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ばらの騎士の夢、未来への離別 新国立オペラ「ばらの騎士」   

2015年6月4日 @新国立劇場

シュトラウス:ばらの騎士

ジョナサン・ミラー(演出)

アンネ・シュヴァーネヴィルムス(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス男爵)
ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、クレメンス・ウンターライナー(ファーニナル)
アンケ・ブリーゲル(ゾフィー)、大野光彦(ヴァルツァッキ)
水口聡(テノール歌手)、その他
新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団
シュテファン・ショルテス/東京フィルハーモニー交響楽団


シュトラウスの音楽って、だめになる寸前のじゅくじゅくに熟れた果物のよう。もしくは、腐る寸前のお肉。でもその一瞬が一番おいしいことをわたしは知っている。そしてそれは、存在するのに儚い夢。いいえ、存在と不存在のとろけたはざま。「ばらの騎士」は夢の音楽。大好きなオペラです。

新国立劇場の「ばらの騎士」。観るのを諦めていたんだけど、Z券の抽選に当たって!行ってきました(申し込んだ日を勘違いしてて焦ったけど)。オペラは、ステージに近い良い席で観たいと思わないので、一番上の階がZ券で安く出るのが嬉しい。オペラ・ハウスって上の方の席の方がバランス良く音が上がってくるので音楽は聴きやすいと思うんですよ。

最近、あまりオペラを観ていないので、というか、なんか永遠のオペラ初心者だな、上手にオペラ観られるか分からない(オペラって音楽と劇で情報量がむちゃくちゃ多くて、知れば知るほど楽しめるんです)、というか始めからそれは諦めて、椅子に座って素直に楽しもうと思いました。ミラーさんの演出は、テキストの物語に沿ったオーソドックスなものであるけれども、スタイリッシュな今の感覚にも通じていて、変にこねくり回して考えることなくシュトラウスとホフマンスタールの描き出した夢の世界に浸れたのがステキ。
ところが、最後、小姓がハンカチを拾わなかったんです。というか、ゾフィーがハンカチを落とさなかったんです。このハンカチの意味ってすご〜く大切だと思うんだけど。。。その代わり、小姓は部屋にあったお菓子をつまみ食い。不倫の愛なんて、お菓子のつまみ食いみたいものですよってことなのかな。こともなげにそれが繰り返されていく。今は新しい愛の喜びの中にいるオクタヴィアンとゾフィーの未来にも。そしてお話は繰り返される?それとも単なるわたしの見落としかなぁ。こういうときってもう一度繰り返し観られないのが悔しいい。

歌手の皆さんは、とても良く歌っていました。高水準。主要な役を外国人歌手で固めていましたが、脇の日本人歌手も決して引けをとらなかったです。オックス男爵のリンさんは、嫌〜な男の男爵に仕上げてきて、嫌いだけどステキ。オックス男爵が中途半端だとつまらないものね。大好きなテノール歌手は水口さんだったけど、わたしとしてはこの役に超スーパースターを配して欲しいといういつもの願望。だって、好きすぎるし、全くの端役の歌手に一番の歌手を使っちゃうなんてパロディが聴いてていいなじゃい。パヴァロッティさんとか、今だったらカウフマンさんとか。現実には彼らは歌わないでしょうが。という勝手な思いをハタキで叩いて、水口さんは好演でした。

ショルテスさんの音楽は、ミラーさんのスタイリッシュな演出に合わせているのか、日本のオーケストラのゆえか、甘さ控えめ。舞台に合っていたと言えばそうなんですが、訛りもなくて、わたしには少し物足りなかったです。甘いものはちゃんと甘くして欲しいの。わたしたちの口に合わなくても。甘さ控えめ好きな日本人からすると、フランスのお菓子はうんと甘いけど、でもそれこそがあのお菓子の魅力だから。儚い永遠の夢は、本当に甘いんだもの。甘いものはちゃんと甘くなくちゃ。

「ばらの騎士」は、定番だけど、最後の3重唱のところでどうしても泣いてしまう。あの諦めと希望といろんな感情が交じり合ってひとつの音楽となった最高に美しい瞬間。でも、今日は、その前、元帥夫人が「全ては終わった」と歌ったところで涙腺崩壊。涙がさらさらと流れていきます。でも、あの3重唱まで来ると静かに涙が醒めてきて。あれれ、どうして?
何だかわたしの魂が音楽から幽体離脱してふわふわと音楽を眺めている感じ。冷静に。外から。この部分、ゾフィーとオクタヴィアンと元帥夫人がそれぞれの想いを同時に歌うんだけど、それぞれの歌が混じり合わずに聞こえてしまったんです。お互い別々のことを想いながら、言葉と音楽が溶けてひとつになるハズなのに、イチゴとクリームとスポンジがそれぞれ主張し合ってまとまらないショートケーキのように。多分、わざとそうしているのではないと思うんですよね。音楽が清流のように流れちゃって濁らない、という言い方は変なんだけど、濁れる田沼に豊潤な生があるのに。

シュトラウスって、このオペラで、未来に手を振って別れを告げてるみたい。一連の交響詩やそのあとの「サロメ」や「エレクトラ」で時代の最先端を走っていたのに、ここにきて理想の夢がある過去に憧れる。決して手の届かないものに。同時代のライヴァルであり友人のマーラーは、最後の作品で過去に別れを告げて未来へ向かった。でも、その未来を見ないうちに亡くなった。きっとマーラーにとってはそれが幸いだったような気がする。音楽は(マーラー自身も分からないと告白したような道に進んでいたし)、時代も大戦の時代、さらにヒトラーの時代に進む中にマーラーが生きていたらと思うと、その悲劇に恐怖する。長く生き延びたシュトラウスは、対照的に暗い時代に温かく甘い世界を夢見ることができた。それって退行?シュトラウスは時代に遅れた作曲家だったのかしら?いいえ。永遠の美しい夢に儚く憧れるのは、憧れることができるのは、かの時代の先端を生きているゆえではないでしょうか。決して戻ることのできない、本当は存在さえしない、胎内のゆりかごの甘美な夢を見ることができるのは、一粒のチョコレイトに幸福を感じることができるわたしたちの時代の真実ではないかしら。誰も聞いたことのない美しい夢を刹那に見せてくれる音楽を書き続けたシュトラウスを時代遅れの作曲家と言えるでしょうか。

by zerbinetta | 2015-06-04 11:22 | オペラ

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