりました。



# by zerbinetta | 2020-10-06 00:50 | 日本のオーケストラ

スタンダード過ぎるくらいにスタンダード 牧阿佐美バレヱ団「眠れる森の美女」   

2020年10月3日 @文京シビックホール


眠れる森の美女


チャイコフスキー(音楽)

ウェストモーランド(振付、プティパに基づく)


青山季可(オーロラ姫)、清瀧千晴(フロリモンド王子)

茂田絵美子(リラの精)、保坂アントン慶(カラボス)

米澤真弓(フロリン王女)、山本達史(ブルーバード)、ほか

牧阿佐美バレヱ団

冨田実里/東京オーケストラMIRAI


春からずうっとチケットを取っては公演が中止になり払い戻されるという不毛なサイクルの中、久しぶりに公演があるので取ってしまった、牧阿佐美バレヱ団の「眠れる森の美女」。牧バレエ団はあまり観たことがないのでいい機会かな、とも。


振り付けは、プティパの原振り付け(プティパは偉大)を基にロイヤル・バレエ団で活躍してたウェストモーランドの版。時代考証をきちんとやったと言うオーソドックスなものなんだって。わたしの観たことあるロイヤル・バレエのメイスンさんの版やシティ・バレエの安達さんの版、新国立劇場のイーグリング版と比べてもそんなに変わりない、って言うかみんなプティパだもんね。今回この版で特に良いって思ったのは、第2幕のカラボスとリラの精の対決。いつも王子がカラボスを退けてオーロラをキスして起こすところ、ドラマがないねって思っていたの。リラの精に導かれて秘密の森に入って行くとそこに待ち受けてるカラボスをやっつけてオーロラのもとにたどり着くみたいな英雄譚を期待するのだけれども、なんかいつもあっさりすんなり行きすぎていて。ところが今日のは、カラボスがオーロラのベッドの枕元にいて、王子はリラの精とカラボスの間に立たされるの。姫を起こすことを阻みたいカラボスの念と善を導くリラの精の対決、自分で考えて答えを出すことを求められる王子。緊張感の中で正しい答えを見つける王子。滅びるカラボス。力で悪を倒すストーリーより、正しい行いで悪を排する点を明確に示したのがものすごく合点がいきました。多分これがプティパとチャイコフスキーが言いたかったこと。今までわたし、間違ってた。

第1幕の序奏と編み物のシーンが削られて、いきなり有名なワルツから始まったのは、あのシーン好きなのでちょっと残念。会場にあった上演予定時間よりもサクサクと進んで少し早く終わったのは、細々としたカットがあったからなのかな(コロナ仕様?)。


青山さんの踊りを観るのはまるっきり初めてというわけではないのだけど(前にサマーミューザでの洗足学園音楽大学のバレエコースの公演でチラッと観た)、全幕でしっかり観られて良かったです。1幕で花を投げなかったのもいいねしたんだけど(これは演出の問題かな)、第3幕が気品と貫禄があってとおっても良かった。あとで知ったのですが、青山さんってヴェテランなんですね。もっと若い人かと思ってました。王子の清瀧さんもとってもステキで、2幕の恋を知らない、恋に恋する物憂げなところから、オーロラを見初めて彼女を得るために答えを見つけるまでの成長ぶり。3幕は王子としての余裕がグラン・パ・ド・ドゥに出ていて青山さんとのバランスのとれたコンビネイションも良かったです。


リラの精の茂田さんは優しい柔らかな感じが良かったんだけど、キリッとした強さが垣間見られるともっと良かったかな。あと、バレエ団全体に言えることなんだけど、マイムでの会話がふわふわした感じで言葉がかみ合っていないように感じました。対する保坂さんのカラボスは、初めて観るタイプ。妖艶で、でもなんか優しげなところがあって悪に徹していないのがわたしには物足りませんでしたというか、頭の中で新しいカラボスを消化できずにオロオロ。もう一度気を落ち着けて観てみたいわ。

プロローグの精たちのソロで、腕の動きが幾何学的な感じがしたのは、一人だけじゃなかったので、こういう表現をしてるのかな。それともバレエ団の癖?


でも、今日一番目を惹いたのは、ブルーバードの山本さんとフロリン王女の米澤さん。踊りに勢いがあって観ていて気持ち良かったし、そこだけ空間が違ったように感じられました。華もあるし、将来の看板になれば良いな。


冨田さんは、鳴らすところは開放的に鳴らす指揮者さんですね。音楽にもったいをつけないでサクって感じなので変にもたれないで気持ちが良いの。東京オーケストラMIRAIの演奏は、それに応えてなかなか良かったですよ。バレエ団の伴奏をする日本のオーケストラって、海外の劇場のみたいな手抜きがないのでほんと素晴らしいです。


牧バレエは前に観たときも感じたんだけど、とっても基本に忠実に手堅く踊っている印象があります。それは良いのだけど、それを超えた表現が欲しいと思っちゃうのも現実。素人意見に過ぎないのですが、敢えて汚い表現をしてもぐっと心を揺さぶるプラス・アルファを求めるのは美を追求するバレエ界的には間違いでしょうか。




# by zerbinetta | 2020-10-03 00:41 | バレエ