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安全運転? 「ペンギン・カフェ2013」新国バレエ   

2013年4月28日 @新国立劇場オペラパレス

ペンギン・カフェ2013

ポール・マーフィー/東京フィルハーモニー交響楽団


新国立劇場バレエ団のトリプル・ビルの初日に出かけてきました。お天気良かったし、朝から並べば当日券の安い席買えるんじゃないかなぁ〜って思って。ペンギン・カフェは他の日のチケットを持っているので今日は観に行かない予定だったけど、やっぱりもっと観たいな〜って。こんな日曜日もたまには良いでしょう。
今回のトリプル・ビル。性格もスタイルも異なる3つの作品を並べてきて、幕の内弁当のようにいろいろ楽しめてお得。同じダンサーが複数の作品を踊ったりするので、カラフルなカタログのように比べられてステキですよ。

シンフォニー・イン・C

ジョルジュ・ビゼー(音楽)
ジョージ・バランシン(振り付け)

米沢唯、菅野英男(第1楽章)
小野絢子、厚地康雄(第2楽章)
寺田亜沙子、奥村康祐(第3楽章)
本島美和、マイレン・トレウバエフ(第4楽章),他


最初の演目は,シンフォニー・イン・C。うん、これはストラヴィンスキーのハ長調の交響曲に違いないと思ったら(クラヲタだったらそう思うよね),ビゼーだった。全然違う。しかも、これ前に観たことあるじゃん。とほほ。
さて、今日はつくづく思った。わたしバレエの初心者に戻った。バレエを観るのちゃんとしなきゃ、きっともっと楽しめない。
わたし、今までバレエを観てたんじゃなくて人を観てたんだな〜って思う。ステージのそばの席で肉眼で踊っている人を見つめてた。表情だったり動きだったり手に取るように。その代わり、全体はあまり注意していなかったような。でも、新国立劇場は、ステージのそばに安い席がないので、上の方に座ることになる。そうすると、表情は見えなくなって全体を観るようになるんですね。バレエは全体のフォーメイションも大事で,特に、この作品なんかはそうだと思うのだけど、でもそれは今までわたしがしてこなかった見方。全く初めてに戻ったように、どういうふうに観れば一番楽しいか、考えていかなくちゃだわ。双眼鏡は持ってるけど、表情は見えるようになるけど、視野が狭くなって一点を観るようになっちゃうので、あまり使いたくないし。目が悪くなってるので,まずはメガネを変えることかな〜。あと、新国バレエで始めなきゃいけないのは名前と顔を覚えること。やっぱりダンサーさんに親しみを持たないとね〜。

まあでも急に、方法を変えることもならず、それにやっぱりわたしは踊りが分からないので、今日は、双眼鏡で表情を観ることにしました(顔も覚えなきゃ)。というわけで、顔の表情だけで判断すると、わたし的には亜沙子さんが一番笑みに溢れていて良かったな。こういうきらきらと幸せを振りまく踊りって、やっぱり表情も大事じゃないかって思うのですね。他の人はにっこり笑ってるけど、慎ましやかで,きまじめな感じ。幸せオーラ振りまかなきゃ。今日は初日なので安全運転だったのかな。もう一歩はっちゃけた、突き抜けた感じが欲しかったです。
前にジゼルを観たので,顔を覚えた,唯さんはぽんわかとかわいらしいんですけど、おっとりした感じが逆に出ちゃって,てきぱきときんきらの紙吹雪を振りまくような演目ではおとなしすぎたです。でも、ぽわーんとしているところになぜか親近感がわくので(どうせわたしもぽわーーんとしてますよ)、応援しますよ。


E=mc^2

マシュー・ハインドソン(音楽)
デヴィッド・ビントレー(振り付け)

米沢唯、福岡雄大(エネルギー)
小野絢子、長田佳世、寺田亜沙子(質量)
湯川麻美子(マンハッタン計画)
五月女遥、福田圭吾(光速の二乗),他


ひとつ目の優雅なクラシカルなバレエから一転して、レオタード系の抽象的なコンテンポラリー。それにしても、劇場でくれるキャスト表って,ダンサーの役と名前は出てるけど、振付家、作曲家、演奏者は出てないんですね。これは片手落ち。だって、バレエは踊り手だけじゃないたくさんのスタッフで成り立ってるんですもの。裏方さんの名前も有料のプログラムだけじゃなくてキャスト表にクレジットされるべき。たいしたスペースじゃないし。というわけで、これが誰の音楽で、誰が演奏していて、振り付けはビントレーさんだっていうのはなぜか知っていたけど、観ながらもやもやしていました。もやもやしてたので幕間にプログラム買っちゃったんですけど。

1曲目のエネルギーの打楽器ばんばんでアグレッシヴで速い踊りを観ると、マクレガーさんのを思い出しちゃうんだけど、ビントレーさんのは腕とかにカクカクとしない柔らかな動きを含んでいるんですね。唯さんの踊りは、意外にもバランシンよりもこちらの方がいいなって感じました。無表情OKだし。(あっ唯さんが無表情というわけじゃなくてもっと外に弾ける感じが欲しいと感じることもあるという意味です)
実は、2曲目の質量を観ている間ずっとマンハッタン計画と勘違いして。なんだか、原爆を賛美しているみたいで(この曲は静かで叙情的な踊りです)ずっと嫌な気持ちで観てたんですけど(損した!)、本物のマンハッタン計画が始まって、麻美子さんの白装束に赤い扇子を持った(ふとマダム・バタフライの最後の方のシーンを思い出した)踊りにズドーンと来ました。
最後はまた光の速さの踊りなんですけど、踊りのことは分からないのであさっての感想なんですが、日本のバレリーナの人のお腹って腹筋割れてないのね。ロイヤル・バレエのバレリーナってみんな腹筋割れててめちゃくちゃアスリートの身体してるんですけど、これって西洋人と東洋人の違いかしらね〜。運動能力が違うってことではないですから。

ペンギン・カフェ

サイモン・ジェフス(音楽)
デヴィッド・ビントレー(振り付け)

さいとう美帆(ペンギン)
湯川麻美子、マイレン・トレウバエフ(オオツノヒツジとそのパートナー)
八幡顕光(カンガルーネズミ)、高橋夕里(ノミ)
奥村康祐(ケープヤマシマウマ)
本島美和、貝川鐵夫(熱帯雨林の家族)
福岡雄大(ウーリーモンキー)、他


