カテゴリ:日本のオーケストラ( 91 )   

カラフルな音のパレット 山田/N響   

2016年1月10日 @HNKホール

ビゼー:小組曲「こどもの遊び」
ドビュッシー/カプレ:バレエ音楽「おもちゃ箱」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシカ」

松嶋菜々子(語り)
山田和樹/NHK交響楽団


大変遅ればせながらあけましておめでとうございます。わたしの2016年の音楽会もやっと開けました。
ななこさんを観に行ってきました。というのはまっ赤な嘘で、もちろんヤマカズさん目当てです。ななこさんは、、、名前は聞いたことあるけどぐぐって調べました。チケット取ったときには、ななこさんのお名前もなかったですしね。

プログラムは、お人形つながり。ビゼーのかわいらしい小組曲にドビュッシーのこどものためのバレエ、それにおどろおどろしい物語の「ペトルーシカ」。どれもお人形が出てきます。

ビゼーの曲は、「アルルの女」や「カルメン」に比べたら有名ではないのだけど、聞いたことのあるようなメロディが出てきて懐かしい感じ。最初の(兵隊さんの)トランペットは、マーラーの「角笛」歌曲に、伴奏のトリルの使い方までもそっくりで、ふふふ。もちろんマーラーがあとですよ~。真似したわけじゃないでしょうが。ヤマカズさんはN響から柔らかい音を丁寧に紡ぎ出していくのだけれども、わたしには少し抑えすぎた感じがしました。もう少し大らかな感じでも良かったかな、と。最後の2曲(そのひとつ目に耳にしたことのあるようなメロディが出てきます)に音楽の重心を置くような設計。弦楽合奏の優しい感じの音楽は作曲家が子供たちを見つめる視線でしょうか。ゆったりと少し厚みを持って物語るように歌わせる音楽、とそれに続く賑やかなフィナーレ。終わりよければ全て良し、ですね。

ドビュッシーの「おもちゃ箱」は子供のためのバレエ曲。物語に確固としたストーリーがあるわけではなく(一応、恋物語にはなっていますが)、いろんなお人形が出てきて踊る感じなのかしら(バレエは観たことないけど)。そのト書き部分(?)を菜々子さんが短い言葉で語ります。菜々子さんの語りが上手なのかは、この短い言葉では分からなかったけど、正直、いらなかったかな。主に人形の登場を知らせるだけで、物語る部分は少なく、シーンを思い浮かべるにはちょっと足りない感じ(わたしの創造力が少ない)。音楽だけでは、ドビュッシー好きにはいいのかな、ドビュッシーの繊細さが災いしてちょっと退屈な部分もあるのでしょうか。バレエとして観るのが一番いいのかしら。それとも抜粋して組曲。ヤマカズさんの抑えたアプローチは、NHKホールの大きすぎる大きさではキツイ感じ。オーケストラの鳴らし方(特に弱音で柔らかい音)にもう少しピントが合えばなって思いました。曲のせいもあるけど、前半は少し欲求不満が残りました。あっ、菜々子さんはすらりと背が高く綺麗な方。白黒のドレスもスタイリッシュでさすが女優さん。歩く姿に威厳があって、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、ってこういう風なんだ、と納得。遠くから見ていたのでよくは見えなかったんですけど。

後半の「ペトルーシカ」(NHKではこういう表記なんですね。ペトルーシュカではなく)は、そんな前半のもやもやを引き摺って聴き始めたせいか、やっぱり抑え気味なのか、縦の線の揃いが悪いなぁ(遠くで聴いていたので音がずれてきたのかも知れないけど)、なんて感じていたんですけど、あれ、フルートのフレージングステキ!とか、おもちゃ箱をひっくり返したようにきらきらのカオスで、今まであまり気づかなかったいろんな音が聞こえてきて、ごった返した市場の賑わいが目の前に広がって行く。ヤマカズさんの目の行き届いたフレージングやどぎついアクセント、イントネイションがどのパート、ソロからも聞こえて新鮮な、そしてグロテスクでもある「ペトルーシカ」を聴かせてくれます。それにしても、ヤマカズさんの持っている音のパレットがカラフルなこと。ヤマカズさんは「ペトルーシカ」(が似合う)!。と聴いたことがなかったのに聴いたことがあるように錯覚してて確信していたとおり。各楽器がキラキラと自分の音で輝いてる。人形の首が取れたタンバリンの音と言ったら。あら、首が落ちたと我に返っちゃいました。
ほんと、ヤマカズさんの色彩は天然の天才。これはもう神さまから与えられた才能。もちろん、天才でちやほやされるのはここまでで、これからは天才の閃きに加えて、説明できる論理性が大事になってくるとは思うのだけど、わたしのヤマカズさんなら絶対大丈夫。もう、ずっとあなたに付いて行きます(ってどこに?)。モンテカルロのオーケストラの監督として存分に腕を振るって、近い将来、モントリオールとかフランス国立とか、ステップアップして欲しいな。
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by zerbinetta | 2016-01-10 12:22 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

輝く、ブルックナーの原石 ミンコフスキ/都響   

2015年12月15日 @サントリーホール

ルーセル:「バッカスとアリアドネ」第1組曲、第2組曲
ブルックナー:交響曲第0番

マルク・ミンコフスキ/東京都交響楽団


わたしは出遅れちゃって、聴き逃したんですけど、去年評判が良かったミンコフスキさんと都響。今年は定期演奏会に登場。なんとブルックナー。それも0番。初めて聴きます。0番なんてすっとぼけた番号だけど、00番なんていうのもあるんですね。ついにわたしのブルックナー交響曲の旅も今日であとは00番を残すのみ。

