AS−SA? 交響曲第6番の順番のこと マーラー随草 その二   

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交響曲第6番「悲劇的」のウィーン初演のプログラム

ーごめんなさい。前置きが長いので,めんどくさい方は、(本文はおよそここから)からお読み下さい。ー

マーラーの交響曲第6番の真ん中のふたつの楽章。およそ15年ほど前に,国際マーラー協会が声明を発表して、1963年のラッツによる(意図的に?)間違った順番が35年の時を経て正しいものに訂正されましたね。でも、その間のレコード、CDの普及やマーラー・ブームで、今では間違った順番の方が好きとか正しいとする人も多いのも事実。マーラーが聞いたらびっくり。ラッツの順番は、ベートーヴェンの交響曲第9番の楽章順は、歴史的に見て、アダージョースケルツォが正しい、と言い出すのと同じくらいの衝撃でしょう。マーラーがやっぱりスケルツォーアンダンテにするって書いたものが見つかる可能性は絶対ないとは言えないけど、現時点で確定しているのは,アンダンテースケルツォだからそれは素直に受け入れるべきよね。ベートーヴェンが、第9はアダージョースケルツォにするって書いたものがいつか見つかるかも知れないから、アダージョースケルツォの順番で演奏するのがナンセンスなのと同じように。

マーラーは、作曲してたときはスケルツォーアンダンテの順番にしてたけど、自身が指揮した、エッセン、ミュンヘン、ウィーンでの演奏は、アンダンテースケルツォの順だし、その後、指揮者のメンゲンベルクとのスコアのやりとりで改訂をしているけど楽章の順番の入れ替えはしてないのね。それに、マーラーが生きていた時代に他の指揮者が演奏した4回の音楽会(そのうち1回はマーラーも臨席)もその順番。だからどう考えてもアンダンテースケルツォが正しいのだけど、1919年にメンゲンベルクが指揮するときにうっかりアルマに確認したのがいけないのね。アルマもうっかりスケルツォーアンダンテって電報送ってしまったものだから。これが不幸の始まり(でも、メンゲンベルクは以前1916年に指揮したときは正しい順番で演ってるし、アルマも後に本を書いたときには正しい順番で書いてるとのこと)。でも、当時、スケルツォーアンダンテは一般的にはならなくて(だって出版されてる楽譜が正しい順番だから)、例えば、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで、この曲のプログラムを検索すると、1955年のミトロプーロスさんは正しい方、1965年のスタインバーグからは、スケルツォーアンダンテ。ラッツの改訂版が出てからはほとんどの指揮者がラッツによる順番で演奏してる。国際マーラー協会がアンダンテースケルツォを宣言した後もラッツの順番で演奏する指揮者も多いし,マゼールさんなんかは、アンダンテースケルツォを受け入れたのに(ニューヨーク・フィルと)、再びラッツに戻してたり(フィルハーモニアと)。ラッツの罪は大きい。

でもね、正しい順番ではなく、スケルツォーアンダンテで演奏してもちゃんとできちゃう、というかこっちに聴き慣れてる人にとってこっちの方が良いとさえ言われてしまうのはどうしてでしょう?この方がわたしには興味がある。最後イ長調の爆発で終わる第1楽章にイ短調の第2楽章を続けることで,この曲のモットーのような同主音調の上での長調から短調への動きで繋がるからかな。出だしもラの音の刻みで似てるし。