これが観たかったの〜。ロイヤル・バレエで観てとっても感動して,もう1回観たいと思ったのにわたしが観たのは最終日で、願い叶わず。それが、また観られるんですもの。しかも、振り付けのビントレーさんが監督をしてる新国立バレエで。
始まったとたん、あ〜これこれと涙が溢れてきて、この作品、動物たちの着ぐるみを着て音楽も最高に楽しいんだけど、内容を知ると悲しくて、奥行きの深いバレエなんです。ストーリーがなくてあるような。ペンギンかわいらしいし、わたしもあの着ぐるみ着て踊りたい!ほんとにあったら行ってみたい,ペンギン・カフェ。
踊りは、シンフォニー・イン・Cのときも感じたんだけど、安全運転で、もっと個人個人がオレがオレがとサーヴィス満点に弾けていればもっといいのにって思いました。エンターテイメント性の高い作品なので、リスクを冒しても弾けちゃう方が面白いと思うんですね。見せる(魅せる)踊りというか。上手に踊る以上のものを期待してるので。ステージに対してこじんまりって感じでした。
もしかすると,最後の悲劇に向かった収斂を先取りする(仄めかす)ようにしてるのかも知れないけど、弾けっぷりと鋭く対比させた方が悲劇も生きるような気がします。でも、回を追うごとに良くなっていくように思えます。そんなポテンシャルは感じました。まだいっぱいいっぱいじゃないっていうこと。
やっぱりこの作品大好きだ〜〜♡また観に行きます!
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by zerbinetta | 2013-04-28 16:09 | バレエ | Comments(0)

帰るべきところから聞こえてくる聖歌 インキネン、日フィル シベリウス3、6、7   

2013年4月26日 @サントリーホール

シベリウス:交響曲第3番、6番、7番

ピエタリ・インキネン/日本フィルハーモニー管弦楽団


日本ってイギリスと並んで、本国以外ではシベリウスがとても愛されている国。だから、シベリウスの作品がたくさん演奏されるんですね。ロンドンではわたしがいた4年間の間に,交響曲の全曲サイクルが2回、それに他にも単発で演奏されてます。一番演奏機会の少ない交響曲第4番でも2回聴きました。こんなことはUSではなかったし(7年間で交響曲が多分3回だけ。クレルヴォと第1番と7番。しかも全部外国のオーケストラ)、ヨーロッパ大陸でもないでしょう。シベリウス好きには日本やイギリス、もちろんきっとフィンランドも、はたまりませんね。わたしもシベリウス好きなので、若いフィンランドの指揮者、インキネンさんが日フィルを振る,シベリウス・サイクルは楽しみにしてました。といいつつ、聴きに行ったのは大好きな3曲をまとめてやる今日の音楽会だけなんですが。それにしてもわたしの好きな曲を3曲集めてというのはなんて嬉しい!プログラムなんでしょう。教会交響曲3曲ですね♡

サントリーホールはとっても久しぶり。外国に出る前だから、もう15年以上も昔、何回か聴きに来たことがあります。すっかりどんなところか忘れてた。サントリーホールってちょっと使い手が悪そう。だって、開演の30分くらい前までホールには入れないんですもの。というのはまあ普通なんだけど、ホールの外は外。アークヒルズのコンプレックスではあるけれども、ホールと同じ建物続きで,お茶したり休憩できるロビーが欲しいよね。せめてホールのエリアとして屋根付きの雨風をしのげるところが欲しいです。中の客席はこぢんまりとしていて、ステージが意外と広いと思いました。居心地はいいです。

日フィルは初めて。どんな演奏になるんでしょう。開演前のステージでは、数人の人が音出ししていました。そのままオーケストラは三々五々ステージに集うのかなと思ったら,いったん全員引っ込んでからわらわらと出てきました。こういうスタイル日本では多い?

インキネンさん、イケメンじゃん♡33歳くらい。
交響曲第3番は、でも、しかし、始まりの速い刻みの音がぴったり合わなくて、あれよあれよといううちに焦点が合わないまま進んでいきました。ゆっくり目のテンポでの演奏ではあるんですけど、この曲、軽快なリズムの音楽であるから、リズムが合わないとのれないです。わざとそうしてるのかしら。でも、それは音楽の中にあるものとは違う。あとで気づくんだけど,インキネンさんって横の線で歌うのはとってもいいんだけど、縦の線を刻むのは苦手な感じ。オーケストラがそこを汲み取ってしっかり合わせられればいいんでしょうけど、日フィルにはそこまでの力がないのかな。ずうっとちぐはぐなまま。それに、奏者ひとりひとりがこの曲を知らないで弾いてる感じでした。ばらばらでまとまりがないもの。特に内声の人やホルンとか和音を作る人はよく分からないで弾いて(吹いて)いるみたい。そして残念なことは、ティンパニのリズム感のなさ。ティンパニがぐいっとオーケストラを引っ張らなきゃいけないのに、オーケストラのあとから付いていくという感じ。マレットの選択にももう少し工夫が欲しいです。ホールは良い音のホールだと思うのだけど、ホールの音を生かす工夫をオーケストラがしていないのもがっかりでした。教会のコラールみたいに音が響くように作られてる曲だと思うのだけど、ホールの残響を利用した音のまとめ方ができていない感じでした。第2楽章はわたしにとって,絶対泣く音楽なんだけど、ちょっと遠くに置き去られたみたいにぼーっと立っているしかありませんでした。

と、前半は、珍しく強い言葉で不満を書いてしまいました。
そんなもやもや感の中後半。

第6交響曲は,一番大好きな曲。インキネンさんのテンポはここでもゆっくり目で,あっ!カラヤンのみたい(真ん中のクライマックスでの木管楽器の速い音符の吹かせ方も)って思って嬉しくなっちゃった。カラヤンの演奏が好きなの。インキネンさんの横の線を大切にした音楽の作り方はここではとっても上手くいっててオーケストラも見違えるようになって、これはとってもステキなシベリウスでした(第3楽章はリズムが停滞してたけどね)。インキネンさんの演奏は、シベリウスの中に熱くのめり込むものではなく、少し距離を置いて突き放している感じ。なので、より客観的な音楽になっていたと思います。外国のオーケストラでの演奏なのでそういう方向が生きているんじゃないかしら。暖かな人肌のぬくもりをもった音楽。とても大きな音楽作りだけど,雄大にはならずに自分にとって居心地の良い空間のサイズ。北欧の森も湖も空もイメジできなかったけど、それは当たり前。行ったことのない空気を吸ったことのないわたしにとってそれは作り物のイメジだもの。むしろ、シベリウスの音楽からわたしの裡にある自然の景色を、それは北海道の山だったり、クロアチアの湖だったり、オーストリアの丘に立つ小さな教会だったり、今日見た青い空だったり、岩手の峠の上で見た銀河だったり、本物の風景を音の中に感じさせてくれました。

内省的なエピローグで音楽を閉じると、すぐ続けて、第7交響曲の緩やかな音階。ゆっくりだけど後打ちのコントラバスを粘ることなく弾かせて、すうっと上がっていく。第6交響曲の後にすぐ続けて第7を演奏するということはアナウンスされていたので知っていたけど、こんなに違和感なくぴったりとつながるとは思っていませんでした。ひとつの独立した、それも最高に深く密度の濃い音楽なのに、境目が溶けてひとつの作品になる。こういうスタイルは初めて(第6番と7番が続けて演奏されたことはあったけど,その間に指揮者はいったん引っ込んだ)。でも、これは間違いなく成功していたな。音楽は内面でつながっていたし、そのつながりの中で演奏されることによって,ふたつの曲の新しい一面を見ることができたように思えます。
それにしても,あの、トロンボーンの聖歌が出てくるところは,何度聴いても感動する。理想の故郷に帰ってきた思い。奇跡のような音楽。あまりに壮大だけど,それは大きく広がるのではなくて,中へ中へと深く入っていく。わたしの中の小宇宙。シベリウスは最後何を見てしまったんだろう。もうこれ以上音楽が書けなくなるほどに。