前半は、ルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアドネ」の第1、第2組曲。組曲と言ってもこれでバレエの全曲。続けて演奏されました。音楽会では初めて聴くルーセル。「バッカスとアリアドネ」は雰囲気(とてつもなく大ざっぱに言って)、民族性を取り去ったハチャトリアンのような音かな。ちょっとイミフな例えは反省して、乾燥してがさがさした感じの音楽。きっちりとしたドライなアンサンブルをする都響向きと言えば言えるんでしょうけど、逆に都響のドライさゆえに潤い成分が足りなかったようにも思えます。ミンコフスキさんの指揮も即物的で(この曲って新古典主義の仲間に入るのかな?)、音の面白さはとても良く感じるけど、物語的なものはあまり感じませんでした。まあ、元々のバレエもわたし的にはあんまり面白くなさそうなんですが。逆に言えば、バレエ音楽と言うよりもストーリーのない音自身の面白さを感じさせる構造的な音楽であり演奏だったんですね。

後半はブルックナーの0番。0番と言うくらいだから、交響曲第1番より前に書かれた習作(?)かと思いきや、解説によると、第1番よりあと第2番の前に書かれたそう。でもね、なんか第1番より未熟な音楽に感じました。特に第1楽章のとりとめのなさ、スケルツォのトリオのあっけなさ、序奏付き(?)のフィナーレのヘンな感じの構成。でも第2楽章があるだけで存在価値あり。素晴らしい緩徐楽章でした。全体的にはまだブルックナーと言うよりメンデルスゾーン入ってる?って感じで、ワーグナーに汚される前のブルックナー。ブルックナーが確実にロマン派の時代につながっていたと感じさせる音楽です。でも、フレーズを何となく続けちゃうところがワーグナー的なのかしら。そこが弱点。あとのブルックナーだったら、休符でバサリと切断して(いわゆるブルックナー休止)、ブロック構造を作って明確化するんだけど、それがないのでだらりと音楽が流れて迷子になるのよね。第1交響曲はまだブルックナー成分が薄かったのでそれでも上手くいったのかしら(歌謡的だから?)。ブルックナーがブルックナーになろうとする過渡期の作品といっていいのかな。
それでも演奏はとても素晴らしかったです。サントリーホールだったのでいつもの指揮者が見える位置に座ったのだけど、ミンコフスキさん、ほんともう表現したい音楽が見てるだけで伝わってくるんですね。そしてオーケストラに魔法をかける。曲が曲だけに第1楽章は、やっぱりとりとめが無かったんだけど、第2楽章のロマンティックな美しさったら。歌うような演奏で、ロマン派の音楽を強く感じました。冷たいところもあるシャープな都響から柔らかな響きを引き出していたのはさすがミンコフスキさん。この曲を聴くのは(録音も入れても)初めてで、他と比べることは出来ない、自分の中に物差しはないのだけど、指揮者の意図のはっきりした、聴いてスッキリ気持ちの良い演奏だったことは間違いありません。ミンコフスキさんは今日の演奏で、ロマン派の中でのブルックナーの出発点を明快に示してくれたと思います。原石だけど、その中にきらりと輝くものを見せてくれました。だんだん、ブルックナーづいていく後期の交響曲でどんな演奏をするのか、聴きたくなりました。

ミンコフスキさん、良い指揮者だわ〜。都響はミンコフスキさんを離したらダメだよ。
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by zerbinetta | 2015-12-15 00:26 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

イギリス田園風景 尾高/日フィル   

2015年12月12日 @サントリーホール

フィンジ:クラリネットと弦楽のための協奏曲
ヴォーン・ウィリアムズ:バス・テューバと管弦楽のための協奏曲
シューベルト:交響曲第8番

伊藤寛隆(クラリネット)
柳生和大(テューバ)
尾高忠明/日本フィルハーモニー交響楽団


金曜日の公演を土曜日に振り替えての日フィル。土曜日のお客さんは(マナーが)良くないと言われていたので戦々恐々としていたのだけど、今日はそんな感じでもなかったです。わたしが鈍感で気にしないだけかも知れないのだけど。
前半は、尾高さんお得意のイギリスもの(尾高さんはウェールズの劇場で活躍しておられた)。後半にシューベルトのハ長調の大交響曲。それにしても、前半の2曲、初めて聴く曲。ロンドンでも聴いたことなかった(1曲目は作曲家の名前さえも初耳)。

フィンジのクラリネット協奏曲は、戦後書かれた音楽だけど、イギリスの田園風景を彷彿させるような、さりげなくロマンティックで分かりやすい曲。柔らかな光りの彩度を落とした風景画のような世界。クラリネットが優しいメロディを奏でていくところに、弦楽合奏が空気のように世界を満たしていく。懐かしいような田舎の風景の映像の裏に流れていくような音楽。読響の主席の伊藤さんのクラリネットもオーケストラもその風景に溶け込んでいて、でもただそれだけ、なんだよね~。そつなくきれいなんだけど存在感の薄い人みたいな。

RVW(ヴォーン・ウィリアムズをイニシャルをとってこう略すんです)のテューバ協奏曲は、テューバ吹きには有名な曲(と言うのはテューバ吹きの友達に聞いて知っていました)。テューバの協奏曲なんて珍しいですしね。テューバの良さ、低音の重さに加えて軽やかさもあるんですね、を生かし切ったマニアックではあるけど名曲だと思いました。自在に吹く読響の柳生さんもここぞとばかり楽しそうで。チューバの音楽を存分に楽しませてくれました。不満があるとしたら、曲が15分ばかしで短かったこと。あっという間に終わってしまいました。
それにしても、この2曲で日フィルのソリストの魅力の一端が分かったし、尾高さんとイギリス音楽の相性の良さが確認されたのでした。

