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神さまのいないわたしも祈っていいんだと思った BCJ「マタイ受難曲」   

2014年4月13日 @ミューザ川崎シンフォニーホール

バッハ:マタイ受難曲

ハンナ・モリソン(ソプラノI)、松井亜希(ソプラノII)
クリント・ファン・デア・リンデ(アルトI)、青木洋也(アルトII)
ゲルト・テュルク(福音史家)、櫻田亮(テノールII)
ベンジャミン・ベヴァン(イエス)、浦野智行(バスII)
鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン



日本にいる間に絶対聴かなくてはと思っていたバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)。それなのにいつもぼんやりしてチケットを取れずにいました。「マタイ受難曲」をやるというのを遙か彼方に聞いていましたが、もはやチケットはないだろうとすっかり諦めて忘れていたら、ネット友達が明日あるよと教えてくれたんです。その日はいくつかのオーケストラでどこを聴きに行こうか悩んでいたんですが、見てみるとなんと!一番安い席も残っているではありませんか!当日電話して慌てて聴きに行きました。
わたしは白状すると、「マタイ受難曲」の決して良い聴き手ではありません。生で聴くのは今日が3回目。CDでは何回も聴いたので曲はだいたい知ってるのだけど、所詮だいたい。この曲が、人類の財産、音楽史上最高の音楽とまで言われている(正しいかどうか、誇張がないかどうかは脇に置いて)ことも知ってるし、凄い音楽だということがやっと何となく分かってきた感じ。突然聴きに行って、3時間の長丁場、ちゃんと聴けるか心配でした。が、そんなことはあまりにもステキな演奏と音楽の前に霧散。素晴らしい宝物のような経験になりました。何よりも本当に嬉しかったのは、わたしがこの音楽に少し近づくことができたと思えたことです。少し成長した自分を発見できた喜び。まだまだですけど、きっと一生かかってこの音楽を聴いていくんだろうな。最後にはどんな思いで聴くことができるか今から楽しみ。

楽員さんが出てきて(拝鈍亭で聴いた4人も!そして大雪の日に指揮を聴いた方!)丁寧な音合わせが終わって指揮者を待つ緊張の時間。そこですでに落涙。すでに雰囲気で感動してしまっているわたしを他所に始まった音楽は、おやと思うほど意外とあっさり。もう少し重々しく沈痛な音楽が流れると思ったら、そうではなくて、自然に流れ、慟哭しない音楽は、祈りに満ちたもの。まるで静かな礼拝のような音楽。どんなところも身勝手な感情に流されない丁寧なバランスの取られた演奏は、でも、底に流れている祈りのゆえに真実になって心を打つの。鈴木さんとBCJは、決して中庸の安易な冒険のない演奏ではなくて、繊細を極めるボトル・シップをピンセットでひとつひとつの部品から組み立てていくような細かい作業を経て、大らかな作品を仕上げていく感じの凄まじいバランス感覚。合唱の叫びやオーケストラや歌が語るように奏するところは壊れるぎりぎりのかなり極だった表現がされていました。全員が、ひとつの方向に向かって行きつつ、予定調和でない緊張感すら孕んだ、まさに今、キリストの受難が、それを音にした、いいえ、音ではなく心を持った音楽が目の前で生まれてくる奇跡。張り詰めた空気の中でひとつひとつ語られていく聖書の物語。

鈴木さんの共感は、合唱の部分、聖書のテキストにない、わたし(たち)の告白の部分に強くあったんだと思います。彼はクリスチャンなのかしら、その部分は自分のことのように激しく指揮をしていたし、それはわたしの心臓をきゅんと掴んでドクンドクンと体中に血液を走らせます。ひとりの無実の人間を最低の無残な死に追いやった、それが積極的なものではなく成り行きだとしても、そのことに対する無力感と贖罪。十字架の物語をなんて理不尽なことだろうと憤怒する気持ちとその場にいて死罪を求めた群衆がひとりの自分の中にいることが悲しくて、音楽がひとひと染みこんでくる。涙は流れ出ることで体を浄化するけど、バッハの音楽は涙となってわたしの体と心に染みこんでくる。わたしは浄化される。

