神は為し給わず オペラ「沈黙」   

2015年6月29日 @新国立劇場

松村禎三:沈黙

宮田慶子(演出)

小餅谷哲男(ロドリゴ)、黒田博(フェレイラ)
成田博之(ヴァリニャーノ)、星野淳(キチジロー)
吉田浩之(モチキ)、高橋薫子(オハル)、その他
新国立劇場合唱団

下野竜也/東京フィルハーモニー交響楽団


Z券当たって良かったーーって浮かれて、「沈黙」を観に行ったんですけど、作品の強さに圧倒されて、普通にチケットを買っても観るべき作品だったと反省。もしZ券が外れてたと思うと怖ろしい。わたしは無二の機会を逃してしまうところでした。これは、日本のオペラ愛好家なら好き嫌いを問わず、1度は観ておくべき作品でしょう。わたしには幸運の神がいました。ロドリゴに神はいなかったけど。

音楽は、とても普通に良く書けていると思うんだけど、やっぱり問題は、日本語の特性が西欧の伝統的なリズムに合わないことではないかしら。松村が書いたのは、20世紀前半の様式を発展させた感じの音楽なので、歌は、西欧の音楽に日本語をのせたみたいな感じ。そうすると、必ず母音で終わる日本語とは矛盾しちゃうんですね。あと音節(モーラ?)の等価性とか。20世紀後半の書法とか、謡みたいな日本の伝統音楽の様式を採り入れればもっと自然なものが書けたのに、と偉そうに思ったり。これどうしても気になっちゃうんです、わたし。一方管弦楽や合唱は力強くて、劇的な雰囲気を隈取っていて、オペラを観る充実感があります。

演奏は、とっても素晴らしかったです。下野さんと東京フィルのピットはめちゃくちゃ力入って劇場全体を音で包み込みました。大活躍する合唱(キリシタンの農民たち)もいつものことながら新国立劇場の合唱団が素晴らしかったです。歌手陣もひとりひとり皆が良かったです。何か、日本のオペラの問題作の真価を問うみたいな情熱に溢れた演奏で、文句の付けようもないのです。
新国立劇場の演劇部門の監督でもある宮田さんの演出は、劇場的なこの作品、オペラと言うより演劇を観たような印象、を音楽の邪魔をすることなく表現していて、細かな所作や、光りの使い方にも目が配られていました。

でも、わたしを震撼させたのは、もう今まで書いたことはどうだっていい、この作品の持つテーマです。それが直接突き刺さってきた。
わたしは、一時期クリスチャンだったので(今はいかなる神さまも信じていないけど、洗礼は一生消えない(?)から今でも公にはクリスチャン?よく分からないけど)、遠藤周作の原作は読んでいたはずです。なので、お話はだいたい知っていたはずなのです。ところが、その結論が、全然違う。それで完全に戸惑ってしまいました。ただ、そういう風にはどこにも記されていないみたいなので、わたしの(オペラを観て)感じたことが全然間違い、トンチンカンな可能性もあるのですが。

わたしは、このオペラを観て、救いは感じられなかったんです。神の存在も。そればかりか、神の不在がテーマなんじゃないかとさえ思っています。オリジナルの小説は、最後、神の言葉に促されてロドリゴが踏み絵を踏んで救われたはずです。オペラの台本では多分これは変えていない。でもわたしには、強烈に神の不在のメッセージとして伝わってきました。神は何も答えてくれない。口を閉ざしている。
神にはもう人を救う力がないんです。
ロドリゴは、最後、踏み絵を踏むか、迷います。踏み絵を踏めば拷問に掛けられている村人たちを救うことができる。そして自分も救われる。でも、クリスチャンとして死を前にした人の中には、神を信じて神の国に行く希望を持っている人もいる、すでに信仰のために殺されてしまった人がいる。その人たちのために、自分だけイェスを踏んで神を捨ててもいいのか。究極の選択ですね。どちらに転んでも、人は救われないし救えない。神ですら、どちらかを選択することによって、誰かを裏切ってしまう。光りがあるせいで影ができる。だから、神は黙っていることしかできない。神はもう在ることができない。

もしかしてわたしは、最後重要なテキストを見落としちゃったのかな?
それとも、オペラとして物語をはしょってしまったせいで、奉行やフェレイラが単純にダークサイドに落ちてしまった?
作曲者はここまで神を否定したかった?

わたしも、究極の選択には答えられないまま、呆然と神のいない世界、救いのない世界にはじき出されてしまったのです。

神の(不)在のものすごい深いテーマを持った考えさせられる問題作。ぜひ、日本のオペラとして海外でも上演して欲しい。これだけのテーマをもったオペラってそうそうないもの。
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by zerbinetta | 2015-06-29 01:35 | オペラ | Comments(0)

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