休憩のあとは打って変わってシューベルト。始まりのホルンのユニゾンは、魅力的な音で魅力的なテンポだったんだけど、流れるような流線型の音楽が、シューベルト特有の翳の部分を隠してしまった感じがしてちょっと物足りなかったです。同じ田園風景も感じさせる音楽だけど、イギリスの音楽とシューベルトの音楽の風景って違うと思うんですよ。陽光の気持ちの良いお散歩なのに、歩くことに夢中になってしまって、足元の小さな花や虫の死骸、木の陰に潜む鳥を見逃してしまって、豊かな語彙が感じられませんでした。ちょっと雑だったし、オーケストラの音にももう少し潤いが欲しかったです。日フィルってどちらかと言うとドライな音のするオーケストラだと思うけど、せっかく積極的な奏者が集まっているんだから、丸味のある音も身につければもっと良くなるのに惜しいなぁ。
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by zerbinetta | 2015-12-12 12:28 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

はみでろっ!! ザンデルリンク/都響   

2015年12月10日 @東京文化会館

ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番
チャイコフスキー:交響曲第1番「冬の日の幻想」

アレクセイ・スタドレル(チェロ)
ミヒャエル・ザンデルリンク/東京都交響楽団

日本人がいいお酒を造るとき、吟醸とか大吟醸とかお米を徹底的に精米して半分以上も米粒を削って捨てちゃうよね。それで雑味がなくなった純粋な味で、上善水のごとし、とか言っちゃって、上等なお酒は水のようだと。ということ外国人に説明したら、えっ?っと目を丸くして、何で水なの?おいしくないじゃん、と言われて、良いものは水のように純粋とかなんとか説明したけど、きっと分かってもらえてない。一方、フランスのワインは、最高級のものでもわざと、ブドウの種や茎を入れて雑味を出したり、本質的に違うのよね。音楽だってそう。日本のオーケストラって、雑味を削って水のような味わいを求めているような気がする。都響もそう。削りに削って純粋で切れ味の鋭いシャープな音を求めているように思うの。それが良い悪いかは別にして。

今日の音楽会でもそういうのを強く感じました。
ショスティのチェロ協奏曲は確か、献呈されたチェリストの誕生記念に書かれたのにめっちゃ暗い曲になっちゃったのよね、しかも誕生日に間に合わなかったし、と思って聴き始めたら、明るい音楽でびっくり。違う曲でした。チェロじゃなくてヴァイオリンだしーー。いつものわたしの勘違い。
今日のおふたり、ザンデルリンクさんとチェロのスタドレルさん、イケメン。眼福。って言っても遠目だし、目が悪いのでよく見えないんだけど。若いスタドレルさんのチェロは、今も上手いけど将来への伸びも感じさせる音。曲が明るいのでリラックスして弾いてた感じです。もともと腕利きのチェリストだったザンデルリンクさんの伴奏もチェロをサポートするようにとても上手く付けていて、ソロとオーケストラが一体となった音楽を作っていました。凄くまとまりのある演奏でした。音楽的主役はむしろザンデルリンクさんだったのかな。
スタドレルさんが弾いたアンコールは、バッハの無伴奏組曲第2番(短調のやつ)からサラバンド。あれ?こんな曲だったっけって思ったのは、旋律の作り方がわたしの思ってたのと違ったからかしら?ちょっと不思議な感じでした。

「冬の日の幻想」は、都響の研ぎ澄まされた音ゆえに幻想的ではなくてリアリスティック。カミソリの刃のように鋭い雪が降ってきます(北国では本当に冷たさが刃物のように痛い雪が降ることあるんですよ)。この冷たさは、あっそうだ、ムラヴィンスキーのレニングラード・フィルに似ているような気がする。切れ切れの鋭いアンサンブル、銀色の怜悧な音色。レニングラード・フィルは、ミスしたらシベリア送りという噂がまことしやかに囁かれていたけど(ほんとかなぁ)、都響の場合は自然にそうなっているところがなんか凄い。ある意味とても日本人的なオーケストラという感じもしますね。わたし的にはこの曲にはもっと柔らかな明るい雪が似合うと思うのですが。それに都響さんにはもっとやんちゃやって欲しいし。枠からはみ出して。
だから、ザンデルリンクさんと都響って根っこの部分で相性がいいというか同じ方向を向いているような感じがしました。都響の音も特に木管楽器にいつになく潤いがあって、これから一緒に仕事をしていけばとても良いマリアージュになるんだなと思う、と同時に、都響には変化が必要と思うので違う指揮者の方がいいんだろうな、とか思ったりして。でも、ときどき客演して欲しいなと思うザンデルリンクさんでした。





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by zerbinetta | 2015-12-10 22:38 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

円熟から、人生最後への旅 ヴァンスカ/読響 シベリウス最後の3つの交響曲   

2015年12月4日 @サントリーホール

シベリウス:交響曲第5番、6番、7番

オスモ・ヴァンスカ/読売日本交響楽団

ヴァンスカさんのシベリウスを聴きにサントリーに来ました。というのは嘘で、うっかり今日は、上野の都響だと思って上野に行く気満々だったのに、確認したら読響でびっくり。危うく上野に行ってしまうところでした。
気を取り直して。ヴァンスカさんのシベリウスを聴くのは、久しぶり。数年前シベリウス・イヤー(は今年)でもないのにロンドン・フィルとシベリウス・サイクルをやって7曲の交響曲の素晴らしい演奏を聴いたのでした。シベリウス・サイクルは他にも聴いたことがあるのだけど、全交響曲をひとりの指揮者で聴いたのは、ヴァンスカさんだけです。読響とは、3回の音楽会で、交響曲は第1番と2番、それと最後の3つの交響曲等を採り上げます。でも、わたしが聴くのは、最終回の今日だけ、大好きな3つの交響曲の回です。

