カテゴリ:オペラ( 58 )   

楽しすぎて泣いちゃう オペラ・フレスカ カッチーニ「エウリディーチェ」   

2016年1月23日 @川口リリアホール

カッチーニ:エウリディーチェ

高山潤子(エウリディーチェ)、黒田大介(オルフェオ)
末吉朋子(シルヴィア、プロゼルピナ)、澤村翔子(ダフネ、冥界の女神)
染谷熱子(クローリ、ヴェーネレ)、上杉清仁(アルチェトロ、ラダマント)
中嶋克彦(アミンタ、カロンテ)、和田ひでき(ティルシ、プルトーネ)
彌勤忠史(悲劇/アモーレ)

家田淳(演出)
濱田芳通/アントネッロ、angelico


ものすご~~く楽しみにしていた、オペラ「エウリディーチェ」(1602年)。だって、歴史上多分、3番目か4番目に書かれたオペラ。現存するオペラの中では、ペーリの同名のオペラ(1600年)(この曲の作曲にはカッチーニも関わっています)に次いで2番目に古いオペラ。そしてペーリを差し置いて世界で初めて楽譜が出版されたオペラ(これには、いろいろどろどろとしたお話があるのですが)。それの本邦初演です。まずめったに演奏されることのないオペラをこの耳で聴いてこの目で観ることができるとは。なんたる幸福。しかも、演奏は、古楽を古楽とは思わせない常に最新鋭の感覚で音にする音楽集団アントネッロ。しかも、かぶりつき。あああ身悶えるぅ。わたしと同じ思いの人は多く、チケットはソールド・アウト。実際の会場も空席はほとんど見当たりませんでした。

昔の音楽を演奏するとき問題になるのは、リアリゼイション。古典派以降の楽譜と違って(古典派の頃でも全部が書かれているとは言えないけど)、楽譜には全部は書かれておらず、演奏できるように譜面を整えなければなりませんから。そこがバロック音楽の楽しみのひとつなんですよね。濱田さんのリアリゼイションは演奏と同じようにとても自由(好き勝手という意味ではありません)。オペラ以外からも同じ作曲家の別の曲、さらには同時代の他の作曲家の曲も適宜混ぜ込んでいます。楽器も楽譜に書かれていない(書かれた楽譜は通奏低音だけだそうです)、コルネット(金管楽器のマウスピースで縦笛を吹くような楽器)、トロンボーネ、フラウト、打楽器などを加えて、音楽的な効果を上げています(音楽について濱田さん自身の手で書かれた詳細がプログラムに載っていてとても分かりやすかったです)。
えええっ?当時の音楽を聴かせてくれるんじゃないの?って批判は無しね。だって作曲された当時って、演奏される機会によって作品には手を加えられるのが普通なんですもの。楽譜通りに演奏されるなんてもっとずうっとあとの習慣なんですよ。そして、一番大事なことは、濱田さんのリアリゼイションによってこの作品が生き生きと生まれ変わったこと(音楽の演奏はそのときそのときが新しい誕生だけれども)。モノディを徹底させてるカッチーニの音楽だけでは、単調だったこの作品がとても面白く聴けた功績は大きいです。
それはまた、演出の家田さんにも言えます。冥界の王プルートをコジモ・デ・メディチ(フィレンツェの芸術のパトロン。メディチ家の祖)に仕立てたり、名もない牧人たちに名を与えて物語に加えたり、アイディア満載。濱田さんと家田さんの共同作業は同じ思いを共有していて音楽と物語のステキな一致を得て素晴らしかったです。またこのおふたりの共同作業が見たいな。強く希望。

歌手陣は、主役のオルフェオを歌った黒田さんが張りのある声と豊かな表情で良かったですが、友達のアルチェトロの上杉さんも掛け合いで黒田さんを引き立ててとても良かったのです。冥界の王の和田さんも貫禄のある低音だったし、あまり出番はないのだけど、おきゃんな感じのエウリディーチェを作った高山さんもなんか振り切れた感じで面白かったです。そして、大好きな彌勤さんはやっぱりステキでした。悲劇とアモーレ(愛)を一人二役で歌うのも、スパイスが利いていてニヤリとします。でも、彌勤さんとならば愛の悲劇もいいなぁ。って言うかハッピーエンドなんですけどね。その他の歌手たちもひとりひとりに名前を与えた演出と相まって、それぞれの物語があってとても充実していました。アンサンブルがステキです。

アントネッロにゲストのangelico(トロンボーネ・アンサンブル)を加えたオーケストラは、直前に中心人物のひとり、アルパ・ドッピアの西山まりえさんがご病気のため降板となってしまったけど、アントネッロの持ち味であるビート感のある生き生きとした音楽は、古楽を聴いていると言うよりもう現代のノリ。特に打楽器のビート感と時折アグレッシヴな突っ込みを魅せる通奏低音が。バロックって昔の音楽ではなく、古典派とかロマン派よりもひとまわりまわって現代に近いんじゃないかって思っちゃいます。バロック・ロックみたいなオールスタンディングで縦ノリピョンピョンのライヴやらないかな。それと、指揮の濱田さんがときどき吹き振りするコルネットの素晴らしいこと。わたし、アントネッロ、全面支持だわ。

こうして最初期のオペラを聴いて分かったのは、逆説的だけど、この5年後に書かれ現在もよく上演されている最古のオペラ、モンテヴェルディの「オルフェオ」(「エウリディーチェ」と同じ題材)がいかに突出している傑作であるかってこと。モノディにこだわらない音楽の素材の豊かさ、歴史上初めて(?)のオーケストレイション。大好きなので褒めちゃうんですが。
でもね、滅多に演奏されることのない歴史的なオペラを楽しんで聴けたのにはうれしすぎて泣いちゃいました。こうなったら現存する最初のオペラ、ペーリの「エウリディーチェ」も聴いてみたい。一昨年のモンテヴェルディ3オペラの上演から始まったアントネッロのオペラ・フレスカ・シリーズ。次は何になるのでしょう。もう今から首を長くしてワクワク。バロックって面白いオペラ目白押しですからね。
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by zerbinetta | 2016-01-23 23:17 | オペラ | Comments(0)

いびつな真珠の極み レ・ポレアード+SPAC 「妖精の女王」   

2015年12月11日 @北とぴあ

パーセル:「妖精の女王」

エマ・カークビー、広瀬奈緒(ソプラノ)、波多野睦美、中嶋俊晴(アルト)
ケヴィン・スケルトン(テナー)、大山大輔(バリトン)
寺神戸亮/レ・ポレアード
宮城聰(演出)/SPAC


去年聴きに行って楽しかった北とぴあ音楽祭。もちろん今年もデス。バロック音楽に重心を置いて、今年は、パーセルのオペラ「妖精の女王」。古楽界の永遠のアイドル、エマ・カークビーさんが歌うのが目玉です。そして、こんなステキな音楽会が格安で聴けるのです。万難排します(日フィルの定期を振り替え)。

北とぴあは王子。去年来てるから余裕よねと、自信を持って駅を降りたら見たこともないところ。駅間違えた?いえいえ、出口が違っていたのですね。きょろきょろして信号につっかえつっかえなんとか会場に着いて、開演前のロビー・コンサートに滑り込み。上野学園大学古楽アンサンブル(プロではなくサークル活動みたいなのかしら?)による、「もうひとつの妖精の女王」ーヴァージナルの響きと共にーと題された演奏会。バッハの親戚のヨハン・ベルンハルト・バッハの「妖精の女王」のテーマによるシャコンヌ(オルガン独奏)やヴィオラ・ダ・ガンバやリコーダー、ヴァージナルのソロのための作品。全員の合奏でパーセルの(ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の元になった曲を含む)「アブデラザール」が演奏されました。近くで見るヴァージナルの装飾もきれいで(フェルメールにヴァージナルが出てくる絵が何点かありますね)、昔の楽器って美術工芸品としてもステキで、総合芸術的ですね。今度は、野暮なロビーじゃなくてお屋敷の間で聴きたいですね。雰囲気も楽しみながら。

36歳で若くして亡くなったイギリス・バロックを代表する(というかイギリスを代表する)大作曲家ヘンリ・パーセルのオペラ「妖精の女王」。シェークスピアの「夏の夜の夢」を元にしたオペラなんですね。わたしの知識はたったここまで。あと、古楽界の妖精、カークビーさんを初めて聴く楽しみ。ロンドンでは彼女を聴く機会に恵まれなかったんですよね。小さなところで歌っていたようでアンテナに引っかからなかったの。

