<   2016年 05月 ( 3 )   > この月の画像一覧   

2度目にして、やばい。惚れた ラザレフ/日フィル ショスティ、チャイコフスキー   

2016年5月21日 @サントリーホール

チャイコフスキー:組曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番

アレクサンドル・ラザレフ/日本フィルハーモニー交響楽団


名演でした。
ラザレフさんとの出逢いは、去年、なんだけど、第1印象はあまり良くなくて、せかせかした感じの指揮ぶりがちょおっとって感じだったんだけど、音楽会後半のショスティ9番の怪演に度肝を抜かれて、急転直下宗旨変えをしたのでした。ラザレフさん凄い。なので、今日のショスティの交響曲第6番もめちゃくちゃ期待して。。。どんな怪演が聴かれるのかと。その期待は、会場についてプログラムを開いたとたんヴォルテージアップ。だって、ショスティの演奏時間51分って書いてあるんだもん。普通に演奏して30分くらいの曲。まさかとは思ったけど、この間の第9もあるし(遅い演奏ではなかったけど)、今日何かが起こる!とニヤニヤが止まらなかったんだけど、あっさり、休憩時間にプログラムの記載は間違いで演奏時間は30分というアナウンスがありました。がっくり。何を期待してたんだか。。。(実は、今まですっかり忘れてたんですけど、ラザレフさん、去年より前に、フィルハーモニアを振ったのを聴いていたのです。しかも今日と同じショスティ6。自分のブログを検索してやっと気づいたくらい。全く忘れていました)

そのショスティの前に、チャイコフスキーの組曲第1番。チャイコフスキーにしてはマイナーな曲で、わたしも録音を含めて聴くのは初めて。いい曲なんだろうか?でも、ラザレフさんが凄くお好きだという曲。解説を見ると交響曲第4番と第5番の間に書かれたそうだから、充実期の作品。
ラザレフさんの指揮は例のせかせかした感じを一瞬感じたんですが、すぐ慣れて、好きこそものの上手なれというか、ラザレフさんの好きが分かる充実の演奏。もちょっとオーケストラに柔らかみというか叙情性があればとも思うけど、チャイコフスキーの音楽の方も叙情性過多になっていないのでこれで良いのかも、と叙情性プラスでバランスがとれるのかも、という気持ち半々。でも曲の魅力は十分に伝わってきました。演奏される機会が少ないのがもったいない名曲。バレエの踊りに縛られることも、交響曲の規則に絡まれることもなく、自由に書かれた音楽は、きっとチャイコフスキーの個人的な書簡なんでしょう。チャイコフスキーというとメランコリックな旋律が強調されちゃうけど、理知的なバランスのとれた人なんだなという印象を持ちました。

そしてお待ちかねショスティ6。実は大好き。最初の一音、ヴィオラとチェロの分厚い音を聴いた瞬間もうブラヴォーを叫びたくなりました。ってか心の中ではすでに盛大に叫んでた。素晴らしい音。日フィルの弦って(失礼だけど)こんなに良い音を出すんだっけ。もう最高。ちゃんとかき回した納豆みたいに糸を引く粘り。この曲はこうでなきゃ。弱音へのこだわりもしっかりあって、雪の夜のしじまの感覚が身体中に満ちてくるの。弦楽器のうねりに呑まれたのか、管楽器もとっても健闘していて良かったです。ショスティの常で、長いソロがあるんだけど、それぞれ音楽の中で存在感を見せていました。日フィルの良いところは、個が立っているところですね。
第1楽章は、まさかの51分仕様ではなく、中庸のテンポだったのだけど(音楽は雄大)、第2楽章、第3楽章は、異形のバーンスタインほどではないけれども少しゆっくり目。でも、何か雰囲気が、、、異様というかきょとんと放り出されたような虚無的な空気、というか真空。心の中のいろんなものをすっぽり抜き取られて穴があいてしまった感じ。静かな恐怖。ラザレフさんは、弱音に拘ってオーケストラもそれに必死で付いていく。お終いもはちゃめちゃならんちき騒ぎで終わるかなと思ったら、醒めた騒ぎが、無声映画のようでもあり、背筋が凍るような、真っ暗な闇を、自分の裡にあるものを、ニヤリと見せられた感じ。悪魔か、ラザレフさん。

