カテゴリ:日本のオーケストラ( 91 )   

たゆたう時間 サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ <ホリガー>   

2015年8月27日 @サントリーホール

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
グザビエ・ダイエ:2つの真夜中のあいだの時間
ホリガー:レチカント
ホリガー:デンマーリヒト ー薄明ー
シャーンドル・ヴェレシュ;ベラ・バルトークの思い出に捧げる哀歌

ジェヌヴィエーヴ・シュトロッセ(ヴィオラ)
セーラ・マリア・サン(ソプラノ)
ハインツ・ホリガー/東京交響楽団


サントリー財団サマーフェスティバルの今年のテーマ作曲家は、ハインツ・ホリガーさん。稀代のオーボイスト。わたし的にもやっぱりオーボイストで、作曲もしているというのは一応知っていたし、確かうちにCDがあるはず、と思って探したら、むむむ、他の人の現代のオーボエ作品で、ホリガーさんは演奏者だった。
この音楽会、サントリーホールのウェブ会員になると(ちょこちょこと必要事項を入力するだけ。無料だし、ホールからのご案内は来るけどそれでメイルボックスがいっぱいになっちゃう程ではないし、特典もあるからオススメですよ)、毎年このシリーズのオーケストラの部のチケット・プレゼントがあって、今年も当たっちゃった。でも、去年、一昨年と偶然同じ席が当たって、わたしの指定席かなと思っていたら今年は違う席でした。

ホリガーさんが作曲家として関心を持っている作品を自作に添えての音楽会。始まりは、出発点とも言えるドビュッシーの「牧神の午後」。ホリガーさんがどんな音楽をするのだろう?と観ていたら(聴いていたら?)、最初のフルートのソロから、細かく振りまくり。奏者を信頼して自由に吹かせても(練習でしっかりと欲しい音楽をたたき込んで)良いんじゃないかしら、窮屈よねって思ってしまいました。ソロだけじゃなくて、ずうっと細かな拍で振り続けて、なんかそよ風の薫る音楽なのに目には嵐が吹いているみたい。目を瞑って聴いている分にはものすごく繊細な音楽(お終いの方の古代シンバルの扱いが面白かった)に聞こえるのでしょうけどね。ホリガーさんの音楽の特徴は、縦の線を合わせるというより、ゆらゆらと伸縮しながら重層する横の線の流れを大切にするみたい。全てがコントロールされていて、コントロールされないところに官能があると思っているわたしは、微細な精密画を観ている驚きはあるけど、牧神の夢想したエロスは感じませんでした。

2つめの「2つの真夜中のあいだの時間」は、作曲者の言葉を借りると「いくつかの時間の合っていない大時計が予期せぬ時を告げるように」、オーケストラの中で時間が曖昧になって、楽器(群)の間の時間の位相のずれがたゆたうような音響を作っていくような音楽なんですけど、あっそうか、ホリーがさんの関心事って、音楽の縦に存在するリズムではなくて、横に流れる時間なのねって納得。

それはホリガーさんの作品にも色濃く示されていて、ヴィオラのソロとオーケストラのためのレチカントは、しゃべるような(レチ(ターレ))歌うような(カント(ターレ))ヴィオラの独奏と、それに絡んでたゆたうようなオーケストラ。ヴィオラとオーケストラの対話というより、ヴィオラとオーケストラが何となくそこにいてゆるやかな化学反応をしている感じ。完全に自分の音楽として演奏しているヴィオラのシュトロッセさんがとても素晴らしくて、この曲に新たな解釈者を得て(献呈者はツィンマーマンさん)広がりを持っていくんだろうなって思いました。

もうひとつの「デンマーリヒト」は今日が初演。ホリガーさんが大晦日に皇居のそばの公園で作った俳句(ドイツ語で)を元にした5つの歌。和風かというとちっともそうではなく、でも、時間の流れの曖昧さはもしかすると、雅楽のような規定されない時間のゆらぎに共感があるのかなとも感じました。厳格な書法を超えて自由に歌われる歌(サンさんがとても自然に歌いました)と暗くて清廉なイメジのオーケストラ。今日の音楽の中でこれが一番好きでした。

反対に、「バルトークの思い出に捧げる哀歌」は、打楽器が一定のリズムを打っている音楽で、わたしには、それがホリガーさんの微妙に伸縮する音楽とは矛盾するなって思えました。むしろ、きちんとした一定のリズムで進めた方が、有無を言わさないビート感(それが悲しいものであれ)が生まれて音楽が自然に力を持つように思うからです。でも、初めて聴く曲なので、確固たるリズムでやると違った音楽になってしまうのかもしれません。いろいろ聴いてみたいな、と思いました。

それにしても、ホリガーさんの作品を初めて聴いて、わたしにはまだ知らない、知るべき世界が豊かに広がっていて、これからもまだまだたくさんの出逢いがあることを確信して嬉しく嬉しく思いました。今日演奏した東京交響楽団もなにげにとても良くて、このオーケストラ、まだあまり聴いていないけど、これからたくさん聴かなくちゃ。若手のフレッシュな名手たちが管楽器に多いのも将来性を感じさせますね。
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by zerbinetta | 2015-08-27 23:48 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

予想外のちゃぶ台返し ツィンマーマン「レクイエム」   

2015年8月23日 @サントリーホール

ツィンマーマン:レクイエム

長谷川初範、塩田泰久(ナレーター)
森川栄子(ソプラノ)、大沼徹(バス)
新国立劇場合唱団
スガダイロー・クインテット
有馬純寿(エレクトロニクス)
大野和士/東京都交響楽団
原島大輔(字幕映像)


初台を離れて今度は、サントリーホールにツィンマーマンの「レクイエム」を聴きに。オーケストラ、3群の合唱、テープのための大作。ツィンマーマンという作曲家についてはちっとも知らないくせに(小さな曲をひとつ聴いたことがあります)、何かすごいイヴェントのようにワクワク。マーラーの交響曲第8番の初演を聴きに行った人たちもこんなふうにワクワクしていたに違いないと想像しながら。