日フィルの木管楽器は、あまり弱音を聞かせてくれなかったけどとてもきれいでした。シベリウスのこの3つの交響曲には,木管楽器が大事だもの。最後のふたつの交響曲の説得力は、この木管楽器の賜物。オーケストラ全体としては、音のしまい方やホールの響かせ方(特に今日の3つの交響曲は教会的な音の響きがあるのでそれがとっても重要)、ピアニッシモの響きに欠けはあったけど、それよりも後半のふたつは音楽の素晴らしさが雑念なく浮き上がってくる素晴らしい演奏でした。これからもインキネンさんとステキな音楽を作っていって欲しいです。インキネンさん、首席客演じゃなくて首席指揮者か音楽監督として迎えてインキネンさん色にしちゃえばいいのに。
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by zerbinetta | 2013-04-26 14:36 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

大地の歌の入れ子式シンメトリー マーラー随草 その五   

マーラーの「大地の歌」の形式については、すでにいろんな説が出されています。6つという偶数の楽章を持っていることで、上手くシンメトリーにならないのだけど、曲の半分の長さの最終楽章を2つの部分に分ける、もしくは第1楽章と第2楽章をひとつのグループとして考えて外側の枠組みとして組み立てるという考え方が出されています。そして、第4楽章を中心にするシンメトリーとして考えるとか、真ん中の3つのスケルツォふう楽章をひとまとまりにして中心に置くとか、これまたいくつかの考えがあります。
そんな中、蛇に足を描くように、わたしもひとつの考えを言ってみましょう。

ひらめきは、ネゼ=セガンさんの音楽会を聴いたときに来ました。そのときの日記に書いた蛇足。

ーーーーー
(照れ隠しに蛇足)
そして今日初めて気がついたんだけど、大地の歌の構成。マーラーの交響曲って真ん中に中心となるスケルツォを挟んだシンメトリックな構造が多いのだけど・・・、大地の歌は6楽章なのでしっくり来ない。第1と第2楽章をひとつの対として、第6楽章の間を3つのスケルツォ(のような音楽)で挟むということも言われてて、そうだとも思ってたんですけど、実はそれぞれの歌手の歌う3つの楽章がスケルツォ(のような音楽)を挟んでシンメトリックな構成を取っていることに気がついたんです。テナーが歌う奇数楽章は「大地に郷愁を寄せる酒の歌」「春に酔えるもの」という厭世的な雰囲気のある酔っぱらいの歌に挟まれて「青春について」。アルトもしくはバリトンが歌う偶数楽章は、「秋に寂しきもの」と「告別」という孤独な離別の歌に挟まれて、若き日の仄かな恋を歌った「美について」。形式的にも内容的にも明確な一幅の対をなしているではありませんか。中心にあるのは若き日の美しい思い。そしてそれへの別れ。これは今日の音楽会のおまけみたいなものですけど、今まで気がつかなかったことにびっくりするくらい、わたしには大きな発見でした。
ーーーーー

そう、テナーが歌う3つの奇数楽章でひとつのスケルツォ(第3楽章)を中心に置くシンメトリー、アルト(バリトン)が歌う偶数楽章がもうひとつの、スケルツォ(第4楽章(の中間部))を中心に置くシンメトリーと分けて考えることができると思うんです。それぞれ、暗ー明ー暗の対比。真ん中の楽章が過ぎ去りし日への美しい憧れというのも共通しています。しかもそれが入れ子になってる。こうして考えると音楽の雰囲気だけではなく、詞の内容からもとてもすっきりと形式を説明することができると思うんです。奇数楽章は酔っぱらいの歌。どの楽章にもお酒が出てくる。水辺のイメジ(生と死を分け隔てるもの?)を内包する偶数楽章は、死と乙女。かな?(このことについてはいつかまた)
こういうふうに考えるといいことは、第5楽章の立ち位置がとっても分かりやすくなること。この楽章が、中間のスケルツォではなくてフィナーレになる。第1楽章と対をなして(音楽的にも酔っぱらいの歌詞の内容的にもそうなってるよね)、ぴたりと正しいピースに納まる感じ。

そして中心になる第3楽章と第4楽章には水面のイメジがあって、どちらも景色を逆さに映しだしてる。なんか、マーラーがシンメトリーの謎解きのヒントを隠してるように。そして、曲の最後の最後でついにその水面を超えて向こう側の世界に入っていってしまうんでしょう。

(第3楽章)
逆さまに映り立たないものはない
この緑の陶土と
白磁なる陶土とともになる東屋の中
半月のごとき太鼓橋はかかり
その弧となる姿も逆さまに
美しく着飾り、盃をあげて 談笑交わす

(第4楽章)
金色の陽は差し照りて、
その乙女たちを包んで
きらめく水面に映し出している
陽は乙女たちのたおやかな肢体と
愛らしい瞳とを逆さまにして映し出している
(この訳では、敢えて「逆さま」という言葉を入れているけど、英語訳を見ると(わたしドイツ語読めないので),逆さという言葉はないみたいです。ただ、水面に映る反射、とか鏡という言葉が出てくるので鏡像であることは間違いありません)

どちらの楽章も明るいけど,この世のものでないような儚さがある。ゆらゆら揺れる水の面の夢の世界のような。遠い過去が憧れや理想の綿にくるまれて,柔らかく温かく心を包む。それはもはや現実ではなく心の中に現れる陽炎。第9交響曲では、青春への焦がれるような憧憬が迸ったけど、この曲では,青春は彼岸の彼方にあるみたい。現実のものではない走馬燈。

もちろん形式は複雑に絡まり合う。第2楽章の反映になる第6楽章は、ついに友(死の使い?)と出会い、別れの杯を交わして,この曲の終結を迎える。第1楽章と第6楽章の後半は対立しつつ対をなしてる。

(第1楽章)
天空は永久に蒼(あお)く、しかも大地は
永遠に揺るがずにあり、春ともなれば花咲き乱れる。

(第6楽章)
愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……

ともに、大地の永遠を歌うのだけど、でも、第1楽章はまだ水面の上。永遠に還り来る大地の春の前に,人生の儚さ、人の小ささに絶望して酒を飲む。でも、最後の楽章で、別れの杯を交わしたあと(お酒の回帰!)、ついに水面を超えて、魂は大地に溶けて同化して永劫回帰の中に安らぎを得る。キリスト教的世界観から踏み出したマーラーの新しい音楽の世界。ニーチェの影を強く感じるけど、ニーチェよりも人工的ではなく、自然に溶け込むよう。まさに大地が繰り返してきたように。そこにはきっと、悲嘆もなければ希望すらない、ただものごとが有りの侭にあるだけ。マーラーはこの主題をもう一度、第9番の交響曲で繰り返して、ついに未完の第10番で未知の新しい世界に踏み出して行くのではないかしら。多分テーマは、re-creation。そのこともいつかまた。

(歌詞の日本語訳はウィキペディアから引用しました)
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by zerbinetta | 2013-04-25 23:27 | 随想 | Comments(0)

写真撮っちゃダメ?   