先に結論を書きましょう。人生を長く生きてきて本当に良かったと思った音楽会でした。シベリウスの最後の3つの交響曲の旅が、人生の後半に入ったわたし自身の時の旅に重なって。これは若い人には分からないだろうな。若い人にはこの音楽会はちゃんとは聴けないだろうなって。全若者を敵に回すような発言だけど、もちろん若い人には若い人の聴き方があるし、わたしも若かったら違うふうに考えただろうし、年寄りといってもまだ人生の後半に入ったばかりの甘ちゃんが何を言うと全老人から反感を買うに違いないのだけど、でもこれしかない適切な時にこの音楽を聴いたと感じた多幸感といったら。(多分それぞれの世代の人がそれぞれ違う風に同じように感じているのに違いないけど)そんな音楽会でした。

ヴァンスカさんのシベリウスは、むしろ熱い。シベリウスの音楽は、怜悧で透明な純化した魂を持った音楽だとよく言われるし、冬をイメジする人が多いように思うんだけど(わたし自身は、ヴァイオリン協奏曲は例外で、交響曲は(北国の)夏のイメジです)、ヴァンスカさんのは少し違うと感じるんです。情熱的で熱い血が通っていて、透きとおっているというより命の濁りがある。生きているって濁を飲み込むことですよね。霞を喰って生きていく仙人ではないのだから。そして今日のヴァンスカさんのシベリウスはそんな生から魂を解放して純化していく旅。

第5交響曲は、人生の頂にあるような、熱と円熟の渦のようなパワー。でも、ヴァンスカさんの演奏は、完全にポジティヴと言うのではなくて晦渋を含んでいるのがユニークだと思うんだ。粘りに粘って解放されるエネルギーの大きさ。決してシベリウス的とは言えない(暖色系の)読響を一音一音煽り勇気づけて音楽を作り上げていく、まさに今そこに産みの苦しみがあるみたいに。ヴァンスカさん鬼神のよう。ただ少し残念なのは、読響がヴァンスカさんの表現(この交響曲では、テンポや強弱の揺れ、表現の幅が大きくて付いて行くのが大変だったかも。でもはっとする弱音の美しさはステキでした。ヴァンスカさんの弱音へのこだわり響きの作り方は素晴らしい)を完全に自分のものとして音にできていないところもあって、例えば、溜に溜めたエネルギーの解放が為し切れていないようにも感じました。ゲスト・コンサートマスターの荻原尚子さん(ケルンWDR交響楽団のコンサートマスター)も読響を引っ張って、ヴァンスカさんの音楽作りに果敢に挑んでいたけど、その先にあるヴァンスカさんが求めていた音楽の深淵には届かなかったみたいな。素晴らしい音楽(シベリウスのだけではなくてヴァンスカさんの)に素晴らしい演奏であった実でももっと出来るハズと欠けがあったのが心残りでした。

休憩のあとは、第6番と第7番が演奏されました(曲の間に指揮者の退場あり)。第6番は、もう大大大好きでずうっとわたしの裡でシベリウスの一番を占めていたものです(今は第7番が同じようにわたしの中に凝っている)。魂が洗われるように透明な響きが大好き。始まりの泉の湧くような清廉な美しさと言ったら。以前聴いたヴァンスカさんの演奏は、でも、むしろ熱が放射されていて、特に第4楽章の情熱は、わたしのシベリウスからは少し離れているとも思ったのですが、今日の演奏は、そういう熱を残しつつも玉が磨かれたように円熟した音楽。ロンドンのオーケストラよりティンパニが控え目だったのも深さを増した感じにさせたのかな。わたしにとって些細な疵(例えば第1楽章で弦楽器が細かい音を奏で合うところ、合わせるのが難しいせいか少し合わせにいってしまったとか)はあったものの、ぐっと心を掴まれる名演。

そして最後の第7番。ヴァンスカさんと読響との音楽の旅の時の旅の終わり。それにふさわしいというか、それしかないだろうというおおきく満ち足りた名演。身体の中が濁りのない水で満たされていってチェレンコフ光のような温度のない光りに包まれていく。最期の時への変容。ありがとうヴァンスカさん。ありがとう読響さん。
最後の音、魂を体の束縛を解いて自由に空に放つように、音を蒼空(そら)に放つところ、サントリーホールの音響を持ってしてもまだ完全には放ちきれなかったように感じたけれども、でも、これでいいんだ。だって、ヴァンスカさんもわたしも(そしてシベリウスだって)まだ、旅の途中なんだもの。今、解き放されてしまったら。。。でも、いつか最後の時が来たら、冷たいひとつの幸せの滴を頬に感じながら、この音を思い浮かべたい。音と共に宙に消えていきたい。






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by zerbinetta | 2015-12-05 13:02 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

コンクールにはあまり興味がないの フェドセーエフ/N響   

2015年11月21日 @NHKホール

ショパン:ピアノ協奏曲第1番
グラズノフ:バレエ「四季」より「秋」
ハチャトリアン:バレエ組曲「ガイーヌ」抜粋
チャイコフスキー:序曲「1812年」

チョ・ソンジン(ピアノ)
ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団

フェドセーエフさんの「レズギンカ」がサイコーという噂を聞いて取ったチケット。今年のショパン・コンクールの優勝者のお披露目というおまけ付き(あとで気がついた)。世間的には、ショパン・コンクールの方が主役なのかも知れないけど。。。わたし、コンクールにはあまり興味がないので。。。