それにしても、聴きやすいとは思えないツィンマーマンの1曲だけの音楽会で大ホールがいっぱいになるなんて、東京の音楽受容の懐の深さはすごいですね。東京は世界に冠たる(クラシック)音楽都市のひとつという意見にはちっとも賛同しないけど、音楽に対する許容力、受容力には素直に頭を垂れざるを得ません。これで発信力、創造力があれば胸を張って誇れる音楽都市になるのに。

普通の音楽会と違って、まずは今回のサントリー芸術財団・サマーフェスティバルのプロデュサー、長木誠司さんと今日の指揮者の大野さんの対談から。プレコンサート・トークじゃなくて(言葉的にはじゃないこともないのだけど)、開演時間からの音楽会にしっかりと組み込まれたもの。都響さんのシーズン・オープナーのとき、大野さんがひとりでマーラーの交響曲第7番について語ったときは、熱血で感情の迸るままにまとまりのなさ気な話しっぷりだったので少し心配したんだけど、聴き手の長木さんのリードで、今日は静かに冷静なお話が聞けました。プログラムノートの言葉を読んでも、大野さんって理知的な方なんですね。知と情のバランスがいいのだわ。音楽についての聴き所も教えてくれたんだけど、最後の方に「指輪」の愛の救済の動機が出てくると聞いてワクワク。

1時間と少し、休みなく続く音楽、というか音響、は最初の50分くらいは、テープ主体。指揮者の譜面台の横に大きな時計(タイマー)が置かれていて、それを目安に、テープで流される、詩の朗読や編集された音楽に、生のオーケストラや語り、歌を付けていくの。ミキサーというかエレクトロニクス担当の有馬さん大活躍。

まず音楽だけど、今日の演奏は、音楽以上に大名演だったと思います。ホールの中が音響で満たされて特別な空間になっていました。ただ、これが、最高の音楽かというとそうではなくて、メッセージを伝えたくて力んでいるけど、ちょっと引いちゃうみたいな。直裁的すぎるように思えるんです。もっと含蓄的で余韻を残す方が音楽としては優れているんじゃないかって。例えて言うなら、交響詩「モルダウ」にモルダウ川に沿って採取された川のせせらぎやフォークダンスや町の音をのせちゃう感じ。もしくは、印象・日の出の絵にルアーブルの港で撮った写真やらゴミになった新聞やらを小さくちぎってキュビズム風に貼っちゃった感じ。過剰でしょう、わたしの文章も。具体的なイメジが強すぎて何か強引に作曲者の弁舌を聴かされたみたいな。わたしは少し置いて行かれた。人間の愚かな行為(戦争とか独裁とか)に対する批判と悲しみの音楽は、今の時代、日本で演奏される意義が指摘されていたけれども、わたしの気持ちとは違うなとも思いました。今のわたしたちの周りの悪はもっと巧妙で、こういうストレイトはプロテストでは太刀打ちできない、気がつかないうちに進むゆっくりとした死のようなものかもしれませんから。

テキストは、背景として関連のないものがいくつも朗読され、長木さんが指摘をしたように、それを一字一句追う(追える)ものではないのだけど、ところどころで耳に留まる(外国語なので字幕で目に留まる)単語を拾っていくことで意味が形成される、個々人で拾える単語は違ってくるから、受け取るものの自由さが担保されているんだと思います。字幕にも工夫が凝らされていて、平行するテキスト、意味不明なもの、を視覚を通して感じられるようになっていたのは秀逸でした。

いろいろ思うところを言っちゃったけど、今日のこの公演に携わった人、全ての人の熱意と高いスキルが胸に迫る記念碑的音楽会であったのは間違いありません。たくさんのことを考えさせられる経験でもありました。

あっ、ちょっと残念だったのは、愛の救済の動機、うっかり気がつかないうちに終わっちゃいました〜〜。最後に出てくると勘違いしていて、実は最後じゃなかったんですね。注意深く聴いていたつもりだったのに聴き逃すなんてわたしの耳は節穴だわ。

それともうひとつ、ジャズコンボが演奏に加わっているんですけど、本編の中では聞こえるけどあまり(はっちゃけた)活躍がありません。ということなのか(?)アンコールに、ジャズコンボの演奏が。本領発揮で気前よくはっちゃけていました。破壊力抜群。この短い演奏で、意識的ではなかったにしろ「レクイエム」の全てがちゃぶ台のようにひっくり返された気がしました。ああ、わたしたちは平和な時代、ところで生きているんだ。世界はフクザツになった。レクイエムの世界はちゃらになって遠くの記憶に。。。
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by zerbinetta | 2015-08-23 23:44 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

コバケンは特別 上原彩子、小林/日フィル   

2015年8月7日 @ミューザ川崎

グリーグ:ピアノ協奏曲
シベリウス:交響曲第2番

上原彩子(ピアノ)
小林研一郎/日本フィルハーモニー交響楽団


コバケンさんを聴くのは初めてです。コバケンさんには熱烈なファンが付いていることは知っています。炎のコバケンとかと評されて熱い音楽をする人だということも。でも、ひねくれ者のわたし、皆が熱狂すればするほど引いちゃうのですね。というわけで、ファンの人たちには失礼だけど、1回くらいはコバケンさんを聴いておこう、くらいの気持ちで、ちょうど1回は参加しておきたいサマーフェスティヴァルに出演されるので聴きに来ました。リハーサルも付いてお得。