あああ、ユジャのプチ追っかけだったのに,軟弱もののわたしは、せっかくのユジャのリサイタル@日本にひとつも行かず。。。
で、風の便りに聞いたのだけど,とても鮮烈な印象を与える演奏で、終演後のサイン会は大盛況だったそう。ファン(軟弱もの)のわたしとしてはうんと嬉しい!

ところで、これもちらりと聞いたのだけど、サイン会のときの写真撮影ってダメなんですかーー?サイン会をやってる演奏家で写真撮られるのが嫌という人あまりいないと思うのだけど。わたしが今まで音楽会を聴いてきたUSやロンドンでは、サイン会はファンと演奏者の交流の場で、お話ししたり一緒に写真を撮ったりとか普通にしているので、肖像権とかそういうのが問題になることはないんだと思うのだけど。国によってルール違うのかしら?
それとも、サイン会に並ぶ人の人数が問題なのかしら。関係者の方も早く帰りたいだろうし。でも、黙って機械的にサインをするのもなんだかなあって思うだろうし、黙ってCDなりプログラムを差し出してサインをもらうお客さんも失礼よね。わたしたちだって感想を伝えたり,ありがとうを言ったり、質問してみたり、そんな場があった方がいいと思うのね。さっと写真を撮らせてもらってもいいと思うし、わたしが見ている限り皆さんとてもフレンドリーで、喜んで話してくれたり、ポーズを取ってくれたりしてますよ。
もし、主催者事由でおしゃべりや写真がダメというルールならちょっと再考して欲しいって思っちゃう。

ただ、サインを求める人があまりに長蛇の列だったら難しいのかも知れないけど。確かにロンドンとかでは,サイン会あっても一部の例外を除いてそんなに人並ばないからなぁ(サイン会してるのにお客さん誰もいなくてかえってドキドキとしちゃうことも)。

そう言えば、全然関係ないけど、ユジャの音楽会、中国人のお客さんは多かったのかしら?外国の音楽家さんの音楽会には,その国の人たちがたくさん来るのをよく目にしてるけど,東京ではどうなのかしら?って単純な興味。
ユジャのプチ・ファンとしては次に聴ける機会に期待しましょう。ぜひ、彼女のベートーヴェンのソナタを聴いてみたい。前に聴いたとき良かったから。あえて、メカニカルなプロコフィエフじゃなくてね。
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by zerbinetta | 2013-04-22 23:20 | 随想 | Comments(0)

ロンドンで出逢った大切な人 アリーナ・イブラギモヴァ   

先日、サー・コリンさんの追悼記事を書いて思いました。感謝は、ちゃんと生前に伝えなきゃいけないって。
そういうわけで、ロンドンで出逢ったとても大切な人たちについて書いていきたいと思います。思い出話で申し訳ないのだけど、皆さん、まだまだこれから活躍される方たちなので、もし、興味を持ってくれる方がいれば、それは未来に繋がることだと思うんですね。わたしも、ここでありがとうを言って、さらに好きになる宣言をします。

一人目は、もちろんアリーナ♡
わたしとアリーナの出逢いは2009年の早春。BBCシンフォニーとのリゲティの協奏曲。ヴァイオリニストには何の注意も払わずに出かけていって、あまりのステキさに雷に打たれたんです。リゲティの音楽の素晴らしさを何のバイアスもなく素直に表現してしまう演奏に。そしてすぐ,ファンになる宣言。わたしのプチ追っかけが始まります。
彼女、ロンドンに住んでいたり(今はロンドンとベルリンを行ったり来たり)、BBCのニュウ・ジェネレイション・アーチスト・スキームに選ばれていたりで、ロンドンは遠くに行かないプチ追っかけにとって代え難いところ。地の利を生かして、バッハの無伴奏や、ベートーヴェンのソナタ、ルクーとラヴェル、メンデルスゾーンの協奏曲(オケ違い)などCDにもなってるものをはじめ、シューベルトのトリオやバルトークの無伴奏などCDにはなってないものまで、全部で20回も音楽会を聴きに行けました。今のところアリーナを最もたくさん聴いてる日本人のひとりじゃないかってひっそり自慢に思ってます(そんなこと自慢しても何にもならないのにファン心理)。CDもアリーナがオブリガードで出てるのを除いて(というところが中途半端で軟弱もの)全部買ってしまったし。そしてどの音楽会もCDもわたしにとってステキなもの。

アリーナはもちろん上手いのですが、もっと上手い人は、たくさんいるでしょう(わたしが最初にプチ追っかけになったヒラリーとか)。でも、アリーナくらいテクニックを感じさせず、音楽だけに集中させてくれる若い音楽家は少ないです(やっぱりヒラリーとか)。
アリーナは,嵐のような突風を巻き起こして否応なく,彼女の音楽に引き込む人ではないのです。重力がそこだけ強くなってそこに自然に引き留められる感じです。ダーク・マターいっぱい。そしてわたしの身体の奥のものが彼女の音楽に直接つながって反応するんです。言葉で説明できない深いところから立ち現れる共感覚。大好きという相性。
バッハを初めて聴いたとき、静かに語る居心地の良い距離感にうっとりしたのだけど、アリーナの音楽はそれだけではなく、あるときは朗々と歌ったり,アグレッシヴにがしがし弾いたり、イゾルデの昇天のごとく音楽の大きな波に気持ちよく溺れられる。現代楽器もバロック楽器も両方弾きこなせる柔軟性。でも、学究的に型にはまった弾き方ではなくて、その音楽に一番良いと思われるものを摘み取って音楽を作ってる。天性の感覚を持って,実に自然に。彼女の最も大きな美質は、その自然さでしょう。彼女も、音楽も決して誇大に見せることなく、本来あるべき適切な大きさで表現しているところに、智と情のバランスのとれた頭の良さを感じます。
録音もヴァイオリニストがよく採り上げるスタンダードな協奏曲はあまり出さずに(今のところメンデルスゾーンだけ。音楽会ではチャイコフスキーとかタコとかも演奏してますが)、室内楽中心。ソリスト寄せ集めじゃない常設のカルテットを持っていますしね。ついつい大ホールでオーケストラと派手にってなっちゃうけど、アリーナは大きなホールで演奏できる音量を持てる人だけど、自分の特質(好きなのかな)をよく知ってるようで嬉しくなっちゃうところ。

アリーナはライヴ。どの演奏でも,リスクを恐れずにぎりぎりのところを攻めてきます。なのに、破綻することなく弾ききってしまうのが凄い。とってもドキドキワクワクする音楽。それに、若さゆえの発展途上、毎回変化していくんです。聞き逃しちゃったらもったいない。CDで聴ける演奏も、新しいライヴを聴いたら全く違うものになっていたり。4年前のバッハの無伴奏のCDもとおっても良かったんだけど、去年に聴いたときはもう全く別物に深化してるし、ルクーのソナタはCDよりも音楽会で聴いたほとばしる演奏の方が断然好き。いつ聴くか,今でしょう。

