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世界は悲しみで満ちている   

02.02.2011 @barbican hall

mozart: piano concerto no. 16, k451
mahler: symphony no. 6

lars vogt (pf)
jiří bělohlávek / bbcso


今日もとっても期待してたんです。ビエロフラーヴェクさんとBBCシンフォニーのマーラーの交響曲第6番。このコンビのマーラーは一昨年のシーズンに交響曲第5番を、去年の夏にはプロムスの開幕で第8番を聴いて、とっても良い印象を持っていたんです。第5番を聴いたときは、スマートに、流線型にならないごつごつとした手作り感がステキで、でも、第5番なんかはスマートに演った方がかっこいいのかなっても思っていましたが(この間聴いたネゼ=セガンさんのがとおっても良かったので)、第6番は音楽の性格からいって、つるりとスマートにならない方がいいような気がしてたんです。そして、重めで渋いBBCシンフォニーの音はこの曲にぴったりなんじゃないかと。その結果はあとで。

音楽会はマーラーの前に、モーツァルトのピアノ協奏曲の第16番が演奏されました。今日はラジオの生放送があるので(BBCラジオ3のサイトで現在オンデマンドで聴くことができます)、いつものように、あっ今日は女の人でしたが、司会者が簡単に曲の紹介をして、始まります。ピアニストはラルス・フォークトさん。苦虫を噛み潰したような顔。武士という感じのモーツァルト。今日はピアノの音があまり上手く聞こえない席だったみたいで(それは予想外だったのでちょっとびっくり)、ピアノの響きは良く分かりませんでした。木質のことことした感じの音でモーツァルトを弾くのにウェットな響きを抑えているという感じです。きまじめに書を書いているという感じの演奏だったと思います。
モーツァルトのピアノ協奏曲の中では演奏される機会が少ない作品とのことでしたが、わたしも初めてです(CDでは聴いたことあるはずなのに。。。)。オペラの序曲のような始まりから音楽が快活になってると思っているとふと気がつくと孤独の中にいたり、不思議な感じの音楽。そういうところがちょっと取っつきにくいのでしょうか。でも、じっくり聴いてみたい音楽でした。