カーテンコールでは、(長いソロがあった)フルートの主席の人を引っ張ってきて指揮台に立たせたり、あちこち歩き回ってオーケストラを称えるいつものラザレフ流。しっかりお客さんと目を合わせるところもステキ。でも、ニコニコオーケストラを称えてるのはきっと仮の姿。こんな演奏をしたんだもん、練習では、嫌と言うほど鍛えまくったに違いない。それが本番で解放され、エネルギーを放射する。オーケストラの人たちもその快感を知っているからラザレフさんを信頼して付いて行くのでしょう。彼らの良い関係が窺えるよう。いよいよ次回は、主席指揮者ラザレフさんの最後の定期登壇です。


.
[PR]

by zerbinetta | 2016-05-21 13:33 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

パパ来たる K.ヤルヴィ/都響 ペルト、ライヒ   

2016年5月18日 @サントリーホール

ペルト:「フラトレス」、交響曲第3番
ライヒ:「デュエット」~2つの独奏ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための、
   「フォー・セクションズ」

クリスチャン・ヤルヴィ/東京都交響楽団


なんかとってもアウェイ感の強い音楽会でした。

踊る指揮者クリビーを見に来ました~。クリビーというと、最初に聴いたのが中南米の作曲家の特集だったのでそちらの人かと思ったら、パパヤルヴィさんの息子だったのね〜。踊る指揮者。ブラームスの交響曲でも遺憾なく踊って、隣で聴いていた高校生たちも真似して踊り出す始末。秘かにヤルヴィ家で一番好きかもなんです。
チケットの引き取りにホールの窓口に並んでたら、見知った感じの人が前を横切って、、、おや?と思ったらパパ・ヤルヴィさんでした。ちょうどN響を振るので来日中なんですね。ご両親も次男坊の演奏が心配だったのでしょうか?

プログラムの前半は、クリビーと同郷で交流もあるペルトのシグニチュア・ワーク、「フラトレス」と’ペルト’になる寸前の蛹の時期の交響曲第3番(パパ初演で、パパに献呈されていたハズ)。後半は、クリビーの第2の故郷、というかわたし的にはクリビーはアメリカ人、USのライヒ(ほんとはライシュ)の2曲。わたしの苦手なミニマリズムの曲です。

「フラトレス」は打楽器と弦楽合奏の版(この曲いろんな楽器編成のヴァージョンがあります)。わたしのペルト・ブームで2番目に来た曲(出逢いは「ヨハネ受難曲」でした)。彼独特のティンティナブリ様式の代表作のひとつですね。とても静謐。シンプル。なので演奏するのはとっても難しい。打楽器の音のあと、低音の持続音の上に、静かにノンヴィブラートで歌い出される高音のヴァイオリンは、オーケストラの実力がもろに出てしまいそう。都響の音は枯れた感じで、落ち葉がかさこそ鳴るみたいな。わたし的には、弱音の中に艶のあるつーっと引かれる蚕の糸みたいな音が好み。枯れ葉の転がる晩秋ではなくて、つららの伸びる厳冬のイメジ。打楽器も譜面面はわたしにも叩けそうなたった3つの音が音楽の節目節目で出てくるんだけど、微妙にクレッシェンドしたりしなかったりものすごく神経をとがらさせられそう。音のばらつきがほんのちょっとあったのが気になったんだけど、そんな細かいところまで聞こえてしまうこの曲って鬼よね。

交響曲第3番は、ティンティナブリ様式に至る前の作品だけど、外交的な表現への欲求に加えてグレゴリオ聖歌への傾倒とか内向的な後の作風も混じってきて、過渡期というか、自身を模索している感じの音楽。ただね~、交響曲ってペルトさんにとってはアウェイだと思うのよね。交響曲って形式というか器だと思うんだけど、ペルトさんの音楽ってその器に合わないんだもの。少なくともそれ以前のペルトさんは、交響曲の器に合う曲を書こうとしてたりもしたけど、後期の様式の萌芽の見られる第3番になるともうどうしようもないずれが。交響曲なんてある時代のローカルな様式でしかないのだから(交響曲こそクラシック音楽の最高峰という意見もあるけど、今のオーケストラにとって重要なレパートリーではあるけれども、現代の音楽にとって交響曲はもはや中心的な役割を負ってないし、過去だって、重要な音楽の中心地、イタリアやフランスではあまり交響曲は書かれていないよね)、無理に書く必要はないよ、と余計なことを考えながら聴いていました。というかそういうことを考えさせられる演奏だったんです。なんかこうピタリとはまってなくて座り心地が悪いというか。フォルテで現れる金管楽器の聖歌もなんかちょっと雰囲気壊してた。
後年はティンティナブリ様式を確立して交響曲とは決別した、、、と思ったら第4番を数年前に書いてるーーーぎゃぽーーん。