プログラムの前半が、コンクールの覇者、チョ・ソンジンさんを迎えてのショパンの協奏曲。ピアノのことなど何も知らないわたしの印象は、ソンジンさんとても上手いというか、とても整ってる。聴いていて欠点が見当たらないのよね。減点法の採点をするとマイナス部分が見つからずに満点になっちゃうみたいな。ところが、反対に言うと整いすぎていてつまらないというか、心に来ないんだよね。何か引っかかる部分、心を乱す部分があると魅力的なのに、つるりとして、すり抜けていっちゃう。ショパン・コンクールで、減点なし、だから優勝した、なんて低レヴェルなものじゃないとは思うのだけど、ある意味コンクール向きのピアニストなのかも知れない、現時点では。
アンコールで弾いた「英雄ポロネーズ」は、乱れたところがほんのちょっぴりあったけど、むしろ表現意欲が感じられていて良かったです。この人はまだ、オーケストラを従えてっていうことにまだ慣れていないのかも知れません。ひとりで自由に弾いたときの方が、格段に良かったもの。コンクールに優勝したてで、これからの活躍が期待される人だけど、コンクールの栄誉はとりあえず忘れて、音楽の深みにはまっていって欲しいな。スターになんかならなくていいから、自分と音楽の戦いを地道に続けていって欲しいです。

後半は、打って変わってロシア、前半のお付き合いのうっぷんを晴らすような(ってほんとか?)フェドセーエフさんの真骨頂。凄く良かった。耳障りの良い(わたしのお節介な辞書によると誤用だそうです)だけのグラズノフは置いといて(でも、N響ならではの繊細な音作りは良かったです)、「ガイーヌ」。いきなり有名な「剣の舞」からはっちゃけて始まるのに楽しさマックス。これはノるよね。勢いが凄くあるんだけど、勢いに吞まれることなくちゃんと音楽的なさじ加減は、フェドセーエフさんのなせる業かな。「ばらの少女たちの踊り」「子守歌」に続いて、真打ち「レズギンカ舞曲」。リムショットやアドリブを混ぜた小太鼓バンザイ。これが噂のフェドセーエフさんの「レズギンカ」か。ティンパニも何気にめちゃ正確に叩いてた木琴も打楽器の皆さん素晴らしい。一緒になって首振っちゃったよ。本当はこういう音楽、オールスタンディングでヘドバンしながら聴きたい。血が沸騰する音楽だよね。フェドセーエフさんの面目躍如。何なら、拍手に応えていきなり小太鼓が叩き出してアンコールをしても良かったくらい。ああ、そうして欲しかった。

お祭りのあとは、「1812年」。先日、フランスでテロがあって、その痛みを表明するために、フランスの国歌にちなんだ音楽をと、うっかり選んでしまった「1812年」。ナポレオンのフランスがロシアに木っ端微塵に撃退される音楽なのにね。という冗談も浮かんでしまううっかりタイムリー。あっ、もちろん曲目なんてずいぶん前に決まっていてテロには何の関係もなく、なんだけどさ。でも、今この時期に敢えて聴くのはちょっぴりフクザツだったり。
最初のヴィオラとチェロの室内アンサンブルから耳を惹きつけられる。フェドセーエフさんの演奏は、少し速めであっさりしているかと思うと、さりげなく歌わせて叙情的。このさじ加減がいいのよね。実は、「1812年」ぽとんと涙を落とすくらい好きなんだけど、フェドセーエフさんの演奏、とってもとってもステキ。ロシアものは俺の音楽だとばかりの自信というか、自然にあふれ出てくる音楽。前半のショパンがちょっとお客さんぽかった(協奏曲の伴奏でもあるし。しかもショパンの)のに、後半は完全に音楽の主人。最後の教会の鐘や、大きな大太鼓の大砲、バンダの金管楽器の祝典はしかし、盛大だったけど、さらさらと少しだけ抑え気味でエネルギーを溜めて、打楽器のトレモロを長〜く伸ばしてエネルギーを解放する見事な手綱さばき。チャイコフスキーはかくあるべしと音で示して彼の音楽を聴かせてくれたのでした。フェドセーエフさんで、オール・ロシアのプログラム聴きたい。ボロディンとか、ボロディンとか、ムソルグスキーとかハチャトリアンとか。やってよいつか。





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by zerbinetta | 2015-11-21 09:03 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

わたしも体液になりたい 作曲家の個展2015 原田敬子   

2015年10月27日 @サントリーホール

原田敬子:響きあう隔たり III、第3の聴こえない耳 III
     ピアノ協奏曲、変風

廻由美子(ピアノ)
稲垣聡(プリペアド・ピアノ)、シュテファン・フッソング(アコーディオン)
加藤訓子(打楽器)、曽根朗(音響)
中川賢一/アンサンブル・モデルン、桐朋学園オーケストラ


御招待に応募してみたら当たった(!)ので聴いてきました。サントリーホールの作曲家の個展、今年は原田敬子さん。
原田さんは、初めて聴くお名前。全く予備知識が無いので、せめてどんな人か調べるためにウィキってみたら、なんかとっても凄い人で、でも作品(作風)の特徴については書いてあることがちっとも想像できない体たらく。
音楽会に先だって、音楽評論家の高橋健太郎さんを聞き手に、原田さんとピアノの廻さんを交えてプレコンサート・トーク。これがね~~~。ぐだぐだだったのぉ~~。高橋さんが全く仕事で来てなくて、お終いも原田さんに促されて終わりにするという、まず司会者としてダメ。聞き手としても上手くお話を引き出すふうでもなく。ちゃんと仕事しろよー。

さて、原田さんの創作のアイディアは『演奏家の、演奏に際する内的状態を創造する』(以下、二重カギ括弧はプログラムに書かれていた原田さんの言葉)が根底にあるそうです。『音楽を聴くと体液が変化する』というキルヒャーの言葉(1650)。聴衆側の変化が「体液」だそうですが、わたしは果たして体液になれるんでしょうか。
「響きあう隔たり III」(2000-01)では、それは「『自らの音を聴き、他を聴き、そしてその隔たりを感じ取りながら全体を聴く・・・』ことになり、「第3の聴こえない耳 III」(2003)ではさらに、『響きを連結する際に必要な音楽的エネルギーを、物理的には音が発音されない”間”の領域にまで』広げられていきます。10年を隔てた新作、今日が初演のピアノ協奏曲(2013-15)では『強烈な個の自律的な出会いとしてのオーケストラ曲』、そしてさらに「変風」(2015)で『強烈な個性の集合体が、他律的に各々の場所で存在する音楽』と変化していく。その兆しとこれからのキーワードが変風。

