大地の歌の入れ子式シンメトリー マーラー随草 その五   

マーラーの「大地の歌」の形式については、すでにいろんな説が出されています。6つという偶数の楽章を持っていることで、上手くシンメトリーにならないのだけど、曲の半分の長さの最終楽章を2つの部分に分ける、もしくは第1楽章と第2楽章をひとつのグループとして考えて外側の枠組みとして組み立てるという考え方が出されています。そして、第4楽章を中心にするシンメトリーとして考えるとか、真ん中の3つのスケルツォふう楽章をひとまとまりにして中心に置くとか、これまたいくつかの考えがあります。
そんな中、蛇に足を描くように、わたしもひとつの考えを言ってみましょう。

ひらめきは、ネゼ=セガンさんの音楽会を聴いたときに来ました。そのときの日記に書いた蛇足。

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(照れ隠しに蛇足)
そして今日初めて気がついたんだけど、大地の歌の構成。マーラーの交響曲って真ん中に中心となるスケルツォを挟んだシンメトリックな構造が多いのだけど・・・、大地の歌は6楽章なのでしっくり来ない。第1と第2楽章をひとつの対として、第6楽章の間を3つのスケルツォ(のような音楽)で挟むということも言われてて、そうだとも思ってたんですけど、実はそれぞれの歌手の歌う3つの楽章がスケルツォ(のような音楽)を挟んでシンメトリックな構成を取っていることに気がついたんです。テナーが歌う奇数楽章は「大地に郷愁を寄せる酒の歌」「春に酔えるもの」という厭世的な雰囲気のある酔っぱらいの歌に挟まれて「青春について」。アルトもしくはバリトンが歌う偶数楽章は、「秋に寂しきもの」と「告別」という孤独な離別の歌に挟まれて、若き日の仄かな恋を歌った「美について」。形式的にも内容的にも明確な一幅の対をなしているではありませんか。中心にあるのは若き日の美しい思い。そしてそれへの別れ。これは今日の音楽会のおまけみたいなものですけど、今まで気がつかなかったことにびっくりするくらい、わたしには大きな発見でした。
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そう、テナーが歌う3つの奇数楽章でひとつのスケルツォ(第3楽章)を中心に置くシンメトリー、アルト(バリトン)が歌う偶数楽章がもうひとつの、スケルツォ(第4楽章(の中間部))を中心に置くシンメトリーと分けて考えることができると思うんです。それぞれ、暗ー明ー暗の対比。真ん中の楽章が過ぎ去りし日への美しい憧れというのも共通しています。しかもそれが入れ子になってる。こうして考えると音楽の雰囲気だけではなく、詞の内容からもとてもすっきりと形式を説明することができると思うんです。奇数楽章は酔っぱらいの歌。どの楽章にもお酒が出てくる。水辺のイメジ(生と死を分け隔てるもの?)を内包する偶数楽章は、死と乙女。かな?(このことについてはいつかまた)
こういうふうに考えるといいことは、第5楽章の立ち位置がとっても分かりやすくなること。この楽章が、中間のスケルツォではなくてフィナーレになる。第1楽章と対をなして(音楽的にも酔っぱらいの歌詞の内容的にもそうなってるよね)、ぴたりと正しいピースに納まる感じ。

そして中心になる第3楽章と第4楽章には水面のイメジがあって、どちらも景色を逆さに映しだしてる。なんか、マーラーがシンメトリーの謎解きのヒントを隠してるように。そして、曲の最後の最後でついにその水面を超えて向こう側の世界に入っていってしまうんでしょう。

(第3楽章)
逆さまに映り立たないものはない
この緑の陶土と
白磁なる陶土とともになる東屋の中
半月のごとき太鼓橋はかかり
その弧となる姿も逆さまに
美しく着飾り、盃をあげて 談笑交わす

(第4楽章)
金色の陽は差し照りて、
その乙女たちを包んで
きらめく水面に映し出している
陽は乙女たちのたおやかな肢体と
愛らしい瞳とを逆さまにして映し出している
(この訳では、敢えて「逆さま」という言葉を入れているけど、英語訳を見ると(わたしドイツ語読めないので),逆さという言葉はないみたいです。ただ、水面に映る反射、とか鏡という言葉が出てくるので鏡像であることは間違いありません)

どちらの楽章も明るいけど,この世のものでないような儚さがある。ゆらゆら揺れる水の面の夢の世界のような。遠い過去が憧れや理想の綿にくるまれて,柔らかく温かく心を包む。それはもはや現実ではなく心の中に現れる陽炎。第9交響曲では、青春への焦がれるような憧憬が迸ったけど、この曲では,青春は彼岸の彼方にあるみたい。現実のものではない走馬燈。

もちろん形式は複雑に絡まり合う。第2楽章の反映になる第6楽章は、ついに友(死の使い?)と出会い、別れの杯を交わして,この曲の終結を迎える。第1楽章と第6楽章の後半は対立しつつ対をなしてる。

(第1楽章)
天空は永久に蒼(あお)く、しかも大地は
永遠に揺るがずにあり、春ともなれば花咲き乱れる。

(第6楽章)
愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……

ともに、大地の永遠を歌うのだけど、でも、第1楽章はまだ水面の上。永遠に還り来る大地の春の前に,人生の儚さ、人の小ささに絶望して酒を飲む。でも、最後の楽章で、別れの杯を交わしたあと(お酒の回帰!)、ついに水面を超えて、魂は大地に溶けて同化して永劫回帰の中に安らぎを得る。キリスト教的世界観から踏み出したマーラーの新しい音楽の世界。ニーチェの影を強く感じるけど、ニーチェよりも人工的ではなく、自然に溶け込むよう。まさに大地が繰り返してきたように。そこにはきっと、悲嘆もなければ希望すらない、ただものごとが有りの侭にあるだけ。マーラーはこの主題をもう一度、第9番の交響曲で繰り返して、ついに未完の第10番で未知の新しい世界に踏み出して行くのではないかしら。多分テーマは、re-creation。そのこともいつかまた。

(歌詞の日本語訳はウィキペディアから引用しました)
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by zerbinetta | 2013-04-25 23:27 | 随想 | Comments(0)

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