カテゴリ:日本のオーケストラ( 91 )   

2度目にして、やばい。惚れた ラザレフ/日フィル ショスティ、チャイコフスキー   

2016年5月21日 @サントリーホール

チャイコフスキー:組曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番

アレクサンドル・ラザレフ/日本フィルハーモニー交響楽団


名演でした。
ラザレフさんとの出逢いは、去年、なんだけど、第1印象はあまり良くなくて、せかせかした感じの指揮ぶりがちょおっとって感じだったんだけど、音楽会後半のショスティ9番の怪演に度肝を抜かれて、急転直下宗旨変えをしたのでした。ラザレフさん凄い。なので、今日のショスティの交響曲第6番もめちゃくちゃ期待して。。。どんな怪演が聴かれるのかと。その期待は、会場についてプログラムを開いたとたんヴォルテージアップ。だって、ショスティの演奏時間51分って書いてあるんだもん。普通に演奏して30分くらいの曲。まさかとは思ったけど、この間の第9もあるし(遅い演奏ではなかったけど)、今日何かが起こる!とニヤニヤが止まらなかったんだけど、あっさり、休憩時間にプログラムの記載は間違いで演奏時間は30分というアナウンスがありました。がっくり。何を期待してたんだか。。。(実は、今まですっかり忘れてたんですけど、ラザレフさん、去年より前に、フィルハーモニアを振ったのを聴いていたのです。しかも今日と同じショスティ6。自分のブログを検索してやっと気づいたくらい。全く忘れていました)

そのショスティの前に、チャイコフスキーの組曲第1番。チャイコフスキーにしてはマイナーな曲で、わたしも録音を含めて聴くのは初めて。いい曲なんだろうか?でも、ラザレフさんが凄くお好きだという曲。解説を見ると交響曲第4番と第5番の間に書かれたそうだから、充実期の作品。
ラザレフさんの指揮は例のせかせかした感じを一瞬感じたんですが、すぐ慣れて、好きこそものの上手なれというか、ラザレフさんの好きが分かる充実の演奏。もちょっとオーケストラに柔らかみというか叙情性があればとも思うけど、チャイコフスキーの音楽の方も叙情性過多になっていないのでこれで良いのかも、と叙情性プラスでバランスがとれるのかも、という気持ち半々。でも曲の魅力は十分に伝わってきました。演奏される機会が少ないのがもったいない名曲。バレエの踊りに縛られることも、交響曲の規則に絡まれることもなく、自由に書かれた音楽は、きっとチャイコフスキーの個人的な書簡なんでしょう。チャイコフスキーというとメランコリックな旋律が強調されちゃうけど、理知的なバランスのとれた人なんだなという印象を持ちました。

そしてお待ちかねショスティ6。実は大好き。最初の一音、ヴィオラとチェロの分厚い音を聴いた瞬間もうブラヴォーを叫びたくなりました。ってか心の中ではすでに盛大に叫んでた。素晴らしい音。日フィルの弦って(失礼だけど)こんなに良い音を出すんだっけ。もう最高。ちゃんとかき回した納豆みたいに糸を引く粘り。この曲はこうでなきゃ。弱音へのこだわりもしっかりあって、雪の夜のしじまの感覚が身体中に満ちてくるの。弦楽器のうねりに呑まれたのか、管楽器もとっても健闘していて良かったです。ショスティの常で、長いソロがあるんだけど、それぞれ音楽の中で存在感を見せていました。日フィルの良いところは、個が立っているところですね。
第1楽章は、まさかの51分仕様ではなく、中庸のテンポだったのだけど(音楽は雄大)、第2楽章、第3楽章は、異形のバーンスタインほどではないけれども少しゆっくり目。でも、何か雰囲気が、、、異様というかきょとんと放り出されたような虚無的な空気、というか真空。心の中のいろんなものをすっぽり抜き取られて穴があいてしまった感じ。静かな恐怖。ラザレフさんは、弱音に拘ってオーケストラもそれに必死で付いていく。お終いもはちゃめちゃならんちき騒ぎで終わるかなと思ったら、醒めた騒ぎが、無声映画のようでもあり、背筋が凍るような、真っ暗な闇を、自分の裡にあるものを、ニヤリと見せられた感じ。悪魔か、ラザレフさん。

カーテンコールでは、(長いソロがあった)フルートの主席の人を引っ張ってきて指揮台に立たせたり、あちこち歩き回ってオーケストラを称えるいつものラザレフ流。しっかりお客さんと目を合わせるところもステキ。でも、ニコニコオーケストラを称えてるのはきっと仮の姿。こんな演奏をしたんだもん、練習では、嫌と言うほど鍛えまくったに違いない。それが本番で解放され、エネルギーを放射する。オーケストラの人たちもその快感を知っているからラザレフさんを信頼して付いて行くのでしょう。彼らの良い関係が窺えるよう。いよいよ次回は、主席指揮者ラザレフさんの最後の定期登壇です。


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by zerbinetta | 2016-05-21 13:33 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

パパ来たる K.ヤルヴィ/都響 ペルト、ライヒ   

2016年5月18日 @サントリーホール

ペルト:「フラトレス」、交響曲第3番
ライヒ:「デュエット」~2つの独奏ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための、
   「フォー・セクションズ」

クリスチャン・ヤルヴィ/東京都交響楽団


なんかとってもアウェイ感の強い音楽会でした。

踊る指揮者クリビーを見に来ました~。クリビーというと、最初に聴いたのが中南米の作曲家の特集だったのでそちらの人かと思ったら、パパヤルヴィさんの息子だったのね〜。踊る指揮者。ブラームスの交響曲でも遺憾なく踊って、隣で聴いていた高校生たちも真似して踊り出す始末。秘かにヤルヴィ家で一番好きかもなんです。
チケットの引き取りにホールの窓口に並んでたら、見知った感じの人が前を横切って、、、おや?と思ったらパパ・ヤルヴィさんでした。ちょうどN響を振るので来日中なんですね。ご両親も次男坊の演奏が心配だったのでしょうか?