分かりましたか?わたしは、プログラムの説明を読んでもやっぱり分かりませんでした。ただ非常に観念的に、頭の中で論理的に組み立てられている音楽だとは分かります。ただそれを耳で聴いて体得できるか?そこが、わたし自身の問題、体液の欠けなんです。聴いたときに少しもやもやした気持ちも残りました。それはきっと、プログラムにも書いてあった彼女の音楽的主張がよく聴き取れなかったから。現代の音楽がまだ、聞き分けられないの。

でもね、頭では理解できなくても素晴らしい音楽!もっと聴きたいしもっと聴かれても良い音楽と感じました。原田さんの音楽は、楽器の音を壊すような極端な特殊奏法を使っていなくて、普通にオーケストラを聴いてきた耳にも素直に入ってくる音で構成されています。多分楽譜を見ると、そして演奏する奏者にとってはものすごく神経を使う難しさがあると思うんだけど、聞こえてくる音は涼やかで、耳を澄ましたくなるけど、緊張を強いるような音楽ではありませんでした(もっと鋭く聴かなきゃいけないのかもしれないけど)。

1曲目の「響きあう隔たり III」ー年譜によると彼女の2作目のオーケストラ作品ーが、外見的には一番複雑で、3人の独奏者(プリペアド・ピアノ、アコーディオン、打楽器)にエレクトロニクス、客席に数人のヴァイオリンを配しています。ただわたしの席からは、客席のバンダを見下ろす格好になっていたので効果はよく分かりませんでした。
外見とは反対に作品が下るにつれて、シンプルだけど、音の関わりは複雑になっていたように思えます。2曲目の「第3の聴こえない耳 III」は、もしかしたら音を伴う「4分33秒」のようなコンセプトの音楽なのかも知れませんね。ただ、実際、わたしは音を聴くしかないので(ステージを見つめているにせよ)、少し頭でっかちかもって思いました。

休憩のあとのピアノ協奏曲(初演)は、音楽としては凄く良かったけど、ブラームスの以上にピアノが目立たなくて、きっとものすごく大変なこと弾いてるのに、え?これ協奏曲?みたいになって残念(採り上げるピアニストがいないと演奏機会が減るから)。内部奏法も多いし、繊細な音をピアノに求められているんだけど、もっとガシッとピアノが前に出てくれば、ピアノとオーケストラの対比や対話、対決が生まれて良かったのにと素人のわたしは思いました。でも、原田さんの興味はそういうところではなく、もっと内面的な音が出る前のエネルギーのやりとりなのかも知れませんね。
最後の「変風」(初演)では、部分部分を細部から組み立てて全体を作る、少し即興的な(楽譜にはきっちり書き込まれているのかも知れませんけど)揺らぎのある音楽でした。
それにしても原田さんの明確な論理性とその論理を離れて音自身が自由になる自律性のせめぎ合い、というか偶然性までが説明可能なフラクタルな方向に進んで行くのかしら。わたし、この曲好きでした。

うーーむ。それにしてもトホホな感想。原田さんが引用していた、安富歩さんの言葉「3歳の女の子の鼻歌が、そのまま複雑化していった音楽」って本質を突いた素晴らしすぎる言葉だな。わたしも音楽を聴いて、一言で的確に中心を射貫く感覚と言葉を身につけたい。センシティヴな体液として。

中川さんの指揮するオーケストラは桐朋学園の学生さんのオーケストラに、アンサンブルモデルンのメンバー7人が入って核を作ります。とても献身的にプロではないけれどもしっかりと仕事をした演奏は素晴らしかったです。作曲家もこういう演奏をしてもらえると、しかも東京のクラシック音楽の中心のひとつのプレステジアスなホールで。
今日はわたしにとってもステキな出逢いでした。
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by zerbinetta | 2015-10-27 21:37 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

わたしの名演ノート P.ヤルヴィ/N響   

2015年10月24日 @NHKホール

トゥール:アディトゥス
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番
バルトーク:管弦楽のための協奏曲

みどり(ヴァイオリン)
パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団

ミドリさんって海外(USとかヨーロッパ)では、midoriの表記なんですけど、日本では名字が付いて五嶋みどりになるんですね。不思議〜〜。
ということで(?)、またパーヴォさん(もう兄ビーとは言えないな)とN響。+みどりさん。以前のN響をよく知っているわけではないけど、パーヴォさんが来られてN響がずいぶん変わっていく(良い方に!)感じを、周りからもわたし自身もひしひしと感じていて、外すことができない注目の音楽会(そう言う割にサントリーの方には不参加なんですが)。

始まりのトゥールさんは、パーヴォさんと同郷のエストニアの作曲家。プログレッシヴ・ロックから音楽活動を始めたそう。ううむ。カラフルで聴きやすい音楽だと思ったけど、1回聴いただけでは、何も残らなかった、かな。リンドベルイさんとかサロネンさんとか、北欧系の作曲家に流行りなのかしら、こういう感じの音楽。その中で、際立つというか頭が抜けるのは大変みたいかも。よく分かってないのに言うのも何ですけど。。。