例えば「田園」。第2楽章と第3、4楽章を入れ替えたらどうでしょう。田舎へ帰ってきたら村人たちがお祭りしてて,突然の嵐。嵐が収まって水かさが増した濁流の小川のほとりで牧歌的な気分に、、、ならない。例えば「幻想」。阿片を飲んで夢見心地になって片思いの恋人を追いかけていたら飲み過ぎてどんどんダウナーになってしまいひとり野原を彷徨って、雷。慌てて舞踏会に乱入して彼氏と踊る恋人を発見、殺害。死刑になっても覚醒剤を飲んで魔女とらんちき騒ぎ。とまあ、作曲家が考えたオリジナルとは全然別のストーリー。プログラムのある交響曲だったら中間の楽章の順番を変えるだけで全く違ったものになってしまいます。絶対音楽の古典だって、初期の頃のいくつかの楽章を並べただけの音楽ならいざ知らず、全体を見越して作られた曲ならベートーヴェンにしろブラームスにしろ、楽章の順番を変えちゃったら作曲家の思いとは全然違うものになってしまいますよね〜。
でも、マーラーのこの曲に関しては、楽章の順番が変わってるのにそんな議論があんまり出ない不思議。マーラーはあんまりストーリーを考えてないのかな。もちろん、古典的ともいわれるような音楽だから、プログラムはないのかも知れないけど、それでも、楽章の順番が入れ替え可能だなんて、楽章を全取っ替えできたブルックナーじゃあるまいし。最終楽章の1話完結とも言えるドラマが凄まじいので、中間楽章の配置はあまり気にならないのでしょうか。

ー(本文はおよそここから)ー
とはいえ,演奏する方は別ですよね。指揮者は多分、全体を見てそれぞれの楽章をどう演奏するかプランを立てているのに違いないし。だから、手持ちのCDで好みのままに楽章の順番を変えて聴けば良いというのでもないみたい(といいつつ、アンダンテースケルツォの順番で演奏していたバルビローリさんのCDには楽章順をひっくり返して出されたものもあるそうですね)。ただ、それほど外見は極端に変わるものでもないのかもしれません。

わたしがこんなことをまたほじくり出して書き始めたのは(10年くらい前にも1度書いていて、秘かにウェブ上に残ってたり)、そう、去年のプロムスで目の覚めるような演奏を聴いたからです。シャイーさんとゲヴァントハウス・オーケストラの演奏。この演奏でのスケルツォ(第3楽章)が良かった。第1楽章にスケルツォをつなげると、出だしの楽想の類似や、曲想の類似からどうしても第1楽章とスケルツォが繋がっちゃうのね。そんな例は,すぐ前の第5交響曲の第1楽章と第2楽章(ふたつで第1部)にみられるし。これは決してマーラーが意図したことではないようなのね。でも、単純にスケルツォをアンダンテの後に演奏した、というだけじゃだめなのね。アンダンテースケルツォの順番の演奏を何回か聴いたけど(でもCDとかを含めるとスケルツォーアンダンテ経験の方が多い)、アンダンテ・モデラートの演奏が少し変わったような気がしたけど、スケルツォはそんなに変わらないな、という印象を持っていました。
ところが、シャイーさんの演奏では、スケルツォが第1楽章とはまるで違って演奏されたんです。リズムの扱い,音の重心が全く違う。初めて,第1楽章の呪詛を離れて独立した楽章になった。マーラーにとっていつもスケルツォは,音楽の転換点になる重要な楽章だと思うんですね。決して他の楽章にくっついて(依存して)るんじゃなくて。
わたし思うのだけど,これこそが、マーラーがこの曲に見たものじゃないのかなって。それはマーラー独特の形式感からくるものだけど,その話はあとで、いつかまたね。

第6交響曲の楽章順についての詳細な論考は,カプラン財団の本(ISBN 0-9749613-0-2)の中の、ブルックの論文「undoing a "tragic" mistake」がウェブで読めます。
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by zerbinetta | 2013-04-11 23:31 | 随想 | Comments(2)

Commented by 藤井 at 2013-04-15 22:56 x
zerbinettaさん、お久しぶりです。東京に帰っていらしたんですね。こちらはまだデトロイトで、ぼちぼち音楽鑑賞も続けています。マーラーの交響曲でスケルツォが独特の位置を占めているというお考え、同感です。
Commented by zerbinetta at 2013-04-16 20:04
藤井さん、ご無沙汰してます。藤井さんのサイトにはちょくちょく伺って資料を見てはいたのですが。ご挨拶もせず失礼しました。
以前に藤井さんのサイトに投稿したものをリライトしてます。

デトロイトの音楽生活楽しんで下さいね。

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