カテゴリ:日本のオーケストラ( 91 )   

出逢いそして別れ ツァグロゼク/読響   

2016年3月17日 @サントリーホール

ベンジャミン:「ダンス・フィギュアズ」
コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」

ローター・ツァグロゼク/読売日本交響楽団


あとで気がついたら、今日がわたしの読響さんのシーズン最後の音楽会になってしまいました。来シーズンはサブスクライブしないので、読響さんとはお別れです(お客さんとしていくつかの公演はシングル・チケットで聴きに行きますよ)。指揮者のツァグロゼクさんは、全然知らない人。なので、ヘンに期待もせず、平常心で聴きに行きました。

始まりはイギリスの存命の作曲家、ジョージ・ベンジャミンさんの「ダンス・フィギュアズ」(2004)。で、今日の収穫その1は、ベンジャミンさんを知ったこと。
と、初めて聴く人のように書いてしまいましたが、あとで調べたら、わたし、この人のオペラ聴いているんですね。すっかり忘れてました(というか誰が書いていたか意識してなかった)。バレエのための音楽ということで、どんな踊りになるのか妄想しながら聴いたら楽しかった。とは言え、どんな踊りになるかあまり想像できなかったんですけど。わたしは物語バレエの人なので、まず物語を想像するんだけど、ちょっとそれが難しかったな。初めて聴く曲だし。でも、これ、とってもステキな音楽でした。響きがとってもきれいなんですよ。その響きを作るための楽器の選択がとっても色彩的でいいの。

「ハーリ・ヤーノシュ」は、今日の最後の「英雄」とナポレオンつながり。ほら吹きヤーノシュがナポレオンを打ち負かした話が、第4曲なんですね。この曲は、前にも聴いたことあるのだけど、ツィンバロムをちゃんと見たのは初めて(前に聴いたときはかぶりつきだったので楽器がよく見えなかった。今は亡きマズアさんがしきだいから落っこちたのを鮮明に覚えてる)。打楽器だとは知りませんでした(正確には打弦楽器と言うんだそうです。ピアノの弦のようなものをばちで叩くの。
ツァグロゼクさんの演奏は、即物的。物語性や絵画性を強調することはあまりしないで、音をあるがままに音にした感じ。ドライでわたしは好きな演奏でした。ただオーケストラにはもちょっとがんばって欲しかったな。特に金管楽器。弱音と強音での音の力に差がありすぎて、弱音では音に芯がないというか、ただ小さい音で吹いたという感じで響きが薄かったです。あと、トップ奏者はまだしも、セカンド、サードの人たちが少し力不足でした。

ベートーヴェンの「英雄」は、「ハーリ・ヤーノシュ」の演奏から予想されたように、やっぱりさくさくとドライなある意味ピリオド・スタイルに近い演奏でした。ティンパニも固いマレット使っていたし、鋭く付けたアクセントとか、もったりしないテンポとか、甘いケーキ系ではなくておせんべい系な感じ。この間の、広上さんのベートーヴェンが時代遅れ(そういうロマンティックな表現も音楽に説得力があればいいのですけど、昔聴いた巨匠の演奏をなぞってみました的な演奏ではダメです)だったので、今日のツァグロゼクさんの演奏で溜飲を下げました。第2楽章のお終いでティンパニのマレットを柔らかなものに代えていたのも心憎いです。あっでも、ホルンにはもっとがんばって欲しかった。

ツァグロゼクさん、好みのタイプのイケメンおじいちゃんだったわ。音楽が老いぼれてなく尖っていたのもステキ。
読響さんとはこれでお別れ(定期会員として)だけど、上手いっぽいのに物足りなさを感じることが多かったのは、多分、トップ奏者と後ろの方の人たちの音楽の力に差があるからだと思います。読響がもう一段のレヴェルアップを図るには、後ろの人がその他大勢ではなくひとりひとりがオーケストラの音楽に前の人と同じように参画するようにならなければいけませんね。全員がひとつの音楽を奏でられるように。良いオーケストラなのでそうなって欲しいです。
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by zerbinetta | 2016-03-17 00:07 | 日本のオーケストラ | Comments(3)

周回遅れのベートーヴェン 広上/日フィル   

2016年3月4日 @サントリーホール

シューベルト:交響曲第7番
尾高惇忠:ピアノ協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第5番

野田清隆(ピアノ)
広上淳一/日本フィルハーモニー交響楽団


初めて聴く広上さんと日フィルの名曲系プログラムに挟まれてぽつんと本日初演のピアノ協奏曲。プレコンサート・トークで広上さんは、定期演奏会でクラシックの定番に新しい(現代)音楽を挟むというのは珍しい、とおっしゃっていたけどええぇそうなの?当の日フィルも新作を定期演奏会でいつものレパートリーの中に入れて初演してるし、珍しいことではないのではないかしら。

シューベルトの「未完成」とベートーヴェンの「運命」の間に挟まれたのは、尾高惇忠さんのピアノ協奏曲。惇忠さんは指揮者の忠明さんの兄。お父さんの尚忠さんは指揮者、作曲家だったから父の仕事を兄弟で分け合った感じ(?)。で、広上さんは、惇忠さんの教え子。
そのピアノ協奏曲は、和風の入ったちょっとメシアンっぽい、一見複雑そうで、実は至極単純な細胞の積み重ねでできている感じ。変拍子のような第3楽章もなれてくると頭でリズムが取れるようになったのでやっぱり単純な繰り返しなんでしょう。尾高さんは、プログラムノートの中で、斬新な音楽の語法に囚われないで真に新しい現代音楽を模索していると書いていましたが、わたしには、この音楽が、今の人の心を突き刺す音楽のようには聞こえませんでした。でも、もしかすると今の人は、心に突き刺さるような音楽を求めていないのかも知れませんね。ちょっと背伸びをすれば分かりやすい、耳に入りやすい音楽で、クラシック音楽の文脈からは、普通の音楽会でラフマニノフの協奏曲の代わりに入ってもいい感じの曲だと思いました。
野田さんのピアノは、難しさを感じさせずにこの曲を弾きこなしていたし、今日初めて演奏される音楽を癖なく紹介している感じは好感持てました。広上さんは、なんかものすごく気合いが入っていて、シャドウボクシングのようにしゅっしゅと発しながら複雑なリズムを右に左に捌くようにオーケストラをドライヴしていてアスリートみたいでした。