プログラムの前半は、クリビーと同郷で交流もあるペルトのシグニチュア・ワーク、「フラトレス」と’ペルト’になる寸前の蛹の時期の交響曲第3番(パパ初演で、パパに献呈されていたハズ)。後半は、クリビーの第2の故郷、というかわたし的にはクリビーはアメリカ人、USのライヒ(ほんとはライシュ)の2曲。わたしの苦手なミニマリズムの曲です。

「フラトレス」は打楽器と弦楽合奏の版(この曲いろんな楽器編成のヴァージョンがあります)。わたしのペルト・ブームで2番目に来た曲(出逢いは「ヨハネ受難曲」でした)。彼独特のティンティナブリ様式の代表作のひとつですね。とても静謐。シンプル。なので演奏するのはとっても難しい。打楽器の音のあと、低音の持続音の上に、静かにノンヴィブラートで歌い出される高音のヴァイオリンは、オーケストラの実力がもろに出てしまいそう。都響の音は枯れた感じで、落ち葉がかさこそ鳴るみたいな。わたし的には、弱音の中に艶のあるつーっと引かれる蚕の糸みたいな音が好み。枯れ葉の転がる晩秋ではなくて、つららの伸びる厳冬のイメジ。打楽器も譜面面はわたしにも叩けそうなたった3つの音が音楽の節目節目で出てくるんだけど、微妙にクレッシェンドしたりしなかったりものすごく神経をとがらさせられそう。音のばらつきがほんのちょっとあったのが気になったんだけど、そんな細かいところまで聞こえてしまうこの曲って鬼よね。

交響曲第3番は、ティンティナブリ様式に至る前の作品だけど、外交的な表現への欲求に加えてグレゴリオ聖歌への傾倒とか内向的な後の作風も混じってきて、過渡期というか、自身を模索している感じの音楽。ただね~、交響曲ってペルトさんにとってはアウェイだと思うのよね。交響曲って形式というか器だと思うんだけど、ペルトさんの音楽ってその器に合わないんだもの。少なくともそれ以前のペルトさんは、交響曲の器に合う曲を書こうとしてたりもしたけど、後期の様式の萌芽の見られる第3番になるともうどうしようもないずれが。交響曲なんてある時代のローカルな様式でしかないのだから(交響曲こそクラシック音楽の最高峰という意見もあるけど、今のオーケストラにとって重要なレパートリーではあるけれども、現代の音楽にとって交響曲はもはや中心的な役割を負ってないし、過去だって、重要な音楽の中心地、イタリアやフランスではあまり交響曲は書かれていないよね)、無理に書く必要はないよ、と余計なことを考えながら聴いていました。というかそういうことを考えさせられる演奏だったんです。なんかこうピタリとはまってなくて座り心地が悪いというか。フォルテで現れる金管楽器の聖歌もなんかちょっと雰囲気壊してた。
後年はティンティナブリ様式を確立して交響曲とは決別した、、、と思ったら第4番を数年前に書いてるーーーぎゃぽーーん。

音楽会後半は、ライヒ。わたしには縁遠くて、多分バレエの伴奏で「エレクトリック・カウンターポイント」くらいしか聴いたことがないハズ。どんな音楽なのかワクワク(でも苦手なミニマムだろうからしょぼんかな)。
「デュエット」は、ふたりのヴァイオリン・ソロ(都響トップの山本さんと双紙さんのソロ)、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの合奏の編成。弦楽合奏は、普段の席で弾いたので、ステージの上手側だけに人がわらわら(ソリストは指揮者の正面)の異様な様相。でも、今日の音楽会で、この曲が一番クリビーらしい良い演奏でした。踊ってたし。音楽は、ヴィヴァルディの「四季」(というか本当は「調和の霊感」の中の2つのヴァイオリンのための協奏曲)を思い出させるようなソロの掛け合いのある競奏曲風のそしてだんだんと盛り上がっていくビート感がUSのライトで明るい雰囲気。ここにはクラシックとポピュラー音楽が溶け合ってる。合奏に沸いてくる煽動するリズムがあればもっと良かったんだけど、ソロを弾いたおふたりの自発的な掛け合いがステキでした。

「フォー・セクションズ」(日本初演)は、2台のピアノ(とシンセサイザー)、マリンバ、ヴィブラフォンが2台ずつと大きなオーケストラのためのミニマム作品(なんて矛盾)。こちらもアメリカンな、わたしは行ったことのない癖に、西海岸の空気感を感じさせる明るいけれども退廃的な雰囲気も匂わせる音楽。やっぱり、ジャズの伝統のあるアメリカのインプロヴィゼイションを感じさせる曲だと思うのだけど、、、、
これが強烈なアウェイ感。オーケストラはこんな音楽も至極真面目に弾いていて、譜面的には正しいんだけど、マンガのセリフを生真面目に朗読したみたいでちょっとつまらない。アメリカの音楽に慣れていないことがありありのオーケストラ(しかもミニマルの曲って数えるだけで大変)なので、まず、音符を弾くことに精一杯で、クリビーも正確に振ることに重きを置いていて踊らない。多分、USのオーケストラがやったら嬉々として自分たちの音楽を奏でてくれると思うんだけど。。。途中で落ちても気にしな〜〜い。
それに、慣れないお客さんも生真面目に聴いていて、寄席で笑わずにシーンと真剣に落語を聞いているお客さんみたい。クリビーの異分子感ったら。孤軍奮闘。笛吹けど踊らず。