もうひとつ、鈴木さんの音楽には、とっても日本的なものを感じました。キャンパスを全て絵の具で塗りつぶす西洋的な表現ではなくて、隙間のある水墨画的な表現。音のない間がとっても大事にされていて、音のないところからふうっと音がわき出てくる感じなんです。そしてそれは、音のないところから音楽が始まると考えてる日本の聴衆があってこそできることかも知れません。西欧の音楽家ならきっと、休符の中に(音は聞こえないけれども)音を詰めたでしょう。聴き手も完全な無音を音楽のはざまに求めていない。鈴木さんのにはそれがない。でも、音のない部分で音楽が切れるというのではないんです。何もない空間が広がってそれは何もないゆえに無限の空間を生むのだけど、星々が真空の宇宙で引かれ合うように、そこには重力のような見えない力が満ちているんです。その力は祈り。礼拝のような、無信仰もののわたしでもホールで聴くより教会で聴くのがふさわしいと思った。

でもこの音楽は信仰なのでしょうか。宗教的意識の希薄なわたしたち、キリスト教以外の神さまを信仰する人たち、にはどういうふうに響くのでしょう。ヨーロッパの外の人種も違うアジアの国で本物が演奏され、聴かれることができるのでしょうか。「マタイ受難曲」につきまとう問いも今日の演奏を聴いたら無意味なものに感じられました。だって、そこには音楽があるんだもの。そしてわたしたちは深く、自由に感じることができる。信仰をもう持たないわたしも真実の心を持って感動したし、それはきっと本物と変わりない。自分の覚えた感動を自信を持って本物だと言える。キリスト教の信仰がないとこの音楽の本当は分からないなんて言わせない。わたしにとって神さまより音楽の方が根源的だもの。神さまがいなくたって祈ることはできる。心の中の深いところに梅干しの種の仁のようなものがあるから。きっとそれは誰にでもある心の芯。

ふたつのオーケストラの音色の対比はとても鮮やかで、特に第1オーケストラの落ち着いて重い豊かなヴァイオリンのソロ(若松夏美さん)とちりちりと細かな火花のように華やぐ第2オーケストラのソロ(高田あずみさん)の対照の妙は素晴らしかったです。立って演奏される歌に寄り添うオーケストラのソリストの演奏も視覚的にもとってもステキでした。
歌手陣に関して何を言うことがありましょう。皆さん、最高のものを聴かせてくれたのですが、でもやっぱり、これだけは記憶にとどめておきたい。今回の「マタイ受難曲」の一連の公演で福音史家を引退するテュルクさんの歌はまさにその集大成になるようなものでした。歌というより語りかけ、言葉がひとつひとつ真実の光りを発して。聖書の地の文を語るのですから、淡々と物語を述べているだけなのに、ときおり一瞬音を外して言葉を裸にするところにドキリ。「この言(ことば)は命であった」というヨハネ福音書の一節が心に浮かびました。

演奏について言葉にしようとすればするほど、言葉が音楽から離れて生命を失っていくような気がします。こんなブログを書きながら音楽を伝えられないもどかしさ。こういう音楽は聴くしかない。音楽について書かれたものをいくら読んでも、音楽についていくら語ってもそれは表面の薄膜をなぞったに過ぎない。こんな恩寵のような演奏は体験しなければならない、音楽の神さまが下さる一期一会の宝物ですね。そしてその恩寵をより深く受け入れるためにもっとよく音楽を聴けるようになりたい。そしてできるなら、もっと上手にそれを言葉で伝えられるようになりたい。

by zerbinetta | 2014-04-13 19:56 | 日本のオーケストラ

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