ピアノ協奏曲を挟んで前半の「未完成」は、初めて聴く広上さんの指揮だったんですけど、わりとオーケストラを自由に歌わせるような演奏だったんだけど、オーケストラはなんかおとなしく、あまり積極性が感じられなかったのが残念です。ベートーヴェンにも言えるんですけど、ダイナミックレンジが狭く、正直退屈でした。弱音の純度がもっと上がらなければ、こういう曲は難しいかも。

「運命」は、残念ながら完全に時代遅れ。敢えてそういう音楽をしたいという、必然性や覇気も感じられず、昔レコードを聴いて育ってきた往年の巨匠の演奏の表面をなぞってるだけのように思えました。ベートーヴェンって常に新しくされ、それぞれがもう本当にエキサイティングで新しい発見に満ちている音楽だと思うのだけど、ロンドンではいつも最新鋭のベートーヴェンを聴けたのだけど、それは贅沢で、日本では難しいのでしょうか。広上さんの指揮は見ていて楽しいのに、楽天的な性格なのか、音楽が深い淵をぞくりと見(魅)せることはありませんでした。演奏慣れしている名曲系は演奏者にとってむしろ怖いかも知れませんね。



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by zerbinetta | 2016-03-04 00:04 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

自然と人間 ヤンセン、P.ヤルヴィ/N響   

2016年2月13日 @NHKホール

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
ニールセン:交響曲第5番

ジャニーヌ・ヤンセン(ヴァイオリン)
パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団


兄ビーとN響、前回のブルックナーに引き続いて、今度はブラームスとニールセン。ニールセンの交響曲がもう楽しみ。あの小太鼓をどう処理するのか興味が尽きません。そして、前半にはヤンセンさんの独奏でブラームスの協奏曲。ずいぶん前に、ヤンセンさんが弾くこの曲を聴いたことがあるんだけど、わたしとはどうもそりが合わなかったみたいで。。。でも、そのあと聴いた、シマノフスキの協奏曲はもう、これ以上のものは考えられないと思ったほど素晴らしかったので、今日のブラームスは、日本語でリベンジって言うの?、そんな仕切り直しみたいな気持ちで聴きました。

でも、そんな思いは霧と消えて、ヤンセンさんのブラームスとても良かったんです。前に感じた違和感はなんだったんでしょう。ヤンセンさんの演奏は力みがなくとっても自然。さりげない歌があって、でも、細かいところまでしっかりと目が行き届いていてステキなの。キラキラしない伸びのある音色もとってもきれい。すうっと爽やかに広がるブラームスの青空。ブラームスって暗いとか渋いって言われるけど、透きとおった声で歌われる演奏もいいよね。パーヴォさんとN響は、ヤンセンさんに合わせてパーヴォさんカラー控え目のストイックな、でも時折ドキリとするようなアクセントで伴奏していました。でも、ごめんなさい。わたしの耳はヤンセンさんに釘付けであまりオーケストラを聴いてなかったかも。
ヤンセンさんのアンコールのバッハの無伴奏も同じ路線。爽やかに話すように歌う、清涼飲料水のような喉ごし、耳ごし。もっと聴いてみたいな。

後半のニールセンの交響曲。わたし的には、重箱の隅というか真ん中をつつくように小太鼓の狂気に注目しちゃいます。この小太鼓聴きたさにこの曲聴くし、この小太鼓で演奏の価値が決まっちゃうくらい。で、今日の演奏。すっごーく良かった。パーヴォさんの自信がみなぎっていたし、外から介入してくる余計な音楽(例の小太鼓!)のぐちゃぐちゃ度もかくありなん(もうひとりのパーヴォさんがじゃまをしているみたい)。それに、クラリネットの人が、あの弱音が、素晴らしすぎ。N響にこんなに吹ける人いたのかとびっくり(ちょっと失礼)。
第4交響曲と共に戦争の蔭のある音楽。対立と和解を暗示するような小太鼓とオーケストラ。オーケストラの感動的な歌に引き込まれるように小太鼓のトレモロが走るところがめちゃ好きなんですけど、激しい対立も和解を生み出す希望があるんですね。小さな芽が育っていって全てを包み込み和解する懐の深い自然。破壊を繰り返す人間もいつか自然のように和解を生み出す存在になれるのでしょうか。パーヴォさんの答えは多分イェス。音楽の力を信じ切った演奏からは、破壊から立ち上がる希望を強く感じました。きちんと破壊や狂気が示されてこその確信に満ちた希望。N響もパーヴォさんの棒に応えてほんとに良い演奏でした。すでに、今年のベスト音楽会候補です。
パーヴォさんとの蜜月の間に、ぜひ、ニールセンの音楽をたくさん採り上げて欲しい。ニールセンの名演をたくさん聴かせて欲しい。マーラーいいから、ニールセンやってーーー。
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by zerbinetta | 2016-02-13 21:55 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

夜と歌おう カンブルラン/読響   

2016年2月12日 @サントリーホール

モーツァルト:アイネ・クライネ・ナハトムジーク
マーラー:交響曲第7番

シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


タイトルは、今日の音楽会のチラシのコピーそのまんま。だって、あまりにも秀逸なんだもん。誰、これ考えたの?夜’に’でも夜’を’でもなく夜’と’。夜が擬人化させられて、何だか友達のよう。そんな音楽でしょ。「夜の歌」と呼ばれることもあるマーラーの交響曲第7番って、解釈によっては。すごく大らかで楽しそうでしょ。しかも気の利いたことにカンブルランさんが選んだカップリングは、なんと、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク!セレナーデ第〇〇番とも言われるんだけど、モーツァルトはそういう呼び方はしなかった(作品を番号順に呼ぶ習慣は彼の時代にはなかった)ので、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が正しい呼び方なんだって。日本語では「小夜曲」?