音合わせが終わって、指揮の寺神戸さんがまさに、指揮棒をおろさんとした瞬間、会場のどこかから大声が。えー誰だよーサイアクーと思ったら、お芝居が始まったのでした。演出に一杯食わされた。一本取られてしまいましたよ。そうなんです。あとで知ったんだけど、パーセルの「妖精の女王」はオペラと言うより劇付随音楽に近い形。セミオペラと言うんだそう。音楽とは別に劇が上演されるんです。完全に歌と音楽が支配するオペラの脇に、こんな、劇と音楽の融合があったんですね。その後も「アルルの女」とか「ペールギュント」とか劇付随音楽は書かれているけど、廃れてしまった感じがあります。音楽と劇を同時に上演することに難しさがあるのでしょうが(例えば、音楽向きの会場と劇向きの会場は違うとか)、今日、「妖精の女王」を観てとっても面白くて、わたしは、むしろこの形式に今のオペラを活性化するヒントがあるような気がしました。そんな難しいことは言わなくても、だってほんと面白かったんだもん。もっとこういうの観たいって素直に思った。「アルルの女」とか「ペールギュント」とかどこかでやらないかしら。バレエ版でもいいのだけど。

宮城さん演出のSPACの劇については、わたし、演劇はあまり観てこなかったので、良い悪いは分からないのだけど、ヒトコト、面白かったぁ〜〜。劇だからこそ、シェイクスピアの戯曲にかなり忠実で(錯綜している作品なのでオペラ(ブリテン)やバレエ(メンデルスゾーン/アシュトン)のは物語をかなり刈り込んでます)、言葉の速さや役者のスポーティーな動き(テナーの人も側転とかしてた!)が全体の運動を作っていて、基本的に妖精界を彩る音楽のゆったりとした空気(音楽のテンポの速い遅いではなくて、歌になった言葉の長さという意味で)とステキな対照をなしていて秀逸。妖精界(に迷い込んだ人間も含めて)を舞台に立てられた梯子や棒の上で地に足を付けずに表現するアイディアも素晴らしいの。

それに加えて、これでもかというくらい、小ネタやら音楽の飾りでもうお腹いっぱい楽しかった〜〜。バロック音楽って、バックグラウンドミュージック的なヴィヴァルディの「四季」の演奏(ちゃんとした演奏なら凄く刺激的なのに!)やアルビノーニの「アダージョ」やらパッペンベルの「カノン」やらのイージーリスニング的なものが染みついちゃって、バロック=いびつな真珠というのが、いまいちピンとこなかったんだけど、今日のオペラを観て、バロックってまさにいびつ、とんでもないくらいいびつでごつごつして、刺激的で、古典派やロマン派の音楽よりはるかに現代的というか同時代的に聞こえました。何でもあり感が凄いんです。

初めて聴くカークビーさんは、声が小さくて(と言っても全然聞こえないって言うわけではありませんが)、こんなもんかな、って最初思っていたんです。他の歌手の人たちもみんな良くて、カンパニーとしてまとまりがあるから、演技的にも直前に合流したと思われる、それにお客さん扱いのところも見られた、カークビーさんが浮き気味で。でも、それを逆手に取った演出(出演者と記念撮影したりサインを求められたり)も上手い。そして、「嘆きの歌」。結婚式のあとに挿入される悲しみの歌。。。それがバロック。カークビーさんのこの歌は、今日の公演のある意味音楽的頂点だったかも知れません。歌うというより、言葉を語る。その強さ、悲しさ。音楽を伴って言葉がこんなに強く鋭く突き刺さってくるとは。メロディを従えたシュプレッヒゲザング!
そしてまさかの、カークビーさんの和装!!やるなぁ。こんなものまで見せられるとは。カークビーさんも楽しそうにしてらしたし、良いもの観た。

寺神戸さんとレ・ポレアードのオーケストラもとっても垢抜けていて、去年よりもひとまわりもふたまわりも大きくなっていた感じ(多分、劇がオーケストラを刺激したのでしょう)。パーセルの書いた音楽も刺激的で、派手なティンパニの乱れ打ち(?)にはニンマリ。やっぱりバロックって凄いよぉ。ルールがまだ緩やかだった分、もう何でもありだもの。

ほんと、今日は、演劇と歌とオーケストラが、バラバラにそれぞれ突き抜けた、いびつな巨人を見たような素晴らしい体験でした。バラバラでまとまるって凄いよね。
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by zerbinetta | 2015-12-11 23:44 | オペラ | Comments(0)

神は為し給わず オペラ「沈黙」   

2015年6月29日 @新国立劇場

松村禎三:沈黙

宮田慶子(演出)

小餅谷哲男(ロドリゴ)、黒田博(フェレイラ)
成田博之(ヴァリニャーノ)、星野淳(キチジロー)
吉田浩之(モチキ)、高橋薫子(オハル)、その他
新国立劇場合唱団

下野竜也/東京フィルハーモニー交響楽団


Z券当たって良かったーーって浮かれて、「沈黙」を観に行ったんですけど、作品の強さに圧倒されて、普通にチケットを買っても観るべき作品だったと反省。もしZ券が外れてたと思うと怖ろしい。わたしは無二の機会を逃してしまうところでした。これは、日本のオペラ愛好家なら好き嫌いを問わず、1度は観ておくべき作品でしょう。わたしには幸運の神がいました。ロドリゴに神はいなかったけど。

音楽は、とても普通に良く書けていると思うんだけど、やっぱり問題は、日本語の特性が西欧の伝統的なリズムに合わないことではないかしら。松村が書いたのは、20世紀前半の様式を発展させた感じの音楽なので、歌は、西欧の音楽に日本語をのせたみたいな感じ。そうすると、必ず母音で終わる日本語とは矛盾しちゃうんですね。あと音節(モーラ?)の等価性とか。20世紀後半の書法とか、謡みたいな日本の伝統音楽の様式を採り入れればもっと自然なものが書けたのに、と偉そうに思ったり。これどうしても気になっちゃうんです、わたし。一方管弦楽や合唱は力強くて、劇的な雰囲気を隈取っていて、オペラを観る充実感があります。

演奏は、とっても素晴らしかったです。下野さんと東京フィルのピットはめちゃくちゃ力入って劇場全体を音で包み込みました。大活躍する合唱(キリシタンの農民たち)もいつものことながら新国立劇場の合唱団が素晴らしかったです。歌手陣もひとりひとり皆が良かったです。何か、日本のオペラの問題作の真価を問うみたいな情熱に溢れた演奏で、文句の付けようもないのです。
新国立劇場の演劇部門の監督でもある宮田さんの演出は、劇場的なこの作品、オペラと言うより演劇を観たような印象、を音楽の邪魔をすることなく表現していて、細かな所作や、光りの使い方にも目が配られていました。

でも、わたしを震撼させたのは、もう今まで書いたことはどうだっていい、この作品の持つテーマです。それが直接突き刺さってきた。
わたしは、一時期クリスチャンだったので(今はいかなる神さまも信じていないけど、洗礼は一生消えない(?)から今でも公にはクリスチャン?よく分からないけど)、遠藤周作の原作は読んでいたはずです。なので、お話はだいたい知っていたはずなのです。ところが、その結論が、全然違う。それで完全に戸惑ってしまいました。ただ、そういう風にはどこにも記されていないみたいなので、わたしの(オペラを観て)感じたことが全然間違い、トンチンカンな可能性もあるのですが。

わたしは、このオペラを観て、救いは感じられなかったんです。神の存在も。そればかりか、神の不在がテーマなんじゃないかとさえ思っています。オリジナルの小説は、最後、神の言葉に促されてロドリゴが踏み絵を踏んで救われたはずです。オペラの台本では多分これは変えていない。でもわたしには、強烈に神の不在のメッセージとして伝わってきました。神は何も答えてくれない。口を閉ざしている。
神にはもう人を救う力がないんです。
ロドリゴは、最後、踏み絵を踏むか、迷います。踏み絵を踏めば拷問に掛けられている村人たちを救うことができる。そして自分も救われる。でも、クリスチャンとして死を前にした人の中には、神を信じて神の国に行く希望を持っている人もいる、すでに信仰のために殺されてしまった人がいる。その人たちのために、自分だけイェスを踏んで神を捨ててもいいのか。究極の選択ですね。どちらに転んでも、人は救われないし救えない。神ですら、どちらかを選択することによって、誰かを裏切ってしまう。光りがあるせいで影ができる。だから、神は黙っていることしかできない。神はもう在ることができない。

もしかしてわたしは、最後重要なテキストを見落としちゃったのかな?
それとも、オペラとして物語をはしょってしまったせいで、奉行やフェレイラが単純にダークサイドに落ちてしまった?
作曲者はここまで神を否定したかった?