リハーサルの様子についてはとやかく書く気はないのだけど、始めにシベリウス、それからピアニストの上原さんとのグリーグでした。軽く流すように通しながら(全曲通したわけではありません)、ところどころ止めてコバケンさんが注文を付けるんだけど、とても丁寧な言葉遣いで、へりくだってお願いするみたいな感じ。もう少し威圧的な方かと思っていたら全然違ってびっくり。あっそうそう、シベリウスのあとにアンコール曲のリハーサルもあったんだけど、ここでネタバレ。え〜あ〜こんなぁ〜。私服姿の上原さんは、さばさばしたカリスマ主婦みたいな感じの方。何でもテキパキとこなしそうで凄くかっこよいの。斜に構えた感じも魅力的。

本番は、グリーグの協奏曲から。上原さんって、音楽大学に行っていないという変わった経歴の持ち主なんですね。チャイコフスキー・コンクールで優勝したというだけあって、重く力強いタッチで北欧のグリーグの協奏曲の音にピッタリ。小技や外連を排した上原さんの正面から音楽にぶつかっていく感じも好感度高いです。落ち着いた大人の演奏。今度はブラームスとかベートーヴェンとかも聴いてみたいです。演奏が終わったあとすぐの、大きな声じゃなかったけど、いわゆるフライングブラヴォーがあったんですけど、声の主はコバケンさん。上原さんにブラヴォーの声をかけていました。

コバケンさんのシベリウスは。。。コバケンさんに熱いファンがついていることに納得させられた演奏。シベリウスの音楽とは距離があると思うんだけど、炎のコバケンと言われるのが少し分かった。熱烈にロマンティックに粘る温度の高い演奏だもん。シベリウス的にはこれじゃない感が漂うけど、音楽としてその濃度に納得させられる。コバケンさんの音楽会はひとつひとつが特別なものなんだろうな。オーケストラを時間をかけて鍛えて自分の音楽を作っていくのではなくて、今ある材料で音楽を燃焼していくタイプ。燃え残りがないほど完全燃焼させる。だから、どこかのオーケストラの監督になるよりも客演してひとつの音楽会で燃え切ってしまう演奏を求めているんだ。そういう意味でコバケンさんは特別。彼の音楽にはまったり、はまらなかったり好き嫌いの振幅の激しい人だと思う。曲目によっても違いは出そう。わたしは。。。年に1度、カップヌードルが食べたーーーいって思うくらい、たまには怖いもの聴きたさで聴いてもいいかな。上から目線だけど。

アンコールには、ドヴォルザークのユモレスクを弦楽合奏版で。この曲を生まれてから死ぬまでの人生に例えて解釈するというトンデモ解釈なんだけど、リハーサルのとき種明かしされていて、本番はどうするのかなと思ったら、説明して音楽を始められました。まあなんというかフリーダムというか開いた口がふさがらないと言うか。でもコバケンさんだから許されるっていう感じもあるのよね。

日フィルは、あまり聴いたことがなかったんだけど、今日のコンサートマスターは、千葉さん、チェロのトップに辻本さんの若いピグマリオン・コンビ。オーケストラが予想以上に上手いのに嬉しいびっくり。音楽をよく知っていたし、これからもっと聴いていこう♫まずは定期会員になろっかな。定期会員だとずいぶんお安くなるのよね。
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by zerbinetta | 2015-08-07 15:59 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

またまた新星 17歳 山崎亮汰、大井剛史/シティフィル   

2015年7月18日 @ティアラこうとう

ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチナ」より第1幕への前奏曲「モスクワ川の夜明け」
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
ブラームス:交響曲第1番

山崎亮汰(ピアノ)
大井剛史/東京シティフィルハーモニック管弦楽団


シティフィルさんのティアラこうとう定期、今日は大井さん。
でもその前に、わたしは苦言を呈したい。室内楽をナメたらあかん。いつも開演前にロビー・コンサートをやってくれるんだけど、お願いだからもっと練習して準備して。前回は、クラリネットのソロが活躍する曲だったので個人技で聴けたけど、今日の「フィンランディア」弦楽合奏版は、弾けてない。多分、毎回、順繰りにメンバーを決めてやってるんだと思うんだけど、(難しい曲じゃないから)ささっと合わせただけで弾いちゃう感じかなと想像するんだけど、室内楽のアンサンブルってオーケストラ合わせるのよりはるかに誤魔化しがきかなくて難しいと思うんです。どうか人に聴かせるものやるんならそれなりの準備はして下さい。サーヴィスだからテキトーでいいなんてどうか思わないで。
でも、本番はいいんですよ。わたし的には大好きなオーケストラ。だからそのギャップがねーー。

始まりは、ムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」の前奏曲。静かな音楽で心にしみ込んできます。大井さんの音楽は、とても自然で、力みがなくとても美しいんです。音楽で何かを主張してやろうみたいな恣意的なところがなくて(多分そういうところは好き嫌いがあると思うんだけど)、作曲家によって書かれた楽譜の音楽を裏を読むことを排してそのまま音にした感じ。音楽だけで美しい。

プロコフィエフのピアノ協奏曲は、山崎亮汰さんのソロ。今回初めてその存在を知ったんだけど、ピティナ・ピアノコンペティションというコンクール(日本)で昨年、特級グランプリをとった方。なんと現在高校2年生。名前を聞いたことのない人だし(当たり前か)、あまりたいしたことないだろうなんて失礼なことを思っていたら、とんでもない。予想をはるかに超える素晴らしさ。左手の強さとスウィングするようなリズムが、メカニカルな音楽に初めて聴くようなユニークなうきうき感を加えていて素晴らしい。プロコフィエフをこんなに楽しげに演奏するなんて。反面、叙情的な部分は、まだ覚醒していて、これが夢の世界に入ればもっといいのにとは思いました。昼のしがらみから解き放たれた夜の音楽に。でも、この人、前に聴いた牛田さん(と同年代)と共に、スタイルは違うけど凄い才能。これから、技術的にも精神的にも音楽を深めて世界の第一線で活躍するピアニストになって欲しい、というか絶対なれる。親戚のおばさん目線で温かく見守りたい。
ソリスト・アンコールは、スクリャービンのエチュードから「悲愴」。よく弾いている曲なのでしょうか。自信に溢れた演奏でした。

