パパ来たる K.ヤルヴィ/都響 ペルト、ライヒ   

2016年5月18日 @サントリーホール

ペルト:「フラトレス」、交響曲第3番
ライヒ:「デュエット」~2つの独奏ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための、
   「フォー・セクションズ」

クリスチャン・ヤルヴィ/東京都交響楽団


なんかとってもアウェイ感の強い音楽会でした。

踊る指揮者クリビーを見に来ました~。クリビーというと、最初に聴いたのが中南米の作曲家の特集だったのでそちらの人かと思ったら、パパヤルヴィさんの息子だったのね〜。踊る指揮者。ブラームスの交響曲でも遺憾なく踊って、隣で聴いていた高校生たちも真似して踊り出す始末。秘かにヤルヴィ家で一番好きかもなんです。
チケットの引き取りにホールの窓口に並んでたら、見知った感じの人が前を横切って、、、おや?と思ったらパパ・ヤルヴィさんでした。ちょうどN響を振るので来日中なんですね。ご両親も次男坊の演奏が心配だったのでしょうか?

プログラムの前半は、クリビーと同郷で交流もあるペルトのシグニチュア・ワーク、「フラトレス」と’ペルト’になる寸前の蛹の時期の交響曲第3番(パパ初演で、パパに献呈されていたハズ)。後半は、クリビーの第2の故郷、というかわたし的にはクリビーはアメリカ人、USのライヒ(ほんとはライシュ)の2曲。わたしの苦手なミニマリズムの曲です。

「フラトレス」は打楽器と弦楽合奏の版(この曲いろんな楽器編成のヴァージョンがあります)。わたしのペルト・ブームで2番目に来た曲(出逢いは「ヨハネ受難曲」でした)。彼独特のティンティナブリ様式の代表作のひとつですね。とても静謐。シンプル。なので演奏するのはとっても難しい。打楽器の音のあと、低音の持続音の上に、静かにノンヴィブラートで歌い出される高音のヴァイオリンは、オーケストラの実力がもろに出てしまいそう。都響の音は枯れた感じで、落ち葉がかさこそ鳴るみたいな。わたし的には、弱音の中に艶のあるつーっと引かれる蚕の糸みたいな音が好み。枯れ葉の転がる晩秋ではなくて、つららの伸びる厳冬のイメジ。打楽器も譜面面はわたしにも叩けそうなたった3つの音が音楽の節目節目で出てくるんだけど、微妙にクレッシェンドしたりしなかったりものすごく神経をとがらさせられそう。音のばらつきがほんのちょっとあったのが気になったんだけど、そんな細かいところまで聞こえてしまうこの曲って鬼よね。

交響曲第3番は、ティンティナブリ様式に至る前の作品だけど、外交的な表現への欲求に加えてグレゴリオ聖歌への傾倒とか内向的な後の作風も混じってきて、過渡期というか、自身を模索している感じの音楽。ただね~、交響曲ってペルトさんにとってはアウェイだと思うのよね。交響曲って形式というか器だと思うんだけど、ペルトさんの音楽ってその器に合わないんだもの。少なくともそれ以前のペルトさんは、交響曲の器に合う曲を書こうとしてたりもしたけど、後期の様式の萌芽の見られる第3番になるともうどうしようもないずれが。交響曲なんてある時代のローカルな様式でしかないのだから(交響曲こそクラシック音楽の最高峰という意見もあるけど、今のオーケストラにとって重要なレパートリーではあるけれども、現代の音楽にとって交響曲はもはや中心的な役割を負ってないし、過去だって、重要な音楽の中心地、イタリアやフランスではあまり交響曲は書かれていないよね)、無理に書く必要はないよ、と余計なことを考えながら聴いていました。というかそういうことを考えさせられる演奏だったんです。なんかこうピタリとはまってなくて座り心地が悪いというか。フォルテで現れる金管楽器の聖歌もなんかちょっと雰囲気壊してた。
後年はティンティナブリ様式を確立して交響曲とは決別した、、、と思ったら第4番を数年前に書いてるーーーぎゃぽーーん。