日本って、USからもヨーロッパからも等しく遠く離れてるので、ドイツもフランスもイギリスもアメリカ音楽も分け隔てなく音楽会のプログラムに乗るし、それを等しく受け入れているという点では、ものすごく貴重な国。と同時に等しく遠いので、自分の音楽として理解できているかは微妙。もしかすると和風な理解をしているのではないか。と、今日のオーケストラとお客さんを見て感じたのでした。ベートーヴェンやブラームスも。ベートーヴェンやブラームスはもう慣れてるけど、アメリカ音楽はまだ、体が自然に動くところまでには慣れていないの。こういうプログラムこそ、客席の椅子を取り払ってオール・スタンディングでやったらいいのにな。

USとかヨーロッパとかでこういう曲の音楽会をやると、必ずと言っていいほど、髪をまっ赤に染めた人とか、パンクとかロックやってるみたいな人とか、普段は、クラシック音楽会では見かけないような人たちも来るんだけど、ここでは普通の定期演奏会と全く同じ客層。クラシック音楽を聴きに来る人たちが、アメリカやエストニアの現代音楽を受け入れていることを慶賀すると同時に、鋭いアンテナを持つロック兄ちゃん、パンク姉ちゃん、との間にはまだ高い壁があるのかなぁとも思って寂しくもなるの(日本のアヴァンギャルドの人たちのアンテナが低いのかも知れないけど)。ライヒを聴いてダンスする日はいつか来るのかしら。


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by zerbinetta | 2016-05-18 00:43 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

さようなら 高関/シティフィル シベリウス、マーラー   

2016年5月14日 @東京オペラシティ

シベリウス:交響曲第7番
マーラー:「大地の歌」

小山由美(メゾ・ソプラノ)、小原啓楼(テノール)
高関健/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


確か今日が今シーズンの始まりだと思うんだけど、なぜかお終いのようなプログラム。シベリウスの最後の交響曲とマーラーの「大地の歌」。人生の終焉。プログラムを見たとき、わたしはどうしてシベリウスが先でマーラーが後なのかって思いました。確かに常識的には規模の大きい「大地の歌」が後に来るのでしょうが、「大地の歌」には(物語が)完成されていない感じがするのです(関係ないけど、「大地の歌」の初演の際もこれが音楽会の前半でしたね)。それに対してシベリウスの最後の交響曲は、短いけれども極限までに蒸留され純化された結晶の密度と重さを感じるのです。短さゆえに音楽会の前半に置かれがちのこの曲は音楽会のメインにふさわしいと思います。「大地の歌」との組み合わせででも(だからこそ)「大地の歌」を補完して完成させるのにふさわしい音楽だとわたしは思うんですね。

始まる前に、高関さんが今日のプログラムについて、どうしてシベリウスとマーラーを組み合わせたのかについてお話ていました。1907年にマーラーがヘルシンキで指揮をしたときに、ふたりはホテルで会っていたのだそう。ただ、ふたりの音楽感(交響曲感)は結局相容れなかったみたい。全然違う方向の作風だからね。
シベリウスの最後の交響曲は、交響曲全体を織りなしていた、(レードと)シードの動機に最後収斂される、ということを説明されてたので、「大地の歌」は、最後、離別の動機のミーレが解決されないまま終わる、というのを話されるかと思ったらなかったので、あれ?違うのかな?これが対称になってると思ったんだけど。まあいいや。

シベリウスの交響曲第7番は、大好きな曲。うんと高く評価している高関さんと好感度大のシティ・フィルがどういう風な演奏をするのか、楽しみだったんだけど、正直ちょっと辛かった。始まりから、何か先をせかすような感じがして(始めの音階、ちょっとアチェレランド気味?)、何か落ち着かない。決して速いテンポではないんだけどね。オーケストラの音も荒い感じがして、弦楽器もシベリウスらしい寒色系なのは良いのだけど、ナイフの刃で切られるような痛みでわたしを傷つけます。繰り返し降り注ぐ天啓のようなトロンボーンの光りも解決にならなくて、どうしてこうなっちゃうんだろう?オーケストラに飲まれてしまっていたから?確かに時に美しい瞬間、木管楽器のさざ波とか、あったんだけど何か腑に落ちない感じが残ってしまいました。マーラーの音楽とは相容れなかったシベリウスの音楽。うがち過ぎだけど、マーラーの音楽をとても研究している高関さんには合わなかったのでしょうか。

じゃあ、マーラーは、と言うと。。。ううううむ。シベリウス以上にもやもや感が残りました。高関さんもおっしゃるように、マーラー自身一度も演奏していないこの曲は、いわば未完成で(オーケストラと練習を重ねながら筆を入れるのが常だったので)、その通りに演奏してしまうと、オーケストラが声を圧倒してしまう場面もちらほら。でも、それを警戒するばかり、オーケストラを引っ込めすぎて、全体が壊れた積み木のようにちぐはぐしてしまった感じです。例えば、「美について」の中間の盛り上がるところは野性味がなくてなんか薄ぼんやりとしたトーンになってしまいました。オーケストラが弱音の美しさを持てていれば、全体を損なうことなく歌の後ろに厚いけど静かに付けることができると思うのだけど。。。そして、シベリウスでも感じたのと同じように、何か音楽が先へ先へと進みすぎていると感じました。特に、「秋に寂しき者」でのテンポ設定、歌った小山さんとのテンポなのかも知れないのですが、なにか行進曲のように歌われてしまって、全然雰囲気が。。。残念ながら終始、小山さんの歌に疑問を持ってしまいました。音程も悪かったしマルカートのような発声(発音)の仕方もわたしにはダメでした。正直、「秋に寂しき者」で帰りたくなりました。
美しさが足りないゆえに、魂が浄化しきれない「大地の歌」。(「告別」のオーケストラの間奏の後、少し雰囲気が出たのですが、、、足りません)

高関さんもシティ・フィルもマーラーもシベリウスもみんな大好きでとても期待していたのに。。。「大地の歌」の主人公のように、シティ・フィルから静かにさようならするべきでしょうか。最後、寂黙に至らないまま終わった音楽をあとにして、すうっとまだ誰もいないホールの外に出て帰りました。
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by zerbinetta | 2016-05-14 00:10 | 日本のオーケストラ | Comments(2)