わたしも、究極の選択には答えられないまま、呆然と神のいない世界、救いのない世界にはじき出されてしまったのです。

神の(不)在のものすごい深いテーマを持った考えさせられる問題作。ぜひ、日本のオペラとして海外でも上演して欲しい。これだけのテーマをもったオペラってそうそうないもの。
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by zerbinetta | 2015-06-29 01:35 | オペラ | Comments(0)

ばらの騎士の夢、未来への離別 新国立オペラ「ばらの騎士」   

2015年6月4日 @新国立劇場

シュトラウス:ばらの騎士

ジョナサン・ミラー(演出)

アンネ・シュヴァーネヴィルムス(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス男爵)
ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、クレメンス・ウンターライナー(ファーニナル)
アンケ・ブリーゲル(ゾフィー)、大野光彦(ヴァルツァッキ)
水口聡(テノール歌手)、その他
新国立劇場合唱団、TOKYO FM少年合唱団
シュテファン・ショルテス/東京フィルハーモニー交響楽団


シュトラウスの音楽って、だめになる寸前のじゅくじゅくに熟れた果物のよう。もしくは、腐る寸前のお肉。でもその一瞬が一番おいしいことをわたしは知っている。そしてそれは、存在するのに儚い夢。いいえ、存在と不存在のとろけたはざま。「ばらの騎士」は夢の音楽。大好きなオペラです。

新国立劇場の「ばらの騎士」。観るのを諦めていたんだけど、Z券の抽選に当たって!行ってきました(申し込んだ日を勘違いしてて焦ったけど)。オペラは、ステージに近い良い席で観たいと思わないので、一番上の階がZ券で安く出るのが嬉しい。オペラ・ハウスって上の方の席の方がバランス良く音が上がってくるので音楽は聴きやすいと思うんですよ。

最近、あまりオペラを観ていないので、というか、なんか永遠のオペラ初心者だな、上手にオペラ観られるか分からない(オペラって音楽と劇で情報量がむちゃくちゃ多くて、知れば知るほど楽しめるんです)、というか始めからそれは諦めて、椅子に座って素直に楽しもうと思いました。ミラーさんの演出は、テキストの物語に沿ったオーソドックスなものであるけれども、スタイリッシュな今の感覚にも通じていて、変にこねくり回して考えることなくシュトラウスとホフマンスタールの描き出した夢の世界に浸れたのがステキ。
ところが、最後、小姓がハンカチを拾わなかったんです。というか、ゾフィーがハンカチを落とさなかったんです。このハンカチの意味ってすご〜く大切だと思うんだけど。。。その代わり、小姓は部屋にあったお菓子をつまみ食い。不倫の愛なんて、お菓子のつまみ食いみたいものですよってことなのかな。こともなげにそれが繰り返されていく。今は新しい愛の喜びの中にいるオクタヴィアンとゾフィーの未来にも。そしてお話は繰り返される?それとも単なるわたしの見落としかなぁ。こういうときってもう一度繰り返し観られないのが悔しいい。

歌手の皆さんは、とても良く歌っていました。高水準。主要な役を外国人歌手で固めていましたが、脇の日本人歌手も決して引けをとらなかったです。オックス男爵のリンさんは、嫌〜な男の男爵に仕上げてきて、嫌いだけどステキ。オックス男爵が中途半端だとつまらないものね。大好きなテノール歌手は水口さんだったけど、わたしとしてはこの役に超スーパースターを配して欲しいといういつもの願望。だって、好きすぎるし、全くの端役の歌手に一番の歌手を使っちゃうなんてパロディが聴いてていいなじゃい。パヴァロッティさんとか、今だったらカウフマンさんとか。現実には彼らは歌わないでしょうが。という勝手な思いをハタキで叩いて、水口さんは好演でした。

ショルテスさんの音楽は、ミラーさんのスタイリッシュな演出に合わせているのか、日本のオーケストラのゆえか、甘さ控えめ。舞台に合っていたと言えばそうなんですが、訛りもなくて、わたしには少し物足りなかったです。甘いものはちゃんと甘くして欲しいの。わたしたちの口に合わなくても。甘さ控えめ好きな日本人からすると、フランスのお菓子はうんと甘いけど、でもそれこそがあのお菓子の魅力だから。儚い永遠の夢は、本当に甘いんだもの。甘いものはちゃんと甘くなくちゃ。

「ばらの騎士」は、定番だけど、最後の3重唱のところでどうしても泣いてしまう。あの諦めと希望といろんな感情が交じり合ってひとつの音楽となった最高に美しい瞬間。でも、今日は、その前、元帥夫人が「全ては終わった」と歌ったところで涙腺崩壊。涙がさらさらと流れていきます。でも、あの3重唱まで来ると静かに涙が醒めてきて。あれれ、どうして?
何だかわたしの魂が音楽から幽体離脱してふわふわと音楽を眺めている感じ。冷静に。外から。この部分、ゾフィーとオクタヴィアンと元帥夫人がそれぞれの想いを同時に歌うんだけど、それぞれの歌が混じり合わずに聞こえてしまったんです。お互い別々のことを想いながら、言葉と音楽が溶けてひとつになるハズなのに、イチゴとクリームとスポンジがそれぞれ主張し合ってまとまらないショートケーキのように。多分、わざとそうしているのではないと思うんですよね。音楽が清流のように流れちゃって濁らない、という言い方は変なんだけど、濁れる田沼に豊潤な生があるのに。

シュトラウスって、このオペラで、未来に手を振って別れを告げてるみたい。一連の交響詩やそのあとの「サロメ」や「エレクトラ」で時代の最先端を走っていたのに、ここにきて理想の夢がある過去に憧れる。決して手の届かないものに。同時代のライヴァルであり友人のマーラーは、最後の作品で過去に別れを告げて未来へ向かった。でも、その未来を見ないうちに亡くなった。きっとマーラーにとってはそれが幸いだったような気がする。音楽は(マーラー自身も分からないと告白したような道に進んでいたし)、時代も大戦の時代、さらにヒトラーの時代に進む中にマーラーが生きていたらと思うと、その悲劇に恐怖する。長く生き延びたシュトラウスは、対照的に暗い時代に温かく甘い世界を夢見ることができた。それって退行?シュトラウスは時代に遅れた作曲家だったのかしら?いいえ。永遠の美しい夢に儚く憧れるのは、憧れることができるのは、かの時代の先端を生きているゆえではないでしょうか。決して戻ることのできない、本当は存在さえしない、胎内のゆりかごの甘美な夢を見ることができるのは、一粒のチョコレイトに幸福を感じることができるわたしたちの時代の真実ではないかしら。誰も聞いたことのない美しい夢を刹那に見せてくれる音楽を書き続けたシュトラウスを時代遅れの作曲家と言えるでしょうか。
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by zerbinetta | 2015-06-04 11:22 | オペラ | Comments(3)

ものすごく細かいことに突っ込みを入れる レ・ポレアード 蛙の女王「プラテ」   

2014年11月7日 @ほくとぴあ さくらホール

ラモー:プラテ

マティアス・ヴィダル(プラテ)
与那城敬(シテロン)、ベツァベ・アース(アムール/ラ・フォリー)
フルヴィオ・ベッティーニ(サティール/ジュピテル)、小野和歌子(ジュノン)、他
寺神戸亮/レ・ボレアード


