名曲ってちょっとの譜面の違いでも価値は揺るがないんだよ 内藤/ニューシティ管 世界初演シリーズ   

2015年9月12日 @東京芸術劇場

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」 抜粋

登川直穂子(蝶々夫人)、ロマン・ムラヴィツキー(ピンカートン)
石川紀子(スズキ)、星野淳(シャープレス)
押川浩士(僧侶)、栗原剛(ゴロー)、北川辰彦(神宮)
東京合唱協会
内藤彰/東京ニューシティ管弦楽団


ひょんなきっかけで聴きに行くことになった、ニューシティ管の世界初演シリーズ(再)。今日は、指揮の内藤さんが校訂したドヴォルザークの「新世界より」と本物の日本のお寺や教会の鐘にこだわった「蝶々夫人」(抜粋)。ドヴォルザークの書いた手稿譜を元に出版されている楽譜にある100カ所以上にわたる間違いを修正して本物のドヴォルザークの音楽を初めて聴かせる(といっても今回がその初演ではなく再演です)との煽り文句満載の「新世界」。プッチーニの(東洋文化の無知からでた)誤りを正すと煽る「蝶々夫人」。プログラムにも詳しく解説されて、音楽会の前に内藤さんが熱く語っていたんだけれども。。。

でもね。これ、ヘン。というか矛盾してない?だって、「新世界から」の方は徹底的に作曲者の書いた楽譜にこだわってるのに、プッチーニの方は、プッチーニが実際にイメジした音を断罪して、彼的に’正しい’音に変える。

内藤さんの指揮は残念ながら、素人の域。手を振って音楽を進めるだけでそれ以上ではない。オーケストラは良く訓練されていて、それでもきちんと演奏していたのは、さすが。ただ演奏からは丁寧な表現付けが聞こえてくるんだけど、あっ、この膨らませ方はあの指揮者の演奏だ、このクレッシェンドはCDで聴いたことがある、という風に何だかいろんな演奏を思い出してしまって、内藤さんはいろいろやってるんだけれども借り物な感じ。そして最大の難点は、指揮者のせいか細かなところ、しかも大切なところでアンサンブルが合わないところ。内藤さんは100カ所以上楽譜を直してると言うけれども、多分そのほとんどは、細かなアーティキュレイションの修正。彼が世界で初めて明らかにしたと言うけど(理系の人だからそんなふうに言うのかしら?でも本物の理系の人だったら自分の研究は世界で初めてなのは当たり前すぎるくらい当たり前なので、自分から自慢げに世界で初めてなんて言わないというか考えもしないんだけど)、普通に指揮者は、少なくてもきちんと演奏をするちゃんとした指揮者は、譜面を批判的に読み込んで自分の音楽を作ってる。それは、いろんな異なる指揮者の演奏を聴いてそれぞれ違ってるように、演奏する人の解釈や裁量に任されている部分だと思うしそうあるべき。だから今回の内藤さんの演奏もその範囲でしかないと思うから(訂正された楽譜を出版するというのは、作曲家が書いたものを明らかにするという意味で意味のあることだと思うけど、音楽を聴くわたしたちにはあまり関係ない)、大ごとのように自慢することではないと思うのね。ただ、プログラムにも書かれていた2カ所の目立った音の違いは、聴いてはっきり分かるものだけに重要なのかな。でも、わたしの結論は、音が1カ所2カ所違ったくらいでは名曲は揺るがないでした。内藤さんには申し訳ないんだけど。それに、スケルツォの部分の音の違いの方は、内藤さんがおっしゃるようにとても大事な音なのかも知れないのだけど、今回、残念ながらアンサンブルが乱れていて、その音の大切さがよく分かりませんでした。というか、ヴァイオリンの人、みんな同じ音で弾いてた?

聴いていて、会場にいて、少し不思議な雰囲気を感じました。プロのオーケストラよりもアマチュアのオーケストラの音楽会の雰囲気を感じたの。どうしてかなと思って原因を探ろうとしたんだけど、ヴァイオリンの音の響きの豊かさが足りないものの演奏は、明らかにアマチュアではなくプロのものだから違うし、予想外に(失礼!)満席に近いお客さんが、このオーケストラに熱心なファンが付いていることが窺えて、もしかしてこれがそんな雰囲気を醸し出してるのかな、と思いました。

休憩のあとは、「蝶々夫人」。内藤さんが自信を持って語っていた、鐘問題。プッチーニのスコアでは、東洋への無知ゆえ、日本のお寺の鐘を(中国の)銅鑼で表現していた、それを正しく日本の鐘の音で演奏する。それから、第2幕の始めで、プッチーニのスコアでは不可能だった(音域外だそうです)、日本の鐘と西洋の教会の鐘が重ねて鳴らすことで、キリスト教に改宗した蝶々夫人と(日本の)仏教との和解という大切な背景を示すことができたそうです。確かにね〜と思うところもある。特に2番目のは、2つの鐘を重ねることによって意味があることだし。でも、鐘を作ってみたものの必要な音量が出なかったとのことで、シンセサイザーで代用するとのことにがっかり。わたしの勝手だけど、電子楽器が苦手で、最初から電子楽器の音楽だったらまだいいのだけど、プッチーニの音楽には敢えてやる必要はないんじゃないかって思いました。
「蝶々夫人」は、確かにわたしにとってなんちゃって和風劇で、むしろいつも西洋人の歌手が日本髪のカツラを着けて和装するということに違和感を抱いちゃってるんだけど(ほんとはこういう考え方良くないんですよね。だって、そうすると反対に、日本人歌手が西洋人の役を歌うのはヘンってことになっちゃう。見慣れないものへの違和感だから頭では分かっていても感覚的にね)、今日は、ピンカートン以外歌手は日本人だったからそこはストンと落ちました。もし、「蝶々夫人」でリアリズムを追求するなら、日本人の役は東洋人で、さらに日本人どおしのやりとりは日本語で歌うくらい極端なことをしないと。でも、オペラって現実の世界じゃないから。。。

歌手はとても良く歌っていたと思います。オーケストラの後ろに一段高くしたステージの上での簡素だけど必要十分な演技もとても良かったし、先にも書いた、日本人の役が日本人の歌手で歌われているのもわたし的には良かったです。でも、オペラの抜粋というかいいとこ取りというのは、主役の歌手にとってほんと大変ですね。舞台に出ずっぱりで休む間もなく、聴かせどころの歌ばかり歌わなきゃならないなんて。特に蝶々夫人はそれでなくてもかなりの声を要求される役なので。登川さんは、少し声が細くて、もう少しふくよかなドラマティックな声があったらもっといいのに、と無い物ねだりだけど、(ヘンケンを含む)わたしのイメジ的には、ぴったりの蝶々夫人。最後まで歌いきる体力もあって、とても良かった。さらに常に蝶々さんに付き添っていたスズキの石川さんも素晴らしくて、歌的にはダブルヒロイン状態。ピンカートン役のムラヴィツキーさんも小粒だけど端正な歌で良かったです。脇を支えた他の歌手も皆さん良くて、バランスのとれた歌手陣と、物語を過不足なくなぞる抜粋の仕方で、蝶々夫人の物語をしっかり楽しめました。いろいろ考えちゃった音楽会でしたけど、最後は純粋に合唱を含めた歌手の方にブラヴィーですね(ふふふ、ちゃんと複数形で言っちゃった)。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-12 13:05 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

<< 若いと盛っちゃうよね でもそれ... シンフォニックな愉悦 カンブル... >>