その、かわいらしい、誰でも知ってる有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。この曲を大きなオーケストラの定期演奏会で聴くとはまずびっくり。大学入試に「泣いた赤鬼」から出題されるようなアンバランス感。ところが、エッジの効いたカンブルランさんの演奏にまたびっくり。もうこの曲をイージー・リスニングの食堂とかでかかってる音楽だとは言わせませんよ。速めのテンポで、少人数とは言え室内オーケストラくらいの人数の弦楽合奏は少しもたつくところもあったけど、ロマンティックに陥ることのないザッハリヒなモーツァルトは乾いた夜を創出しててステキ。ある意味意表を突かれた。だって、マーラーも敢えて夜の歌と言及してロマンティックに行くのかと思ってたから。でも思い出してみれば、カンブルランさんのブルックナー(交響曲第7番)も「トリスタン」もロマンティック路線とは一線を画していたのでした。で、今気がついたのだけど、ブルックナー、「トリスタン」と今日ので夜3部作?

マーラーは、「夜の歌」のタイトルが交響曲全体のタイトルにふさわしいかどうかは別にして(プログラムには付きで載っていたけど、「夜の歌」と題されたのは第2第4楽章だけだから)、前半からの予想通り、ロマンティックな薫りを適度に排した演奏。でも、とは言え、マーラーの交響曲の中で最もロマンティックな曲(わたし比)なので、からからにドライな演奏ではなく、さりげない潤いもあって、読響の明るめの音色と相まって深刻になりすぎない音楽。夜=死、的な暗闇の音楽ではなく、なんだか夜と友達になれそう。お化けだって汚れのない目で見れば怖くない。そう、夜と歌うの。夜の蠱惑的な世界。ホールの向こうに夜が広がって、オーケストラと一緒に歌いたい気持ち。
でも、わたし、夜とかってあまりに音楽に哲学を求めすぎていない?夜とか昼とか、まるでトリスタンとイゾルデの愛のシーンだけど、意味を考えすぎじゃない?カンブルランさんの演奏は、そうした意味づけから少し距離を置いているようにも思えるの。素直に音楽を歌おうと。
近頃のわたしの捉え方は、それは最初にバレンボイムさんの演奏が教えてくれたんだけど、この曲ってあまり意味がなくてもいいんじゃないかって。交響曲というよりバロック時代の組曲のような内的な関連性のない音楽の集まり、みたいな。マーラーってこの頃、バッハの管弦楽組曲を編曲再構成して自家版のオーケストラ曲を作ってるし、第一、この曲の始まりってまさしくフランス風序曲だもの。それに、フィナーレのティンパニなんてバロックのティンパニの使い方そのもの。この曲のある意味統一感のなさがそんな感じ。でも反面、シンメトリックで論理的な構成(でも、第1楽章とフィナーレの取って付けたような相容れなさ)との矛盾。いろいろ、難しいというか訳の分からないことにもなっているかのような謎のある(というか謎を貼り付けたいのわたしだけーー?)この曲、でもカンブルランさんは見事におおらかに歌ってみせたのでした。だから、始まりから終わりまで、すとんと腑に落ちるように余計なことを考えずに聴き通すことができました。
最後の大団円。驚きのカウベル大増量。チェレスタの人までカウベル持って、全部で7人?いっそのことP席の人にもカウベル持たせて、50人のカウベル隊というのは流石に余計なところでからんからんうるさそうだから、会場係の人に持たせて、ホールの四方からカウベルがって。冗談は止しにして、目の覚めるカウベルというか、いい気になって牛にちょっかいを出してたら牛の大群に追いかけられて間一髪逃げ切るっていうお話になって喜びのうちに交響曲は閉じたのでした。(なので、わたし的には今日の拍手のタイミングの遅さ、フライング拍手やブラヴォーよりも残念でした。逃げ勝ったんだから音が消える前に拍手で良かった。(音楽ファンを敵に回す発言ですが)

ま、冗談はさておき、わたし的には好きなタイプの、すらりと整ったステキな演奏でした。個々の力不足はなきにしもあらずだけど、読響もがんばってくれていましたしね。やっぱり、主席指揮者との演奏は違うな。いつもがんばろうよ、読響。
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by zerbinetta | 2016-02-12 22:55 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

魅惑のボンレスハム 会田莉凡、高関健/シティフィル   

2016年2月11日 @ティアラこうとう

バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
プロコフィエフ:交響曲第5番

会田莉凡(ヴァイオリン)
高関健/東京シティフィルハーモニック


定期会員になった東京シティ・フィルのティアラこうとうマチネ(全4回)、今日が最終回です。このティアラこうとうシリーズ、安いし、来シーズンはプログラムもとても良いので更新しようと思っていたら、他のオーケストラの定期と丸かぶり。しかも振り替えできない回で。。。もうがっかり。。
あ、気を取り直して。今日は、ウマの合う高関さんと、聴いてみたかった莉凡さんが出るのですご~く楽しみだったんです。もう待ち遠しかった。

莉凡さんはまだ聴いたことがなかったんですけど、シャネルのピグマリオン・アーティストに選ばれていたり、お噂はそこここから漏れ聞いていたのです。そしてブログ。タイトルが「ボンレスハム工場」なんです。本人曰く、食べるのが大好き。でむっちりしたところがボンレスハム?ご自分でそうおっしゃるところが素晴らしい。

