<   2015年 09月 ( 8 )   > この月の画像一覧   

異次元から来たモーツァルト イブラギモヴァ、ピツァラ、東響 モーツァルト、ヴァイオリン協奏曲   

2015年9月27日 @ミューザ川崎

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番
ベートーヴェン:交響曲第7番

アリーナ・イブラギモヴァ(ヴァイオリン)
パトリチア・ピツァラ/東京交響楽団


アリーナがモーツァルトの協奏曲を弾くというのでチケットを取った東響の名曲コンサート。最近聴きたい度が高まってる東響さんも聴けて一石二鳥。風邪をおしてミューザへゴー。

今日の指揮者は、4年くらい前にデビュウしたばかりのポーランド人のピツァラさん。もちろん日本で振るのも初めて。東響さんよくこんな人探してきたな。大抜擢だよね。さて、どんな音楽をする人でしょう。

始まりの「フィンガルの洞窟」は、海が凪いだり、波が立ったり絵画的な演奏。ただ、音と音の間に見えない隙間があるせいか、少し孤独感を感じもしました。楽しい航海と言うよりちょっと傷心旅行。景色は染みわたるようにきれいなんですけどね。ピツァラさんは、オーケストラにクレッシェンドとかデクレッシェンドとか細かく指示したりしてるんだけど、オーケストラはあまりよく反応していない感じでした。オーケストラの側でも音楽を創ってしまっていたのかな。

そしてアリーナのモーツァルト。今回わたしはステージの後ろ側で聴いていたので、ちょっと独奏ヴァイオリンにはキツイかもしれません。ステージの後ろの席、協奏曲のソリストを聴くのはミューザは少し弱い感じですね。サントリーはわりと音が来るのですが。
アリーナのモーツァルト、どんな風に来るのか、ドキドキだったんです。彼女、ピリオドとモダーンを垣根を作らないで自由自在に行き来するし、でも、同時進行のソナタの相手はモダン・ピアノのセドリックだし、いやでも、何か仕掛けてきそうだ、なんて。ただモーツァルトの音楽はイノセントに音楽の結晶を聴かせてくれる方がいいというか、わたし好きなので、策士策に溺れるみたいなことになったら嫌だなとも。いや〜でも来ましたよ。正直わたし、よく分かりませんでした。モーツァルトが異次元から来たかと思っちゃった。わたし的には、なんだこのヴァイオリニスト、サイテー、と感じた人がいたかもと想像するくらいにびっくり。でも拍手も多かったからこの演奏、すぅっと聴けた人もたくさんいるのかな。わたし、構えすぎていたかな。それにしても、アリーナの表現は多彩。そして、バッハの無伴奏で聴かせてくれたように語り系。それも囁いたり、対話したり、お話ししたりクルクルといろいろな声で。モーツァルトとおしゃべりした気分。白眉は第2楽章の静かな歌うような語り口だったけど、第3楽章の場面ごとに手練手管を尽くして驚きのある音楽を弾きだしていたのには、もうやられたって感じ。むぎゅー。モーツァルトの音楽って今聴いてもこんなにドキドキすると言うか、コンテンポラリーに感じたよ。
若い指揮者とオーケストラは、一所懸命アリーナをフォローしていたけど、自由に弾きまくるアリーナに対して、引き出しが足りてなかったかな。デビュウしたての指揮者にはちょっと荷が重すぎたかしら。アーノンクールさんみたいな人が振ると輪を掛けて仕掛けてきそうだから面白い演奏が聴けたかもと思ってしまいました。
そういえば、アリーナはここに来る前に、ハイティンクさんとロンドン・シンフォニーで同曲を演奏しているはずだけど、どうだったんでしょう。ハイティンクさんってモダン・オーケストラの極致を行くようなクリーミーで柔らかな古典を演奏する人だから、アリーナと火花を散らしたか、高い次元で調和するひとつの音楽にしたのか、気になる〜。
アリーナのアンコールは、バッハの無伴奏ソナタのガヴォット。重音による2つの旋律線の独立した表現の冴えに舌を巻きました。
近々東京で行われる、アリーナとセドリックのモーツァルト、ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会、ちょっと楽しみになってきました。

最後はベートーヴェンの交響曲第7番。ピツァラさんの思いっきり腕の振りどころ。ピツァラさんの音楽は、とても形のよいフレッシュな果物のよう。ゾクゾクって来ることはないけれども、オーケストラをバランスよく美しく鳴らしていく感じ。ただ、ピツァラさんはもう少し、過激な表現がしたかったのかもしれない。オーケストラが少し抑えていたように思えた部分がときどきあったから。そして、まだ完全にオーケストラを掌握して振り切っていないと感じられたところも。特に盛り上がるコーダの部分など、オーケストラの箍を外して駆け抜けていくところ、オーケストラを引っ張っていけず、オーケストラのあとから振っている感じに見えたのがちょっと残念。ただ、まだデビュウしたての若者。とてもステキな原石に見えたので、これからの活躍を期待して見つめることにしましょう。東響さん、定期的に呼んでくれないかな。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-27 15:00 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

楷書体でロマンティシズム 都民交響楽団第120回定期演奏会   

2015年9月20日 @すみだトリフォニー

シューマン:交響曲第4番
シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

末廣誠/都民交響楽団

アマチュア・オーケストラの中で、演奏レヴェルも高く最も充実しているののひとつ都民交響楽団。何年かに1度ずつ、団内オーディションを行ってレヴェルを保ってる厳しい団体。でもそこから生まれる真摯な音楽が大好きで通ってます。都内では、新交響楽団と共にコンサートゴーアーさんにオススメできるアマチュアのオーケストラです(もうひとつ、マニアックだけどニッポニカ)。いつもは上野の文化会館での音楽会なんですけど、今年は(改装のためかしら?)、すみだトリフォニーでの音楽会です。指揮はこのオーケストラと関係の深い末廣さん。