ラモーと言えば、わたしの元地元の音楽家。ならば、聴かずにはいられないでしょう。ラモーってものすごく大作曲家だと思うけど、あまり演奏されないのは残念ね。そんなラモーのオペラがセミステージドとは言え上演されると知って、早くからチケットを取ってワクワク。しかもめちゃ安かったし。しかーし、このあんまり上演されないオペラ「プラテ」、今年はもうひとつあったのです!そちらはバレエ付きだったんだけど、それを知ったのは、上演が終わってから。ぐるるるる、もう悔しいったらありゃしない。それもあってこの上演にかける期待は膨らむばかり。あらすじとかを予習すると、蛙の女王さま(沼の精)のお話で、オノマトベ満載、めちゃおもしろそう。でも、ただ、醜い蛙女、プラテが非道い扱いなので、ちょっと嫌な気持ちになるかな、とは心配したの。(あらすじは他のサイトを見て下さいね)

ほくとぴあってずうっと埼玉にあると思っていたら、近くてびっくり。王子って都内だったのね。ほくとと言うからずいぶん北だと勝手に勘違いしてたんだ。こぢんまりしたホールで、バロックの音楽をするにはちょうど良いサイズ。それに、わたしの安い席でもよく見えるからお得感アップ。セミステージドとは言っても、オーケストラは舞台の後ろの方で、ステージの空き空間を広く取っていて、歌手は立ったまま歌うのではなくて、簡単な演技付き。おふざけオペラだけに、オーケストラの人たちも緑の野球帽だったりマフラーだったりシャツだったり何かカエル色のものを身につけてる。やっぱカエルは緑なのね。アイルランド人もびっくり。指揮者の寺神戸さんも舞台に参加させられたりして、楽しい雰囲気を作っていたのだけど、舞台の後ろの方で演奏してたのでちょっと見づらかったかな。まあ、普通はオペラではオーケストラはピットに入るので完全に舞台からは消えるんですけどね。でも、このやり方、ピットがなくてもできるし、小編成のバロック・オペラを上演するのにとても良いんじゃないかしら。舞台装置も簡単でいいし、もっと豪奢な舞台を観たいというオペラ・ファンには物足りないかもしれないけど、何より手軽なので、あんまり上演されないバロック・オペラの上演機会が増えると思うんだ。それに、国内にはバロック・オペラの上演に適したサイズのオペラ・ハウスってないしね。

バロック・オペラってたくさん歌手を使うものも多くて、プロローグまで良い歌手を揃えられないよ、っていうのも観たことあるんですが、今日は、そんなことはなくて、小粒だけど十分楽しめる歌手陣。で、なかでもタイトル・ロールのヴィダルさんがもう素晴らしかった。ズボン役の反対で、男声が女性の役を歌うんだけど、それだけで笑えて、その上、ヴィダルさんが上手いんだな。自分をすごく美しいと思ってる勘違い女の自惚れ屋で、みんなに煙たがられ、からかわれて、いじめられるんだけど、音楽やヴィダルさんの歌がステキなのでからっと笑い飛ばせる。憎めないんだ、誰も。本人は苦笑するかもしれないけど、はまり役。そしてもうひとり、物語の世界に素っ頓狂なさざ波を立てる、ラ・フォリーを歌ったアースさん、コロラトゥーラの技術にむらがあったけど、この人も目立って存在感がありました。いや〜〜わたし、こういう闖入者大好き。「アラベラ」のフィアカー・ミリみたいな。でも、おちゃらけながらも結構真理を歌ってるのね。人生おちゃらけ。それがわたしの人生観。

それにしても楽しかったな。何も考えずに素敵な音楽を聴き笑える時間、わたしにはなくてはならない贅沢な大切な時間でした。

あっ!ひとつだけ、細かいお小言を言うならば、祝宴の場面、ワインの瓶がボルドーだったよーーー。ラモーはブルゴーニュの偉大な音楽家なので、ここはブルゴーニュのワインで宴会して欲しかった。ブルゴーニュ・ラヴのわたしとしては、ライヴァルのボルドーに負けるわけにはいかないのよ〜〜w
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by zerbinetta | 2014-11-07 01:33 | オペラ | Comments(0)

部屋を片付けてリア充へ 「死の都」@新国立劇場   

2014年3月24日 @新国立劇場

コルンゴルト:死の都

カスパー・ホルテン(演出)、アンナ・ケロ(再演演出)
エス・デヴリン(美術)、カトリーナ・リンゼイ(衣装)
ヴォルフガング・ゲッペル(照明)、シグネ・ファブリツィウス(振付)

トルステン・ケール(パウル)
ミーガン・ミラー(マリエッタ、マリー(声))
アントン・ケレミチェフ(フランク、フリッツ)、山下牧子(ブリギッタ)、他

ヤロスラフ・キズリンク/東京交響楽団、新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団


もうとっても楽しみにしてたんですよ。わたし的に今年最大の音楽会イヴェントってくらい。観に行った人の感想もちらりほらり耳に入ってきて、なるべく耳を閉じるようにして、やっとこ最終日に行ってきました、「死の都」@新国立劇場。これ書き終えたら、やっと皆さんの評が読める、ものすごく出遅れた感。それにしても、月曜日の公演、ソワレだと思って買ったらマチネだった罠。どんな人が来るんだろうと思っていたら、普段の音楽会と変わらない感じの客層。まあ、オペラのために1日くらいお仕事休めるものね。いいことだわ。

コルンゴルトというとヴァイオリン協奏曲くらいしか聴いたことなくて、あっそう言えばプロムスで序曲みたいのを聴いた気が、あとCDで交響曲を聴いた。退廃的と評された(意味もなくだけど)音楽。今まで聴いた感じでは、リヒャルト・シュトラウスばりの艶やかなロマンの香りのする音楽に、映画音楽のような甘美なメロディ(今日のオペラは、若い頃の芸術音楽の作品だけど、後に米国に亡命して映画音楽の分野で(心ならずも?)活躍してる)。それにしても今日の「死の都」は23歳の作品。天才!と言うのにふさわしい音楽。なんというか、奇跡。これだけの音楽を23歳で書いたとは。ただ、作風からすると遅れてきた天才だったのがある意味、悲劇だったかも。芸術音楽と映画音楽(ほんとに才能あるのに)の間で揺れ動いたというか引き裂かれた後半生。

音楽は、でも、わたしは意外とシュトラウス的じゃないと感じました。シマノフスキの若い作品の方がよっぽどシュトラウス的。バスの動かし方かな(?)、ちょっとシュトラウスとは違うと思いました。でも、豊かなメロディとゴージャスなオーケストレイションはコルンゴルトならでは。3時間、シームレスに(実際には2回休憩が入りますが、繋がってる)魅力的な音楽に酔うことができるオペラです。キズリンクさん指揮の東京交響楽団は、健闘していたけれども、シュトラウスばりのオーケストレイションのグラマラス感がもう少し欲しかったです。日本のオーケストラは今まで聴いた感じだと、マーラーは得意だけど、シュトラウスのゴージャスな音を出すのは苦手に思えます。根が生真面目だからでしょうか。外連味がもっと必要。
一番ステキなアリアが第1幕で早速出てきて、もったいな〜いって思ったら、この歌が最後に還ってきて、この物語の核心が明確に現れる様に胸がきゅんと締め付けられる感じがしました。うーむ、参りました。この歌、(伴奏の)バスが独特の動きをしてると思うんだけど、これって、プロコフィエフの「シンデレラ」の冒頭の曲の変なチューバに似てない?と思うのわたしだけかな?

