真実の音楽   

mozart: symphony no.34, piano concerto no.20
nielsen: symphony no.5
radu lupu (pf), sir colin davis / lso @barbican hall


昨日に続いて始まりはモーツァルト。交響曲第34番。いきなりずしーんと重くてなんだか交響曲という寄りオペラの序曲風。昨日の軽やかなモーツァルトとは大違い。この曲はちょっと苦手かも。サー・コリンさんの演奏もそのずっしり感を強調するように重くって、わたしのモーツァルトの好みからはちょっと遠い。曲自体がそんな感じなんだけど。
ニ短調のピアノ協奏曲はルプーさんのソロ。ピアノの椅子がいつものピアノ用の椅子ではなくて、オーケストラの人が座る背もたれ付きのパイプ椅子。座るとすぐに背もたれに寄りかかって腕組み。神経質なピアニストなら、ピアノの椅子の高さを微調整したり、手を置く位置を確認したり、そういう儀式があるのに、全くいつでもどうぞって感じ。弘法筆を選ばずみたいな。オーケストラで暗い情感を込めた音楽が立ち上がると、すぐにこの音楽の世界に引き込まれます。とても静かで柔らかな暗さ。そしてルプーさんのピアノが入って世界が完成。ルプーさんはとても静かにそしてうんと柔らかい音で弾いていくんです。これ以上弱く弾いたら音楽が崩れるんじゃないかと思うぎりぎりのところ。全く静かに語りかけるの。なのに、音に意味がこもってるのでひとつひとつに心から納得してしまうんです。まるで、偉大な聖者が静かに真実の言葉で語るのを聴いているよう。わたし、今までモーツァルトの音楽って人生の全てが含まれているって言うのを本で読んだ言葉通り受け止めていました。わたしもそう思ったと思っていました。でも、それは頭の中の出来事でしかなかったことが今分かりました。音楽を聴きながらわたしの人生について思い出していました。ほのかに悲しい思い出がたくさん浮かんできました。そして今あることの幸せも。わたしはいつもひとりで音楽会を聴いています。ときには今聴いた音楽について誰かと語り合いたいと思うこともあります。でも、今日は誰とも話したくない。言葉ではなく音楽だけで共感し合いたい。あの音楽の体現は想像を絶するものでした。言葉にできないというのはまさにこのことなんですね。それでも、ここに言葉にしている愚さをお笑いください。

これだけで今日はよかったんだけど、音楽会は続きます。ニールセンの交響曲。珍しいと言いながらも前に一度聴いたことがあります。のだめで千秋先輩が指揮する第4番ではなく第5番。サー・コリンさんは今シーズンと来シーズンに渡ってニールセンを採り上げるようです。これも面白そう。第5番は小太鼓大活躍というかKY(ふふふ、わたしも流行語知ってる)小太鼓にびっくりの曲です。初めてCDで聴いたとき面食らったっけ。この曲ってこの闖入者をどう扱うかが指揮者に課せられた課題だと思います。そしてわたしの好悪というか聴いちゃうポイントはここにあります。今日はステージ上の定位置に1台、ステージを降りた舞台袖(バービカンホールは舞台袖が客席と同じフロアにあるので舞台袖に下がるにはステージを降りるのです)に1台、あとで分かったのですが舞台裏に1台が配置されてます。これだけでわたしはわくわく。この曲、小太鼓を含めて打楽器の扱いが変わってたり、メロディがわりと細切れなので取っつきにくいと思うのだけど、聴いていくうちにだんだん慣れて好きになってくるツンデレな感じ(?)の音楽。有名な第4番「不滅」よりも好きかも。サー・コリンさんの演奏もさすがにシリーズで採り上げるだけあって堂に入ったもの。小太鼓もがんがん鳴らしてわたし好み。わたし、小太鼓が大きな音楽の中でつじつまが合うように叩かせるより、外から思いっきりはちゃめちゃに叩かせるのが好き。特に牧歌的な旋律が徐々に盛り上がっていくアダージョ・ノン・トロッポの部分は。サー・コリンさんの演奏は小太鼓を重めのしっかりした音で叩かせることで見事にわたしの好み。そして初めて気がついたんだけど、オーケストラの方もこの小太鼓に応答して同じようなリズムで牧歌的なメロディを煽っているのね。最後は牧歌的なメロディが感動的に盛り上がって悪の小太鼓に勝つんだけども、なんだか小太鼓が人の生き様を表しているようで、悪の小太鼓の方に共感を持ってしまうわたしは根っからの悪?
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by zerbinetta | 2009-10-04 02:59 | ロンドン交響楽団 | Comments(0)

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