前半のシューマンの交響曲が、今日はとても良かったです。最初の音を聴いたとたん、おおっと思ったもの。前回は指揮者がーーーだったけど、今日はいつもの安定の、というより絶好調。ヴァイオリンのヴォリューム感はこの間のニューシティ管より良かったくらい。やっぱり長くこのオーケストラを指揮されてきた末廣さんとの相性は特別なんですね。お互いに手の内を分かって信頼している感じです。末廣さんの音楽も堅実で、ゾクッとくるような特別な瞬間はないんですけど、音楽のフォルムは整っていて隙のない感じ。職人タイプの指揮者なのかしら。シューマンの持つ壊れる寸前のロマンティックさはあまり感じられないけど(この交響曲はもともと堅固な形式感があるからかしら)、立派な演奏で(と書くとわたしこの言葉をときどきシューマンの演奏をネガティヴに評するとき使ってるんですが、今回は言葉通りに)、古典主義的な演奏もいいな、と思えました。わたしの聴く幅が広がったかな。

後半は、「英雄の生涯」。これもさくさくと古典的、といっても小さくまとまってる訳ではないのですが、この曲には、世紀末の熟れきった香りがわたしは欲しいな。結果、青年シュトラウスの真っ直ぐな一面が図らずも見えてくるのだけど、でも、同時にこの曲って(浪漫主義的な意味で)死を彷彿させる音楽でもあるし、若いシュトラウスの遺書でもあると思うんですね。事実、シュトラウスはこの曲を最後に交響詩の分野から引退して(交響詩的な作品はその後、交響曲の名前に)、本格のオペラ作曲家へと転身してるし、そういう意味で、馥郁とした死(ロマン派の人にとって死は憧れに似た情景を思い出させますね)を感じたいのです。でも、一方で、若者の意思を感じさせるストレイトな演奏、純粋にオーケストラの勢いを感じさせる演奏には好感を持ちました。内助の功というより、シュトラウスを支える妻、というかオーケストラを支えリードするヴァイオリンのソロも魅力的でした。ひとつ、残念に思ったのは、オフステージのトランペット(戦闘の合図)をオンステージで吹いていたこと。普通は、オーケストラの中の人がいったんステージを降りて吹奏するのだけど、会場がいつものところじゃないので勝手が違っていたのかなぁ。それともそれほど音楽的に重要ではないと判断したのかしら。でも、いきなりステージから直接音がしたのでは、その後の展開への道筋が直線的すぎて、わたし的には疑問でした。でも、それを含めて、がしがしと進む勢いのある演奏だったのですけどね。

がっしりしたフォルムでまとめた2つの演奏、オーケストラの力量も相まって、聴き応えのある演奏でした。ブラームスとかなんならブルックナーとかも聴いてみたいです。


♪♪
都民交響楽団の次の演奏会は、2015年特別演奏会(有料)が12月23日、すみだトリフォニーです。去年に引き続いて年末第九。





[PR]

by zerbinetta | 2015-09-20 11:51 | アマチュア | Comments(0)

もっと人を 村中/オーケストラ・アフィア let’s dance!   

2015年9月18日 @紀尾井ホール

プロコフィエフ:交響曲第1番
ラヴェル:クープランの墓
ベートーヴェン:交響曲第7番

村中大祐/オーケストラ・アフィア


オーケストラ・アフィアという初めて名前を聞くオーケストラの音楽会に行ってきました。プロのオーケストラです。東京には日本オーケストラ連盟に入ってるフルサイズのオーケストラの他にも有名、無名のオーケストラがあるのですね。有名なのは室内オーケストラの紀尾井シンフォニエッタとか、古楽のリベラクラシカとか。さて、どのようなオーケストラなのでしょう?紹介を読むと、横浜開港150周年記念事業の際に結成された、横浜OMPオーケストラのメンバーを中心に指揮者の村中さんが結成したオーケストラ。村中さんのオーケストラと言っていいのでしょうね。メンバーは、プロのオーケストラのメンバーやソリスト、フリーで活躍しているプロの音楽家(プログラムには全員の簡単なプロフィールが載っていました)。年に3回(?)の定期演奏会ごとに集まるのでしょう。メンバーの多くは固定されてるみたいだけど、常設のオーケストラではないみたい。

会場に入ってみてびっくり。お客さんが少ないの。全く有名なオーケストラじゃないし、チケット代も高めの設定だからなのかな。小さめのホールの音楽会の弱点かな、安い席を設定できないかもなの。最安値の席って室内楽の音楽会の方が大きなオーケストラの音楽会より高いのが常だものね。チケットの値段はオーケストラの価値でもあるから、簡単には下げられないとは思うけど、チケットの値段を幅のある設定にして安い席も作る工夫できないかしら。まずはたくさんの人に聴いてもらわなきゃもったいない。あとは宣伝かな。わたしもこんなオーケストラがあるなんてちっとも知らなかったし。

始まる前に、村中さんによるトークがあって、この音楽会の収益を先の関東の水害に寄付するとのアナウンスがあり、この音楽会のコンセプトが語られました。「自然と音楽」シリーズの中の「舞曲vs舞極」と題した音楽会。ちょっとダンスというのが、無理やりみたいな感じもしました(というか、音楽ってもともとダンスというか体を動かす力があるよね)。「自然と音楽」「舞曲」とせっかくタイトルを付けたのに、タイトルから曲をあまり思い起こせないのもどうかなぁって。
このオーケストラの特徴というか、村中さんのパーソナリティから来るものだと思うんだけど、熱い。音楽会の前に、絶対法則という冊子がチケットを持ってる人向けにメイルで送られてくるんですけど、実は長い解説みたいでちゃんとは読んでいないんだけど(ごみんなさい)、ゲネプロやその前の段階のリハーサルを有料で公開したり、いろいろ工夫は凝らしているのに、なんかちょっとずれているように感じるのはわたしだけ?リハーサルは高いし、絶対法則もチケット購入者のみの特典なのかなぁという疑問はありました(解説よりもここでしか知られない秘密みたいな魅力が欲しいです)。