とっても嬉しいことに,今年、アリーナは,名古屋と東京でリサイタルをやります♡盟友、最強のパートナー、ピアノのセドリックとです!セドリック、かっこいいんですよ。じゃなかった音楽もステキなんです。セドリックだってアリーナの付録じゃないんですよ〜。ひとりで聴いてもステキだし、アリーナとのデュオは,アリーナをしっかり支えながら対等に刺激しあって音楽にドラマが生まれるんです。このおふたりで、ベートーヴェンのソナタ、全曲サイクル。CDになってる、2年前のウィグモア・ホールのライヴを録ったときの演奏よりも確実に素晴らしい音楽が聴けることでしょう。もし聴くチャンスがあるならば絶対聴かなきゃ損ですよ〜〜。

わたしも、遠く離れちゃったけど,これからもずうっとアリーナのファンでいてプチ追っかけを続けていきたい。10年後20年後、もっともっと深化していくアリーナを聴きながら、わたしの裡の音楽も少しずつ変わっていったらいいな。そしてできれば節目ごとのバッハを聴かせて欲しい。多分、アリーナを映す鏡はバッハだから。そしてそして、夢だけど、最高の作曲家が、アリーナのためにバッハの無伴奏を元にした音楽(編曲ではなくて)をアリーナとともに作り上げてくれたらな、って思います。
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アリーナ大好き♡
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by zerbinetta | 2013-04-22 00:23 | 随想 | Comments(8)

モーツァルト聴いても頭良くならないよ 飯守、東京シティ・フィル ブルックナー5   

2013年4月19日 @東京オペラシティ コンサート・ホール

モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番
ブルックナー:交響曲第5番

菊池洋子(ピアノ)
飯守泰次郎/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

最近、このブログ、音楽会日記+αなのにαの部分ばっかりでちょっと肩身が狭くなっちゃってるんだけど、今日は久しぶりに音楽会。シティ・フィルのブルックナーを聴きに出かけてきました。ブルヲタじゃないのに。しかも交響曲第5番、あまり好きではないのに。なんてことでしょう。
ブルックナー1曲だけだと思ってたら、モーツァルトのピアノ協奏曲も演奏されるのでした。

音楽会が始まる前に,指揮者の飯守さんがピアノ演奏を交えてブルックナーの交響曲第5番の解説をして下さいました。モーツァルトのレクイエムとの類似性のお話は面白かったです。でも、曲の解説は、なんだか自分の世界に入ってるみたいで、順を追って主題をピアノで聴かせてくれるだけでちょっとつまらなかったし、プレゼンテイションの仕方にひと工夫必要だなって思いました。この音楽がお好きなのは分かりましたが、没入型の演奏になるのかなぁちょっと心配。

モーツァルト。菊池さんの白と黒の艶やかなコントラストのドレスは好き。落ち着いてるけど華やかな感じで、ハ長調の音楽の祝祭的な雰囲気に合いそう。菊池さんと飯守さんのモーツァルトの協奏曲第21番は、この超有名な音楽(第2楽章の甘美な音楽がよく大学生協の食堂でかかってました)をとってもロマンティックに演奏しました。プロフィールによると菊池さんはフォルテピアノも弾くそうだけど、現代ピアノと弾き分けてるのかな、完全に現代サイドの演奏でした。
わたしはロマンティックなモーツァルトは嫌いではないのだけど(ピリオド楽器でのピアノ協奏曲はほとんど聴いたことないし)、今日の演奏はわたしの好みとは全然違ってました。まず、ピアノの音色がなんだか平板でだめ。それに左手と右手がちぐはぐな気もして、リズムが先走っちゃうところもあったように感じました。それに不用意に音が濁ってしまうのも気になりました。第2楽章は、ロマンティックすぎて、なんだかイージー・リスニングみたいな音楽。モーツァルトってこんなだったっけ?モーツァルトは胎教に良いとか、頭が良くなるとか、なんだかそんな、モーツァルトの音の表面の膜を体現したみたいで、モーツァルトってそんな簡単じゃない、もっと真実に近い、心に強い作用をしてしまう音楽なのにって思った。モーツァルトのピアノ協奏曲は、今まで聴いてきたのがピレシュさんだったり光子さんだったりルプーさんだったりするので、わたしの耳が贅沢になりすぎてるのかも知れません。この曲もエマールさんの神がかった演奏で聴いているし。菊池さんって,モーツァルト音楽コンクールで優勝しているのですね。わたしには、あまり合わないモーツァルトだったけど、本当は良い演奏だったのかなぁ。まっいいや、わたしの気持ちはわたしのものだから。オーケストラも残念ながら、貧弱で,特に弱音での弦楽器の艶のなさが気になりました。マーラーとかタコとかそういうアクロバティックな技術が必要な音楽なら誤魔化しがきくけど、モーツァルトのようなシンプルな音楽はオーケストラの本質的な力が直接に出てしまいますね。モーツァルトとハイドンは下手なオーケストラでは聴きたくない。
菊池さんがアンコールに弾いたクルタークとバッハのカンタータ147番をつなげて。これは始まりがとっても良かったので,彼女は、こういう音楽の方が合ってるのかなっても思いました。

飯守さんのブルックナーの交響曲第5番は、熱演でした。基本のテンポが遅くて,緩急を大きく付けた演奏。第1楽章は、第1主題のテンポをブロックごとにいくつか異なるで振り分けていて,これはちょっとやり過ぎ、基調の速めのテンポでいいのにな、そうすれば第2主題の遅いテンポと対比がより付くのにって思ってしまいました。第1主題のテンポが動くのでちょっとこんがらがっちゃった。でも、中声部の弦楽器が歌うところとか、トレモロがとっても印象的に聞こえました。このトレモロ、もっと聴きたいと思ったんですが,出てくるの第1楽章だけなんですね。残念。
第2楽章はめちゃくちゃゆっくり。弦楽合奏の音が厚く流れていて、それにのる金管楽器や木管楽器も一体となってまとまりのある音楽を作っていました。お終いは振りを間違えたんじゃないかと思うほどのゆっくりテンポで、神秘的な天上の体験には至らなかったけど、充実した音楽でした。このテンポで弾ききったオーケストラもよく付いていったって感心しました。緊張が途切れることありませんでしたしね。
続く第3楽章は,速めのテンポで勢いよく攻めます。ただ音楽がくどいですよね〜。主部だけでトリオを含んでるような感じで、いつまでたっても終わりませんもの。終わったと思ったらほんとのトリオだし。
最後の楽章は、第1楽章みたいにカラフルなテンポ設定で幻惑させるのかなぁと思ったら、そうでもなくて良かった。基本的に第1主題は速め、第2主題とコラールは遅めで、ふたつの主題が重なるところは秘かにアチェレランドして多少テンポを戻していました。途中、指揮者が大きくうなり声を上げて指揮してるなぁと思ってたら、金管楽器のコラールが入るところでトロンボーンがひとりぽつんと先に出ちゃってドキリとしたけど、あれは指揮者が妙な間を開けようとしたからかな。でも、大きなミスはそれくらいで音楽を傷つけるほどではありませんでした。一番音楽を傷つけていたのは,客席で始終がさごと音を立てていたおじいさんでしょう。
飯守さんの指揮は,各主題をブロックごとに丁寧に描き分ける(主にテンポ設定を通して)もので、見通しのはっきりしたブルックナーでした。宗教とか精神性とか四の五の言わずに(指揮者の意図したことではないかも知れませんが)、音たちの洪水を楽しませてくれるものでした。ずいぶんと長大な(演奏時間90分くらい?)演奏で、あれこんな音あったのかってブルックナー自身がカットした楽譜をゴミ箱からかき集めてつなげちゃったのかしら、なんて思いました。もちろんそんなことはなくて、何となく音楽が迷子になっていただけですけど。
オーケストラは、ホルンがんばれ、とかテンポ感ずれてるよ、とかホールを味方に付けろ、っても思ったけど,最後まで息を切らさないスタミナには拍手です。もちろん、ホールの響きがいいので、オーケストラがもう少し上手くて,残響をきれいに残す音のしまい方ができれば、とは思いました。ウィーン・フィルとかはやっぱり上手くて、響きのないロイヤル・フェスティヴァル・ホールにお客さんで来るときでも,最後ふわんと響くブルックナーを演奏できますしね。シティ・フィルもせっかくこのホールを本拠地にしてるので、ホールの響きを味方に付ける演奏をすれば,とっても良くなるに違いないと思います。大事なことだから2度言います。ホルンがんばれ〜〜。

