カレーライス、いやステーキ 隅田川2題   

2013年3月23日 @神奈川芸術劇場

ブリテン:カーリュー・リヴァー

花柳壽輔(演出/振り付け)

鈴木准/篠井英介(狂女)、大久保光哉/大沢健(渡し守)
井上雅人/花柳登貴太郞(旅人)、浅井隆仁/板東三信之輔(修道院長)、他
角田鋼亮(指揮)

清元 隅田川

花柳壽輔(斑女の前)、花柳基(舟長)


ロンドンで「カーリュー・リヴァー」とその元になった能「隅田川」のステキな公演を観てから、こういう舞台を観たいと思っていたので、見つけてそそくさと観に行ってきました。「隅田川2題」。オペラの「カーリュー・リヴァー」とこちらも能を元にした日本舞踊、清元「隅田川」。さてはて、どんなになるのでしょう。

今日は午前中は、隅田川の妙亀塚をお花見がてら見に行ってきました。後年、斑女が庵を結んで、梅若の霊を弔ったところです。ひっそりと静かに。

そんな隅田川にどっぷりつかるような(って身投げしたんじゃないよ)午前中を過ごしたので、KAATの近所にせっかくある中華街には寄れませんでした。しかも、うっかり県民ホールの方に行ってしまうし。何とか開演前に無事についた会場は、予想通り、日本舞踊を観に来たとおぼしき着物のお客さんとオペラを観に来た洋服のお客さんが混じっていました。皆さんそれぞれどのように感じられるんだろう?

今日はオペラが先。ステージは能舞台のような形に白木の床になっていて、舞台装置は何もなしの至ってシンプル。黒い衣装のソリストと合唱が前詞をアカペラの歌って音楽が始まります(ごめんなさい。彼らが歌いながらステージに現れた(たぶんこちら)のかステージに並んでから歌い出したのかはうっかり失念)。そして、舞台の左脇に退いて座って舞台が始まる。歌は、能の囃子方のように座ったまま演技はせずに歌うだけ。演技はもっぱら日本舞踊の人です。少人数のオーケストラはピットに。オペラを能のような形態で舞台にしたのね。歌は日本語に訳した歌詞を歌いました。カーリュー・リヴァーはスミダガワに置き換わっています。このことについては後でまた書きますね。ちなみに、ブリテンが作ったカーリュー・リヴァーという隅田川に当たる地名は、bush-stone curlew = オーストラリアイシチドリ(アボリジニの伝説では死と深く関わってるそう)と梅若丸の辞世の句「たづね来て とはゞこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと」に出てくる都鳥(ユリカモメ)を思い出させますね。

一方の清元は、出てくるのは斑女と舟長だけ。初めて観る清元。ノッペリとした白塗りの舟長の顔がウルトラマンみたいって不謹慎なこと思っちゃって。ふたりのやりとりが最初コミカルでなんだかな〜って思って観てました(ほんとは深刻な内容なのかしら?感受性の低いわたし)が、最後にどかーんと絶望の奈落に落とされて、ずっしりと石を飲み込んだよう。なにこれ?ブリテンの「カーリュー・リヴァー」には救いがあるのに、能だって最後の退出の時、心を戻す時間があるのに、いきなり幕が落ちて、底に沈んだまま取り残されるとは。正直、今日はこれが一番衝撃的でした。びっくりして言葉が出ない。そういう内容なんですか??凄い。。

清元の方は、日本舞踊も初めてだし、何も気の利いたことは言えないんだけど、オペラの方はちょっと考えさせられました。
能の様式を採り入れて舞台を作る、というのはいいと思うんです。わたしもやってみたいアイディア(わたしの場合は「トリスタン」でこれをやってみたいんですけどね)。ただ、ブリテンが能にインスパイアされて作ったこのオペラ。黙っていても能の要素を持ってる。ブリテンは、能楽師が様式的に舞台に登場し、退場するように、歌手たちを単声聖歌を歌わせながら舞台に登場させ、退場させるのだけど、それはまるで教会での宗教儀式のよう(カトリック教会での僧が香を振りながら会堂をまわるのを思い浮かべてます)。そこに、ブリテンの強い宗教的なメッセージの存在を感じるのだけど、ブリテンが能に感化されて、それを独自の宗教的な世界に移したのに、さらに能の世界に形式だけ見て返してしまったために、ブリテンの一番のメッセージが伝わらなくなってしまっていました。それがとっても残念。また、歌を脇で歌わせて、演じるのは舞踊家というのも違和感を感じました。能の場合はシテも重要なところは謡うので、歌手に演じさせた方が良かったのでは、もしくは上手くいくかどうかは分からないけど、舞踊手の脇で黒子のように振る舞いながら歌う。もちろんそうすると歌手の演技力が問題になるのですけど、狂女の鈴木准さんは、ロンドンではとってもステキな演技者でもあったのでそれは残念です。
歌詞は先にも書いたとおり、日本語訳を歌いました。わたしはオペラは、現地語上演があっても良いと思っているので(というより、全部を原語上演にしない方が良いと思ってる)、これは問題ないのだけど、カーリュー・リヴァーをスミダガワとしてしまったのは、ブリテンの深慮を無視して、なんだかみすみす日本のに同化させてしまったことを象徴しているようでちょっと嫌でした。隅田川は、伊勢物語にあるように、東国の最果ての地。だけど、さらにブリテンは、カーリュー・リヴァーという架空の川にすることによって、死のイメジを(三途の川のイメジ)を持たせています(しかも都鳥とイシチドリという鳥を介してだなんてブリテンの洞察力には感服します)。その違いはとっても重要。かなり意識的に注意深く言葉を選んでる、と思うのだけど、あっさりと隅田川に戻してしまうのは、ブリテンの意図を汲んでいないと思わざるを得ません。むしろ、江戸時代になってお花見の名所となった隅田川のイメジを使って、最後の絶望を強調した清元の潔さを買います。
日本的な演出、舞踊や能との融合のアイディアはステキだと思うけど、ブリテンのオペラの本質を置き去りにして、表面だけを同化させてしまったのが、わたしには不満足でした。それによって、内容の凄さが曖昧になっているように思えたので。仏教的な精神を持つ能や清元の世界観と西洋人の(キリスト教的な宗教観の上に立つ)ブリテンのオペラでは、根元のところで違っていると思います。その違いを、曖昧にするのではなく、シャープに見せて欲しかったです。清元の幕切れがとてもインパクトがあったのでなおさらそう思いました。絶望、諦観の物語と救いの物語。同じ話の全く違う物語。
ブリテンは能に触発されるも決してこれを同化しないで、独自の世界観を貫いてる。それは大事にして欲しいし、もし変えるのなら、単純な同化ではなくて説得力のある変え方をして欲しかった。インドにもイギリスにもないカレーライスしかり、中国にないラーメンしかり日本人の同化力って凄いですからね。この力はちゃんと使わないと危険です。あっこの場合、本質を骨抜きにしているので日本の柔らかいステーキかな。あれはナイフとフォークでがしがしと肉を食べることのヨロコビを奪ってるから。

歌手、舞踊、オーケストラ、清元節の皆さんは、とっても良かったです(清元は初めてなのでほんとは良かったなんて分からないんですけど、観ていて楽しかったから)。大きな拍手を送りました。批判的に書いてしまったけど、舞台について深く考えさせられた公演で、やっぱり観に行って良かったです。
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by zerbinetta | 2013-03-23 23:02 | オペラ | Comments(0)

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