前置きが長くなっちゃいましたが、演奏は、流石に若い腕利きのプロを集めたオーケストラだけに特別とは行かないまでも普通に上手いです。
プロコフィエフの「古典交響曲」は、溌剌として少人数オーケストラの機動性を感じさせました。演奏によってはおどろおどろしく聞こえる部分(古典と言いながらプロコフィエフはそういうのを何気に挟んできます)も重心が高いのでさらりとしていたし、尖った表現もあまりなくて、古典的な整ったフォーム。これを良しとするかしないかはお好みですね。わたしはプロコフィエフはひねくれ系が好きです。ダンスといえば、この曲の第3楽章は、ほぼそのままバレエの「ロミオとジュリエット」のパーティーの終わりのシーンに転用されているのだけど、バレエのときのような登場人物たちのいろんな感情がどろどろと交じり合った皮肉さはなく、素直。確かにそういう音楽なんですけどね。

「クープランの墓」は、戦死した友達の思い出を懐かしむ静かな感情を湛えた舞曲集。木管楽器の木漏れ日の光りのような柔らかな明るい色のソロがとてもきれい。小編成のオーケストラの淡い光りはパステルカラーで踊っているよう。今日は、この曲がオーケストラの特徴を一番出しているようで一番良かったです。村中さんの思い入れのある曲みたいで、それが感じられたのも良いし、丁寧に演奏されていたのもステキでした。

リズムの祭典とワーグナーを言わしめたベートーヴェンの交響曲は、ううむ、室内オーケストラの弱点が出てしまったかな。何しろ、第2ヴァイオリンが6人、第1が7人で、フォルテのトゥッティでヴァイオリンの音が消えてしまうのが残念。特に内声になる第2ヴァイオリンが消えるので厚みが失われちゃうんですね。第7番ってコンパクトで雄大なので、音の薄さはダイレクトに欠点に。フィナーレは、音楽も指揮者もオーケストラもみんな煽って推進力のある演奏なのに、消えてしまう第2ヴァイオリンが力強さを削いでしまうところがあってちょっと残念。単純に人数の問題なのでもったいなすぎ。倍ぐらい人数がいれば(それで小さめの普通のサイズ)、もっともっと良くなったでしょう。あっ第2楽章のヴィオラとチェロの丁寧なイントネイション付けは指揮者のこだわりかしら。これは凄く良かった。

アンコールには、愛のダンス、ってわたしは違うと思うけど!、マーラーの交響曲第5番からアダージエット。ああ、でもこれは確かに弦楽合奏の音楽だけど、大オーケストラの交響曲の中の曲であって、室内オーケストラでやると全く違ったものになっちゃうな〜。音楽の持つ豊潤で甘美な香りが失われちゃって薄めたお茶のように(アメリカンのコーヒーと言った方が良いのかな。コーヒー飲まないので分からないけど)、味気なかったです。心を静かに終わるデザートならシューベルトの「ロザムンデ」の間奏曲とかいいのあるのにな。

こういうコンセプトのオーケストラを聴いたのが初めてなので、このオーケストラがこれからどんな風になっていくのか分からないんですけど(ヤマカズさんとTOMATOフィルハーモニー改め横浜シンフォニエッタのような感じなのかしら)、村中さんとオーケストラ、ウィンウィンで成長していって欲しいです。口で言うのは簡単だけど、現実はかなり厳しい(大きな老舗のオーケストラだって苦しんでる)ことは分かっているんだけど。
そうそう、後ろから見る村中さんは、指揮しているとき頭、振り振りしててかわいかったです。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-18 13:06 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

若いと盛っちゃうよね でもそれでいい 石村純ピアノ・リサイタル   

2015年9月13日 @東京文化会館小ホール

ショパン:ピアノ・ソナタ第2番
ショパン:ノクターン 作品62の1
ラヴェル:ラ・ヴァルス
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第8番
シューマン:謝肉祭

石村純(ピアノ)


日本演奏連盟が行っている、新進演奏家育成プロジェクトのリサイタル・シリーズのひとコマに行ってきました。日本演奏連盟がオーディションにより優秀な新進演奏家を選んで、音楽会を経済的にも事務的にも援助するプロジェクト。プログラムは演奏家に任されていて、無名の新人としては大きな音楽会を自分で考えたようにすることができるというもの。素晴らしい支援の仕方ですね。今日はピアニストの石村純さん。ロイヤル・カレッジ・オヴ・ミュージックで勉強してこられた方。わたしもロンドンに住んでいたのでちょっぴり親近感。スクリャービン没後100年を記念した音楽会というのが中心にあるみたいだけど、スクリャービンは1曲だけで、盛りだくさんというか盛りすぎ(?)な感じのプログラムになってます。これだけ弾いて大丈夫だろうかってくらいに。

プログラムの前半は、ショパンのソナタ第2番(葬送行進曲のある有名なの)とノクターン、それにポンと飛んでラヴェルの「ラ・ヴァルス」。後半がスクリャービンのソナタ第8番とシューマンの「謝肉祭」。プログラムにどんな意図があるのかしら?文学的な意図は見えない(とわたしには思われる)けど、単に好きな、弾きたい作品を並べたばかりのものではなさそうというのは、聴いていて感じたんだけど。。。