この曲に関しては、桁外れな次元の違う演奏を聴いたことがあります。でも、今日の飯守さんとシティ・フィルの演奏もとても心に残る演奏でした。
カーテンコールのとき、飯守さんが小さな花束を持って出てこられたので、あれ、花束もらう方なのに袖でもらっちゃったのかな,と思ったら、すたすたと歩いて行って、今月で退団されるオーボエの市川さんに花束を渡されました。最後の定期演奏会、きっと充実したものになったんじゃないかしら。最後にふさわしい音楽と演奏だったもの。
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by zerbinetta | 2013-04-19 15:46 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

マーラー交響曲第7番「復活」 マーラー随草 その四   

多くの非キリスト者の日本人が誤解しているように思えるんだけど、キリスト教の教義って死んだら天国にすうっと行くのではありません。死んでから、死んだままお墓で復活を待つんです。昔は、その(肉体的な)復活のために,死者の心臓とか腸とかを壺に入れてとっておいたとも言います。昔、ウィーンのシュテファン寺院の地下のカタコンベに見に行きました(あとで調べたら,シュテファン寺院は心臓以外の内蔵を置いてるんですね。心臓は別の場所)。イエス・キリストだって死んでから墓に入って3日目に復活します。天国に行くのはそれから。というかキリストの場合は、しばらく地上に現れては弟子を教え、昇天するのはちょっと後なんですね。そして、これが一番大事なことなんですが、天国に行くのは本人の善行でも努力でもなく,ただひとえに(神の)恩寵なんです。いわゆる信じる者は救われる,デス。何も努力しなくても神さまさえ信じていれば,ポワンと天国に行けるわけです。だからそこに人間的なドラマはありません。

マーラーの音楽は、少なくとも交響曲第8番までは、とてもキリスト教的な背骨を持っているように感じます。最初の頃、ベートーヴェンばりの暗から明へ、人間は努力して幸せを得る、みたいなドラマを描いてたけど、だんだんとそんなドラマツルギーからは離れていったように思えます。マーラーの時代は、ベートーヴェンの頃のような未来を単純に信じられる時代ではなくなってきていますからね。未来への閉塞感がある。また、マーラーは強い疎外感を持っていました。彼の言葉、「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」は、彼の疎外感を端的に表していると思います。どう足掻いても抗いようのない出自。だからこそ、彼は人間の努力に対する諦めに似たものを感じていたのではないでしょうか。そして彼は、ブルックナー以上に宗教を考えた人だったように,彼の音楽から感じます(ブルックナーは完全に宗教の中にいたので、闘争も悲しみもドラマもない)。
ヒューマニズムとキリスト教は相容れないものです。なぜならキリスト教は神の論理なので人の論理とは別物だからです。だからこそ、ひとえに神を信じることで救われる。どんな悪人であろうともです。
そんな、ドラマ性のなさが、マーラーの音楽には見られると思うんです。努力でも自分で掴み取るでもない,結局、天から振ってくる恩寵。そんな自己実現の弱さが、例えば、まだ、暗から明への交響曲を書こうとした第5番のフィナーレの弱さにつながっているんじゃないかって思います。幸せは棚からぼた餅、天から降ってくる。

交響曲第7番のフィナーレの、KY気味の唐突さは、だから、これこそが神の恩寵の神髄です。マーラーは、闘い、努力を積み重ねて、最終的な喜びを得る人間的なドラマを交響曲第7番には持ってきていない。人生は全てチャラになる、偉大な神の勝手な意思を音楽にしていると思うんです。苦しかろうが,楽しかろうが、悪いことをしようが、努力しようが怠けようが、そんなことは結局何の意味をなさない、恩寵による天国行き。勝手に現れる白昼の喜び、お祭り。だから、フィナーレが弱いなどと言うアドルノの批判などは,本質を外れてるんです。だって、描いているものが違うのだから。むしろ、意思に関係なく唐突にやってくるから最強。その代わり、第10交響曲の真ん中のスケルツォ、「この世の生活」(敢えてプルガトリオと言わない)に象徴されるように、スケルツォは現世の人間の営みを強烈にカリカチュアライズしてる。

マーラーは現実の生から、死んで天国に行く,「復活」というタイトルを付けていい音楽を3曲書いてます。本家「復活」の交響曲第2番、天国の扉が開いて天国の情景が音楽になる交響曲第4番、そして、唐突に天国の馬鹿騒ぎがやってくるこの第7番です。
フィナーレが天国の音楽、復活の音楽だとすると、その前の楽章は死の音楽です。だって死ななきゃ復活できないから。4つの楽章全てが死の音楽かどうかは分かりません。きっとこの世での闘争もあるでしょう。でも、最初の3楽章の暗さは、夜の音楽ですね。夜と言っても言葉通りの意味だけではなく、その言葉に内包している意味も含めてですが。マーラーのこのグロテスクだけれどもロマンティックな音楽は、ロマン派的な死への憧れかも知れません。風が吹き抜けた夏の世のセレナーデを含めて。そして夜は何の脈絡もなく裂けて真昼の燦めきに取って代わる。交響曲第1番のフィナーレの半ばで、マーラーが天の啓示と言った、ニ長調が突然降ってくるところ、同じことがフィナーレが鳴り始めたとたん、最も強烈な形で現れる。

この曲のドラマツルギーは、だから、キリスト教的な恩寵をフィナーレに持ってくることで崩れているのだけど、だからこそ、わたしは、マーラーの交響曲第7番は、カラフルでロマンティックで艶やかな音楽だと思っています。各楽章がそれぞれに対比されて枯山水の石組のように、観る(聴く)人の裡に波紋を作るように置かれてる。もしくはカラフルな抽象画のように、それぞれの絵の具が観る(聴く)人の神経細胞を活性化するように配置されている。
マーラーの最もハイドンチックな交響曲。眩い光りに目が眩みながら音楽会をあとにできればステキですね。
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by zerbinetta | 2013-04-18 23:43 | 随想 | Comments(0)