人類の喪失の回復 ノット/東響 「ドイツ・レクイエム」   

2016年4月24日 @サントリーホール

シェーンベルク:「ワルシャワの生き残り」
ベルク:「ルル」組曲
ブラームス:「ドイツ・レクイエム」

チェン・レイス(ソプラノ)、クレシミル・ストラジャナッツ(バリトン)
東響コーラス(富永恭平)
ジョナサン・ノット/東京交響楽団


音楽作品ってそれ自体がひとつの意味を持っていると同時に、プログラムの中で他の曲と組み合わされて演奏されることによってまた違った意味も出てくると思う。そしてそのどちらもが真実。だからこそ、ステキにプログラミングされた音楽会って面白い。ノットさんは、この間のパーセルとリゲティの組み合わせでわたしのハートをむんずと掴んだんだけど、今日も「ドイツ・レクイエム」を「ワルシャワの生き残り」と「ルル」を組み合わせることで、「ドイツ・レクイエム」に新たな意味を含ませていました。1曲目がバリトンのシュプレッヒゲザング(ナレイション)、2曲目がソプラノ、そして最後にふたりの歌手が共演するという構成もステキ。(「ドイツ・レクイエム」に他の曲を挟むというのは、ケント・ナガノさんも前にやっていて、リームさんの作品を楽章の間に挟んで演奏していました)

「ワルシャワの生き残り」は、死の収容所で処刑されようとした男の語り。ほぼ英語。ストラジャナッツさんの語りは、少し淡泊だったかな。ホールの残響と座っていた席のためか、言葉はあまりよく聞き取れませんでした。無調の音楽の中に最後、ユダヤ教の祈祷文が男声合唱で闖入してくるところ、何だか黒い壁の向こうからラスボスが襲ってくるような感じで、死を前にする祈りに平安はなく、突然断ち切られる音楽。むしろ内省的な演奏は、全体的に甘くはないけれども、刺々しさがあまり感じられない分、物語が少し遠くに、思い出のように感じられました。ものすごく苦々しい恐怖の体験には違いないんですけど。恐怖の描き方の違いというか、真綿で首を絞めるような恐怖。

「ルル」の組曲も断ち切られた歌。死によって完成されることのなかったオペラという意味で、そして、死によって断ち切られたルルと、「ルル、わたしの天使・・・」と悲痛の歌で事切れるゲシュヴィッツ嬢。「ルル」は、サクソフォンやヴィブラフォンも加わった官能的な音のする音楽だと思うんだけど、ノットさんと東響の演奏は、音楽の美しさを描き出す一方、少しあっさりでセクシーさがわたしにはちょっと足りないと思いました。レイスさんの歌もその方向。ルルはファムファタルな女というより清楚系?

後半は、「ドイツ・レクイエム」。前半の苦悩を全部引き受けるかのような重く暗い始まり。チェロとコントラバスの低音が脈動みたいで、「マタイ受難曲」の始まりを思い起こさせました。ノットさんはつながりを意識しているのでしょうか。悲しみの重さと、音楽が進むにつれて、うっすらと差し込んでくる雨上がりの光り。救い。
もちろん「ドイツ・レクイエム」は、特別な機会のレクイエムではなく(それが、シューマンや作曲家の母の死に負っているとしても)、単純にドイツ語で歌われるレクイエムなのだけれども、そしてノットさんの演奏も純粋に音楽を演奏しただけだけれども、今日のようなプログラムを組むことで、レクイエムは複雑な意味を獲得する。レクイエムによって解決される(あるいは救われる)ものが、一般化されたもの、ではなくて、あるいはわたしたちの持っている個人的な感情、ではなくて、先の大戦でドイツが喪失させたもの、つながってる今の世界で喪失されているもの、の回復が示されると思うの。

ノットさんと東響の演奏は、音楽による、多分人類の共通言語である音楽による救いをもたらしてくれるものでした。暗闇から少しずつ光が差し込み僅かな色が差すグラディエイション。深い音色は、オーケストラのもうひとつの顔を見たようです(明るい音色のオーケストラのイメジが強いので)。
歌手のおふたりもこの歌のために今日ここにいる、というのを感じさせるステキな歌でした。
合唱の東響コーラスは、オーケストラに併設されている(日本ではこういうの珍しいのかな?)アマチュアの合唱団だけれどもとっても良かったです。ただ、アマチュアゆえの声量の不足を人数で補ったところがあって、少人数の緻密な合唱だったら、と思うのは、過分な望みかも知れませんね。

素晴らしい音楽会でした。


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by zerbinetta | 2016-04-24 01:43 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

なぜかイギリス インキネン/日フィル   

2016年4月23日 @サントリーホール

ブリテン:ヴァイオリン協奏曲
ホルスト:組曲「惑星」

庄司紗矢香(ヴァイオリン)
東京音楽大学(女声合唱)
ピエタリ・インキネン/日本フィルハーモニー交響楽団


インキネンさん、寂しいことに日フィルの首席客演指揮者として最後の音楽会。若くてステキ、イケメン指揮者なのに~。なんてね。だって来シーズンからは、日フィルの主席指揮者としての嬉しい登場となるんですもの。客演指揮者から主席指揮者への流れは、信頼関係が培われてきた証でオーケストラとしても幸せな結果。次のシーズンからますます楽しみになりそう。そして、インキネンさんは、ご自身のキャリアのために日フィルでは、初めて振る新しい音楽を積極的に採り上げてる風なのもなんかステキ。今日は、イギリスもの。レパートリー的には傍流系?インキネンさん、確かニュージーランドのオーケストラでも仕事しているからそこでイギリスつながり?