始まる前に高関さんからお話があって、莉凡さんがやんちゃだったこと(音楽の話です)など暴露されたり、バルトークの協奏曲、ヴァイオリンをやっていた高関さんも弾いたことのある思い出深い曲であること、などを話されました。高関さんのお話は要点を掴んでいてとても分かりやすいですね。

莉凡さん、この曲を音楽会で弾くの初めてかしら?分かんないけど。丁寧な演奏ですっきりとインターナショナル。その分バルトークの灰汁みたいな民族性、取っ付きにくさが中和されているんですけど、4分音まで素人のわたしでも聴き取れたくらいのクリアさで弾いたのはお見事。わたしとしては、オーケストラで見事にサポートした高関さんにも言えるのだけど、上手くまとまりすぎていて、もっとやんちゃな面が出てくるとより面白かったのにって思いました。若いから冒険できないんじゃなくてはちゃめちゃでもいいから殻を破って欲しかったです。
莉凡さん、ソリストとして非凡なんですけど(韻を踏んでみました♫)、室内楽をやったりゲスト・コンサートマスターの席に座ったり、なんでも好きみたい。将来的には、ソリストとしてではなく、超一流のオーケストラのコンサート・マスターとしてオーケストラをリードするのが向いているのかも知れませんね。超一流のオーケストラのコンサートマスターって、下手すればソリストよりずっと上手いし、ソロ活動をする機会も多いしね。もう活躍し始めてるけど、これからの活躍が楽しみです。まずは、ヨーロッパか北アメリカに行け~~。

後半のプロコフィエフは、わたしにはちょっと整理されすぎてプロコフィエフらしさが薄まっていると感じました。高関さんの音楽は、楽譜マニアっぽいツイートから察せられるように、音楽をとても丁寧に分析してそこから組み立てていく姿勢にいつも敬服しているのだけど、プロコフィエフではそれが裏目に出ちゃった感じ。クリアにいろんな音が聞こえてきて、面白いことにショスタコーヴィチ風に聞こえました。プロコフィエフってわたし的には、いろんな音がかたまりになって聞こえてきて、どろどろの坩堝のような音楽だと思うんです。サイケデリックというか、なんかよく分からないけど凄い、みたいな割り切れないところが魅力だと思うんですね。粗いタッチで描かれた厚塗りのゴッホの風景画のような味わいが魅力で、風景を4kハイビジョンで写し取ったような細部まで鮮明な音楽ではないんじゃない、というわたしの考えを宗旨変えさせるだけの説得力はなかったです。惜しいなぁ。
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by zerbinetta | 2016-02-11 20:45 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

兄ビーはレオナルド! P.ヤルヴィ/N響 ブルックナー5   

2016年2月7日 @NHKホール

マーラー:なき子をしのぶ歌
ブルックナー:交響曲第5番

マティアス・ゲルネ(バリトン)
パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団


主席指揮者兄ビーとN響の定期公演、今回はブルックナー。中でも壮大な交響曲第5番。ブルックナー・トイレも長くなりそう。女子には関係ないから、余裕でチラリと見物しちゃった。

ブルックナーの前には、マーラーの「なき子をしのぶ歌」。マーラーの歌曲の中で最高傑作と勝手に思ってる心に浸みる悲しい歌。歌い手は、ゲルネさん。ゲルネさんって、猫背風に少し前屈みになって歌うのが、マーラーの、特にこの「なき子をしのぶ歌」みたいな屈折した暗さの歌に雰囲気ピッタリですよね。もちろん、深いバリトンの声も凄い素敵だし。
マーラーは歌曲のオーケストレイションを交響曲とは違って薄くしてる(そういう意味で「大地の歌」は交響曲っぽい)んだけど、パーヴォさんの演奏はまさにそんな感じ。もう少し弦に厚みを持たせてロマンティック寄りの演奏もありだとは思うのだけど、パーヴォさんの選択は、歌曲としての側面をより前面に出したものでした。控え目なオーケストラは、歌の背後に回って見通しの良い音楽を付けるんだけど、この選択は残念ながら凶と出てしまいました。NHKホールがこの音楽には大きすぎた。もう少し小さな響きのいいホールでならこの表現は上手く生きたのでしょうけど、ホールが音楽に余ってしまったのがもったいなさすぎ。ゲルネさんの歌は、言葉の語りを大事にするもので、わたしの3階席までちゃんと聞こえてきましたが、でも、やっぱり、この語るような歌は、親密なホールでよりふさわしく聞こえたと思います。残念だわ。

後半はブルックナーの大曲。大聖堂の偉容を仰ぎ見るような音楽だと思ってたんだけど、パーヴォさんのは違った。大聖堂は大聖堂なんだけど、その緻密に描かれた設計図を見るよう。本物の大聖堂は、想像の先にあって、でもその大聖堂の秘密や全てが明らかになるの。もちろん、設計図は本物の大聖堂ではない。でも、あらゆるものにそれぞれマニアがいるように、設計図マニアというのもいるでしょう。わたしは、とても面白く聴けました。でもね、これが完成形だとは、パーヴォさんも思ってないんじゃないかしら。
パーヴォさんがやってるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがやったようなことなんじゃないかと思う。人の絵を真実に、正確に描くために、彼は、解剖学から学んだ。人体を解剖して、筋肉の付き方や中の構造を調べて、人物の絵に還元しようとした。それと同じように、パーヴォさんは楽譜に書き取られた音楽を解剖して詳細に解き明かすことから始めているような気がしたの。その結果、ブルックナーの音楽の繊細な構造に光りが当たって、それらが設計図を見るように聞こえてきたんだと思う。本当はそこから大伽藍を作ってこそ、本物にしかない聖堂の空気やステンドグラスの織りなす光やクリプトの冷たさに身体中が震えるんじゃないかと思うのだけど、パーヴォさんのブルックナーはまだ、完成を見ていないのか、オーケストラの力がそこまでだったのか(N響はとても良い演奏をしていたのです。ピチカートがうんと素敵でしたし。でも、まだ少し足りない)、それは分からないけど、レオナルドで例えるとたくさんの正確な素描を観た感じです。それは、確かにわたしにとってとても面白かっただけに、最終的な形をいつか観てみたい、聴いてみたいと強く思ったのでした。パーヴォさんのブルックナーは多分、絵はがきのように見えている美しさや荘厳さだけを切り取った風景のような凡愚な演奏ではなく、足元から聖堂のいしずえのアウラが伝わってくるような音楽になるとなるでしょう。いつかそんな演奏をパーヴォさんから聴きたい。

