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マッチ売りの少女の夢 くりぼっち 新国バレエ「くるみ割り人形」   

20151222日 @新国立劇場


くるみ割り人形


チャイコフスキー(音楽)

マリウス・プティバ(原案)

レフ・イワーノフ(振付)、牧阿佐美(改訂振付)


米沢唯(金平糖の精)、ワディム・ムンタギロフ(王子)

奥田花純(クララ)、マレイン・トレウバエフ(ドロッセルマイヤー)

小野絢子(雪の女王)、その他


アレクセイ・バクラン/東京フィルハーモニー交響楽団、東京少年少女合唱隊


今回は辛辣な意見を書きます。悪い評を読みたくない人は閉じて下さいね。

でも、まず始めにダンサーさんたちを称えなくてはいけません。ダンサーさんには罪はないし、今日もステキな踊りを見せてくれたのですから。


クリぼっちという言葉、最近知りました。わたしはクリスマスに独りでゆっくり過ごすのもいいと思うのだけどね。新国バレエの「くるみ割り人形」は、クリぼっちの女の子の物語。なのはいいんですよ。でも、パンフレットに書いてあったキャッチコピー、「夢から覚めても、昨日より少しだけ、でも確かに世界は幸せになる」って、しかーし、観たあとに思ったのは、女の子、孤独のまま。世界は、女の子は幸せになったのかしら。マッチ売りの少女だったら、焔の中に幸せな夢を見てそれに包まれながらしんでいくので、状況は悲劇だけど、少女は最後に幸せだったかもと思えるのだけど、「くるみ割り」の女の子は、夢から覚めて現実に戻っていく。ますます、孤独は深まるばかり。この演出では誰も少女に手を差し延べないの。最後にドロッセルマイヤーだったサンタクロースが去って行くけど、彼は少女に幸せをくれた?答えは否。

この牧さんのプロダクションの最大の欠点のひとつは、物語が破綻していること。始まりとお終いに出てくる今の日本のシーンは物語の外にぽつんとあるし、少女はどこにいるのと疑問を抱かせてしまう(たぶんクララは家にひとりぼっちでいる)。ドロッセルマイヤーがクララに魔法をかけて、誰かの家のクリスマス・パーティーのシーンになるけど、確かにそこで踊るし、くるみ割り人形のプレゼントをもらうけど(最初のシーンの人形は何だろう?)、彼女は、結局ストレンジャーだよね。そんな状況は、いろんな踊りを独りでぼんやりと見せられてる第2幕でも一緒(わたしの隅っこの席では、クララは全く見えなかったんだけど、お菓子の踊り手が舞台の下手に向かってお辞儀をするので察しました。あとで友達に聞いたらそうだったって)。2幕でのクララの消失は(たとえ隅っこで座ってたとしても)致命的。

王子さまも、クララが助けたくるみ割り人形の魔法が解けて現れて、始めはクララと喜びの踊りを踊ったかと思ったら、あとはクララを見捨てて(!)、雪の女王と踊ったり、金平糖の精と踊ったり(しかも、これがこのバレエの踊りのクライマックス)、王子って一体何者?クララはここでもぼっち。


最大の欠点のもうひとつは、音楽を十全に生かしていない振付。特に、新国バレエの最良の持ち味であるコール・ドの手持ち無沙汰感は。このバレエ団のために振り付けられたのにですよ。自他共に誇れるコール・ドをこんな粗末に扱ってそれでいいの?第1幕のチャイコフスキーがシーンに応じて音楽を描き分けた群舞も一本調子と言うか、音楽が大きいのに舞台ではダンサーが申し訳程度にちょこちょこ踊ってるだけだし、第2幕の「花のワルツ」の貧相な退屈さといったら。音楽だって、ソロとトゥッティを対比させてステキなのに(音楽だけ聴いたって素晴らしい)、バレエが音楽の足引っ張ってどうよ。


全体の物語が破綻してて、舞台に出てくるひとりひとりの性格付けがてきとーで、踊りの振付まで退屈で、ダンサーの素晴らしさに救われてはいたけど、一体わたしたちは何を観たらいいの?いろんな演出の作品があるのは、大歓迎だけど、断言します。この牧版の「くるみ割り」は、今の新国バレエ団にはふさわしくありませんし、後代に残すべき作品でもないです。「くるみ割り」にはすでにたくさんの素晴らしいヴァージョンがあって、それぞれのバレエ団が、シグニチュア・ワークとして素晴らしい作品を持っているので、難しい挑戦になると思うけど、日本のフラッグシップ・バレエ団を自任する新国立劇場バレエ団の意地を見せる新作を作って欲しいと願います。





by zerbinetta | 2015-12-22 16:32 | バレエ

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