最後のブラームスは、とても自然体というか、明るい爽やか系。ベートーヴェン的な闘争から勝利へみたいな図式ではなく、最後、大らかな自然の中に解放されてハッピーエンドがもたらされるブラームスの時代に合った((市民社会の)闘争よりも成熟の)解釈の音楽でした。第4楽章の晴れやかで気持ちの良いこと。ブラームスが茶渋系なんて誰が決めた?イケメンなんだよー彼は。恋するブラームス。いや、ブラームスに恋するだわ。そして、大井さんとシティフィルも相性良さそう。大井さんとシティフィルは特別な関係には、ないみたいだけど、ぜひ、相思相愛になって良い演奏をこれからも聴かせて欲しいな。
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by zerbinetta | 2015-07-18 23:27 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

癒えることのない幸せの傷 ロト/読響「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」   

2015年7月1日 @サントリーホール

ブーレーズ:「ノタシオン」から第1、7、4、3、2番
ベルク:ヴァイオリン協奏曲
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉

郷古廉(ヴァイオリン)
フランソワ=グザヴィエ・ロト/読売日本交響楽団


今日は寝不足でとっても眠たかったので、ハイドンのアダージョ7連発は厳しいなぁと思ってたら、ところがどっこい、素晴らしすぎて前のめりで聴いてた(気持ちですよ〜)。まだ、トリスタンや後半聴いてないけど、すでに今年の読響の1番にしたい。

ロトさんを聴くのは初めてです。ロンドン・シンフォニーに客演したとき聴くチャンスはあったのにチケット取らなかったんですよ〜。写真を見ておじさん?って思っちゃったんです。知らない人は若い人中心に聴いているので、でもこの人、若いんですよね。しかもユニークな活躍ぶりはあとで知るところに。痛恨。

初めて聴くロトさんは、噂に違わず凄く良い指揮者。自分の音楽をしっかり持っているし、それをオーケストラに伝えて引き出す力も持っている。そのことは、最初の「ノタシオン」から確信しました。「ノタシオン」はブーレーズの最初期(19歳!)のピアノ曲。とても短い曲の集まりなんですけど、その中から5曲を作曲家本人が選んで、超拡大して大編成のオーケストラ用に編曲しています。小さなピアノ曲とはまるで別物。小さな芋虫が変態して巨大なウワバミになったみたいな。ブーレーズさんには嫌な顔されちゃいそうだけど、メシアンに似てた。それもトランガリーラの頃の。そして音楽から来る音響の快感。色彩感豊かな読響の音もこの快感を後押ししていました。

続くベルクのヴァイオリン協奏曲の独唱者は郷古さん。ごうこすなおさんと読むらしいです。弱冠21歳のイケメン系ヴァイオリニスト、なのかな?イケメンで売り出してるのかは知らないけど(そんなことしてませんように)でもかっこよかった♡ただ音楽は、よく分からなかった、というかどこに焦点を当てていいのか分からなかった感じ。この曲を弾くにはまだ若すぎるのかなぁ。とても上手いんだけどちょっと残念。ロトさんの方も、よく分からないうちに音楽が終わってしまったという感じで、あれ?いつバッハが聞こえた?って虚を突かれてしまいました。ううむ。わたしがぼんやりしてたのかなぁ。

最後のハイドンは。もうこれは言葉を失う名演。1時間近くゆっくりした音楽(最後に激しい地震の音楽が鳴りますが)に吸い込まれるように聴いてしまうとは。眠気なんて微塵も感じさせません。凄い集中力。こんな音楽だったとは。ハイドン凄い。ロトさん凄い。読響凄い。なんか凄い凄いで言葉にも感想にもなってないんだけど、ほんとに言葉にできないような体験。
実は、ハイドンのこの曲を聴くのは初めてなんです。弦楽四重奏版はCDを持ってて何回か聴いたことはあるんですが、オーケストラ版の方は初めて。しかもわたし、弦楽四重奏版がオリジナルでオーケストラ版が編曲とずっと思っていたんですが、反対なんですね。
ロトさんって、言わずと知れたピリオド系もやる人。ご自分が組織したピリオド・オーケストラでセンセイショナルな演奏の録音を出してるみたい(興味津々としつつまだ聴いていません)。でも、モダン・オーケストラの読響にピリオド・スタイルをがちがちに求めるかと思うとそうではなく、ヴィブラートは控え目だけれども読響の(弦の)ふくよかな音色を生かした音楽作り。彩りを添える管楽器もステキ。こういう柔軟さも優れた指揮者の資質なんですね。それにしても、読響からこんなにも緊張感がありつつ和らいだ音のハイドンを聴かせてくれるなんて。読響とは相性の悪いはずのわたしも驚いて聴き入りました。
十字架に磔られて最後を迎えるキリストの音楽だけれども、古典の絵画のような今の(写実主義や表現主義を体験済みの)わたしたちには牧歌的に見える美しさを湛えた音楽。でも、これだけ心に残っているのは、音楽の真実が聖槍のように突き刺さったからでしょう。でも癒えることのないその傷は幸せの痕でもあるのです。

ロトさんの音楽はもっと聴きたい。とても相性の良かったように思える読響さんにもたくさん客演してくれないかしら。
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by zerbinetta | 2015-07-01 12:32 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

未来への拳をあげろ! ショスティ11 都響   

2015年6月29日 @東京文化会館

ブリテン:ロシアの葬送
タンスマン:フレスコバルディの主題による変奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