あ、覚え書き程度に。今日の演奏で、はっと思ったのは、第2楽章と第3楽章をアタッカでつなげていたこと。パーヴォさんはご存知かどうか分かりませんが、川崎高伸さんの説(Bruckner Journal 13(1), 2009)に、ブルックナーの交響曲第5番の構造に意識的な対称性が見られるというのがあって、それによると第2楽章(アダージョ)と第3楽章(スケルツォ)も対になっているはず、実際にふたつの楽章の始まりの低弦のピチカートの音型が同じ、だから、このふたつは同じテンポで演奏すべし(ブルックナーは第2楽章を4拍子ではなくアラ・ブレーヴェで書いているのでそれが正しい)ということなんだけど、わたしは、同じ音型が出てくるからといって同じテンポとはちょっと強引だわと思うのだけど、もしかして、今日のパーヴォさんのは、テンポは普通のアダージョと速いスケルツォだけど、2つの楽章をつなげて関連性を付けることによって、最初の楽章とフィナーレの対称性を際立たせたのかな、とも思いました。穿った見方だとは思うんですけど。ただ、2つの楽章の尋常ではない連結には何か深い意味を感じるのです。それがどういうものかまだ分かりませんが。答えを見つけるためにもいつかまた聴きたいです。
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by zerbinetta | 2016-02-07 11:28 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

新・春の祭典ってどんな? 小林/日フィル   

2016年1月22日 @サントリーホール

リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」
ストラヴィンスキー:春の祭典

小林研一郎/日本フィルハーモニー交響楽団


今日は日フィルの定期。誰がなにやるのかなぁ~わくわく~、と思いつつ、誘惑に負けてチラシを見たら、コバケンさんで春の祭典とか。。。ううう~む。いや、コバケンさんがどうのとか言うわけではないんですけどね。コバケンさんが「春の祭典」って似合わない~、振れるんだろか、と勝手に失礼な妄想。ごめんなさい。

サントリーホールのポスターを見てえっ!あれっ?新春の祭典って、なんだ?春の祭典の新しい版?コバケンさんが振るからなんかとんでもない新規感?と、3歩歩いて気がついた。’新春’の祭典じゃ。。。そっかーまだお正月でいいんだ~。お雑煮食べよっ。

メイン曲がふたつ、「シェヘラザード」と「春の祭典」がプログラムに並んでるので、どっちが先かなぁと思いつつ、順当に「春の祭典」があと。エネルギーいるものね、この曲。
「シェヘラザード」は、最初のヴァイオリン・ソロから響く響く。なんかホールの音響を味方に付けまくった感じで(わたしがオーケストラの後ろ側に座っていたせいで、客席の後ろから跳ね返ってくる音がよく聞こえたからかしら)、特に高音が糸を引くように伸びて聞こえたのにびっくり。ヴァイオリンの人の音もふくよか。コバケンさんの作る音楽は、相変わらず独創的というか、コバケン節って言うの?リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」を聴いてる感じじゃなくて、コバケンさんの音楽を聴いている感じ。第1楽章は大凪。静かな海をトランクイロ(平穏(?))に滑る船。がなんか現実味がなくて黄泉に下っていくの。静物画の世界。正直戸惑いました。
第2楽章は、一転少し速めのテンポ。管楽器のソロが多くて、聴かせどころを、コバケンさんは各奏者にまかせてる振りをしてしっかりと手綱を締めている感じ。コバケンさんってものすごく怖い、厳しい人だと思いました。コバケンさんは、信頼できる人だと、自由な、自発的な演奏を求めるんだけど、そうでない人には辛辣。そしてそれは、(プロのレヴェルでは)技術的なことと言うよりも、音楽の心の表現を大事にしているような気がしました。ときどき左手を心臓に当てる仕草をしているのは、そんな心の表現を求めているからじゃないかしら。コバケンさんと仲の深い日フィルは、コバケンさんをよく分かっているようだし、コバケンさんもこのオーケストラを信頼しているのが窺えます。コバケンさんが他のオーケストラを振ったのをまだ聴いたことがないから無責任かも知れないけど、コバケンさんってどこよりも日フィルと相性が良いのではないかしら。少なくとも比較じゃなくて日フィルとの相性は抜群と思えました。あっそうそう、響き線を緩めた感じの小太鼓の音色が好みではなかったけどユニークでした(第4楽章も)。
第3楽章はまたゆっくり目のテンポで、やっぱり、いつもの「シュヘラザード」とは違う感じなんだけど、濃厚なロマンティックな歌で、この演奏の白眉でした。そして、気がついたのだけど、この楽章だけ、シェヘラザードの語りではないのですね。王とシュヘラザードの寝間のシーン。だって語り始めるヴァイオリンのソロはないし、シュヘラザードのソロはオーケストラの中に溶け込んでるもの。
賑やかな、第4楽章は、勢いで行っちゃえ、みたいな感じで、タンバリンなんかはリズムが混沌としてたけど、雰囲気があるからいいやというか、雰囲気重要みたいな表現。そんな中、全体的にティンパニが薄めというかおとなしかったのが残念。最後の弱音のコラールは、もう少し音が澄んですうっと抜けたら良かったなと感じたけど、そこがまだ日フィルの限界なのかも知れませんね。でも、第3楽章を頂点にコバケンさんの「シェヘラザード」は楽しめました。