ブリテンのヴァイオリン協奏曲は初めて聴きます。本場ロンドンでも聴いたことなかったよ~。いろんな国の音楽がまんべんなく演奏されちゃう東京ならでは。ただ、山椒をちょっぴり効かせるとしたら、自国やアジア(系)の音楽に対してはわりと冷たいね。
音楽は、短いシンプルな音型のオスティナートの上に、ちょっとブリテンらしからぬ(ってブリテンをよく知っているわけでもありませんが)、叙情的な旋律が独奏ヴァイオリンで奏でられて始まって、おや、良い曲って思いました。こんな曲が知らないでまだ残っていたとは。中間部分では激しく盛り上がりつつも旋律は明快で叙情的な気分は保ったまま。紗矢香さんの演奏は、叙情的な旋律をキチンと弾いていくのが良かったんですけど、ちょっとヴィブラートのかけ方が気になりました。もう少し控え目の方が良かったんじゃないかなぁ。技巧的なスケルツォは、見事な余裕。もともとテクニシャンのイメジが紗矢香さんにあったので面目躍如。そのままカデンツァを経てパッサカリアのフィナーレはショスティの鏡像みたい(作曲はブリテンが先)。紗矢香さんのヴァイオリンは、とても集中力が高いものだったけど、前に感じた息の詰まるような感じがなくて、音楽に柔らかさが出てきていたと感じました。ミドリさんと似たタイプかなと思ってたけど、この部分で変わっていくのだろうな。

後半は「惑星」。よく知ってる曲なので、素直に楽しもっ。インキネンさんの演奏も、つべこべ余計なことを考えないで、大仰ではないさらさらとした筆遣いで過不足のない音の絵を描いていく感じ。作曲家が想を得た占星術的なうさんくささはなくて、クリアな音楽。ホルストの音楽も個々の惑星の占星術からイメジされる雰囲気をただ音に描いただけで、それ以上ではなさそうだしね。インキネンさんのアプローチは、浄水がさらさら流れるような金星や水星にアフィニティが高かった反面、土星や天王星に澱みが欲しかったです。戦争の火星は、戦車でもスターウォーズでもなく、サイバー戦争のようなものをなぜか感じてしまいました。破壊的ではない(でも迫力はあった)演奏がヴァーチャル感を煽ったのでしょうか。
最後の海王星も、宇宙の果てに光りの粒が流れていくように仄かに蛍光を発してキラキラと。神秘性というより探査衛星の漂流を思い浮かべたのは、理知的な科学の時代の音楽だから?最後の女声合唱がホールP席の後ろの廊下で歌って、ドアを閉じることで音量を下げていったということらしいんですけど(わたしの席からは見えないのであとから教えてもらいました)、あれ?PA使ってるのかな?と思ったほどホールに声が漂ってきて、サントリーホールってなかなか良いホールだなって、再認識。宇宙船のゆりかごで太陽系の外への果てることのない旅を、地球外生命が見つけてくれることを祈りつつフェイドアウト。


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by zerbinetta | 2016-04-23 01:38 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

火照りそう メルクル/新日フィル フランス音楽の粋   

2016年4月22日 @すみだトリフォニー

プーランク:「牝鹿」
フォーレ:「パヴァーヌ」
ラヴェル:「ダフニスとクロエ」全曲

栗友会合唱団(栗山文昭)
ジュン・メルクル/新日本フィルハーモニー交響楽団


実はひそひそ話、わたしは新日フィルが嫌いです。新日フィルを聴きに行くくらいならアマチュアのオーケストラを聴きに行った方がマシ、と悪態をつくくらいに(しかも新日フィルの定期公演のチケットは都内のオーケストラでは高い方)。わたしの、評価の基準は上手い下手ではありません。みんなが音楽をきちんと(分かって)演奏しているか、なんです。今まで聴いた新日フィルは、音楽をいい加減に演奏しているのをそこここで感じたので受け入れられなかったんです。でも、新日フィルの音楽会を良いと評価する人もたくさんいて、わたしも2回3回聴いたくらいで悪口言うのも大人げないなと思い直して、今回3回聴いてみることにしました。「ダフニスとクロエ」(全曲)とか「涅槃交響曲」とか聴きたい曲がプログラムに上がってるしね。これでダメだったら、もう三行半を付けるって息巻いて(えらそーに。上から目線でごめんなさい)。

今日は、メルクルさんの指揮でフランスもの。メルクルさんってフランス人じゃないけど、フランスもの得意。メルクルさん好き♡というのを再発見したのでした。
プログラムは、「ダフニスとクロエ」のことしか頭になくて、最初の曲が始まったとき、プーランクの曲だとは思うけど、、、初めて聴く曲かしら、と思っていたら「牝鹿」は、前にアマチュアのオーケストラで聴いたことがあったんですね。すっぽり忘れてました。
「牝鹿」については辛口です。なにせ、三行半を突きつけるつもりで聴きに来たのですから。耳がささくれたってます。ごめんなさい。オーケストラのせいばかりとは言えないんですけど、管楽器の音が分離せずにお団子のようになって3階席には聞こえてきて、ちょっと重くてお洒落じゃないなぁ。渋滞したパリの道路。プーランクの音楽って軽妙洒脱というか、とおってもお洒落でスマートだと思うんですよ。トップ奏者たちは、わりとお洒落に弾いてる感じなんですけど、後ろで支えてる人、特に和声をになってる金管楽器とかが生真面目に(音を保って)吹いていて、抜けるところが抜けずに重くなってる感じなんですね。

合唱が入った「パヴァーヌ」は、オーケストラの後ろに人が立ったせいか、管楽器のお団子は少し改善されたみたいです。美しい音楽が美しく演奏されたのですが、わたしはフォーレの独特の倦怠感がやっぱり苦手だな、と思い出しました(フォーレの音楽を倦怠感で片付けるところがもうフォーレ知らずを告白していますね、きっと)。