オレグ・カエターニ/東京都交響楽団


「沈黙」の衝撃に心が沈んだまま、上野に移動して、都響。ショスティの交響曲第11番。交響曲第11番というと、最近の流行りは、最後の打楽器の音を止めないで沈黙のうちに音楽を終える演奏(無責任に流行りと言ったけど本当に流行っているかどうかは知らず、わたしの知ってるのはペトレンコさんが指揮した演奏なんだけど、その衝撃が大きいからにわかにその流れが来ているような)。実際には、最後余韻を残さずに切るのが楽譜通りだと思うんだけど、フライングブラヴォーやフライング拍手にやたらと厳しい日本の聴衆さんのこと、この曲の最後もしっかり余韻を味わって拍手をすべきとまことしやかに語られそうで怖いの。この曲ってそういう解釈もできるとは思うけど、最後、未来へ向かって民衆が蜂起して拳をあげて「うぉーーっ」とシュプレヒコールをあげて終わる音楽という解釈もありだと思うの。というわけで色々心配しつつ。

始まりは、金管楽器と打楽器のみのブリテン「ロシアの葬送」。あとのショスティ11の第3楽章の主題が繰り返される音楽。ロシアのお葬式の情景を描いた音楽だと思うけど、本当にこれでお葬式をしても大丈夫な偽りのない純度の高い葬送曲。昔、車で房総半島の田舎道を走っていたとき、土地の伝統的なお葬式の行列に出会ったことがあって、その素朴だけど死者を弔う悲しみに満ちた無声映画のような情景に感動したことを思い出しました。都響さんの演奏は、とても柔らかく丁寧な発音で吹いていたけど、わたし的にはもう少し思い切りの良い発音でも良かったんじゃないかな、と思いました。音の頭からシャープに聞こえても、と。

今日、一番心に浸みたのが「フレスコバルディの主題による変奏曲」。お昼の「沈黙」で完膚なきまでに心が沈んでいたし、1曲目もお葬式だったから。弦楽合奏で、バロック音楽の旋律による変奏曲は、しみじみとした旋律と弦楽合奏のささくれのない音色で、わたしは、音楽をなんでも’癒やし’で片付けてしまうのが大嫌いなので、癒やしという言葉を避けまくってるんだけど(多分、’癒やし’という単語を使うのはこのブログで初めてです)、心が透きとおるように柔らかくなりました(あっやっぱり癒やしと言わなかった)。演奏は、良くも悪くも都響さんらしいシャープな演奏で、もう少し柔らかさがあればもっといいのになって感じました。

ショスティの交響曲第11番は、大好きで(高校時代、この曲の第1楽章を下敷きにして小説を書いたことがあります)、そうなるとドキドキで平常心では聴いてられません。カエターニさんの演奏は、速めのテンポで少しドライ。でも、ショスティが音楽で描いた情景(彼の交響曲の中で一番映画的というか具体的な絵が見えてくる音楽です)をしっかりと描いていきます。都響さんも、第1楽章の最弱音の響き(の強さ)にもっと欲しいものがあったけれども(最弱音の美しさが、ヨーロッパのトップ・レヴェルのオーケストラにはあって日本のオーケストラにはまだないものですね)、持ち前のアンサンブルの正確さで応えていました。モノトーンでクリア。第2楽章の大爆発も盛り上がりつつ統制の取れたもので、軍隊の怖さを感じました。第3楽章では、ブリテンの音楽が重なってプログラミングの妙を感じたんですけど、大太鼓が打ち鳴らされるんだけど鐘は鳴らないことに気がつきました(ブリテンでも)。ロシアのお葬式では教会の鐘は鳴らないのでしょうか?鎮魂の鐘とかお葬式には鐘が付きものみたいな感覚があるんですけど。そして、この交響曲で鐘が鳴らされるのは最後の最後。鐘の意味を考えさせられてしまいました。まだ答えはありません。表現として、今日一番ムフフとなったのは、第4楽章を予想に反してゆっくり始めたかと思ったら、すぐに急速なアチェレランドをかけて走り出したとこ。ああ、ここで仕掛けてきたかって。
最後はポジティヴ。もちろん、血の日曜日事件を経て革命は成功したけど、それが本当に良かったのか?って疑問と共に終わるのもありだとは思うけど(ショスティの時代はまさにスターリンの粛正の時代だったし)、民衆の力を信じて未来を掴む(掴み取ろうとする)重い希望を共に抱いて終わるのもありでしょう。もちろん希望と言っても明るい希望ではなくて、苦渋と共にある見えるか見えないかくらいの。怒りと共に未来を見つめて手を握り拳を振り上げる。心の裡に燃え上がってくるものを押さえきれずにうぉーーっと叫んじゃいそうな。
バンと音を切って(打楽器の人、必死で止めてた)終わった演奏はまさにそんなそのまますぐシュプレヒコールになだれ込むような演奏でした。音楽が終わって微妙な間があって、カエターニさんが、あれ?拍手は?演奏上手くいったよね?みたいな感じできょとんとして見えたので、一番乗りで拍手を始めてみました。余韻を残さずにどっと拍手がわき起こった方が良い演奏だったと思います。音楽をしっかり受け止めてちゃんと拍手できる聴き手になりたいです。
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by zerbinetta | 2015-06-29 23:29 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

ちょっとホールが不向きかな ヴィヴァルディ「四季」 BCJ   

2015年6月28日 @フェスティヴァルホール(グリーンホール)

ヴィヴァルディ:「四季」より「春」
ヘンデル:オルガン協奏曲 HWV292
マルチェッロ:オーボエ協奏曲ニ短調
ヴィヴァルディ:「四季」より「夏」
バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 BWV1043
ヴィヴァルディ:「四季」より「秋」
ヴィヴァルディ:「四季」より「冬」
ヴィヴァルディ:4つのヴァイオリンのための協奏曲 ロ短調

若松夏美、白井圭、高田あずみ、寺神戸亮(ヴァイオリン)
鈴木優人(オルガン)、三宮正満(オーボエ)
鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


ヴィヴァルディの「四季」。曲名は知らなくても誰でも1度や2度は聴いたことのある名曲ですね。中二病的マニア的には通俗名曲、はっ、って敬遠されちゃうこともあるけど(わたしも罹ったことあるし)、やっぱり確固とした名曲。ヴィヴァルディの和声のインヴェンションなら他にもって最後の抵抗虚しく、やっぱり名曲には違いないと思います。名曲っていまだに新鮮な驚きに満ちた演奏が出てくるから。