音楽会後半は、ライヒ。わたしには縁遠くて、多分バレエの伴奏で「エレクトリック・カウンターポイント」くらいしか聴いたことがないハズ。どんな音楽なのかワクワク(でも苦手なミニマムだろうからしょぼんかな)。
「デュエット」は、ふたりのヴァイオリン・ソロ(都響トップの山本さんと双紙さんのソロ)、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの合奏の編成。弦楽合奏は、普段の席で弾いたので、ステージの上手側だけに人がわらわら(ソリストは指揮者の正面)の異様な様相。でも、今日の音楽会で、この曲が一番クリビーらしい良い演奏でした。踊ってたし。音楽は、ヴィヴァルディの「四季」(というか本当は「調和の霊感」の中の2つのヴァイオリンのための協奏曲)を思い出させるようなソロの掛け合いのある競奏曲風のそしてだんだんと盛り上がっていくビート感がUSのライトで明るい雰囲気。ここにはクラシックとポピュラー音楽が溶け合ってる。合奏に沸いてくる煽動するリズムがあればもっと良かったんだけど、ソロを弾いたおふたりの自発的な掛け合いがステキでした。

「フォー・セクションズ」(日本初演)は、2台のピアノ(とシンセサイザー)、マリンバ、ヴィブラフォンが2台ずつと大きなオーケストラのためのミニマム作品(なんて矛盾)。こちらもアメリカンな、わたしは行ったことのない癖に、西海岸の空気感を感じさせる明るいけれども退廃的な雰囲気も匂わせる音楽。やっぱり、ジャズの伝統のあるアメリカのインプロヴィゼイションを感じさせる曲だと思うのだけど、、、、
これが強烈なアウェイ感。オーケストラはこんな音楽も至極真面目に弾いていて、譜面的には正しいんだけど、マンガのセリフを生真面目に朗読したみたいでちょっとつまらない。アメリカの音楽に慣れていないことがありありのオーケストラ(しかもミニマルの曲って数えるだけで大変)なので、まず、音符を弾くことに精一杯で、クリビーも正確に振ることに重きを置いていて踊らない。多分、USのオーケストラがやったら嬉々として自分たちの音楽を奏でてくれると思うんだけど。。。途中で落ちても気にしな〜〜い。
それに、慣れないお客さんも生真面目に聴いていて、寄席で笑わずにシーンと真剣に落語を聞いているお客さんみたい。クリビーの異分子感ったら。孤軍奮闘。笛吹けど踊らず。

日本って、USからもヨーロッパからも等しく遠く離れてるので、ドイツもフランスもイギリスもアメリカ音楽も分け隔てなく音楽会のプログラムに乗るし、それを等しく受け入れているという点では、ものすごく貴重な国。と同時に等しく遠いので、自分の音楽として理解できているかは微妙。もしかすると和風な理解をしているのではないか。と、今日のオーケストラとお客さんを見て感じたのでした。ベートーヴェンやブラームスも。ベートーヴェンやブラームスはもう慣れてるけど、アメリカ音楽はまだ、体が自然に動くところまでには慣れていないの。こういうプログラムこそ、客席の椅子を取り払ってオール・スタンディングでやったらいいのにな。

USとかヨーロッパとかでこういう曲の音楽会をやると、必ずと言っていいほど、髪をまっ赤に染めた人とか、パンクとかロックやってるみたいな人とか、普段は、クラシック音楽会では見かけないような人たちも来るんだけど、ここでは普通の定期演奏会と全く同じ客層。クラシック音楽を聴きに来る人たちが、アメリカやエストニアの現代音楽を受け入れていることを慶賀すると同時に、鋭いアンテナを持つロック兄ちゃん、パンク姉ちゃん、との間にはまだ高い壁があるのかなぁとも思って寂しくもなるの(日本のアヴァンギャルドの人たちのアンテナが低いのかも知れないけど)。ライヒを聴いてダンスする日はいつか来るのかしら。


.
[PR]

by zerbinetta | 2016-05-18 00:43 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

さようなら 高関/シティフィル シベリウス、マーラー   

2016年5月14日 @東京オペラシティ

シベリウス:交響曲第7番
マーラー:「大地の歌」

小山由美(メゾ・ソプラノ)、小原啓楼(テノール)
高関健/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