後半は「春の祭典」。これがまたコバケンワンダーランド。「春の祭典」ってよく言われるように、リズムに革命を起こした現代音楽の古典(もちろん、曲自身はもはや現代音楽ではないのですが)。リズムが音楽の重要な要素として和声や旋律と対等の扱いがされた最初の目の覚めるような歴史的な作品です。だからこそリズムの扱いが重要なのだけど、コバケンさんのはそれに真っ向から対立するもの。リズムの鋭さがことごとく無視されていて、もちろん、現代のオーケストラはこの曲を合わせる技術は十分で、ずれたり破綻することはないのだけど、リズムの輪郭が滲んで音の塊になってるの。最初のファゴットのソロから時空の歪みのような伸縮があって、異様なものを予感させたんだけど、まさにその通り、完全にコバケン節(と言うのかな?)になっちゃった。前に聴いた、フルシャさんと都響のキレキレの演奏とは対極的。その結果、プリミティヴな大地の祭り、になったかというとそうでもなく、なんか得体の知れないどろどろとしたものに。大地がぐにゃりと歪んでいた。力業のオーケストラは、歪んだ鏡となって音楽の姿を見せてくれるのです。暗譜で振ってるコバケンさんはそれを意識的にやってる。むむう。あっ、「シェヘラザード」の時と違ってティンパニが思いっきり叩いていたのは良かったです。が、小クラリネットはかなり危うい感じなのが残念。
面白い演奏でした。と言うか、変わった演奏で、変態好きのわたしとしては、良い悪いじゃなくて面白かったと言うしかないのだけど、果たして、これで良いのかという疑問はつきます。コバケンさんは独自の音楽を作っていたけど、日本のオーケストラならその通りに演奏するけれども、超一流の指揮者とたくさん共演して、ひとりひとりが一家言あるような演奏家ばかりが座ってる超一流のオーケストラを前にして、コバケンさんが、オーケストラを納得させることが出来るかどうか、答えのない疑問を持ちました。演奏家を納得させられるかどうか(しかも相手は、例えば「春の祭典」をいろんな指揮者で演奏している強者たち)が、独りよがりの音楽か普遍的な価値を持つものなのか、の分水嶺となると思うんですね。わたし自身は、面白いものが聴けたと喜んでいるものの音楽には納得していないという頭でっかちな自己矛盾を抱えて、音楽の世界から日常へのグラディエイションを会場をあとにするお客さんの流れに揺られながら漂うのでした。
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by zerbinetta | 2016-01-22 22:27 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

LSDでトビッパ ソヒエフ/N響 幻想交響曲   

2016年1月15日 @NHKホール

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための2重協奏曲
ベルリオーズ:幻想交響曲

フィルクハルト・シュトイデ(ヴァイオリン)
ペーテル・ソモダリ(チェロ)
トゥーガン・ソヒエフ/NHK交響楽団


ソヒエフさんは、若手(というかそろそろみんな40代)の指揮者の中で最も好きな人のひとり。そのソヒエフさんが、今勢いの出てきたN響に客演して、はちゃめちゃな幻想交響曲を振るとなれば聴きに行かないわけにはいけません。今日もNHKホールの天井桟敷の人となったのでした。それにしても今日は少しすいていたな~。こんな良い音楽会なのにもったいない。曲目はオーソドックスだから、ソヒエフさんがまだあまり知られていないってことかな。

前半は、ウィーン・フィルのトップ奏者をソリストに呼んでブラームスの2重協奏曲。このおふたりとソヒエフさんは、すでにウィーンでもこの曲を演っているのですね。
さて音楽は、プログラム冊子に書いてあったクララ・シューマンの言葉「これらの楽器は華やかではないからです」通り、なんかとても地味。地味が身上のブラームスでもヴァイオリン協奏曲なんかは派手ではないけど、ここまで地味じゃないから、チェロが足を引っ張ってる?と言う軽口は置いといて、普段オーケストラで弾いてる人がソリストなので、オーケストラの中で弾いているように、オーケストラに溶け込んで演奏していたからじゃないかしら。でもね、クララの言う「この協奏曲に未来はない」は見事に外れました。だって、ブラームスの最後のオーケストラ作品となったこの曲には、ブラームスの円熟がいっぱい詰まってるんですもの。まだ枯れてはいないし、ふたりの気のあったソリストを呼ばなければいけないから演奏機会は減るけど、良い曲だもの。
今日の演奏は、さっき書いたとおり、協奏曲というよりオーケストラ曲として演奏された感じ。でも、オーケストラをリードするソリストの音楽は、ウィーンで過ごした晩年のブラームスの柔らかな香りがしてとても良かったです。ヴァイオリンとチェロが対立せず、同じ音色のパレットを使って秋の豊穣の絵を描いていたのもステキでした。