今日のBCJの演奏もそのひとつに加わりました。
その名の通り、バッハ中心のレパートリーを持つBCJ。ヴィヴァルディを演奏するのは珍しいことなので、大好きな調布音楽祭で演奏すると聴いて、いても立ってもいられなくなり、チケット発売日の朝一番に電話してワクワクしながらチケット取りました。

今日のBCJの演奏は、「四季」の4曲(もちろん、春夏秋冬)を4人の違う独奏者で演奏したこと。そして、各曲の間に他の音楽を挟んで構成していることです(同じようなことは、前にクレーメルさんがピアソラの「ブエノスアイレスの四季」と代わりばんこにやってました)。4人の独奏者の違った個性が楽しめる演奏になったんだけど、共通するのはみんな崩し字、草書体の演奏だったこと。ゆえに個性が際だったんですね。装飾音符とか、表現のニュアンスとか結構突っ込んできて、でもバックも普段一緒に演奏しているメンバーなので余裕で受け止めてきて楽しい四季。ただ、グリーンホールの音響がデッドで、古楽器のソロにはかなり不利でした(2階の後ろの方の席で聴いていたせいもあるのですが)。もっと音が間接音を伴って飛んでくると違ったものになったでしょう。どちらかと言うとくすのきホール向きだと思うのだけど、音響のことよく分からないのですが、反響板を工夫するなりしてどうにかできないのでしょうか。せっかくの演奏が上手く聴けないのはもったいなくて。

間に挟まれた、他の作曲家のオルガンやオーボエのための協奏曲もとてもステキで、バロック音楽の世界の広さを感じさせました。ホームタウンという気安さも(皆が住んでいるのではないでしょうけど、音楽祭の雰囲気がアットホームなので)演奏を積極的にしているのでしょうね。最後の4つのヴァイオリンのための協奏曲は、今日の4人のヴァイオリン独唱者が、掛け合いが自由なジャズセッションのような感じがして面白く聴けました。もともとバロック音楽って、演奏者が聴衆に向かって演奏するというよりも、演奏者たちが音楽を楽しんでいるのを周りの人も一緒になって聴くみたいなところがあるんじゃないかと思います。そういう意味でも、この音楽祭は大事にしたいです。

お終い、カーテンコールの時、エグゼクティヴ・プロデューサーの優人さんが音楽祭のTシャツに着替えていたのはちょっと笑えました。そして来年も絶対来ようと思ったのでした。
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by zerbinetta | 2015-06-28 23:25 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

言葉の限界を超えなくちゃ 高関健/東京シティ・フィル ティアラこうとう定期   

2015年6月20日 @ティアラこうとう

シューマン:交響曲第1番「春」
リムスキー・コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」

高関健/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


東京シティ・フィルのティアラこうとうでの定期会員になったのでした。今日がその1回目(ティアラこうとうは年4回の定期演奏会があります)。東京シティ・フィルは、宮本さんの時代に何回かオペラ・シティに聴きに行って(宮本さんの指揮はそのうち1回だけだったと思いますが)、すごく上手いとは言えないけどとても熱い演奏をするステキなオーケストラだと感じていました。わたしの好きなタイプ。今シーズンから高関さんが常任指揮者(多分責任指揮者)になってどういう風に変わるか、発展していくか楽しみなんです。前任者の宮本さんが熱い音楽を標榜していたのに対して、高関さんは楽譜を徹底的に読み込む少々マニアックなところがあるのでずいぶん対照的だし、でもきっとシティ・フィルさんには良い方に作用すると思うんですね。でも、音楽に対するあの熱さはずっと持っていて欲しいですけど。

音楽会の始まる前の雰囲気がうんと良くて会員になって良かった〜と。ステージの裏で音出ししてるのを静かに聴きながら待つ雰囲気、音楽会の雰囲気を壊す余計なアナウンスメントも無し、登場する団員を拍手で迎える客席。帰国してからので一番好きかも。(でも、後半携帯電話が2回鳴った)

シューマンの「春」は音が濁ったところがあったせいか少し重く感じました。高関さんの音楽作りをオーケストラがまだ消化し切れていないのか説明的な音に聞こえるところもありました。高関さんは、音楽を徹底的に研究して、オーケストラにもそれをしっかり伝えているんだろうと思います。ただ、言葉で説明するあまり、というか、指揮者とオーケストラが同じ言葉で分かってしまうせいで、音楽が、その言葉の範囲を超えていないように感じました。言葉を超えて、音楽でしか表現できない部分がちょっと足りてないな、と。そのことを考えると、将来は日本で弾くことになるだろう若い音楽家もどんどん外国で勉強して欲しいなと思いました。クラシック音楽の本場が西欧だからという意味ではなく、もっと大事なのは、文化の違う、母語でない言葉の不自由さの中でコミュニケイションの力を鍛えて欲しいから。音楽が言葉の範囲で留まらないように。

「シェエラザード」は、絢爛な絵巻物を見るような演奏で素晴らしかったです。そう、実際の船に乗るような感じじゃなくて、絵巻物を見る感じなんです。たぶん、波の伴奏が、動く水ではなくて、もっと大らかに固定された絵のように感じられたからじゃないかと思うんだけど、これはこれでありだなぁ。高関さんの音楽は、旋律線がとてもレガートに弾かれていて、それも絵のようだと思った理由かも知れません。第2楽章最後の方のハープの強奏とか、第3楽章の音の紡ぎ出し方もおおおっと引き込まれるようでステキ。各ソロも大健闘してたし(ヴァイオリンはおじさんだけどちゃんと姫)、曲の最後とか弱音がもっと良くなればずっと良くなるだろうと、未来に期待。
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by zerbinetta | 2015-06-20 01:04 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