はばたけ!世界へ。日本のオーケストラ   

東京は、世界の(特にオーケストラの)クラシック音楽の中心のひとつと言えるくらい、たくさんオーケストラがあったり、ものすごくたくさんのアマチュア・オーケストラの音楽会(大学がめちゃくちゃ多いからね)があったり、海外から極めてたくさんの音楽家が演奏にやってきたり,毎日百花繚乱の音楽会が開かれてる。チケット代を気にしなければ,音楽好きには魅惑的な都市。

こんなに音楽が盛んなんだから、外から呼ぶだけじゃなく、我々の力を外にも見せつけよう!なんて野心はないのかな。世界の音楽都市には,それこそ世界に誇れるオーケストラがひとつやふたつ、あるじゃない。東京ほどの大きさじゃなくても、一流のオーケストラを持つ町はいくつもあるし。だからこそ叫びたい、東京にも世界で活躍する一流のオーケストラを、と。

日本のオーケストラってとってもローカル。もちろん、その土地の香りのするオーケストラってステキだけど、ひとつくらいは、国際的な常設のオーケストラがあっていいと思うの。日本のオーケストラはとても巧いと思うけど、何かちょっと欠けてるというか物足りない部分もあって、国際的なオーケストラがひとつでもあると、オーケストラ界の芯になると思うのね。
日本のオーケストラの特徴は、オーケストラの中の人が日本人ばっかり。西欧人が少ないのは分かるけど、アジア人も少ないのはちょっとどうかと思っちゃう。今どき、たくさんの中国人や韓国人(もちろん日本人も)を始めとしたアジア人が世界中のオーケストラで活躍してるのに、優秀な人たちが日本に来ないのはちょっと悲しい。というか、何か問題があると思うんですよね。働く環境が悪いとか、国際的な給与水準にないとか(よって国際競争力に勝てず一流プレイヤーを集められない)、日本の音大に外国から人が来ないので人を育てられないとか、オーケストラの問題ではなく、日本で働くヴィザが取りづらいとか、わたしは外野なので想像に過ぎないんだけど。でも、オーケストラの国際化の第一歩は、世界中から優秀な音楽家を集めること。指揮者だけじゃなくてね。
リハーサルも英語でするのがいい。なぜに英語、というのは議論のあるところかも知れないけど、国際的に活躍する指揮者は英語が話せる人が多いし,多国籍の人の集まりの共通語は英語だと思うの。あのフランス語べったりのフランス国のブザンソン指揮者コンクールも英語でやるしね(フランス人の指揮者がフランス語で指示を与えたとき審査員から英語でやって下さいと注意されていた)。

それから、オーケストラのウェブ・サイト。これはオーケストラの顔だから、しっかりと海外にもアピールして欲しい。外国に住んでる人がまず調べるのがウェブ・サイトだから。わたしたちが海外旅行に行って,音楽会を聴きたいと思ったら、ググったりして調べるでしょう。そして、気に入った音楽会があったら事前にチケット買いたい。インターネットの時代、今はたいていの音楽会はウェブ・サイトからクレジット・カードで買うことができます。わたしが前に住んでたフランスの田舎町の音楽会も今やインターネットでチケット買えるし。多くの音楽旅行者は、海外の公演はチケットを買ってから出かけるんじゃないかしら。来てみたもののチケット売り切れとかだったらつまんないし。
では、日本のオーケストラ、ホールは。前に、ウェブ・サイトを見て回ったとき、もうちょっとがんばって欲しいなって思いました。英語のペイジはたいていあるけれども,日本語のペイジに比べてまだまだ貧弱。せっかく英語で作るんだから(それって外国の人にもアピールしたいってことよね)、全てのペイジをもっと充実させて欲しい。できれば、最近目覚ましい進歩を遂げている、ウェブ・ベースの発信。ベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホールやニューヨーク・フィルのアーカイヴとまではいかなくてもいいけど、youtubeで音楽会を(カットなしで)放送するとか(ストリーミングもいいけど時差があるからオンデマンドがベター)、音源を公開するとか、なんなら高音質の録音をダウンロード販売するとか、過去とこれからのシーズンのプログラムを公開するとか、やれることはたくさんあると思うんですね。とにかく宣伝が大事。

そして、やっぱりウェブ・サイトでカードを使ってチケットは買いたい。えっ?買えるでしょうと思った方、甘い甘い。これがまた難しい。どうやら、チケットを売ってるのはオーケストラやホールの中の人が真面目に考えてるのではなくて、どこも似たり寄ったり(テンプレイトがあるのかな)、外国人には使えないシステムになってるの。例え日本語堪能でもね。多くの場合、サイトを利用するためには何とかクラブやらかんとか会に入会しなければならないのだけど,これが日本語。名前(とふりがな)を2バイト文字で入れなければならないのでアルファベット不可。住所も日本だけしか入れられないし。だいたいは海外からのチケット購入は、電話かファックス、たまにemailでしか受け付けてもらえない。このITの時代にだよ。日本という超ハイテクの国で、おしりだってシャワーで洗えちゃうのに、未だに便座は冷たいイギリスやフランスごときに負けてるなんて(いいえ、わたしは便座を温めるのは嫌いです)。

さらに、フェイスブックやツイッターで,双方向の情報発信をする。(わたしはフェイスブックの方は放置している(パスワードを忘れちゃったので自分のペイジにアクセスできない)のでよく分からないけど)ツイッターのアカウントは、一方的な情報発信のみが多いように思えるの。もちろん、大変なことだと思うけど、これからはますますネットが大事になる時代。ロンドン・シンフォニーとかロイヤル・オペラみたいにお返事くれると嬉しいし。専任の中の人を雇って、ウェブやSNSの充実(海外へ向けた発信や双方向コミュニケイション)させて欲しいです。

これらのことは、大変だしお金もかかることだけど、日本で自前でできること。ひとつくらいは、まずは、国際的なオーケストラの基礎を作って、真に一流のオーケストラとして認識され、海外からも招聘されるオーケストラになって欲しいです。そしてどこの国に住んでもわがふるさとのオーケストラと自慢したいっ。
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by zerbinetta | 2013-04-17 22:28 | 随想 | Comments(0)

シンメトリー マーラー随草 その三   

ごめんなさい。そんなことよく言われてることだし、何を今更っておっしゃるのも分かります。でも、あとのお話にも必要なので話させて下さい、シンメトリーのこと。もちろん、そんなこともう知ってるよという方は笑って飛ばしちゃって下さいな。

お話ししようと思うのは、マーラーの交響曲によく見られるシンメトリカルな構成のこと。交響曲様式による音詩「巨人」、交響曲第2番、第5番、第7番、「大地の歌」、第9番、第10番、そして、変則的だけど,第3番、第4楽章をプロローグとしてとらえたときの第4番にみられるものです。ということは、シンメトリカルではないのは、「嘆きの歌」、「さすらう若者の歌」、「亡き子をしのぶ歌」、「巨人」を改訂して4楽章にした交響曲第1番と第6番、第8番ですね。交響曲と名が付くものは、ほとんどがシンメトリカルな形式を持っていることが分かります。