みどりさんをソリストに迎えたショスティのヴァイオリン協奏曲、予想通りのピンと張り詰めたエッジの効いた演奏でした。わたし、実は、みどりさんが苦手なんですね。ものすごくいいのに、良すぎて、苦しいんです。集中しすぎて息ができなくて窒息してしまう感じ。神経が研ぎ澄まされすぎて鋭利な刃で、いい加減なわたしが切り刻まれてしまう。ショスティの協奏曲だと、中間のパッサカリアはそれが凄くいいんだけど、第1楽章の愚痴には真面目すぎるし、最後はもっとはっちゃけて音量とグラマラスさが欲しかったです。みどりさんは鬼神のようにのめり込んで弾いてたけど、少し潤いがあればって思いました。彼女の特徴のホールを鳴らす弱音(最弱音なのにホールから響いてくる!それもNHKホール!)は健在で、もうこれには参りましたと言う以外に言葉がない。苦手だけれどもやっぱり凄いヴァイオリニストだわ。パーヴォさんとN響は、みどりさんに添って音楽を付けて、みどりさんにのせられた感じもしてとても良かったです。活躍するティンパニも素晴らしかったです。この曲は、カヴァコスさんとかサラ・チャンさんとかいろんな人で聴いてきたけど、みどりさんのもわたしの名演ノートにしっかり記録されたのでした。

バルトークの管弦楽のための協奏曲も輪をかけて素晴らしかったです。各楽器がソロも合奏も含めてしっかりとコントロールされつつ、自発性を伴った音楽で、今のN響の好調ぶりを遺憾なくアピール。インターナショナルで(N響は日本ドメスティックなオーケストラなのに)、バルトーク訛り(ついでに日本訛りも)は聴かれないけど、バルトークの書いたスコアをパーヴォさんのレシピで丁寧に音にしたら、自然に作曲家の心情までもが音楽に立ち現れた名演。後ろに回ったときの弦楽器の絶妙なニュアンス。聴いたことのないそして記憶に刻まれるオケコンでした。この曲のひとつの理想的な演奏ではなかったかしら。哀しみでもない、スポーティなヴィルトゥオーゾでもない、ものすごくスッキリとした感動。あらゆるものが悲しみさえも昇華され純化されて心臓を包みました。





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by zerbinetta | 2015-10-24 20:54 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

絶望、諦観、自棄 ラザレフ/日フィル ショスティ9   

2015年10月23日 @サントリーホール

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「妖精の口づけ」
チャイコフスキー/タネーエフ:二重唱「ロメオとジュリエット」
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番

黒澤麻美(ソプラノ)、大槻孝志(テノール)、原彩子(ソプラノ)
アレクサンドル・ラザレフ/日本フィルハーモニー交響楽団


今シーズンから、定期会員になってみた日フィル。主席指揮者のラザレフさんがショスティの交響曲のサイクルをやっていることは風の噂に聞いていて、うううーくやしいって思いをしていたんだけど、今日やっとその4回目から参加。ショスティの交響曲としては軽い、虚を突いた第9番。ベートーヴェン以降、呪いがかかったというか特別の番号感のある9番。しかも終戦後最初の交響曲。当時のソビエト共産党の期待を見事に外したショスティの皮肉なセンス、なんて勝手なこと言ってるけど、実際のところショスティの心境はどうだったのでしょう?この曲でまた致命的な批判を浴びてしまうのだし。でも、軽妙な交響曲だと思っていた時代も今日で終わり。とんでもない演奏が聴けたのでした。

初ラザレフさんとの出逢いはあまり良くなかったかな。せかせかしてあまり落ちつきない感じで(指揮も音楽も)。ストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」は、カラフルなはずのストラヴィンスキーのオーケストレイションが、モノトーンに聞こえて、タイトルからすると甘いロマンティックなバレエのように思えるんだけど(物語を知らないので間違ってたらごめんなさい)、オーケストラの音色の特徴もあってちょっと殺伐とした感じがありました。

「ロメオとジュリエット」はチャイコフスキーが未完で残した2重唱曲をタネーエフが完成させたもの。有名な幻想序曲の叙情的な部分に歌を付けた感じの曲だけれども、わたし、こんな曲があったなんて初めて知りました。2重唱なのに歌手は3人。ソプラノの黒澤さんがジュリエット、テナーの大槻さんがロメオ、もうひとりのソプラノの原さんがロザラインで見事な三角関係、なハズ無く、原さんはほんのちょい役、逢い引きするふたりに朝を告げる乳母役で、出番も一瞬。トリスタンとイゾルデみたいな逢い引きシーン、プロコフィエフのバレエだったら3幕のベッドルームのシーンかな。
ほの暗いロマンティックな音楽は夜の香りがして、オペラのワンシーンのよう。実際チャイコフスキーはオペラを目論んでいたこともあるのですね。歌のおふたりの親密さとか、もう少し肉感的なエロスの香りがあっても良かったとは思いましたが(意外とさっぱりしてた)、珍しい曲を聴けて良かった♡思いがけず知らない曲に出逢うのも定期演奏会の醍醐味ですしね。

そして、ショスティ9。これが。。。
軽妙?洒脱?小さな音楽?とんでもない。ラザレフさんの音楽は、重く、嘲笑と諦めに満ちている大交響曲。胃に鉛を飲みこんだようなずっしりと淀んだ悲しみ。そして自棄。そう言えば、青春の快活な交響曲第1番を第15番の次の曲のように壮大に演奏したスクロヴァチェフスキさんのことを思い出しちゃいました。
第1楽章からある種の恐怖。はしゃぎ方に目が据わってるというか、昔チェコの小さな町で、大勢の(多分)学生が昼間っから酔っぱらって歌って行進してるのを聞いて覚えた恐怖。言葉の通じない異国の町で独りで。そんな孤独な不安がはしゃいでる音楽の向こうから聞こえてきます。尋常な音楽ではない、今日の演奏。ラザレフさんはこの音楽をどういう思いで指揮してるんだろう?ショスティの音楽って一見とは違って、皮肉や暗喩、作曲家のねじ曲げられた思いが絡まった音楽だから、一筋縄ではいかないけど、この曲を淵の底で演奏するなんて。皮肉も暗喩も真実(マジ)になって攻めてくる。深く暗くどろどろした音楽。諧謔は何処?
木管楽器のソロが、3楽章のおどけたクラリネットでさえ、孤独。そして、それは、第4楽章でついに極限へ。怪獣が現れるようなトロンボーンとシンバルの合図で立ち現れるファゴットのソロ。ついにラザレフさんが壊れてしまう。絶望。諦観。自棄。そうとしか思えない表情。指揮棒がリズムを刻まない。背筋が凍る。
そのまま引き摺るようにファゴットが粘るように駆けだして音楽が喧噪しても気持ちは重いまま。もうこうなったら、やけのやんぱち。やけっぱちのどんちゃん騒ぎ。肯定でも否定でもない。救いのない、、、いいえ、刹那で永遠の救いを音楽の喧噪に。。。それは幻影。それともリアル?
すぐには拍手は出来なかった。これが本当の第九?多分、異形のものすごく異端な音楽。でもこれもひとつの真実。だからこそ音楽って怖ろしい。こんな音楽を作り上げてしまうラザレフさん。それに応えた日フィル。我に返って熱い拍手を。