80%の音楽 テミルカーノフ/読響 マーラー3   

2015年6月5日 @サントリーホール

マーラー:交響曲第3番

小山由美(メゾソプラノ)
ユーリ・テミルカーノフ/新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団、読売日本交響楽団


テミルカーノフさん、今まで何回か聴いたことあるのに、実は、ロシアもの以外を聴くのは初めて。当たり前だけど、ロシアもの専門の指揮者というわけじゃないからいろんな曲を振ってるのに違いないけど、珍しい機会(メリーランドに住んでたとき、ボルチモアのオーケストラの指揮者だったのに聴いてなくて悔しいい)。今日はマーラー。テミルカーノフさんがどんなマーラーを聴かせてくれるのか興味津々で聴いてきました。オーケストラは最近、苦手意識が高まってる読響さんだけど。

今日は交響曲第3番、1曲だけ。最初の深々したホルンのユニゾンの響きが会場を満たしたとき、今日はステキな音楽会になると予感しました。んだけど。。。第1楽章の暗い部分は何だか葬送行進曲のように音楽が進んで何だか暗〜〜い。低弦の速いパッセージの弾かせ方(頭の音を溜める)とか木管楽器やホルンのオクターヴ上がるメロディ(意識的な間をとる)とか、わたしのマイクロ・フェチ・ポイントのトランペットの吹奏にさりげなくオーボエが重なるところの音色とか、テミルカーノフさん、細部にこだわってかなり仕掛けてるところもあるんだけど、どうして?というかどんな音楽を創りたいのかちょっとよく分からなかったんです。でも、それはわたしがだけじゃなく、オーケストラもどうしたらいいのか動揺している感じ。第1楽章は、客席はとても良い緊張を保って聴いているんだけど、オーケストラは、指揮者がどうしたいのか分からなくて右往左往。コンサートマスターの日下さんも恋人同士のようにホルンと美しく絡むところなんかはちょっとツンとしてたり、何だか動揺しているみたいで、オーケストラと指揮者の間で迷っている感じ。打楽器からは楽器を落としたのか雑音まで。そんな中、がんばっていたのは第2ヴァイオリンかな。第2ヴァイオリンが目立つってあまりないんですけど、縁の下の力持ちで、しっかり音楽を支えていたと思います。とても良かった。

多分。多分ですよ。テミルカーノフさんって本番では、練習と違うことをやってるのか、オーケストラに敢えて指示を与えないで野に放つとか。心当たりがあるんです。前に聴いた、サンクトペテルブルク・フィルとの演奏では、オーケストラの弾きたいテンポと指揮者の求めるテンポの食い違いが音楽に緊張感を生み出していたし、フィルハーモニアとの演奏では、指揮者に必死に付いていくオーケストラが多少乱れたものの、指揮者の求めるものを先読みしてすごくいい音楽を奏でていました。読響にはそこまでの力はなかった。これもわたしの想像だけど、テミルカーノフさん、本番では練習したことの予定調和を乱して、常に新しく生まれてくる音楽の創造を求めているんじゃないのかな。オーケストラを放任することで、自発的な演奏を促してるんじゃないのかな。指揮者の音楽をきちんと演奏することが上手いオーケストラも、どうぞ、自由に、とハシゴを外されることによって混乱して、指揮者が振っているところまでは音楽にできるけど、振らない部分は音にできなくて、テミルカーノフさんがオーケストラの自発に委ねた20%を引いた80%の音楽にしかならなかったんじゃないかしら。お互いがぶつかり合って止揚して指揮者もオーケストラも思い描いていた以上のものになるはずがならなかったのが今日の演奏ではないでしょうか。マーラーのあまり演奏されない曲にオーケストラが慣れていないこともそれを助長して。オーケストラには厳しいことを書いたけど、テミルカーノフさんも彼のマーラーがどんな音楽なのかよく分かりませんでした。1番でも2番でも5番でももしくは9番でもない、第3番を敢えて採り上げるんでしょうから何かあるんだと思うんですが、それがよく分からなかったです。何でマーラー?何で3番?

第2楽章からは、オーケストラが持ち直したのか、テミルカーノフさんが指揮を変えたのか、落ち着いてきたと思います。わたし的には今日は第2楽章が良かったです。3楽章のポストホルンは、むーん、珍しい楽器ですからねぇ。ちょっと弱かったかな(音量じゃなくて)。メゾソプラノを歌った、小山さんは、声質が軽いので、酔歌を歌うのには物足りなく感じました。面白かったのは、第5楽章の児童合唱。とてもかわいらしくて、日本人の声だわ〜って思いました。まだ訓練で作られていない(発展中の)生の声って、身体の構造が違うのか、欧米の子供たちと随分違うんですね。どちらがいい悪いじゃないんですけど、へぇぇと感心。わたしは好き。
最終楽章は、普通にしても感動しちゃう音楽だから、やっぱり感動したんだけど、ある意味、テミルカーノフのアクもオーケストラのアクもなくした、素直なピュアな演奏でした。変態好きのわたし的にはそういうのには物足りなさを感じるのがいつもなんだけど、今日はむしろ丁寧に弾き込まれていて、いいなって思えました。マーラーの音楽の力に助けられた感じです。

初めてのテミルカーノフさんの非ロシアものだったけど、結局よく分かりませんでした。当たり前だけど、これだけで分かるはずもないんですよね。やっぱりロシアものを聴いてみたいと思いつつ、いろいろ聴いて彼の音楽のこと知りたいです。客演のときは、ロシアものを求められると思うけど、少しずつでも違うのやってくれたらなと思います。
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by zerbinetta | 2015-06-05 01:31 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