わたしはピアノを弾かないし、ピアノをたくさん聴いてきていないので、ピアノのリサイタルは完全アウェイで、何を言っていいか分からないし、素人感想なんだけど、石村さんのピアノは、音的にダイナミックな感じがしました。かと言って、爆音ではなく、漢な感じでもない、音の動かし方が重めで暗い感じ。夜の帳から、ピアノの音が沸き立ってくる感じ。だから、ショパンのソナタは、暗やみの無機質な雰囲気が良く出ていて、ロマンティシズムの淵に落ち込むことなく、しっかりとコントロールされた控え目な叙情性が良い感じ。ノクターンも同じように暗くて控え目な叙情。でも、甘さ控えめのお菓子というより自然な甘さを感じさせるパン・オ・レ。フランスで食べてたパン・オ・レ、柔らかい仄かな甘さでおいしかったんだ。

「ラ・ヴァルス」もワルツの華やかさというより、ワルツの情景のパロディ。心の中に淀むものが輪舞によってかき回されて浮き出ては沈む走馬燈のような断片。わたしがこの曲をそういう風に捉えているから、そう聞いてしまうのか、石村さんがそう弾いたのかは、ちょっと分からないんだけどね。

後半は、ステージの後ろに屏風。ルソー風の(熱帯の)植物みたいな装飾の絵が描かれていて、石村さんのドレスもそれに合わせてお着替えして、スクリャービンのソナタの雰囲気なんですね。スクリャービンは音を聴くと色が見える人だったそうだけど、こうして視覚でも音楽を感じさせる工夫は良い感じ。今日のリサイタルは、スクリャービンを中心に据えたというだけあって、この曲の演奏が他のを圧して一番充実していました。石村さんのドライで重くほの暗いピアニズムもこの曲に合ってたみたい。ある意味感情を排した感覚に直接触れてくる音楽が、巫女的な高揚感を醸し出していて、ほっくりとくる瞬間的なショパン的な情緒と対比されて、暗やみの中で目をこらすとカラフルなスクリャービンでした。

最後のシューマンの「謝肉祭」もシンプルな音型から発生する多彩な音の変化が面白くて、きっちりと弾いたことによって音自体の面白さが表現されていたと思います。石村さんが、これからどんなポジションのピアニストになるのかは、ピアノを知らないわたしには予想もできないけど、ロシアの近代物や新ウィーン楽派みたいな音楽でもっと聴いてみたいと思いました。良いピアニストになって欲しいなぁ。

アンコールには、シューマンのソナタの第2楽章、ショパンの練習曲10−4番を弾いて下さいました。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-13 13:21 | 室内楽・リサイタル | Comments(0)

名曲ってちょっとの譜面の違いでも価値は揺るがないんだよ 内藤/ニューシティ管 世界初演シリーズ   

2015年9月12日 @東京芸術劇場

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」 抜粋

登川直穂子(蝶々夫人)、ロマン・ムラヴィツキー(ピンカートン)
石川紀子(スズキ)、星野淳(シャープレス)
押川浩士(僧侶)、栗原剛(ゴロー)、北川辰彦(神宮)
東京合唱協会
内藤彰/東京ニューシティ管弦楽団


ひょんなきっかけで聴きに行くことになった、ニューシティ管の世界初演シリーズ(再)。今日は、指揮の内藤さんが校訂したドヴォルザークの「新世界より」と本物の日本のお寺や教会の鐘にこだわった「蝶々夫人」(抜粋)。ドヴォルザークの書いた手稿譜を元に出版されている楽譜にある100カ所以上にわたる間違いを修正して本物のドヴォルザークの音楽を初めて聴かせる(といっても今回がその初演ではなく再演です)との煽り文句満載の「新世界」。プッチーニの(東洋文化の無知からでた)誤りを正すと煽る「蝶々夫人」。プログラムにも詳しく解説されて、音楽会の前に内藤さんが熱く語っていたんだけれども。。。

でもね。これ、ヘン。というか矛盾してない?だって、「新世界から」の方は徹底的に作曲者の書いた楽譜にこだわってるのに、プッチーニの方は、プッチーニが実際にイメジした音を断罪して、彼的に’正しい’音に変える。

内藤さんの指揮は残念ながら、素人の域。手を振って音楽を進めるだけでそれ以上ではない。オーケストラは良く訓練されていて、それでもきちんと演奏していたのは、さすが。ただ演奏からは丁寧な表現付けが聞こえてくるんだけど、あっ、この膨らませ方はあの指揮者の演奏だ、このクレッシェンドはCDで聴いたことがある、という風に何だかいろんな演奏を思い出してしまって、内藤さんはいろいろやってるんだけれども借り物な感じ。そして最大の難点は、指揮者のせいか細かなところ、しかも大切なところでアンサンブルが合わないところ。内藤さんは100カ所以上楽譜を直してると言うけれども、多分そのほとんどは、細かなアーティキュレイションの修正。彼が世界で初めて明らかにしたと言うけど(理系の人だからそんなふうに言うのかしら?でも本物の理系の人だったら自分の研究は世界で初めてなのは当たり前すぎるくらい当たり前なので、自分から自慢げに世界で初めてなんて言わないというか考えもしないんだけど)、普通に指揮者は、少なくてもきちんと演奏をするちゃんとした指揮者は、譜面を批判的に読み込んで自分の音楽を作ってる。それは、いろんな異なる指揮者の演奏を聴いてそれぞれ違ってるように、演奏する人の解釈や裁量に任されている部分だと思うしそうあるべき。だから今回の内藤さんの演奏もその範囲でしかないと思うから(訂正された楽譜を出版するというのは、作曲家が書いたものを明らかにするという意味で意味のあることだと思うけど、音楽を聴くわたしたちにはあまり関係ない)、大ごとのように自慢することではないと思うのね。ただ、プログラムにも書かれていた2カ所の目立った音の違いは、聴いてはっきり分かるものだけに重要なのかな。でも、わたしの結論は、音が1カ所2カ所違ったくらいでは名曲は揺るがないでした。内藤さんには申し訳ないんだけど。それに、スケルツォの部分の音の違いの方は、内藤さんがおっしゃるようにとても大事な音なのかも知れないのだけど、今回、残念ながらアンサンブルが乱れていて、その音の大切さがよく分かりませんでした。というか、ヴァイオリンの人、みんな同じ音で弾いてた?