舞台は、幕が開いたとたん、パウルの神聖な部屋(亡くなった妻マリーの思い出が満ちている)になるのだけど、もちょっと片付けたらって思っちゃった。ちっちゃな品々で足の踏み場がない感じで。思い出が詰まってることの表現なんだけど、そこまで具体的にしなくても分かるよって思う。昔メトの「トリスタン」で舞台にたくさん置かれた小道具を手に持つことで、クーヴェナールの説明的な歌をだめ押しで説明しているくどさを少し感じました。それから、この舞台では、亡くなったマリーが常に舞台にがいて(黙り役のダンサー)びっくりしたんだけど、これは賛否両方ありで、わたしは最初、見えない幻覚(地縛霊?)のようなものだからちょっと違和感あったんだけど、慣れてきたら話が分かりやすくなるし、邪魔でもないのでいいなって思えました。
転換のない舞台はシンプルで、第2幕は街の場面なのに1幕と同じ部屋なのはなに?ってすぐ思ったけど、真ん中にあるベッドが開いて下から(コメディアデラルテの)人がわらわら出てきて自然に舟になったのは、ステキ。部屋の後ろの窓が開かれるとブリュージュの街が鳥瞰で現れてキュビズム的な舞台といい、さりげなく工夫された照明といい、黙り役のダンサーふたりの振付といい、ちょうど必要十分な感じの衣装といい、細やかな上質のセンスがとってもいいです。さすが、フィンランドのプロダクション ←フィンランドの食器好き、ムーミン好きw

歌は、パウルを立ったケールさんよりもフランクを歌ったケレミチェフさんがいいとわたしは思いました。始まりのシーンでふたりが歌うとこ、ケレミチェフさんの方が張りや音量があって、この人の方が主役だなって思ったもの。ただ、パウル役は出ずっぱりで、ペース配分をかなりしっかりしないと歌えないみたいなので、そこまで言うのは酷なのかなと。ケールさんは、パウルをたくさん歌っていて、この役を自家薬籠の中に入れてる方なのですね。最後まで、力を保ったまま歌いきったのはさすがです。
マリエッタのミラーさんもとても良かったし、まわりの人たちもうんと良かった。第2幕に、道化がとてもステキな歌を歌うんだけど、これもとても良くって、うちに帰って確かめたらケレミチェフさんが、2役で道化も歌っていたんですね。気がつかなかったーー。

お話は、地縛霊に取り憑かれたオトコが、半分夢の中で巫女の性的なお祓いを受けて自分を取り戻すってこと?一言で言うと。現代日本に置き換えたら、部屋をフィギュアで満たして引き籠もってる若い男が、突然現れた理想の女と現実とも妄想ともつかないセックスをし夢の中でリア充を体験したら部屋の外に出る決心をした、みたいな(このコンセプトだと最後のシーンはパウルが部屋を片付けてる)。豊穣の過去への別離と歩みだし、といういわゆる世紀末で、マーラーやシュトラウス(はまた過去へ引き戻された感があるけど)が示した音楽世界に通じるオペラ。もちろん、過去に囚われがちの現代のわたしにも。わたしは、まだ過去に囚われてるので、誰か王子さまが未来へ導いてくれないかな、なんてオペラを観て妄想したりして。

これは、本当に観て良かったオペラです。音楽がステキすぎてオペラの魅力に溢れまくってる。オペラを観るのはバレエに押されて少し控えてるんだけど、オペラ熱がムラムラとまた。マズイですね。破産しちゃう。。。
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by zerbinetta | 2014-03-24 15:38 | オペラ | Comments(0)

わたしの名前はつるびねった 「ナクソス島のアリアドネ」新国立劇場オペラ研修所   

2014年2月28日 @新国立劇場中劇場

シュトラウス:ナクソス島のアリアドネ

三浦安浩(演出)
鈴木俊朗(美術)、稲葉直人(照明)、伊藤範子(振付)

林よう子(プリマドンナ/アリアドネ)、伊達達人(テナー/バッカス)
天羽明恵(ツェルビネッタ)、今野沙知惠(作曲家)
駒田敏章(音楽教師)、ヨズア・バールチュ(執事長)、大塚博章(下僕)
菅野敦(士官)、日浦眞矩(舞踏教師)、小林啓倫(かつら師)
村松恒矢(ハルレキン)、岸浪愛学(スカラムッチョ)
松中哲平(トゥルファルディン)、小堀勇介(プリゲッラ)
種谷典子(ナヤーデ)、藤井麻美(ドリアーデ)、原璃菜子(エコー)

高橋直史/ポロニア・チェンバーオーケストラ


「わたしの名前はつるびねった。コメディア・デラルテの踊り子でおちゃらけもの」という口上でわたしはウェブ・デビュウしたの。前世紀のことだからずいぶん前ね。恥ずかしいけど告白しちゃった。以来、つるびねった(ひらがな)は、わたしのハンドルネーム。もちろんこれは、大好きなオペラ「ナクソス島のアリアドネ」から採っています。ツェルビネッタに憧れて。でもわたしの性格はむしろ融通の利かない作曲家かな。

久しぶりの「ナクソス島」。最後に観たのはもう10年くらい前のメト。あのときは、ツェルビネッタのデッセイさんとアリアドネのヴォイトさんの火花を散らす丁々発止がすごかった。今日は、新国立劇場オペラの本公演ではなくて、小さな中劇場でのオペラ研修所の公演。オペラ歌手の卵たちの舞台です。ただ、今日は日本屈指のツェルビネッタ歌いと評判の天羽さんが歌うのでお得感あり。安い席料と中劇場という観やすい舞台、もちろん本公演に比べるとお金もかかっていませんが、結論を言いましょう。これはいい。ぜったいいい。来年も演目によらずぜひ観に来たいです。今回も天羽さんではなく研修生が歌うツェルビネッタも聴いてみたい(2日目の公演)と思ったもの。

さあどこからいきましょうか。やっぱりまずは音楽。褒め称えるべきは歌手の皆さんです。皆さんとっても良かった。今日は初日だったので修正点もあるかと思いましたが、フレッシュで清々しい歌いっぷりがステキでした。中劇場だったので歌いやすいということも手伝ったでしょうが、オペラを楽しく観るのには十分以上。もちろん、中に入っていたシニアの方々、下僕の大塚さん、音楽教師の駒田さん、そして天羽さんは格の違いを見せつけていました。歌だけではなく立ち居振る舞い、若い人たちは同じ舞台に立ってものすごく勉強になったんじゃないかな。
前半の主役、今野さんは、初心で絶対童貞の作曲家をとても素直に歌っていましたが、ズボン役なのでもう少し声に重みがあればいいなと思いました。後半の主役、アリアドネの林さんは、とても良く声が出ていたけれども一本調子なのが気になりました。歌に合わせてもう少し表情が付けられるようになると表現が幅広くなってきっと良くなる。バッカスの伊達さんも堂々としたものでした。ツェルビネッタに絡むハルレキンの村松さんには、ツェルビネッタの色気に対抗できるだけのナルシストなはったりが欲しかったです。主役の方たちは、研修3年目の人たちだったんですけど、研修所の所長さんが将来を見据えて声に合う役を与えているとおっしゃるとおり、適役な感じでした。これからいよいよプロとしてスタートする未来が輝かしいものでありますように。

さて、天羽さんのツェルビネッタ。プロローグではまだ声が出ていないかなぁと思ったんですが、プロとしての貫禄は、ツェルビネッタのように若い人たちを手玉にとるのに十分でした。オペラの方のアリアはとても良くて、息をするのも忘れて聴き入ってしまいました。観る前は、天羽さん聴きたさにチケット取ったんですけど(観たあとは天羽さんがいらっしゃらなくても聴くに値する公演だったと思いました)、大正解でしたね。天羽さんが若い歌手たちを見る眼差しにも暖かなものがあったような気がしました。

オーケストラは、都内のオーケストラからの選抜メンバー。この曲のオーケストラは小さいので、室内楽的な繊細さとにもかかわらず大オーケストラのような豊穣な音が要求される難しさもあるのだけど、後者の部分でもう少しグラマラスな音があったらなって思いました。特に最後は、これがオペラのパロディだとしても徹底的にグランド・オペラ風の音を出した方が面白いと思うのね。今日の場合はそういう問題ではないのかも知れないけど。あと、いつも一緒にやっているメンバーではないので、アンサンブルの精度(音の混ぜ方とか)にも物足りない部分もちょっとだけ。とはいえ、それは玉に瑕程度で、音楽を十分堪能しました。

舞台。このオペラ、舞台がとっても大事な作品だと思うんですよ。オペラの前の舞台裏(楽屋ネタ)のプロローグと、実際のオペラをどうつなぐか。プロローグのドタバタぶりや、オペラに挿入されたコメディアデラルテのはちゃめちゃぶり。それにその底にあるパロディ精神や芸術論。演出のしがいがあるというものです。今回は、オペラの途中で舞台を回して舞台裏をちらっと見せたり、最後、オペラを観ているお客さんを出したり、ツェルビネッタが作曲家とくっついたり、意識的にプロローグとオペラをつないでいて分かりやすくて良かったんだけど、ただ、どれも一度は観たことのある演出で新規性はなかったと言えばなかったですね。でも楽しかったからわたしはいい。それに、ヘンな風にこねくり回してしまった想像を絶するような演出ではなかったので、安心して観ていられました。オペラは、デザート・アイランドのビーチなので、コメディアデラルテの面々も海に遊びに来た風なんだけど、プロローグで、ジョルダン氏が「つまらないので余興にはセクシー要素を入れること」なんて無理難題を言って、後半のオペラでコメディアデラルテの面々はセクシー衣装で登場なんていうのがあってもいいかも、実際、ツェルビネッタがビキニで出てくる舞台もあったし、ってふと思っちゃった。「こうもり」とかじゃないからアドリブはないんだけど、アドリブありの演出ってありかな。