音楽会後半は、ライヒ。わたしには縁遠くて、多分バレエの伴奏で「エレクトリック・カウンターポイント」くらいしか聴いたことがないハズ。どんな音楽なのかワクワク(でも苦手なミニマムだろうからしょぼんかな)。
「デュエット」は、ふたりのヴァイオリン・ソロ(都響トップの山本さんと双紙さんのソロ)、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの合奏の編成。弦楽合奏は、普段の席で弾いたので、ステージの上手側だけに人がわらわら(ソリストは指揮者の正面)の異様な様相。でも、今日の音楽会で、この曲が一番クリビーらしい良い演奏でした。踊ってたし。音楽は、ヴィヴァルディの「四季」(というか本当は「調和の霊感」の中の2つのヴァイオリンのための協奏曲)を思い出させるようなソロの掛け合いのある競奏曲風のそしてだんだんと盛り上がっていくビート感がUSのライトで明るい雰囲気。ここにはクラシックとポピュラー音楽が溶け合ってる。合奏に沸いてくる煽動するリズムがあればもっと良かったんだけど、ソロを弾いたおふたりの自発的な掛け合いがステキでした。

「フォー・セクションズ」(日本初演)は、2台のピアノ(とシンセサイザー)、マリンバ、ヴィブラフォンが2台ずつと大きなオーケストラのためのミニマム作品(なんて矛盾)。こちらもアメリカンな、わたしは行ったことのない癖に、西海岸の空気感を感じさせる明るいけれども退廃的な雰囲気も匂わせる音楽。やっぱり、ジャズの伝統のあるアメリカのインプロヴィゼイションを感じさせる曲だと思うのだけど、、、、
これが強烈なアウェイ感。オーケストラはこんな音楽も至極真面目に弾いていて、譜面的には正しいんだけど、マンガのセリフを生真面目に朗読したみたいでちょっとつまらない。アメリカの音楽に慣れていないことがありありのオーケストラ(しかもミニマルの曲って数えるだけで大変)なので、まず、音符を弾くことに精一杯で、クリビーも正確に振ることに重きを置いていて踊らない。多分、USのオーケストラがやったら嬉々として自分たちの音楽を奏でてくれると思うんだけど。。。途中で落ちても気にしな〜〜い。
それに、慣れないお客さんも生真面目に聴いていて、寄席で笑わずにシーンと真剣に落語を聞いているお客さんみたい。クリビーの異分子感ったら。孤軍奮闘。笛吹けど踊らず。

日本って、USからもヨーロッパからも等しく遠く離れてるので、ドイツもフランスもイギリスもアメリカ音楽も分け隔てなく音楽会のプログラムに乗るし、それを等しく受け入れているという点では、ものすごく貴重な国。と同時に等しく遠いので、自分の音楽として理解できているかは微妙。もしかすると和風な理解をしているのではないか。と、今日のオーケストラとお客さんを見て感じたのでした。ベートーヴェンやブラームスも。ベートーヴェンやブラームスはもう慣れてるけど、アメリカ音楽はまだ、体が自然に動くところまでには慣れていないの。こういうプログラムこそ、客席の椅子を取り払ってオール・スタンディングでやったらいいのにな。

USとかヨーロッパとかでこういう曲の音楽会をやると、必ずと言っていいほど、髪をまっ赤に染めた人とか、パンクとかロックやってるみたいな人とか、普段は、クラシック音楽会では見かけないような人たちも来るんだけど、ここでは普通の定期演奏会と全く同じ客層。クラシック音楽を聴きに来る人たちが、アメリカやエストニアの現代音楽を受け入れていることを慶賀すると同時に、鋭いアンテナを持つロック兄ちゃん、パンク姉ちゃん、との間にはまだ高い壁があるのかなぁとも思って寂しくもなるの(日本のアヴァンギャルドの人たちのアンテナが低いのかも知れないけど)。ライヒを聴いてダンスする日はいつか来るのかしら。


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by zerbinetta | 2016-05-18 00:43 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

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