聴いていて、会場にいて、少し不思議な雰囲気を感じました。プロのオーケストラよりもアマチュアのオーケストラの音楽会の雰囲気を感じたの。どうしてかなと思って原因を探ろうとしたんだけど、ヴァイオリンの音の響きの豊かさが足りないものの演奏は、明らかにアマチュアではなくプロのものだから違うし、予想外に(失礼!)満席に近いお客さんが、このオーケストラに熱心なファンが付いていることが窺えて、もしかしてこれがそんな雰囲気を醸し出してるのかな、と思いました。

休憩のあとは、「蝶々夫人」。内藤さんが自信を持って語っていた、鐘問題。プッチーニのスコアでは、東洋への無知ゆえ、日本のお寺の鐘を(中国の)銅鑼で表現していた、それを正しく日本の鐘の音で演奏する。それから、第2幕の始めで、プッチーニのスコアでは不可能だった(音域外だそうです)、日本の鐘と西洋の教会の鐘が重ねて鳴らすことで、キリスト教に改宗した蝶々夫人と(日本の)仏教との和解という大切な背景を示すことができたそうです。確かにね〜と思うところもある。特に2番目のは、2つの鐘を重ねることによって意味があることだし。でも、鐘を作ってみたものの必要な音量が出なかったとのことで、シンセサイザーで代用するとのことにがっかり。わたしの勝手だけど、電子楽器が苦手で、最初から電子楽器の音楽だったらまだいいのだけど、プッチーニの音楽には敢えてやる必要はないんじゃないかって思いました。
「蝶々夫人」は、確かにわたしにとってなんちゃって和風劇で、むしろいつも西洋人の歌手が日本髪のカツラを着けて和装するということに違和感を抱いちゃってるんだけど(ほんとはこういう考え方良くないんですよね。だって、そうすると反対に、日本人歌手が西洋人の役を歌うのはヘンってことになっちゃう。見慣れないものへの違和感だから頭では分かっていても感覚的にね)、今日は、ピンカートン以外歌手は日本人だったからそこはストンと落ちました。もし、「蝶々夫人」でリアリズムを追求するなら、日本人の役は東洋人で、さらに日本人どおしのやりとりは日本語で歌うくらい極端なことをしないと。でも、オペラって現実の世界じゃないから。。。

歌手はとても良く歌っていたと思います。オーケストラの後ろに一段高くしたステージの上での簡素だけど必要十分な演技もとても良かったし、先にも書いた、日本人の役が日本人の歌手で歌われているのもわたし的には良かったです。でも、オペラの抜粋というかいいとこ取りというのは、主役の歌手にとってほんと大変ですね。舞台に出ずっぱりで休む間もなく、聴かせどころの歌ばかり歌わなきゃならないなんて。特に蝶々夫人はそれでなくてもかなりの声を要求される役なので。登川さんは、少し声が細くて、もう少しふくよかなドラマティックな声があったらもっといいのに、と無い物ねだりだけど、(ヘンケンを含む)わたしのイメジ的には、ぴったりの蝶々夫人。最後まで歌いきる体力もあって、とても良かった。さらに常に蝶々さんに付き添っていたスズキの石川さんも素晴らしくて、歌的にはダブルヒロイン状態。ピンカートン役のムラヴィツキーさんも小粒だけど端正な歌で良かったです。脇を支えた他の歌手も皆さん良くて、バランスのとれた歌手陣と、物語を過不足なくなぞる抜粋の仕方で、蝶々夫人の物語をしっかり楽しめました。いろいろ考えちゃった音楽会でしたけど、最後は純粋に合唱を含めた歌手の方にブラヴィーですね(ふふふ、ちゃんと複数形で言っちゃった)。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-12 13:05 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

シンフォニックな愉悦 カンブルラン/読響「トリスタンとイゾルデ」   

2015年9月6日 @サントリーホール

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」

エリン・ケイヴス(トリスタン)、レイチェル・ニコルズ(イゾルデ)
アッティラ・ユン(マルケ)、クラウディア・マーンケ(ブランゲーネ)
石野繁生(クルヴェナル)、アンドレ・モルシュ(メロート)
与儀巧(若い水夫、舵手、牧童)
新国立劇場合唱団
シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


いよいよ来た。わたし的に今年最大の音楽的イヴェントになるかもしれない、「トリスタン」。これを安い席で聴きたくてわざわざ定期会員にまでなってしまった「トリスタン」(安い席は取れなくても1回券なら普通に定期会員になるよりも安上がりだなんて突っ込みはナシね)。もう期待ではち切れそう。いつもワーグナーをdisってるくせに「トリスタン」は大大大好きなんです。そして音楽が圧倒的に濃い「トリスタン」は劇場で観るよりも、シンフォニックな演奏として音楽会形式でじっくり聴く方が良いとまで思ってるんです。オーケストラの音楽会では、時間的に前奏曲と第2幕が採り上げられることが多いけど、今日は全曲!