休憩のあと、いよいよ「ダフニス」全曲。第2組曲が有名でよく演奏されるけれども、全曲でも50分程度だから、合唱が入ってコストがかかるけど、もっと演奏されて欲しいなぁ。
メルクルさんは、気合い十分。指揮台を枠一杯に縦横無尽に動きながら、オーケストラをリードし鼓舞していく。オーケストラもそれに応えて、力のこもった演奏。その分、柔らかな光の繊細さは少し後退して(それでも、十分素晴らしかったと思う)、荒っぽさ、ワイルドさが出てきたんだけど、それが、ぐいぐいと進むように指揮された、第1部の「グロテスクな踊り」とか第2部での「戦いの踊り」でとても効果的で活き活きとした演奏を生み出していました。ヴォカリーズの合唱もオーケストラの楽器のように、雲のように同じ雰囲気を作っていて良かった。切れば熱い血の迸り出る熱血のラヴェル。ヴィヴィッドで荒い筆遣いの音楽。アンニュイな午後がいっぺんにエッジの効いたシャープな光りの渦に巻き込まれました。わたしもメルクルさんに熱血指揮されたいなぁ。メルクルさんの音楽やっぱり大好き♡

というわけで、三行半は保留です。次回も良い音楽を期待しています、新日さん。


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by zerbinetta | 2016-04-22 18:58 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

時をかけるポリフォニー ノット/東響 リゲティ、パーセル、ツァラトゥストラ   

2016年4月16日 @東京オペラシティ

リゲティ:「アトモスフェール」
パーセル:4声のファンタジア z.742、z.739
リゲティ:「ロンターノ」
パーセル:4声のファンタジア z.737、z.741
リゲティ:「サンフランシスコ・ポリフォニー」
シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

神戸愉樹美ヴィオラダ・ガンバ合奏団
ジョナサン・ノット/東京交響楽団


今シーズンから定期会員になってみる東響、定期公演デビュウの前にフライング気味にオペラシティ・シリーズの開幕を聴きに来ました。だって、リゲティやるんですもの。それも音楽監督のノットさんで。生ノットさんは初めてなんですが、わたしがノットさんを知ったのは、ベルリン・フィルとのリゲティの作品集のCDなんです。それにとても感動して。それを今度は、オーケストラは違うけど生で聴けるなんて、幸せ。しかもですよ、プログラミングが凝っていて、リゲティは、ポリフォニーつながりで、パーセルのガンバ四重奏曲と組み合わされるのです(リゲティとパーセルの曲を交互に切れ目なく)。プログラミングは、わたしが音楽会で一番重要視しているところなので、こんなステキなプログラムに驚嘆と感嘆を覚えるのです。

ヴィオラダ・ガンバはステージ後ろの合唱席下手側で弾きます(わたしの席からは無念。死角になりました)。リゲティの曲があって、続けて(アタッカではなく、交響曲の楽章のように少し間を置いて)パーセル。300年の時を隔てて、音楽のスタイルも全然違うのに、お互いに溶け合うように交互に響きあう不思議。バロック音楽と現代の音楽の親和性が高いといつも思ってたわたしもこんなにも!ってびっくり。ピリオド・スタイルってアーノンクールさんがおっしゃるように、単に作曲された当時の楽器で当時の演奏法を百科事典的に再現することではなくて、当時の人たちの耳にその音楽がどう新鮮に聞こえたかを今のわたしたちに再現すること。それはまさしくコンテンポラリー(同時代の/現代の)で今の時を指向してる。だからこそ時代を超えた音楽が今の音楽として聞こえるのですね。ポリフォニーつながりで曲を配してそのことを実際の音で聴かせて証明してくれたノットさんの慧眼にブラヴォーです。

リゲティの「アトモスフェール」と「ロンターノ」って一見、似通った音楽に聞こえるのだけど(素人ぶりを暴露)、今日の演奏では、全く別物の音楽に聞こえたのはもうひとつのびっくり。「アトモスフェール」は、原初的でもやもやしていてまだ実態のない感じの、頭によぎったイメジでは、未受精卵の周りにもやもや漂っている無数の精子。それに対して「ロンターノ」は、形をなした(多分、音楽の背後に聞こえてくる聖歌のようなメロディ!がそうさせるのでしょう)、命を得た胎児を内包している子宮。お腹に耳を当てて命の胎動を聞くように、聞き耳を立てて音楽に吸い込まれる快感。目を瞑ったその先にある何か。

と、なんちゃって哲学的な独白をしてみたけれども、後半の「ツァラトゥストラ」は、冒頭の超有名な派手やかさとは対照的な哲学的な演奏。ここで、今日のキーワード、ポリフォニーが断然生きてきます。「学問について」のフーガはもちろん、そこに至る「世界の背徳を説くものについて」からの弦楽器の細かな分奏で’マイクロ・ポリフォニー’!のように扱われる音たちが、リゲティの世界とつながって聞こえるのはステキ。外連味のある「ツァラトゥストラ」を期待すると、細かく丹念に描き出される音の糸の綾で紡がれた音楽に肩すかしを食らわせられるけど、わたしは、この演奏にステキな新しさを感じました。

今年から会員になってみたノットさん率いる東響の定期演奏会、ますます楽しみで待ち遠しくなってきました。


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by zerbinetta | 2016-04-16 14:27 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

back to the future 同時代の音楽 ロト/都響 ストラヴィンスキー   

2016年4月12日 @東京文化会館

ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」(1911)、「火の鳥」(1910)

フランソワ・グザヴィエ・ロト/東京都交響楽団


「ペトルーシュカ」と「春の祭典」だと思って行ったら「火の鳥」だった今日の音楽会。指揮者は、去年、読響さんを振ったのを聴いて大絶賛のロトさんだし、そのロトさん、ピリオド・スタイルの「春の祭典」のCD(わたしは未聴)が話題になっていたので、とても期待していた音楽会でした。そしてその期待は裏切られることなかった。ロトさん最高!都響がんばれ!