マーラーの前に,シンメトリカルな形式を持った交響曲はあるでしょうか?ハイドンの初期の3楽章の交響曲までさかのぼっちゃうとあれだから、形式が確立して意識的に交響曲が書かれた頃からの作品を見てみると、ベートーヴェンの「田園」。それからベルリオーズの「幻想」。それくらいかしらね〜。本当のところはただ5楽章あるだけで、作曲家はシンメトリーを意識したわけじゃないと思うけど、シンメトリーを意識させるのには十分打と思うんです。どちらもマーラーが生涯にわたって10回以上指揮した愛奏曲ですから、ヒントを得たとしても不思議ではありません。

マーラーはシンメトリックな構成を意識してたんでしょうか。それは分かりません。わたしの知る限り、ってもほとんど何にも知らないんだけど、そのことに言及してる彼の言葉は見つからないので。でも、交響曲のシンメトリックな形式への偏愛をみると、意識的にせよ無意識にせよ内的な欲求はあったんじゃないかなって思うんです。

マーラーだってベートーヴェンを強く意識していたので、シンメトリカルな形式の交響曲でも音楽のドラマ、暗から明へみたいな、を描いているように思えます。多分、「巨人」と交響曲の2番、5番は。だからこれらの曲には、暗から明への一方向のドラマと真ん中で方向が逆転するシンメトリカルな形式の間で軋みが見られるような気がするのです。ドラマの筋がはっきりしている第2番は形式が隠れ、形式への志向が強い第5番ではドラマ性が弱くなってると思うんです。
ドラマ性が薄くなり、形式が音楽を支配するようになるのは交響曲第7番からだと思います。マーラーの第7はベートーヴェンのそれと同じように形式の音楽です。さらに、晩年のマーラーを捉えた永劫回帰の思想は、ついに音楽の形式との完全調和を成し遂げるんです。(この辺、わたしの主張というか思い込みが強いのですが)

マーラーの交響曲のシンメトリック構造の1番目立つ点は真ん中がスケルツォなんです。交響曲って昔は第1楽章とそれに続く3つの楽章の仲間たち、みたいな感じで、第1楽章が中心でした。そのうちモーツァルトの最後の交響曲やベートーヴェンの頃から、ドラマの結論を担う第4楽章(最終楽章)が大事になって、「合唱」なんかはその最たるもので、多くの普通の日本人は第九と言ったら最後の楽章しか知らない、なんてことが起きちゃいます。諧謔性を持ったスケルツォが曲の中心になるなんてなかったんです。こんなのマーラーだけ。
そしてマーラーのスケルツォには,交響曲の真ん中に置かれているだけではなく、中心のテーマ(音楽的に、ではなく哲学的に)、場面の転換のポイントになってるように思えます。

そのことに気づかされたのが,ニューヨークで聴いた,ブーレーズさんとウィーン・フィルの交響曲第3番の演奏。ブーレーズさんは第3楽章の森の童話を思い出させるようなおどけたスケルツォの最後を遅いテンポで,ティンパニをはっきりと際立たせて演奏したのです。その結果、見事な場面転換。夜の帳が降りて後半の夜の音楽につながったんです。トリスタンの昼と夜。表と裏。スケルツォを介して世界が転換するのをまざまざと聴いてはっとしたのです。この曲のシンメトリカルな構成が浮かび上がった瞬間です。

さて、この間の第6交響曲。マーラーが、スケルツォを作曲過程で置いていた第2楽章ではなくて,最終的に第3楽章にしたのは、マーラーのこのシンメトリカルな形式への(無意識な)偏愛があったからではないかと秘かに妄想しています。だって、スケルツォを第2楽章に置くと、第1楽章と繋がっちゃって(曲想が近いから)、マーラー的スケルツォの役割を果たせないんですもの。長大なフィナーレと他の楽章とのスケルツォをはさんで形式的なバランスを取るということもあります。本当のところはマーラーのみぞ知る、ですが。

わたしは、こういうマーラーの謎かけを妄想して勝手にあーだこーだと考えるのが大好きなようです♡
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by zerbinetta | 2013-04-16 20:28 | 随想 | Comments(2)

サー・コリンさん、素晴らしい音楽をありがとうございました。心から哀悼の意を込めて   

このブログでは、敢えて音楽家さんたちの訃報については書かないできました。でも、サー・コリンさんの思い出は書かせて下さい。

わたしは、サー・コリンさんの良い聞き手ではありませんでした。サー・コリンさんが指揮する音楽会に全て行ったわけではなく、他の魅力的な音楽会と重なったとき,サー・コリンさんの音楽会のチケットを手放したこともありました。サー・コリンさんは1番に聴きに行く音楽家ではなかったけど、でも、彼の音楽会のあとはいつも充実した喜びに満たされました。わたしにとってのサー・コリンさんは、一にモーツァルトです。ロンドン・シンフォニーのベルベットのように柔らかな音のモーツァルトは、流行の歴史的な演奏解釈とは無縁でしたが、現代のオーケストラの美質を味わい尽くす素晴らしい体験でした。内田光子さんやルプーさんとのピアノ協奏曲は,夢のような時間でした。

サー・コリンさんは,ロンドンで初めて聴いた指揮者です。まだ、ロンドンに住むことが決まる前に面接に来たときにちゃっかり、ロイヤル・オペラ・ハウスに朝行ったら「フィガロの結婚」の立ち見席が買えたのです。だから、サー・コリンさんはわたしのロンドン生活の最初っからいました。彼が総帥を務めるロンドン・シンフォニーとはいくつかの音楽会を聴きましたが,数年前、80歳を超えてもまだ矍鑠としていらして、元気なおじいさんだなぁと思っていたのに、2011年にご病気のあとは急に老け込んだようで心配しました。音楽は若々しいので、まだ大丈夫だと嬉しく思っていたのですが。
わたしが最後に聴いたのは去年の今頃。音楽会形式とはいえ,オペラ「魔弾の射手」を振ったので、まだまだ活躍できると思ったのに。わたしの知る限り、彼の最後の音楽会は、シティ・オヴ・ロンドン・フェスティヴァルでロンドン・シンフォニーを振ってのベルリオーズの「レクイエム」。セント・ポール大聖堂で行われたこの音楽会を聴かなかったのが悔やまれます。結局、彼のシグニチュア・ワークのベルリオーズは聴けずじまいになってしまったので。その後は、ロンドン・シンフォニーとの音楽会で何回かクレジットされていましたが,キャンセル続きで、お体がだいぶ弱ってると心配しながらも復帰を期待していたのですが。。。

サー・コリンさんの音楽の業績は、わたしが言うべきことはありません。もうすでにひとりひとりの心の中にあるでしょうから。でも、ひとつだけ、蛇に足を書き加えるならば、ロンドン・シンフォニーの神クラリネット・セクション。めちゃくちゃ上手いクラリネットは、クラリネット出身のサー・コリンさんのおかげではないかしらと秘かに思ってます。

わたしにとってコリン星人はゆうこりんではなくサーコリンというおやじギャグは今日は封印して(って言ってるし)。サー・コリンさんに心からの感謝の言葉を捧げます。どうもありがとうございました。
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by zerbinetta | 2013-04-15 23:11 | 随想 | Comments(5)