前奏曲は、前に聴いたカンブルランさんのブルックナーのさらさら系かと思ったら、意外に粘りけのある演奏。ねっちょりではなく、糸を引くけどすうっとべたつかずに消えていく、納豆系の物理的な粘りじゃなくて、口の中に余韻が残るマカロンのクリームの甘さ。読響さんの明るい音色と相まって、どろどろしない気高い音楽。そしてこの前奏曲で、もう全体が聞こえるように解き明かされちゃった。

前奏曲が終わって、水夫の歌が聞こえていたとき、おおお良い歌。端役(?、目立たなさで言ったらメローとの方が端役か?)の水夫(等3役)にまで行き届いた歌手を揃えているのに大喜び。与儀さんは、第3幕の牧童も愁いに満ちた歌を聴かせてくれて、素晴らしい。いつもステージの後ろのオルガンのところで歌ってるから、ステージの後ろで聴いてたわたしには声だけで姿は見えないのが残念だったけど、それにしても独りででホール全体を満たす声はステキでした。

歌手ついでに。今日の歌い手陣は、超スーパーな人はいなかったけど、凄く高水準で充実。代役だったイゾルデのニコルズさんは、BCJで歌ってるのを聴いてるので、古楽の人かなと思ったら、堂々としつつも澄んだ声で好きなタイプのイゾルデ。もともとキャスティングされてた人をわたしは知らないけど、代役で良かったんじゃないかと思えるくらいの充実ぶり。一方のトリスタンのケイヴスさんの健闘もたたえたい。と同時に、この役は難役なんだなと。健闘しつつもいっぱいいっぱいのところがあってもう一皮剥けたらと感じたから。夜のトリスタンでは、もう少し声の余裕というか闇の魅惑を柔らかく包み込むような奥行き、ふくよかさが欲しかったです。でも、わたし、まだ、理想のトリスタンに出逢ってないんですね。いつの日か理想のトリスタンに出逢うことができるのかしら。そのときはわたしも思いっきり媚薬を飲み干そう。

トリスタンとイゾルデの忠実な僕、ブランゲーネのマーンケさんとクルヴェナルの石野さんもステキでした。物語の説明係として少し過剰なというかト書きを語るような部分も多いのだけど(もちろんワーグナーが悪い)、今日はあまりその饒舌さ、鬱陶しさを感じさせずに、物語を上手に動かしていました。愚直な脳天気さのクルヴェナル。毒薬を媚薬にすり替える罪を負ってイゾルデに尽くし尽くす少女(わたしはこの物語の中で悲劇の中心にいるのはブランゲーネだと思います)。物語を動かす重要な役をおふたりはまるで忠実な僕、音楽に忠義をつくす歌い手として、役を良く知っている、ちょうど良い濃さで歌っていました。

今日、もうひとつの収穫は、日本人を始めとした東洋人歌手の活躍。石野さんと与儀さんに加えて、マルケのユンさんが堂々とした声でとてもステキでした。わたし、マルケの長い独白は、嫌いというかなくてもいいといつも毒づいているんだけど、良い歌手で聴いちゃうとマルケもいいなと思ってしまう。今日もマルケ、良いなと思いました。カンブルランさんと読響の重くなりすぎない味付け具合もあって胃にもたれない感じがわたし好みでした。ヨーロッパやアメリカの歌劇場(残念ながら日本ではオペラが根付いていないので圧倒的にあちらが本場です)で活躍する日本人歌手は、まだまだすごく少ないけど、こういうのを聴くと、日本人も十分活躍できるのにな、もっとみんな出て行ってよって希望を込めて思っちゃいました。

ひとつ残念だったのは、音楽会形式で、演技には重きは置かれていなかったんだけど、歌手によって演技の度合いがバラバラであったこと。演技の仕方がそれぞれに任されていたみたいで、舞台の統一感の不足がもったいなかったです。演技は無しなら無しで全然良いのだけど、みんなが同じように振る舞えば、オペラの交響楽的演奏としてもっと説得力が出たんだと思います。演技無しなら無しにして、もし、多少でも演技を付けるのなら、きちんと舞台監督を付ければ良かったと思います。これはちょっともったいなかった。

でも、「トリスタン」って難しい。インタヴュウの中で、カンブルランさんが歌手のペース配分が難しい、特に今回の公演では第2幕の慣例のカットをしないので(わたし自身は、オペラでもカットしてるのは聴いたことないと思うんだけど)、負担が重くなるので、歌手に配慮した演奏をしなければならないとおっしゃっていましたが、今日は、最後ぎりぎりだったけど、無事歌い切ったと思います。多分、みんなが音に集中して聴いてしまうシンフォニックな演奏会形式での上演の方がオペラでの上演よりも歌手にかかる負担は大きいのではないでしょうか。同じ場所で演奏するオーケストラとも対峙しなければいけないし(オペラのオーケストラはある意味黒子で伴奏だけど、音楽会形式は協奏)、オーケストラも容赦しないでしょうし。実際、カンブルランさんは、手加減無しで、全員の力を120%引き出すようなところで演奏していたように聞こえました。

もちろん、オーケストラも褒めなければいけませんね。いつも、読響に対しては辛口というか、少しウマが合わないところがあるのだけど、光が漏れてくるような楽器の音色や流れるような音楽は、読響にピッタリというか、主席指揮者のカンブルランさんと読響の大きな成果でしょう。指揮者とオーケストラ、そして今日は作品との相性の良さが素晴らしく豊かに実った音楽会でした。
久しぶりに聴いた「トリスタン」。かっこつけて書くと、カオールを口に含んだような、いえ、かっこつけるのは止しにして、辛口のサイダーを飲んだような爽快感とちょっぴりの甘さ好ましい演奏でした。愛のどろどろ感(わたしは「トリスタン」を評してときどきそう言うのですが)とは対極にあるけど、クリスタルクリアな愛と死の物語は、オリジナルの物語にあるストイックなまでの愛の物語を彷彿させるひとつの指標なのかも知れません。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-06 10:25 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

世界を創造 ヤマカズ/日フィル   

2015年9月4日 @サントリーホール

ミヨー:世界の創造
ベートーヴェン:交響曲第1番
イベール:アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲
別宮貞雄:交響曲第1番