後半の幻想交響曲は、意外や意外、ひっちゃかめっちゃかな末端肥大症気味の表現主義的な演奏ではなくて、ある意味古典的なフォルムを大事にした演奏。この音楽が、マーラーではなくてベートーヴェンの死後3年という時代に書かれた音楽であることを随所で感じさせてくれるものでした。音楽が整っていて美しい。これにはびっくり。でも、それでいて、特にダイナミクス(音量の振れ幅)でベルリオーズの極端もしっかりと魅せてくれる、ソヒエフさん凄い。ピッコロもちゃんと凶暴だったし、いろんなヴィブラートの付け方への細やかな目配り、フレージング、どこをとってもソヒエフさんの音楽。するすると進む快速テンポで始まって、それを基調に、でも、第1楽章の最後や、第3楽章ではテンポを落としたり、ツボがたくさん。第2楽章は、わたし的に大好きなコルネットのオブリガードは無かったので、勝手に脳内で足して聴いてたのはナイショだけど、華やかでフォーマルな感じの舞踏会が広がって、最後は流行の音を残すことなく閉じていたのは、まだこの曲が正統的な音楽の一枝として演奏されていた時代への好ましい回帰。第3楽章に音楽の内面的な中心を置いた設計も良かったな。それに、やっぱり、ティンパニに4人、人がいるのを見るだけでもワクワクする。さらに後には大太鼓ふたり!そのティンパニの雷鳴は、遠くで不安を煽る轟きで、最後のふたつの楽章で駆け抜けるように音楽が爆発。ここでソヒエフさんは、古典の枠を解放してお祭り騒ぎのカタルシス。ギロチンが落とされる瞬間の断末魔の叫びは、長く引き延ばされてクレッシェンドして。魔女たちの宴はおどろおどろしさ控え目で、小クラリネットの魔物に変容した恋人の踊りは、むしろ明るく健康的。楽しそう。音がヴィヴィッドで、尖った音色の燦めきは、阿片で見たの幻覚と言うより、アッパー系の覚醒剤かサイケデリック系の薬物で決めちゃった感じの幻想でした。
N響は、ソヒエフさんの棒に応えて、日本を代表するオーケストラの矜持を示すように素晴らしい演奏をしてくれたのだけど、でも、わたしの際限ない欲望は、もっと上手いオーケストラだったならなぁ、と感じられてしまったのも事実。ソヒエフさんの音楽以上のものをオーケストラが自発的に生み出して欲しかった。ソヒエフさんの音楽家魂に火をつける好敵手な関係が指揮者とオーケストラの間に欲しいなって思ったのでした。
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by zerbinetta | 2016-01-15 22:49 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

憧れ、悪魔の甘美な誘い ボーダー/読響   

2016年1月14日 @サントリーホール

シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
リスト:ピアノ協奏曲第2番
ツェムリンスキー:交響詩「人魚姫」

フランチェスコ・ピエモンテージ(ピアノ)
ミヒャエル・ボーダー/読売日本交響楽団


面白いプログラム。関連性がないように見えて、同じような空気の、同じように幻想曲風またはロンド風の緩いソナタ形式の音楽。もしくは、3つの交響詩が並んでます。見事。(リストのピアノ協奏曲は正確には交響詩ではないんだけど、ユロフスキさんの言葉を使えば、ピアノとオーケストラのために書かれた初めての交響詩だそう。わたしも今日は、協奏曲というより交響詩として聴けました。そう言えばユロフスキさんもリストのこの協奏曲とツェムリンスキーを組み合わせたプログラムを指揮していました。「人魚姫」ではなくて叙情交響曲でしたけど)

「ドン・ファン」。勢いよく飛び出した音楽は、フレッシュで爽快。ボーダーさんオーケストラを鳴らすのが上手い。開放的な音はわたしの好み。ただ、なんか落ち着かないというか焦燥感があって、テンポの速さというより、多分、フレーズの終わりとかの音を溜めずにどんどん先に進んでいくからだと思うんだけど、もう少しどっしり構えてよ、と感じました。ゆっくりと叙情的な部分ももう少し色気があったならと。ボーダーさんってオペラ指揮者なんですね。劇場で力を発揮する実務型のマイスターなのかな。良い音を引き出すのは上手な一方、問題をテキパキと捌いて夢を見るタイプの人ではないのかも。

でも、リストの協奏曲では、初めて聴くピエモンテージさんの夢見るようなピアノがとっても良くて、弱音での柔らかなタッチにもう本当にうっとり。強音も十分音が響いていました。もちろん、リストならもっと外連味を発揮して大時代的な演奏を、と感じる人もいると思うけど、わたしはこの曲をソロをひけらかす協奏曲というより、幻想曲か交響詩のように聴いたので、不満はありませんでした。大時代的なところはオーケストラがばんばん補完してくれていたしね。突然の休符で音楽が堰き止められる外連はオーケストラに委ねられていましたから。
でも、交響詩としたらタイトルはなに?何を音楽で描いていたの?わたしは、夢とか憧れだと思うんです。今日の音楽会のテーマ。決して手の届かないもの。それを「ファウスト」のように悪魔が蠱惑的にそそのかして手に入れさせてくれる。でも、何と引き替えに?。。。。
交響詩の創始者、リストの交響詩ってタイトルが文学的というか漠然としていますよね、「前奏曲」とか。だから、この曲もそんなタイトルの漠然とした、タイトル無しでも成り立つ交響詩としてもいいんだと思うんです。わたし、リストの音楽の(特に管弦楽の)大仰な感じが苦手でずっと敬遠してきたんだけど、ディモーニッシュな霧がわたしの中に浸潤してきたよう。禁断の林檎の甘さを知ってしまったのかも知れない。最後には無調にまで行き着いてしまったリストの深い世界に溺れるかも知れない。あなたには聞こえないの?わたしを取り巻いて鳴り渡るこの調べを。この鳴り渡る響きの中に、溺れ、沈み、我を忘れ、この上なき喜び。
ピエモンテージさんは、アンコールに同じリストの巡礼の年、第1年「スイス」から「ヴァレンシュタットの湖で」。ストイックな美しさがピアノから引き出されて、これもステキな演奏でした。ピエモンテージさん、もっと聴きたい人かも。ところで、休憩時間にロビーにアンコール曲名が貼り出されたんだけど、それを見たクラヲタさんたちが係員に詰め寄っていました。優しく指摘していました。巡礼の年、第1年から「スイス」じゃないって。帰るときには正しく直っていました。