プロローグはほんとっ楽しくて、わたしなんてクスクス笑っちゃうんだけど、みんな真剣に観てるのね。意識的なものなのかわたしが勝手に感じちゃったのか、いろんなオペラのパロディ的な要素もタップリだし、後半のオペラから取ったライト・モチーフ満載で、ワーグナーのオペラの実践的なドリルみたいに使えるなって思っちゃった(ワーグナーのオペラでやればと言われたらそれまでだけど、ワーグナーのって入り組んでて明示的じゃなかったりして難しい。それに比べて「ナクソス島」はパロディなのでこれ見よがしで難易度低い)。ただ、作曲家が新しいメロディを思いついて恍惚的に歌う美しい旋律がオペラには出てこないのが残念(初版では、プロローグの部分でたっぷり歌われるんだけど)。
今日のは、意図したわけではないと思うけれども、ヴェテランの天羽さんが手練手管のツェルビネッタで、研修生の今野さんが童貞作曲家(いや、童貞かどうか分からないんだけど、今日の舞台を観て作曲家は絶対童貞!って思ったの)なのが、役の上でもリアルでもその通りになっていつも以上に面白かった。それにしても、ツェルビネッタにすっかり懐柔されて、芸術論を高らかに歌ってしまう作曲家の初心なこと。ホフマンスタールとシュトラウスは、芸術に対しても辛辣な目線を失っていません。彼らにとって真の芸術って何なんでしょう。ドタバタコメディの中でこんな問題まで突きつけてくる彼らの芸術家魂って凄いよね。

休憩後のオペラは、やっぱり主役を天羽さんに持って行かれた感じ。最後のバッカスとアリアドネの2重唱は、十分に歌っていたけれども、ここは圧倒的な歌になって初めて生きると思うので、それには足りていなかったかも。コメディアデラルテのらんちき騒ぎは、もっとはっちゃけていいと思うし、ツェルビネッタを巡る恋の駆け引きが、もっと生めいた方が面白いと思いました。3人の精は、若い研修生だけにまだ蕾ねって感じる部分もあったけど、3人でハモるところはきれいでみんな音程がいいんだなって思いました。
小さな舞台で予算も限られているでしょうし、豪勢なセットではないけれども、回り舞台を使ったり工夫されていて面白く観れました。グランド・オペラとして華々しく終わるのではなく、パロディに終わる演出だったけど、最後オペラを観ているという設定で舞台に現れた観客の中に、実際の舞台に関わった演出や振付の人たち(カーテンコールで出てこられた)も座っていれば良かったのにって思いました。作曲家はどんな思いで、ひっちゃかめっちゃかになった自分のオペラを観ていたのか、うつむいてる様子に見えたんだけど、前に立っていたバッカスとアリアドネに遮られて、たまたまわたしの席からはよく見えなかったのがちょっと残念。作品のキーとなるところだからね。そして最後に花火がなったら、、、なんてちょっとだけ期待した。

それにしても、大好きな「ナクソス島」、やっぱり好き〜〜〜。そして、オペラ研修生たちのフレッシュな舞台すてき〜〜。値段も手頃だし、絶対観る価値あり。来年も期待してます。
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by zerbinetta | 2014-02-28 23:57 | オペラ | Comments(0)

超ハッピー アントネッロ最強!「オルフェオ」   

2013年12月4日 @川口リリア音楽ホール

モンテヴェルディ:音楽寓話劇「オルフェオ」

彌勤忠史(演出、メッサジェーラ)
黒田大介(オルフェオ)、高山潤子(エウリディーチェ、ムジカ)
大澤恒夫(カロンテ)、鹿野浩史(アッポロ、羊飼い)
上杉清仁(スペランツァ、羊飼い)、酒井崇(プルトーネ、羊飼い)
中本椋子(プロセルピーナ、妖精、バッカスの巫女)、藤沢エリカ(妖精、精霊、バッカスの巫女)
新海康仁、白岩洵、望月忠親、細岡ゆき(羊飼い、精霊)
濱田芳通/アントネッロ


モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」(音楽寓話劇というのはまだ当時、オペラという言葉がなかったから。オペラです)、もう好きで好きでたまらないのです。しかも、今日は前回の「ポッペアの戴冠」でも暴走しまくっていた濱田芳通さんのアントネッロ♡嬉しくて嬉しくてスキップして音楽会場まで行っちゃう勢い。モンテヴェルディの3つのオペラの上演シリーズの第2回目なのです。チケットは当日券まで完売。満員御礼です。そして、またやってくれました。最高にステキで楽しい「オルフェオ」。悲劇だから楽しいというのはおかしいかも知れないけど、でも、アグレッシヴな音楽は、心躍らされるように楽しい。ロック魂ふたたび。帰り道では、スキップどころじゃなくて全速力でマイムマイム踊っちゃいたくなる気分。

記念すべきオペラ。史上初めてのオペラではないけれども(確か6作目くらい)、演奏されている最古のオペラ。現代に直接つながる音楽の根っこ。その記念碑の音楽が、まさに新しい時代を告げるにふさわしいトッカータ、モンテヴェルディの後援者であるゴンガーザ家の紋章のファンファーレになって煌びやかに響く。とびっくり。ファンファーレを導くタンブレロのビート!心臓に直接作用してワクワクしちゃう。いつものファンファーレがこのビートのおかげで5割増し。最初っからやってくれるね〜アントネッロ。濱田さんの指揮(たまにリコーダー、たまにコルネット)も足を上げたり完全に踊り。今回もセミ・ステージドで、オーケストラは舞台の上、オーケストラの前と、後ろの舞台で歌手が演技するんだけど、濱田さんの指揮が音楽の、舞台の一部に絶対なってるので、オペラ・ハウスのようにオーケストラがピットに入って見えなくなるより絶対いい。それに、このモンテヴェルディのオーケストラ、普段目にしないいろんな楽器が使われるので目にも楽しいし。ノリノリの太鼓のふたりもロッカーみたいでかっこいい。

演出は彌勤さん。前回の「ポッペア」みたいな過激な読み替えはしていないけど、舞台は、古代南米。ギリシャ神話のお話を、日本人が西洋人の衣装でやると違和感があるというので、南米に舞台を置き換え。でも、この死んだ妻を取り返しに黄泉の国に降りて行って、帰りに振り返って全てが泡になる、という話は世界中にあるので(日本の古事記にも!)、違和感はなく、すらりとはまりました。でも、そこが反対に物足りなさが残ったかな。プログラムノートの中に、この物語の言葉の裏に修辞学的にエロティックな暗喩が隠されていることが書いてあったけど、ならば、物語の筋を日本では知られている伊弉諾伊弉冉の話に託しちゃって、自由になった分をエロティックな後ろの意味を露わにするやり方もあったんでは、と思いました。南米にしたのがあまりに違和感なくはまっていた喉ごし良さの物足りなさゆえの逆説ですけどね。

濱田さんとアントネッロの音楽は、期待通り自由で弾けていて心躍りまくり。現代に甦るオルフェオ。当時の人がこのオペラをワクワクしながら聴いたように、今のわたしたちもノリノリでワクワクしまくり。昔の演奏方法にはなかった音も聞こえるけど、それが予想外でびっくりするような効果を上げて、音ではなく音楽の精神を今に甦らせることに成功してると思いました。みんな自由で上手い。ライヴならではのアンサンブル。最初から最後まで嬉しすぎて涙が止まらないわたし。