上野耕平(サクソフォン)
山田和樹/日本フィルハーモニー交響楽団


日フィルさん、今度の秋シーズンから定期会員になってみました。日フィルさんって確か、1年を4つのシーズンに区切ってるけど、年度の始まりはいつになるのかな?秋始まり?春始まり?
会場に着くとわたしの椅子の上にカードのようなものが。新しい定期会員へのウェルカムカードでした。なんて心憎い。プチフールもあれば完璧だったのにと思いつつ(オイオイ)、音楽会が始まる前からわたしをうんと喜ばせる。

今日は、わたしの一番、期待の指揮者、ヤマカズさんです。日フィルの正指揮者(というものがどんなものなのか謎ですが。。。(主席指揮者も別にいるので))になられたのですね。正指揮者に関しては言いたいこともあるのですが、それは置いておいて、やっぱり楽しみにしていた音楽会です。

ミヨーの「世界の創造」は確か、クラシック音楽の世界に初めてジャズを採り入れた音楽ではなかったかしら。バレエの音楽。小さな編成の室内楽的オーケストラに混じって、あとで独奏者として共演する上野さんがサックスで参加していました。ヤマカズさんも指揮台無し。演奏は、オーケストラ、こういう音楽にちょっと慣れていないな、と感じさせるところがありました(多分、個人個人はこのような語法も平気なんだと思うけど、アンサンブルになったら顔を見合ってしまうみたいな)。活躍する、トロンボーンのソロがちょっとだけ浮き気味だったけど、やんちゃで良い感じ。

小編成の1曲目からステージを直して、って指揮者の譜面台の高さをメジャーで測って調節してるの初めて見たよ、2つ目はベートーヴェンの交響曲第1番。がプログラムに載っててびっくり。早く帰れる音楽会と思ったら大きなおまけが付いてて得した気分。そしてそのベートーヴェンが面白かった!
まず大きな(倍管した)オーケストラ。最近のピリオド・スタイルの影響を受けた演奏では、モダン・オーケストラを使っていても編成を小さくしてきびきびと演奏するのが流行りだと思うんだけど(特にピリオドを当たり前に聴いてきた若い世代は)、ヤマカズさんはその逆。とは言っても、逆説的にこれもピリオド・スタイルだと思うんだよね。ヤマカズさん自身が、音楽会の前のトークで語っていたように、プログラム・ノートにも書いてあったように、作曲家はできるのなら大きなオーケストラでの演奏も(それがいいのか悪いのかは置いといて時代の雰囲気として)してみたいと思っていたかもしれない。それに、ピリオド・スタイルの先駆者のひとり、アーノンクールさんの言葉を借りると、ピリオドって、単にその時代の楽器を使って当時の演奏を忠実に再現する博物館的な演奏を目的としているのではなくて、当時の人の驚きを今の時代のわたしたちに再現する現代の音楽だから。ベートーヴェンの音楽から新鮮な驚きを生み出していたのは、当時の驚きを今のわたしたちに見せてくれたということ。
ヤマカズさんの音楽は、いつものことながら音楽が今生まれてくるフレッシュさがあって、’古楽器的な’速いテンポの演奏とは反対だけど良い意味で全然巨匠風じゃないのがいいの。大きなオーケストラゆえのもたつきはあるけれどもそれを超える流れはあるし。そして、ヤマカズさんが仕掛けたびっくり箱。第1楽章の最初の主題が戻ってくるところ(再現部の頭)を半分のテンポでゆっくり始めたのに、もうニヤニヤが止まらない。第2楽章の始まりも弦楽器のソロで初めてトゥッティに持っていくとか、楽譜に書いていないことをやっちゃった。と言うかこの清々しいやっちゃった感。普通やらないよね。神聖なベートーヴェンを。案の定、意見は割れたというかやりすぎ、意味わかんねーって批判的な意見が多かったみたいだけど、わたしはヨロコんだ。若さゆえの過剰は、ベートーヴェンの本質だもの。流石ヤマカズさん。こんなことが臆面もなくできちゃうなんて。もっとやれやれーー。パチパチパチ。

休憩後は、イベールのサクソフォーンのための室内協奏曲と別宮の交響曲第1番。さりげなく、休憩前の2曲と対を為してるところが憎いの。
イベールは、有名な「寄港地」とか無名な「祝典序曲」が妙に大好きなんだけど(あとフルート協奏曲とか)、滅多に音楽会にかからないし、サクソフォーンの協奏曲は初めて聴く曲。ガチャガチャしているところと叙情的なところの対比がいべーーーるぅ。ステージの後ろで聞いていたので上野さんのサックスがおとなしく聞こえたけど、バランスは良さ気(普通の席で聴いたらサックスがもっと浮き上がって協奏曲ぽかったのかも)。そのせいもあってか、上野さんのソロは、アグレッシヴに音楽に突き刺さると言うより、柔らかく音楽に沿う感じ。第2楽章の始まりのサックスのソロが春の祭典の始まりのパロディに聞こえてびっくりしました。上野さんかっこいいし、いいな。