確か今日が今シーズンの始まりだと思うんだけど、なぜかお終いのようなプログラム。シベリウスの最後の交響曲とマーラーの「大地の歌」。人生の終焉。プログラムを見たとき、わたしはどうしてシベリウスが先でマーラーが後なのかって思いました。確かに常識的には規模の大きい「大地の歌」が後に来るのでしょうが、「大地の歌」には(物語が)完成されていない感じがするのです(関係ないけど、「大地の歌」の初演の際もこれが音楽会の前半でしたね)。それに対してシベリウスの最後の交響曲は、短いけれども極限までに蒸留され純化された結晶の密度と重さを感じるのです。短さゆえに音楽会の前半に置かれがちのこの曲は音楽会のメインにふさわしいと思います。「大地の歌」との組み合わせででも(だからこそ)「大地の歌」を補完して完成させるのにふさわしい音楽だとわたしは思うんですね。

始まる前に、高関さんが今日のプログラムについて、どうしてシベリウスとマーラーを組み合わせたのかについてお話ていました。1907年にマーラーがヘルシンキで指揮をしたときに、ふたりはホテルで会っていたのだそう。ただ、ふたりの音楽感(交響曲感)は結局相容れなかったみたい。全然違う方向の作風だからね。
シベリウスの最後の交響曲は、交響曲全体を織りなしていた、(レードと)シードの動機に最後収斂される、ということを説明されてたので、「大地の歌」は、最後、離別の動機のミーレが解決されないまま終わる、というのを話されるかと思ったらなかったので、あれ?違うのかな?これが対称になってると思ったんだけど。まあいいや。

シベリウスの交響曲第7番は、大好きな曲。うんと高く評価している高関さんと好感度大のシティ・フィルがどういう風な演奏をするのか、楽しみだったんだけど、正直ちょっと辛かった。始まりから、何か先をせかすような感じがして(始めの音階、ちょっとアチェレランド気味?)、何か落ち着かない。決して速いテンポではないんだけどね。オーケストラの音も荒い感じがして、弦楽器もシベリウスらしい寒色系なのは良いのだけど、ナイフの刃で切られるような痛みでわたしを傷つけます。繰り返し降り注ぐ天啓のようなトロンボーンの光りも解決にならなくて、どうしてこうなっちゃうんだろう?オーケストラに飲まれてしまっていたから?確かに時に美しい瞬間、木管楽器のさざ波とか、あったんだけど何か腑に落ちない感じが残ってしまいました。マーラーの音楽とは相容れなかったシベリウスの音楽。うがち過ぎだけど、マーラーの音楽をとても研究している高関さんには合わなかったのでしょうか。

じゃあ、マーラーは、と言うと。。。ううううむ。シベリウス以上にもやもや感が残りました。高関さんもおっしゃるように、マーラー自身一度も演奏していないこの曲は、いわば未完成で(オーケストラと練習を重ねながら筆を入れるのが常だったので)、その通りに演奏してしまうと、オーケストラが声を圧倒してしまう場面もちらほら。でも、それを警戒するばかり、オーケストラを引っ込めすぎて、全体が壊れた積み木のようにちぐはぐしてしまった感じです。例えば、「美について」の中間の盛り上がるところは野性味がなくてなんか薄ぼんやりとしたトーンになってしまいました。オーケストラが弱音の美しさを持てていれば、全体を損なうことなく歌の後ろに厚いけど静かに付けることができると思うのだけど。。。そして、シベリウスでも感じたのと同じように、何か音楽が先へ先へと進みすぎていると感じました。特に、「秋に寂しき者」でのテンポ設定、歌った小山さんとのテンポなのかも知れないのですが、なにか行進曲のように歌われてしまって、全然雰囲気が。。。残念ながら終始、小山さんの歌に疑問を持ってしまいました。音程も悪かったしマルカートのような発声(発音)の仕方もわたしにはダメでした。正直、「秋に寂しき者」で帰りたくなりました。
美しさが足りないゆえに、魂が浄化しきれない「大地の歌」。(「告別」のオーケストラの間奏の後、少し雰囲気が出たのですが、、、足りません)

高関さんもシティ・フィルもマーラーもシベリウスもみんな大好きでとても期待していたのに。。。「大地の歌」の主人公のように、シティ・フィルから静かにさようならするべきでしょうか。最後、寂黙に至らないまま終わった音楽をあとにして、すうっとまだ誰もいないホールの外に出て帰りました。
[PR]

by zerbinetta | 2016-05-14 00:10 | 日本のオーケストラ | Comments(2)