歌手陣も粒が揃っていて、一体となって素敵な音楽を聴かせてくれました。エウリディーチェは、最も出番の少ないヒロインな感じだけど、ムジカも兼ねた高山さんがとても良かったです。そして圧巻だったのが、メッサジェーラを歌ったカウンター・テナーの、そして演出の、彌勤さん!物語を支配する圧倒的な存在感が声にありました。全幕を通して歌いまくりのオルフェオの黒田さんは、速いところで音が消えるような感じがあったとこがちょっと残念だけど、難しい役をがんばって歌ってらっしゃったので、音楽に疵を付けるものではありませんでした。
客席に合唱が仕込んであって、突然歌い出したのも嬉しい驚き。制限された舞台、会場での効果的な演出、音楽の作り方はやっぱりいいな。こんな高水準のモンテヴェルディを日本で聴けることがもう嬉しくてたまりません。日本にもバロック・オペラや古楽の音楽に適したオペラ・ハウスがあればいいのに。そして、アントネッロにもどしどし海外進出して欲しいです。もうすでに海外でも絶賛されてるようだけどもっともっと。日本の宝物のようなユニークな古楽アンサンブルですから。

このシリーズはあと、「ウリッセの帰還」を残すのみ。最後はどんな舞台、音楽になるのでしょう。そして、その後のアントネッロの活躍はいかに。目が離せませんですね。
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by zerbinetta | 2013-12-04 12:26 | オペラ | Comments(2)

愛の大暴走 アントネッロのモンティヴェルディ「ポッペアの戴冠」   

2013年9月3日 @川口リリア音楽ホール

モンテヴェルディ:ポッペアの戴冠

彌勤忠史(演出)

和泉万里子(ポッペア)、彌勤忠史(ネローネ)
澤村翔子(オッターヴィア、運命の神)、酒井崇(オットーネ)
末吉朋子(ドゥルジッラ、美徳の神)、和田ひでき(セネカ)
赤地佳怜(アモーレ)、他
濱田芳通/アントネッロ


愛って正義も運命を良識も何もかも踏み倒して暴走していく、それでこそ愛。まわりの人を殺したり追放したり不幸にして真実の愛へと暴走していく暴君ネロ(ネローネ)。愛の果実は、部下の妻、ポッペア。オペラは、ネローネとポッペアのW不倫の本気の愛を朗らかに讃えます。愛最高。愛が一番。あらすじを読むと昼ドラ真っ青のどろどろとしたお話なのに、実際、普通の演出では笑いの要素はあってもシリアスな感じになるのに、これをロッシーニばりの喜劇に翻案。音楽も自由度を生かして現代的な要素も採り入れながら、はちゃめちゃに楽しくビートを刻み、ロック魂。字幕もそれに合う言葉を使って訳してたし(コメディ・ドラマを観ている言葉遣い)(バーズマンさんのミュージカル版「ラ・ボエーム」が同じように字幕を1950年若者言葉に直して成功)、たまに出てくる笑いを取る日本語のセリフも粋。それが今日の「ポッペアの戴冠」の印象でした。

バロック以前の音楽の専門集団、アントネッロが3回にわたって繰り広げるのは、オペラの創始者(事実はモンティヴェルディの前にオペラを書いた人はいるので、彼の「オルフェオ」は史上3番目のオペラということになるのですが)モンティヴェルディの3つのオペラ、「オルフェオ」「ウリッセの帰還」「ポッペアの戴冠」。今日はその1回目、「ポッペアの戴冠」です。
わたし、モンティヴェルディを偏愛しているので、この公演の情報を知ったときは狂喜乱舞。すぐにチケットを買って心待ちにしていました。特に「ポッペアの戴冠」は、まだ1度も観たことがなかったので期待度大です。モンティヴェルディのオペラはオペラ史の上でも重要だし、オペラ史上最高傑作のひとつでもあるのに、なかなか演奏されないんですね。現代のオーケストラではなく、バロック・オーケストラが必要なせいもあると思うのですが(確かレスピーギが現代オーケストラ用に編曲していますね)、バロック・オペラをなかったことにしている感といったら。バロック・オペラを主に上演する小さな劇場(昔のオーケストラは音量が小さいので)がどこか(地方がいいな)に欲しいですね(この状況は海外でも似てはいますが)。

川口には初めて来ました。意外と近いのにびっくり。埼玉ってもっと遠いと思ってた。リリア音楽ホールは中規模のホールで、バロックの楽器を演奏するのに適したサイズ。オーケストラピットはなくて、オーケストラはステージの上で演奏。その後ろに台が誂えてあって、そことオーケストラの前でオペラが演じられます。ステージ後ろの上のパイプオルガンのあるバルコニーが神さまの世界。オペラ・ハウスのステージをフルに使うのとは違うので、セットの変更とか演出上の制約はあるけど、歌とオーケストラが一体となって聞こえるし、シンプルな演出なのでかえって良いのです。オーケストラを挟んで後ろと前に分けたことによって、場の違いや奥行きも十分感じられましたしね。

まず、喜劇ということについて書きましょう。
確かに、リブレットを丁寧に蒸留して不純物を取り除いて抽出すると、このオペラ、愛のドラマになる。最後の2重唱なんてほんとに美しい愛の賛歌。そして、夫も妻も理を唱える哲学者も愛の邪魔者。なので、わたしたち誰もが知る(史実はそうだとも言い切れないとしても)暴君ネロとポッペアの良識や理性の困難を乗り越える愛の物語として語られるのに他意はないと思うの。まあポッペアの側には女の打算(皇后になるという)も見え隠れしているので、単純な男と狡猾な女の影絵も見ることになるのですが。物語の暗い部分、ネローネを諫めることにより、死に追いやられる哲学者セネカ、恋敵、ポッペアを殺そうとする企みがばれて島流しに遭う皇后(元妻)をさらりと流して、喜劇の隅に配置するというのは秀逸な演出。それらの人のお付きの人たちが狂言回しに上手くはまっているのが良いの。
それにね、今の時代、真実の愛って滑稽でもあると思うのよ。周りも見ずに自分を失って愛に溺れるって、本人たちは真面目でも端から見れば可笑しくない?真実の愛=不義の愛、陰惨な陰謀と悲劇をからっと笑い飛ばして見せるのは、道徳離れした物語への強烈なカリカチュアでもあると思うのよね。
そしてそれは、神々の世界でも同じ。最初のプロローグで、この物語の本質が決定された演出も分かりやすいし良かったです。神さまなんてそんなもの。だって人間の写しなんですから。(ワグナーの「指輪」も内容通りに音楽をもっと軽くおちゃらけたものにしたら良かったのに)愛の神アモーレの傲慢ぷりったら。運命も美徳も愛にかなわないって。愛のまま、愛欲の思うとおりに生きる世界、ムフフ、ちょっと見てみたい、やってみたいような気もするけど、どんなカオスになるのでしょう。だからこそ笑い飛ばすしかない。
喜劇にするために、設定を極道の世界にしています。ネローネはやくざの組長、オッターヴィアは極道の妻、ポッペアは愛人から正妻にのし上がるホステス、というように。それが、モンテヴェルディのオペラの世界観をとても分かりやすくわたしたちに伝えている感じがして成功していました。

歌手は男声陣が良かったです。ネローネのカウンター・テナーの彌勤さん、演出もかねて大忙し、がものすごく安定していてカウンター・テナーでこんなにふくよかに自然に歌えるのかって驚くほどだし、セネカの和田さん、オットーネの酒井さんもとても良かったです。
女声では、ポッペアの和泉さんがすごく良かったです。アモーレの赤地さんも良かったけど、いいときと悪いときの差があったかな。でも、全体的にとても良くまとまっていたので歌手に不満はありません。
濱田さんのアントネッロもすごく良くて、特に即興的なところや、深い打楽器のビート感(アントネッロの十八番(?))は、古い音楽を聴いているというより、今のわたしたちの音楽の感覚に近いものを聴いた感じです。休憩後の第2幕の始まりは、打楽器(タンバリン)2台のセッションがロックのノリでびっくりしました。見慣れない昔の楽器(ガンバとかシターとか角笛みたいなコルネットとか)を含むオーケストラは今のオーケストラとは全く違うけど、博物館的な音楽ではなく、現代感覚溢れる乗りのいい音楽を演るのがこの楽団なんですね。日本で古楽を聴く層がどんな人なのか分からないけど、クラシックになじみのない若者にかえってアピールできそうな音楽です。ぜひそんな人たちにも聞いてもらいたい。