4月始まりの都響のシーズン・オープナー。と言っても、音楽監督はお留守で、特別なこともしない、いつもの定期演奏会なんですね。日本のオーケストラのシーズンって4月始まりと西欧のように秋始まりがあるみたいでこんがらがるんだけど、シーズン開幕に特別感がないのもそれを助長してるのかも。これはちょっと残念。

ストラヴィンスキーのバレエがふたつ、でも、今回はひとつひとつあれこれ書くよりも、2つ対比して書いた方がいいかな、って思える音楽会でした。
ロトさんのアプローチは、「ペトルーシュカ」と「火の鳥」では全然違ってて、「ペトルーシュカ」では、音楽の前衛性(複調とか異質なものを積み重ねていくやり方とか)を強調。他方、「火の鳥」の伝統的なロシア音楽の親しみやすさと楽器の響きの革新。20世紀始まりの当時、ストラヴィンスキーのバレエ音楽を初めて聴いた人たちの驚きを、今のわたしたちにも、ーもう100年も前の音楽なのに、もっと新しい音楽をたくさん知っているのにー、再現させてくれる類い稀な演奏。タイムマシンで連れてこられた、まさに、同時代性のピリオド・スタイル精神の音楽。それぞれの音楽の本質を突いているからこそ。違ったアプローチと書いたけど、実はどちらも音楽の生まれたときの同時代性の核心を付くアプローチなんですね。この次代の音楽を今演奏するのには、珍しい対向配置だったけど、わたしの席(サイド)では、その効果は残念、限定的だったかな。

「ペトルーシュカ」は華やかな明るさ、お祭り広場の賑やかさ、親しみやすいメロディに溢れていて、すうっと分かりやすい、一見分かりやすい音楽だけど、それ以上に、緻密に重ねられた異質のモチーフの斬新さ。ロトさんはそれを4kハイヴィジョンのような高精細に聴かせてくれる。
ロトさんの演奏は、この間聴いたヤマカズさんのような独特な節回しはなかったけれども、同じようにフレーズひとつひとつ、一音一音まで目が行き届いていて、隙がないの。重ねられた音たちが全部聞こえて、軋んだり調和したり、色を放ったり、全てが聞こえてくるもの凄く情報量の多い演奏。楽章をつなぐドラムロールにディナーミクの変化を加えてドキリとさせたり、アクセントを強調したり。謝肉祭の賑わいが消えて最後に向かってどす黒いカオスが渦巻いて来るさまは圧巻で、でも首を刎ねるタンバリンは控え目、そこはヤマカズさんに軍配が上がったけど、そこからグロテスクに音楽が終わって、糸が切れてすっと力が抜けた。お見事。

「火の鳥」は、全曲なのでバレエのシーンが浮かぶんだけど(「ペトルーシュカ」はまだバレエを観たことないんです)、ロトさんの演奏は、組曲版にはないバレエのつなぎの部分がとても丁寧で聞かせどころになっていました。組曲はいいとこ取りをしているので、その間の部分は(音楽的には)あまり価値がない、聞いてもつまらない、と思われがちだったのに、ロトさんのはその部分にこそストラヴィンスキーの天才を見いだしている感じです。今日の演奏を聴いてわたしもその部分で音楽的実験がたくさんなされているように感じました。それを明晰に聴かせてくれて、むしろ普通にきれいなメロディが出てきたり盛り上がったりする部分よりも面白かったです。そして最後、主題が倍の音価になって繰り返されるところ、わたしの大好きな1945年版のように音を短めに切って演奏させたところは、ほんともうツボ。素晴らしい「火の鳥」でした。

ただ、オーケストラにもうちょっとがんばりというか余裕があれば。。。ロトさん、素晴らしい指揮者だけど、都響を鳴らすのは、現時点でフルシャさんの方が上かな。フルシャさんは首席客演だし、ロトさんは多分初めての共演だと思うから仕方がないんだけどね。でも、ロトさんには都響を定期的に振りに来た欲しいわ。去年素晴らしい演奏を聴かせてくれた読響と取り合いになっちゃうのけど。って言うか、どこか東京のオーケストラの音楽監督になって下さらないかな。ロトさんの音楽は、今の東京のクラシック音楽の聴き手を変えていくために絶対必要だわ。アーノンクールさん亡き後、彼を引き継ぐ次代の若手はロトさんだもん。



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by zerbinetta | 2016-04-12 01:11 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

謎はなかった インバル/都響 ショスティ15   

2016年3月29日 @東京文化会館

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

クンウー・パイク(ピアノ)
エリアフ・インバル/東京都交響楽団


都響と深いつながりのあるインバルさんとの音楽会。来月のサントリーホールでの「カディッシュ」は聴きに行けないので、こちら。ショスティとアヒルの群れにぽつんと白鳥の雛が混じっちゃったようにモーツァルト。インバルさんとモーツァルトがどうしても結びつかないんだけど、ピアニストの希望?
絶対似合わない~~って思ったけど、ふたを開けたらほんとにそうでした。ピアノのパイクさんは、少しロマンティック路線のピアノ。オールドスタイル。対するインバルさんは、ロマンティックとは距離を置いているけど、ピリオド・スタイルではない、これまた別の往年のスタイル。正直ふたりの音楽がかみ合ってるのかかみ合ってないのかよく分かりませんでした。よく分からないまま進められるモーツァルトの名曲。まあ、協奏曲ですから、インバルさんはパイクさんに合わせて付けていたと思うんだけど、このスタイルの演奏にちょっと戸惑ったまま終わってしまいました。わたしの度量の狭さゆえだけど、悔しい。無地になってまず音楽を受け入れる訓練をしなければ。。。
パイクさんのアンコールは、ブゾーニの「悲歌集」から「トゥーランドットの居間」という曲だそう。初めて聴く曲だけど、モーツァルトよりこちらの方がパイクさんのピアノの雰囲気に合ってたかな。音に落ち着きがあって速い部分でもメカニカルにガチャガチャとしない感じがいいの。グリーンスリーヴスが聞こえてくるとやっぱりしっとりしちゃうから。