それにしてもラザレフさん。カーテンコールのときステージ上を縦横無尽に(どなたかロボット掃除機のルンバのようにっておっしゃってらしたけど言い得て妙!)歩き回って演奏者を湛えていました。ステージドアの向こうの行き止まりで戻ってきたのもルンバっぽい。そして、演奏する側としてではなく聴く側としても音楽(ご自分の演奏)を楽しんでいる様子が拍手にも表れていて、ステキでした。

日フィルって今、都下で一番面白い演奏をしそうなオーケストラだな。多分オーケストラの技量が指揮者の要求に応えることでいっぱいいっぱいで素直に指揮者の音楽を表現するからだよね。それに個々の奏者の積極性がステキ。
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by zerbinetta | 2015-10-23 21:11 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

弥七、走らず 西谷/ブロッサムフィル   

2015年10月18日 @ティアラこうとう

ベートーヴェン:交響曲第5番
チャイコフスキー:交響曲第5番

西谷亮/ブロッサムフィルハーモニックオーケストラ


また、知らないオーケストラ。ブロッサムフィル。オーケストラ連盟には入ってないけどプロのオーケストラです。東京にはいろんなオーケストラがありますね。指揮者の西谷さんの下に集まった、主にフリーの音楽家によるオーケストラ。地域(江東区)に根ざした活動をしていて、トップ・レヴェルのオーケストラではなく、いろんな人に聴いてもらおうということを前面に出している団体です。西谷さん、どこかで聴いたことのあるお名前だと思っていましたが、東京ハートフェルトフィルハーモニック(アマチュア)の創設者だったのですね。彼の指揮では聴きませんでしたが、オーケストラ・プロフィールに載っていたのを覚えていました。それで納得。THPOも「音楽音楽による地域社会活性化、低年齢層への音楽文化定着、音楽に触れる機会を持つことが困難な方々への積極的アクセス等を団の活動方針」にすることを謳ってますから、同様のことをプロのオーケストラでやるべく2008年に作られたのですね。あなたの隣のオーケストラ。

敷居低くいろんな人に聴いてもらう活動をしている(今日の音楽会も家族連れが多かったように思います)からと言って、レヴェルを下げた演奏ではないし、分かりやすさを前面に出しているわけではありません。本物を聴いてもらうことで音楽ファンを広げるという当たり前の方針です。今日だってベートーヴェンとチャイコフスキーの交響曲(どちらも第5番。テーマは「運命」)の重厚なプログラム。でも、始まる前にロビー・コンサートがあったり(それを聴いていた西谷さんの笑顔、ステキでした)、指揮者による解説があったり、俳句の募集があったり、プログラムの解説も通り一辺倒のものではなくて、クラシック音楽に興味はあるんだけどまだあまり慣れ親しんでいない人にも分かりやすく書かれていたり、随所に工夫が。良いですよね。

ベートーヴェンは、多分、わざとではなくて計らずして指揮者の西谷さんの性格が出たんだと思うんだけど、喉ごしの良い、分かりやすい演奏。ベートーヴェンのこの交響曲が書かれたのはちょうど、東海道中膝栗毛が書かれていた頃。当時大人気を博したこの本も今のわたしたちには読むのが難しいように、昔の言葉で書かれたベートーヴェンの音楽は、分かった気になっていても本当は作曲家の書いた奥の奥まで分かって聴いているのかどうかは、疑わしい。と、わたしは感じることがあるんだけれども、西谷さんの演奏は、現代語訳のベートーヴェンと言ったらいいのかしら、するりと入ってくる感じ。それが本当に良いのか悪いのかは問題ではなくて、みんなが楽しめる音楽を演奏してくれる意義は大きいんだと思います。

後半のチャイコフスキーは、時代が下って明治の「舞姫」の頃(交響曲が2年先行)なので、(今の倫理観からみる主人公がクズ男だということは置いといて)言葉も近いし感覚的に分かりやすいんですね。そういう肩肘が張らない分、演奏する方も聴く方も余裕が出来て、とても良い演奏になっていたと思います。音楽の流れに自然で、恣意的なところはほとんど無くて、西谷さんの音楽に合ってるんだろうなって思いました。ところでわたし的には、チャイコフスキーの交響曲第5番というと第4楽章の風車の弥七のテーマなんだけど、今日の演奏は、あまり弥七感がなかったな。って、はい、どうでも良いことですね。

アンコールは、弦楽合奏版のアンダンテ・カンタービレ。交響曲で熱くなった気持ちを柔らかく冷まして、午後のお茶会みたいなアットホームな雰囲気の音楽会は終わったのでした。近所にこういうのあるとステキよね〜。シティ・フィルのレジデンシーもあるし、シティ・バレエやお昼のワンコイン・コンサートとかティアラこうとうってがんばってるな。
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by zerbinetta | 2015-10-18 23:38 | 日本のオーケストラ | Comments(0)