ほんとに素晴らしかった音楽会だったんですが、一点だけお小言。ホールの関係で1回の休憩を含めて3時間に収めるために省略が少しあったのが残念でした。10時までしか使えないホールもなんだかなぁって思うし、そんなホールを借りちゃうのもなんだかなぁって感じです。音楽会が終わってロビーに出たとたん、施設の閉館時間ですから早く出て下さいと言われるのはせっかくの楽しいオペラのあとにちょっと無粋でした。

次回は12月に「オルフェオ」。今度は短いので大丈夫でしょう。モンテヴェルディの最初の「オペラ」、牧歌的でのんびりした音楽(でもそれがステキ)をアントネッロがどんなアプローチでやってくるのか、今からすご〜く楽しみです。バロック聴いたことのない人もぜひ。
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by zerbinetta | 2013-09-03 09:53 | オペラ | Comments(2)

カレーライス、いやステーキ 隅田川2題   

2013年3月23日 @神奈川芸術劇場

ブリテン:カーリュー・リヴァー

花柳壽輔(演出/振り付け)

鈴木准/篠井英介(狂女)、大久保光哉/大沢健(渡し守)
井上雅人/花柳登貴太郞(旅人)、浅井隆仁/板東三信之輔(修道院長)、他
角田鋼亮(指揮)

清元 隅田川

花柳壽輔(斑女の前)、花柳基(舟長)


ロンドンで「カーリュー・リヴァー」とその元になった能「隅田川」のステキな公演を観てから、こういう舞台を観たいと思っていたので、見つけてそそくさと観に行ってきました。「隅田川2題」。オペラの「カーリュー・リヴァー」とこちらも能を元にした日本舞踊、清元「隅田川」。さてはて、どんなになるのでしょう。

今日は午前中は、隅田川の妙亀塚をお花見がてら見に行ってきました。後年、斑女が庵を結んで、梅若の霊を弔ったところです。ひっそりと静かに。

そんな隅田川にどっぷりつかるような(って身投げしたんじゃないよ)午前中を過ごしたので、KAATの近所にせっかくある中華街には寄れませんでした。しかも、うっかり県民ホールの方に行ってしまうし。何とか開演前に無事についた会場は、予想通り、日本舞踊を観に来たとおぼしき着物のお客さんとオペラを観に来た洋服のお客さんが混じっていました。皆さんそれぞれどのように感じられるんだろう?

今日はオペラが先。ステージは能舞台のような形に白木の床になっていて、舞台装置は何もなしの至ってシンプル。黒い衣装のソリストと合唱が前詞をアカペラの歌って音楽が始まります(ごめんなさい。彼らが歌いながらステージに現れた(たぶんこちら)のかステージに並んでから歌い出したのかはうっかり失念)。そして、舞台の左脇に退いて座って舞台が始まる。歌は、能の囃子方のように座ったまま演技はせずに歌うだけ。演技はもっぱら日本舞踊の人です。少人数のオーケストラはピットに。オペラを能のような形態で舞台にしたのね。歌は日本語に訳した歌詞を歌いました。カーリュー・リヴァーはスミダガワに置き換わっています。このことについては後でまた書きますね。ちなみに、ブリテンが作ったカーリュー・リヴァーという隅田川に当たる地名は、bush-stone curlew = オーストラリアイシチドリ(アボリジニの伝説では死と深く関わってるそう)と梅若丸の辞世の句「たづね来て とはゞこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと」に出てくる都鳥(ユリカモメ)を思い出させますね。

一方の清元は、出てくるのは斑女と舟長だけ。初めて観る清元。ノッペリとした白塗りの舟長の顔がウルトラマンみたいって不謹慎なこと思っちゃって。ふたりのやりとりが最初コミカルでなんだかな〜って思って観てました(ほんとは深刻な内容なのかしら?感受性の低いわたし)が、最後にどかーんと絶望の奈落に落とされて、ずっしりと石を飲み込んだよう。なにこれ?ブリテンの「カーリュー・リヴァー」には救いがあるのに、能だって最後の退出の時、心を戻す時間があるのに、いきなり幕が落ちて、底に沈んだまま取り残されるとは。正直、今日はこれが一番衝撃的でした。びっくりして言葉が出ない。そういう内容なんですか??凄い。。

清元の方は、日本舞踊も初めてだし、何も気の利いたことは言えないんだけど、オペラの方はちょっと考えさせられました。
能の様式を採り入れて舞台を作る、というのはいいと思うんです。わたしもやってみたいアイディア(わたしの場合は「トリスタン」でこれをやってみたいんですけどね)。ただ、ブリテンが能にインスパイアされて作ったこのオペラ。黙っていても能の要素を持ってる。ブリテンは、能楽師が様式的に舞台に登場し、退場するように、歌手たちを単声聖歌を歌わせながら舞台に登場させ、退場させるのだけど、それはまるで教会での宗教儀式のよう(カトリック教会での僧が香を振りながら会堂をまわるのを思い浮かべてます)。そこに、ブリテンの強い宗教的なメッセージの存在を感じるのだけど、ブリテンが能に感化されて、それを独自の宗教的な世界に移したのに、さらに能の世界に形式だけ見て返してしまったために、ブリテンの一番のメッセージが伝わらなくなってしまっていました。それがとっても残念。また、歌を脇で歌わせて、演じるのは舞踊家というのも違和感を感じました。能の場合はシテも重要なところは謡うので、歌手に演じさせた方が良かったのでは、もしくは上手くいくかどうかは分からないけど、舞踊手の脇で黒子のように振る舞いながら歌う。もちろんそうすると歌手の演技力が問題になるのですけど、狂女の鈴木准さんは、ロンドンではとってもステキな演技者でもあったのでそれは残念です。
歌詞は先にも書いたとおり、日本語訳を歌いました。わたしはオペラは、現地語上演があっても良いと思っているので(というより、全部を原語上演にしない方が良いと思ってる)、これは問題ないのだけど、カーリュー・リヴァーをスミダガワとしてしまったのは、ブリテンの深慮を無視して、なんだかみすみす日本のに同化させてしまったことを象徴しているようでちょっと嫌でした。隅田川は、伊勢物語にあるように、東国の最果ての地。だけど、さらにブリテンは、カーリュー・リヴァーという架空の川にすることによって、死のイメジを(三途の川のイメジ)を持たせています(しかも都鳥とイシチドリという鳥を介してだなんてブリテンの洞察力には感服します)。その違いはとっても重要。かなり意識的に注意深く言葉を選んでる、と思うのだけど、あっさりと隅田川に戻してしまうのは、ブリテンの意図を汲んでいないと思わざるを得ません。むしろ、江戸時代になってお花見の名所となった隅田川のイメジを使って、最後の絶望を強調した清元の潔さを買います。
日本的な演出、舞踊や能との融合のアイディアはステキだと思うけど、ブリテンのオペラの本質を置き去りにして、表面だけを同化させてしまったのが、わたしには不満足でした。それによって、内容の凄さが曖昧になっているように思えたので。仏教的な精神を持つ能や清元の世界観と西洋人の(キリスト教的な宗教観の上に立つ)ブリテンのオペラでは、根元のところで違っていると思います。その違いを、曖昧にするのではなく、シャープに見せて欲しかったです。清元の幕切れがとてもインパクトがあったのでなおさらそう思いました。絶望、諦観の物語と救いの物語。同じ話の全く違う物語。
ブリテンは能に触発されるも決してこれを同化しないで、独自の世界観を貫いてる。それは大事にして欲しいし、もし変えるのなら、単純な同化ではなくて説得力のある変え方をして欲しかった。インドにもイギリスにもないカレーライスしかり、中国にないラーメンしかり日本人の同化力って凄いですからね。この力はちゃんと使わないと危険です。あっこの場合、本質を骨抜きにしているので日本の柔らかいステーキかな。あれはナイフとフォークでがしがしと肉を食べることのヨロコビを奪ってるから。

歌手、舞踊、オーケストラ、清元節の皆さんは、とっても良かったです(清元は初めてなのでほんとは良かったなんて分からないんですけど、観ていて楽しかったから)。大きな拍手を送りました。批判的に書いてしまったけど、舞台について深く考えさせられた公演で、やっぱり観に行って良かったです。
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by zerbinetta | 2013-03-23 23:02 | オペラ | Comments(0)