別宮の交響曲は、日フィルの委嘱作品。1961年の作曲なんですが、昔委嘱した作品の再演シリーズをやってるんですね。委嘱作品だから、1度は演奏されるものの、新作が再演の機会を得るのはとても難しいので、ぜひ聴かせたい、演奏したいと思えた作品をこのように再演する企画ってすごくいいよね。
で、いきなり、映画かテレビのスペシャルドラマ(年代記みたいなの)の音楽のようなロマンティックな感じの音楽が流れてきてびっくり。へ〜〜こんな音楽書いたのかーーって。前にニッポニカさんで安倍幸明の曲を聴いたときも思ったんだけど、わたし、日本の音楽というと、武満さんや細川さんみたいなコスモポリタンな現代的なものを書く人か、伊福部に代表される分かりやすい民族風の作風の人か、もしくは黛とか矢代とか現代の古典になってる人くらいしか知らなくて、日本のクラシック音楽の黎明期からの人の作品をほとんど知らないんですね。吉松さんが調性的なネオクラシカルな音楽を作る以前の戦後の日本で、ロマン派的というか西欧では20世紀初頭くらいのまだ分かりやすい音楽が書かれていたなんて知らなかったんです。別宮の音楽も、日本風なところはあまりなく20世紀初頭のヨーロッパ風というかもっと言うとミヨーの頃のフランス風。実際にミヨーの教えを受けているんですね。この作品が、日本の音楽史の中でこれからどういう風な位置に納まっていくのか、単に時代遅れの(同じ頃、日本でも涅槃交響曲のような交響曲も生まれてるし)忘れられた曲になるのか、クラヲタさん的に大切にされる知られざる佳曲になるのか、日本の名曲のひとつとなるのか、分からないんだけど、わたしの中では少なくとも、わたしだけが知ってる的な佳曲になるんだわ。
ヤマカズさんと日フィルの演奏は、その音楽の魅力を欠点も含めて正直に伝える誠実なラヴレターのような演奏だったと思います。わたしには魅力が伝わったもの。

今日の音楽会は、始まりの音楽会。前半と後半の対比の妙もいい感じだったけど、ふたりの作曲家の最初の交響曲を採り上げて、それと「世界の創造」を組み合わせるなんて、音楽の生まれるところを聴かせてくれるミューズの粋な計らい。そして、ヤマカズさんってミューズに祝福されたひとりだと思うんだわ〜。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-04 19:26 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

踊らな損損 下野/都響 コダーイ、グリーグ、ドヴォルザーク   

2015年9月2日 @東京文化会館

コダーイ:夏の夕べ
グリーグ:組曲「ホルベアの時代から」
ドヴォルザーク:交響曲第4番

下野竜也/東京都交響楽団


下野さんと都響。下野さんは去年音大のオーケストラで聴いて聴きたいと思っていました。今は日本のいろんなオーケストラに客演しているみたいですね。下野さんってチェコもの得意なのかしら?今日はチェコ特集と思ったらグリーグがいた。。。と思ったら、しかもコダーイもチェコじゃないし。わたしの中のヨーロッパ地図、一体どうなってるんだ。

始まりはコダーイ(ハンガリーの人)の「夏の夕べ」。今年は残暑が厳しくないみたいだけど、こういうほんのりと涼しげな曲はいいですね。管楽器のソロの多いこの曲。ただ、都響さんって個々の奏者の音色の色彩感に少し魅力が不足している感じがして、それが少し残念。都響さんの特徴の生真面目で精度の高いアンサンブルは健在で、プリンをめちゃくちゃ鋭利な刃物で切った感じ。でも、プリンをナイフで切って食べるのも何だか味気ないよね。温かみのある木のスプーンで食べたいくらい。

グリーグの「ホルベアの時代から」は、えっ?これグリーグの?っていう感じのグリーグらしさが全く見られない音楽なんだけど、それもそのはず、あとで読んだプログラム・ノートにあった作曲家自身の言葉によると「これは自分の個性を隠す本当に良い練習になった」。ノルウェーのバロック期の作曲家ホルベアの語法を探求することによって自分にはないものを習得しようとしたのですね。弦楽合奏のこの曲もさっきの雰囲気を引き摺っていて、固いクリアな音は北国な感じの透明感なんだけど、わたしの好みは、柔らかな奥行きというか、音にもう少し色気が欲しかったかな。

最後のドヴォルザークの交響曲第4番は、全く初めて聴く曲。ドヴォルザークの交響曲って6番以降しか聴いたことないんだ、わたし(いや第3番はCDに入っていたっけ)。どんなんだろうとワクワクと聴いていたら、うん、やっぱり、さすがドヴォルザーク。どうしてこの曲が滅多に演奏されないんだろう。ドヴォルザークってもっと評価されてもいいのにな。そして、まさにドヴォルザークの生きていた時代の雰囲気を生き生きと映してる。それって、反対に言えば、ドヴォルザークの個性がまだ薄めということにもなるかもだけど、あるところでは、リストを感じたり、シューマンが出てきたり、ワーグナーの初期の音楽を見つけたり、楽しかった。
下野さん、この音楽に自信を持っているのでしょう。確信を持った棒さばきでオーケストラをリードしていきます。音楽を分かりやすく聞かせてくれて、初めて聴くこの音楽もすんなり身体に入ってきました。それにしてもドヴォルザークの親しみやすさ、独善的な民族主義に陥らないインターナショナルな地域性、品の良い中庸さってステキって思ってたら、第3楽章になってどひゃーーー。なにこのはっちゃけぶり。弾けた行進曲。シュトラウスがマーラーの交響曲第3番の第1楽章の行進を労働者の行進のようと言ったそうだけど、その言葉を思い出してしまいました。楽しいデモ行進(ヨーロッパのデモって日本のと違って楽しそうなんですよん)。もしくは子供たちとわいわいとピクニックに行くような気分。ドヴォルザークって。なんか彼の別の一面を見てびっくりしました。ますます親しみがわいて。
続く第4楽章もその気分のうちにいたのだけど、都響の演奏はちょっと生真面目かなぁ。都響らしいと言えば都響らしいんだけど、下野さんは煽ってたのに。ドヴォルザークといっしょに弾けっちゃったらいいのに、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損損って音楽をカオスのぎりぎりのところまで崩していくような勇気が欲しかったです。新しい音楽を知るには、みんなが何となく楽しめるのは今日のような演奏なのかも知れないですけど。
[PR]

by zerbinetta | 2015-09-02 15:36 | 日本のオーケストラ | Comments(0)