ショスティは謎が多い。最後に書かれた(死の床で書かれたわけではない)交響曲第15番はとりわけ謎だらけの作品だと思います。「ウィリアム・テル」や「神々の黄昏」からの露骨な引用ゆえにその意味がかえって分からなくなってるというか、本当に謎かけなのかすら謎。メタ謎かけ。それを考えながら頭で聴くのがショスティの魅力のひとつだと思うんだけど、さて、インバルさんの演奏は、即物的ゆえに謎がなかったかのように消えているの。音楽を、書かれた音符に即して、音だけを取り出してわたしたちに聴かせてくれる。クリアに理知的に。音そのものには確かに意味はないし、意味を考えるのはかえって音楽を聴くことを邪魔するのかも知れないけど、でも、わたしにはそれが物足りなく思えました。永遠に答えが得られないのなら(多分交響曲第15番の謎はそういうものなのです)、答えを見つけるより、問いかけはいらない、という割り切り方にね。ひとつのアプローチの仕方としてとても正しいんだと思うんですけど。。。
ドライな都響の音もインバルさんの解釈に縁取りを与えていたと思います。なので、両者の方向が一致していて、この音楽にはまる人には、もう素晴らしい演奏なのでしょう。ただ、チェロのソロや金管楽器にもう少し奮起を求めたいところはありました。
インバルさんと都響の長き良きコラボレイションは、今の都響をインバルさんの楽器にしているので、これからもインバルさんとの共演が楽しみです。でも、同時に、大野さんが音楽監督になられて1年。大野さんの下、これからどう変わっていくのかを聴き続けるのも楽しみです。




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by zerbinetta | 2016-03-29 11:24 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

カオスのエロス 大友/群響 トゥランガリーラ   

2016年3月20日 @すみだトリフォニー

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
メシアン:トゥランガリーラ交響曲

児玉桃(ピアノ)、原田節(オンド・マルトノ)
大友直人/群馬交響楽団


群馬交響楽団、しばしば練馬交響楽団と間違えるんだけど、前に一度聴いたし(しっかりした地方オーケストラの印象。地方のレヴェルもすごく上がっていますね)、わたしには縁のない土地だし(わたしは地元優先主義)、今年はいいか~と思って、チケット割引のお知らせを放っておいてたのだけど、トゥランガリーラをやると聞いて俄然興奮。悔しいかな割引のお知らせは捨てちゃったので、定価でチケットを買って聴いてきました。群馬交響楽団、年に2回東京公演を行ってるみたいですね。

「牧神の午後への前奏曲」は、柔らかな白昼夢の中にいるような演奏。刺々しいドビュッシーの批評集を読むと、彼の新しい音楽がそんな音楽を指向していないことは明らかだと思うのだけど、時代は変わって、時を経て多様な聴き方ができるようになった古典。大友さんの、分かりやすい、クラシック音楽に馴染みがない人の耳にもすうっと入ってくる音楽は、クラシック音楽の裾野を広げるのに、とっても価値のあることだと思います。オーケストラも曇りのない明るい音でゆらゆらと白昼夢。

メシアンの大作「トゥランガリーラ」は、オーケストラがここまでやれるぞ、とアピールするような選曲かも。で、実際なかなかやるなって思ったんですけど。演奏するには確かに複雑で、難しい曲ではあると思うんだけど、Jポップだってポリリズムやら、複雑な踊りやら、やたらと難しくなってる昨今、「トゥランガリーラ」もビートに乗って演奏できるんですね。結構ポップなノリのリズム感で、すいすいと危なげない。それに、何だか、もはや現代音楽には聴かせない、みたいな感じで、おおお、「トゥランガリーラ」ってこんなにも分かりやすい、きれいな音楽かって思えました。ここにも大友さんらしさが出ていたんじゃないかしら。幅広くいろんな音楽を分け隔てなく演奏している大友さんならではのポップな音の饗宴を楽しむ「トゥランガリーラ」になっていました。今の人には絶対、ベートーヴェンやブラームスより近づきやすいし、感覚的にストンと腑に落ちるんじゃないかしら。一方で、音が混じってヴィヴィッドな色合いよりも中間色的なふんわり感が(それこそが大友さんの特徴なのかな)出てしまったのが、尖った音楽好きのわたしにはちょっと物足りませんでした。
原田さんのオンド・マルトノ音は、わたしの席からはあまり聞こえなかったです(指向性のあるスピーカーを通しちゃうのでどうしても席によって聞こえ方が違っちゃう)。もしかすると、大友さんの意図がオンド・マルトノもオーケストラの楽器の一部として全体の音色を作る方にあったのかもしれませんが。
超素晴らしかったのは、ピアノの桃さん。がんがんと確信を持って弾く引きっぷりが良かったし、「愛と眠りの園」の機械仕掛けの鳥の囀りを微妙にルバート(アドリブ)かけて弾いていたのが、わたし的には完全にツボ。桃さんメシアン弾きですよね。もっと聴きたい。

あと全然関係ないけど、時事的に、大太鼓のマレットのフェルトがふんわりとゆるんでて風になびくトランプさんのカツラ(?)のようで、ずっと可笑しかったです。

愛をしっかり充填してきたんだけど、メシアンのエロス、どんな愛だったんだろう。「トゥランガリーラ」を聴きながらことに及んだらどんなすんごいxxxドラッグ系?アクロバティック?野獣?性の喜びの解き放たれたカオス。


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by zerbinetta | 2016-03-20 09:39 | 日本のオーケストラ | Comments(0)