お能です サーリアホのクラリネット協奏曲 ダウスゴー/都響   

2015年5月29日 @サントリーホール

サーリアホ:クラリネット協奏曲「d'om le vrai sens」
ニールセン:交響曲第3番「広がりの交響曲」

カリ・クリーク(クラリネット)
半田美和子(ソプラノ)、加耒徹(バリトン)
トーマス・ダウスゴー/東京都交響楽団


先日、都響と読響の音楽会が重なってしまったので、振り替えのできた都響の音楽会を今日のに振り替えてみました。ニールセン聴きたかったし。実はニールセンの最初の3つの交響曲を聴いたことがないんですよ。サー・コリンさんがロンドン・シンフォニーとニールセン・サイクルやってたのにもかかわらず。録音でも聴いたことがないのでわたし初演。

一方のサーリアホさんの「d'om le vrai sens」は、日本初演だけれども以前イギリス初演を聴いたことがあります(わたしが聴いたときはクラリネット協奏曲とは言ってなかった)。そのときは解説も読まずにただぼんやりと聴いていたのでいい曲だなぁとのんきに感じただけなんですが、強烈な印象に残っていて、それは、かぶりつきに近い席を取っていたのだけど、座ってみると周りに誰も座ってない。えええっ、どうやらわたしが知らない間にかぶりつきの席の人は後ろの方に移動させられてるみたいなんだけど、誰も何も言わないのでぽつねんと座っていたら、クラリネットのソロの人、客席から楽器を吹きながら入ってきて、わたしの席はそのパフォーマンスをする通路になっていたんですね。クラリネットの人は近くに来るし、何であんなとこに人がというお客さんの視線を感じるし、針のむしろでした。今日はステージの後ろなので大丈夫。ステージ前のお客さんを退避させることもしてませんでした。サントリーホールはステージと客席の間にスペースがあるからですね。

「d'om le vrai sens」は、フランスの有名なタペストリー「貴婦人と一角獣」(去年かな、日本にも来ました)に想を得て作曲された作品です。タイトルの意味、「人の真なる感覚」は、タペストリーの6枚目、この曲の第6楽章「我が唯一の望みに(a mon seul désir)」のアナグラムです。謎めいた言葉が、謎めいた絵、謎めいた音楽に余韻を残します。
今回、作曲家本人を招いてのプレコンサート・トークとこの曲の解説を読んでみて、クラリネットが一角獣を表現していることに納得。クラリネットの雄叫びが、一角獣の鳴き声なんですね(一角獣がどういう風に鳴くのかは想像の範囲だけど)。そして、クラリネット奏者の動きもきっと一角獣の動きを表すのでしょう。音と視覚に訴える演劇的な、オペラのような作品。いえ、これはオペラではありません。むしろ、能。音楽のどちらかというと静的な感じ、ソリストの制限された体の動き、ソリストが踊り(演じ)謡う(演奏する)のはまさに能につながる様式。そう感じたら、むしろ、(サーリアホさんのコンセプトを壊すことになるけど)、能楽師をステージで演じさせた方がより表現の幅が出るんじゃないかなぁって思ってしまいました。そして、このタペストリーで描かれているのは、人の五感、とそれを止揚した第6の感覚。だとすると、音と視覚だけではなくて、味や手触りや匂いまでも感じられればとも妄想。カトリックのミサで香を焚くように。あとは一斉に会場で配られる飴をなめるとかwそれは冗談だけど、この曲は音楽以上の総合芸術的。こういう劇場的なコンサート・ピースもこれから増えてこないかしら。始めからセミステージドで演奏されることを前提に書かれた擬オペラみたいな。
演奏は、流石、クリークさん。相変わらず完璧なテクニックで、無音からフォルテッシモまで、低い音から高い音までシームレスに音を出してしまう凄さ。初演者だけあって(世界各地ですでに何回も演奏されています)、音楽を完璧に捉えて自分のものにしているのが窺えます。今日、前に聴いたときよりも良く分かった気になったのは、解説読んだり2度目ということもあるけど、演奏もさらにクリークさんの手の内に落ちてることもあるに違いありません。都響のサポートもとても良くて、素晴らしかったです。音楽の理解度がいつも凄いなって感じます。とてもシンプルに書かれていて(スコアを見たらとっても整理整頓されていて、この譜面にしてこの音ありです)、最後のチェレスタの永遠へと続く音の反復が印象的でした。

実は、前半でお隣に座ったおじさん(きちんとした格好の方だったのですが)の臭いが気になってしまったので、後半では席を移りました。向こう隣の人も後半いなくなっていたのでやっぱり逃げたのかな。気を取り直して。
ニールセンは、もうダウスゴーさんの自家薬籠中の音楽を完璧に知り尽くした演奏。ダウスゴーさんは、拍子を伝えるのではなく、身体で音楽の表情をオーケストラに伝えていました。ひとつひとつのフレーズ、音に、その音がなぜ今そこにそういう形であるのか全ての出自を分かっていてそれが実際に伝わってくるのです。わたしにさえ、それが分かるのだから、一緒にリハーサルを重ねてきた都響の皆さんも弾き慣れていないと思われるニールセンの音楽に迷いが見られません。都響って、ひとりひとりの奏者の上手さは、読響とか他のオーケストラの後塵を拝するところもあるけれども、アンサンブルのまとまりは群を抜いていますね。それと音楽の理解力。指揮者の音楽をちゃんと音にできるところがステキです。今日もダウスゴーさんにしっかり付いて行って、それは素晴らしい演奏でした。リスク・テイキングなところも厭わずに攻めて行ってたのもとってもスカッとしました。ダウスゴーさんもびっくりの(だってオーケストラがあまり演奏したことのない作曲家の音楽を音にするのって難しいもの(バーンスタインも昔、ウィーン・フィルのマーラーに手を焼いていましたね))会心の出来ではなかったでしょうか。少なくともわたしはそう思いました。
ダウスゴーさんにはぜひまた、都響を振りに来て欲しいです。ニールセン・サイクルとかやってくれないかなぁ。
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by zerbinetta | 2015-05-29 00:31 | 日本のオーケストラ | Comments(0)