休憩の後はいよいよマーラー。モーツァルトとはうって変わって大編成。ヴァイオリンは両翼配置。これは生きますね。ビエロフラーヴェクさんの棒が振り下ろされると、始まりから何かとんでもないことが起こりそうな緊迫した雰囲気。低音弦楽器のアイゼンを付けた靴で固い氷の上を歩くざっざっとした音。その上から覆い被さってくる重い音たち。重い行進。ゆったり目のテンポ。これです。紛れもなくわたしが期待していたもの。というより、精神の緊迫感は予想をはるかに超えている。巨大な第1楽章の端から、こんなに飛ばしてオーケストラは最後まで耐えられるのだろうか? 楽器が壊れてしまわないか? それよりもわたしが耐えられるのかって不安が渦巻く。どうしてこんなに悲しい音楽。次から次へとわたしの中から封印していた悲しみがわき上がってきて涙が止まらない。この曲のタイトルの「悲劇的」というのに正当性があるとしたら、まさにこの演奏のことだろう。人の心を否応なくえぐるとんでもない音楽。ビエロフラーヴェクさんとBBCシンフォニーはそんな音楽を創りあげていきます。それは、数年にわたる主席指揮者とオーケストラの関係が築きあげてきた結晶。ビエロフラーヴェクさんの息づかいがオーケストラのどこを切っても聞こえてくるような、全く全員が同じ音楽を目指している一体感。細かなフレーズの受け渡しや、音色の移ろい、アーティキュレイション、全てに統一が図られていて一糸乱れがない。楽譜を正確にトレースしつつ、さらにその中に巨大な感情を詰め込んでくる。最近のマーラー演奏の流行(?)のスポーティーでかっこいい、流麗な、もしくは未来視点で分析的な演奏とは一線を画した、もっとなりふり構わぬような、かっこわるいけど本当にかっこいい、音楽の背後にある魂にぶつかっていく演奏。第1楽章の重暗い音楽がわたしに覆い被さってきて(まさに音楽が覆い被さってくるような席で聴いていました)、正直、精神の限界まで来ていたように思えます。
第2楽章はアンダンテ。感情を排したかのようなトランクイロで虚を突くように始まった音楽。ちょっとほっとする。でもちょっと不思議な感じなんです。音楽は感情の外で鳴っているので慰めはないんです。でも何故か心地良い。突然別世界に連れて行かれて、幽玄の向こうから音楽が聞こえてくる感じ。慰めというより、心を虚にされた感じといえばいいのでしょうか。でも、第2楽章がスケルツォじゃなくて本当に良かった。第1楽章の続きのような音楽を聴かされたら精神が参ってたから。従来の(マーラー自身はしなかった)スケルツォーアンダンテの順番を好む人の理由に、その方が第1楽章と第2楽章の繋がりがいいからという意見があるけれども、マーラー自身はそれには反対で、第2楽章と第3楽章の順番を悩んでいたのは(とは言え演奏する段になってからは悩んだ形跡はないみたいですけど)、第1楽章とスケルツォの音楽が似すぎているから続けない方がよい、ということだったようです。で、今日それが分かった。マーラーの言うとおり、第1楽章のあとにスケルツォを続けられると音楽に耐えられない。第1楽章のあとは静養が必要だし、第1楽章はそのように演奏されるべきもの、最後はもうこれ以上聴くのは無理、というところまで持って行かなければいけないのではないか、と思ったのです。そんな音楽も、途中から感情のうねりが入ってきて心を揺さぶります。この音楽の設計の仕方、もう抜群につぼ。心の中に風が吹いて、いえ、嵐が吹いて、余分なものを飛ばしていった感じ。
スケルツォは、鬱々とした気分の速めのテンポで始まって、どろどろした暗い部分と、絶え間ない変拍子の無邪気な部分の対比がとってもよく出ていました。ビエロフラーヴェクさんは全体を通して、低音の暗い響きは粘るように演奏させることを徹底していたんだけど、スケルツォではこれがとっても生きて効果的でした。エキセントリックなクラリネットをベルアップさせて吹いたのもマーラーらしいし、わたし、マーラーの演奏は、スマートにまとまってるのよりも、狂気を含んで危うさのあるのが好き。今日のはまさにそんな演奏。
フィナーレは、もうごつごつとのたうちまわるまさに狂わんばかりの音楽。もちろん、パートのバランスやニュアンス、フレージングは丁寧に細かく磨き上げられているのだけど(特にハープの音色や低い音の鐘の音色の選択が抜群でした)、決してきれいな音楽にならずに(音が汚いということではないのです)、音の背後にある精神までえぐり出すような凄まじい音楽。BBCシンフォニーはとっても上手いオーケストラだけど、だからスマートに演奏することもできると思うのだけど、荒れるところは荒れて、マーラーがオーケストラに求めた極限の音をきっちり表現している。
自分の力ではどうすることもできない運命に立ち向かい、もがき苦しみ、倒されていく。なんという悲劇でしょう。この音楽には希望がない。でも、これが近代人の現実なのかもしれない。もはや闘争から勝利の図式は崩壊していて、単純により良い未来を信じられなくなった人間。でもそれが、現代のわたしたちにあっても真実よね。悲劇を克服して希望を抱くというより、新たな悲劇を目の当たりにして過去の悲劇を忘れる。悲劇は解決されずに悲劇のまま終わって忘れられていく。まさに今の現実。マーラーはこれでもかというくらいに徹底的にサディスティックに悲劇を音にしてしまった。ハンマーは(録音では木質の音はとらえきれないと思うけど)ずっしりと重い衝撃でした。疲れ果て運命の殴打に倒される人間。それで終わり? これがこの交響曲の最大の謎なのかもしれませんね。演奏が終わって打ちのめされてるわたし。かろうじて拍手をするものの。。。ビエロフラーヴェクさんも精魂果てた様子。オーケストラを称えて。それにしても、BBCシンフォニーよく最後までもったなぁ。凄すぎ。

今日の音楽会を聴けて幸せだとは思わない。だって幸福な音楽ではないから。悲しみに心を揺さぶるもの、あまりに強い音楽の力を受けた音楽会でした。世界に満ちている悲劇や悲しみを真っ直ぐに見つめる勇気をもらったような気がします。幸せではないけど最高の音楽会でした。
いつものBBCラジオ3でオンデマンドで配信中です。

by zerbinetta | 2011-02-02 09:47 | BBCシンフォニー

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