最後は、3楽章からなる交響曲のような(実際、作曲家には4楽章を足して交響曲にする計画があったようです)大きな交響詩「人魚姫」。ツェムリンスキーが聴けるの珍しい~って思ってみたら、よく考えるとわたし、ツェムリンスキー意外とたくさん聴いていたのでした。「人魚姫」も初めてかと思ったら2回目。
ボーダーさんと読響の演奏は、始まりが、もう信じられない位に絶品。弦楽器の暗く思い海。フルートやハープの泡。海の底から光りを求めて浮き上がっていくような。憧れ。まさに、物語の始まりであり物語の全てを語っているよう。でももう少しで手の届きそうだった憧れも、バスクラリネットが旋律を歌い出した瞬間、手からこぼれ落ちてしまう。この音じゃない。この音色じゃない。読響ってものすごく良くできるオーケストラだと思うけど、ときどき不用意な音が混じってしまうのがとっても残念。期待に応えてくれるだけに求めるものが大きくなって、だから、少しの疵が全体を大きく損なってしまうのね。もちろん、この滅多に聴かれない曲でこれだけの音楽(実際に全体的な演奏のイメジは大変良かったのです)を聴けたら満足には違いないんだけど。。。惜しいんだよね。もっと出来るのに。
ボーダーさんは、この曲でも的確に音を捌いて、曖昧なところのない堅実な音楽。それ故、夢や憧れみたいな蜃気楼のような儚さには遠いんだけど。音楽が終わって、余韻をあまりとらずにあっさりと手を下ろしたのもそんなマイスターのプラクティカルな音楽作りの表れじゃないかな。ものすごく良い音楽を聴いたと思う反面、もう少し夢を見ていたかったというもやっとした心残りもありました。
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by zerbinetta | 2016-01-14 19:34 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

妖精さん ファウスト、小泉/都響   

2016年1月12日 @東京文化会館

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
シュトラウス:家庭交響曲

イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)
小泉和裕/東京都交響楽団


都響さんは第800回目の記念すべき定期公演。今年、都響デビュウ40周年で終身名誉指揮者の小泉さんと。お得意の「家庭交響曲」。小泉さん、この曲を都響で採り上げるの今回で4回目であるんだそうですよ。それに最近もどこかでこの曲を振ってる(振る)ハズ。ほんとにお好きなんですね。

でもその前に、ファウストさんと協奏曲。ブラームスの協奏曲だと思っていたら会場でプログラムを開いてメンデルスゾーンと知ってとぽん。でも、メンデルスゾーンも好きだからいいんです。ブラームスより早く帰れるしw
ファウストさんは、言わずもがな、現代最高のヴァイオリニストのひとり。新日フィルとのブラームスでも独り素晴らしい音楽を奏でていらっしゃいました。ただ、わたし的には少しだけウマが合わないんですけど。。。
彼女のメンデルスゾーン、迸るばかりに歌い出すかと思ったら、平穏と静かに(音量が小さかったというわけではなくて表現がです)始まってびっくり。この曲、カピュソンさんやテツラフさん、アリーナの漢っぽい体育会系の演奏を聴き慣れて好みなので、ちょっぴり拍子抜け。今日は迸らないのか~って、思っていたんだけど、テンポを落として叙情的に歌うところは、すうっと音楽の重力に引き込まれる感じで、ステキすぎ。文化系の、でもキリッとしてゲーテなんかを読んでいる感じの思索的で内側の豊かな音楽。それに、ヴァイオリンの音が楽器から聞こえない!ずうっとファウストさんを見つめながら聴いていたんですけど、音はヴァイオリンから聞こえてこないの。ホールを完全に鳴らし切ってる。ファウストさんの音楽っていつも柔らかいのに凜としてるなぁ。生成りのような、衣装は、そう、雰囲気といい色使いといいピレシュさんと通じるものがある。ファウストさんも将来ピレシュさんのような妖精になるのかしら。いえ、きっとなる。今日だって、3楽章の細かく動き回る走狗は、妖精の羽音みたいだったもの。いつか本物の妖精になって自然で飾り気のない、それでいて生きていることの深さを感じさせるような音楽を奏でる人になるんだろうな。小泉さんと都響の伴奏も良かったです。ファウストさんの音楽を汲み取って、味のある伴奏を付けていました。管楽器に少し不用意な音もあったけど、バスのニュアンスなんて思わずいいなって思えたし。欲を言えば、ファウストさんと対等に丁々発止のやりとりをして欲しかったですけど、小泉さんはそういう音楽を嫌ったのかな?
アンコールには、自身の声で紹介して、ハンガリーの作曲家クルタークの「ドロローソ」。タイトルの通り、短い静かな鎮魂歌。音の少ない研ぎ澄まされた音楽を鋭い感覚のヴァイオリンでさっきとは異質の世界に連れ込まれた演奏は、ファウストさんの面目躍如ね。

後半は、家庭交響曲。わたし、人の家を覗き見する趣味はないので、この曲苦手。小泉さんの演奏は、オーケストラを良く鳴らすものの、なにか自由さのゆえに、小泉さんの音楽がピンぼけして、ただでさえ締まりのない曲(だからあまり演奏されないのかな。いえ、ウィキによると難しいから演奏されにくいそう)なのに、何をしたいのかよく分からない結果に終わってしまっていました。何だろう、最後のとってつけたような盛り上がりは。なんかしつこいよね。ショスティ風に(妻に)強制された歓喜?壮大なカリカチュア?小泉さんも自分の家庭を見せるの嫌なのかな。でも、指揮者には自分を出してオーケストラをもっとリードして欲しかった。そうそう、この曲、ソプラノ、アルト、バリトン、バスの4本のサクソフォーンが使われてるんだけど(超珍しい)、奏者が楽器の大きさに見事に比例して背が高くなっていたのには、ちょっと笑っちゃった。そこ、突っ込むところじゃないけどさ。(家庭交響曲の主題が、「サロメ」のヘロデとヘロディアスのモチーフに転用されたら痛快な風刺だなと思いながら聴いてしまってた恥ずかしい自分)
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by zerbinetta | 2016-01-12 12:13 | 日本のオーケストラ | Comments(0)