タグ:ショスタコーヴィチ ( 45 ) タグの人気記事   

2度目にして、やばい。惚れた ラザレフ/日フィル ショスティ、チャイコフスキー   

2016年5月21日 @サントリーホール

チャイコフスキー:組曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番

アレクサンドル・ラザレフ/日本フィルハーモニー交響楽団


名演でした。
ラザレフさんとの出逢いは、去年、なんだけど、第1印象はあまり良くなくて、せかせかした感じの指揮ぶりがちょおっとって感じだったんだけど、音楽会後半のショスティ9番の怪演に度肝を抜かれて、急転直下宗旨変えをしたのでした。ラザレフさん凄い。なので、今日のショスティの交響曲第6番もめちゃくちゃ期待して。。。どんな怪演が聴かれるのかと。その期待は、会場についてプログラムを開いたとたんヴォルテージアップ。だって、ショスティの演奏時間51分って書いてあるんだもん。普通に演奏して30分くらいの曲。まさかとは思ったけど、この間の第9もあるし(遅い演奏ではなかったけど)、今日何かが起こる!とニヤニヤが止まらなかったんだけど、あっさり、休憩時間にプログラムの記載は間違いで演奏時間は30分というアナウンスがありました。がっくり。何を期待してたんだか。。。(実は、今まですっかり忘れてたんですけど、ラザレフさん、去年より前に、フィルハーモニアを振ったのを聴いていたのです。しかも今日と同じショスティ6。自分のブログを検索してやっと気づいたくらい。全く忘れていました)

そのショスティの前に、チャイコフスキーの組曲第1番。チャイコフスキーにしてはマイナーな曲で、わたしも録音を含めて聴くのは初めて。いい曲なんだろうか?でも、ラザレフさんが凄くお好きだという曲。解説を見ると交響曲第4番と第5番の間に書かれたそうだから、充実期の作品。
ラザレフさんの指揮は例のせかせかした感じを一瞬感じたんですが、すぐ慣れて、好きこそものの上手なれというか、ラザレフさんの好きが分かる充実の演奏。もちょっとオーケストラに柔らかみというか叙情性があればとも思うけど、チャイコフスキーの音楽の方も叙情性過多になっていないのでこれで良いのかも、と叙情性プラスでバランスがとれるのかも、という気持ち半々。でも曲の魅力は十分に伝わってきました。演奏される機会が少ないのがもったいない名曲。バレエの踊りに縛られることも、交響曲の規則に絡まれることもなく、自由に書かれた音楽は、きっとチャイコフスキーの個人的な書簡なんでしょう。チャイコフスキーというとメランコリックな旋律が強調されちゃうけど、理知的なバランスのとれた人なんだなという印象を持ちました。

そしてお待ちかねショスティ6。実は大好き。最初の一音、ヴィオラとチェロの分厚い音を聴いた瞬間もうブラヴォーを叫びたくなりました。ってか心の中ではすでに盛大に叫んでた。素晴らしい音。日フィルの弦って(失礼だけど)こんなに良い音を出すんだっけ。もう最高。ちゃんとかき回した納豆みたいに糸を引く粘り。この曲はこうでなきゃ。弱音へのこだわりもしっかりあって、雪の夜のしじまの感覚が身体中に満ちてくるの。弦楽器のうねりに呑まれたのか、管楽器もとっても健闘していて良かったです。ショスティの常で、長いソロがあるんだけど、それぞれ音楽の中で存在感を見せていました。日フィルの良いところは、個が立っているところですね。
第1楽章は、まさかの51分仕様ではなく、中庸のテンポだったのだけど(音楽は雄大)、第2楽章、第3楽章は、異形のバーンスタインほどではないけれども少しゆっくり目。でも、何か雰囲気が、、、異様というかきょとんと放り出されたような虚無的な空気、というか真空。心の中のいろんなものをすっぽり抜き取られて穴があいてしまった感じ。静かな恐怖。ラザレフさんは、弱音に拘ってオーケストラもそれに必死で付いていく。お終いもはちゃめちゃならんちき騒ぎで終わるかなと思ったら、醒めた騒ぎが、無声映画のようでもあり、背筋が凍るような、真っ暗な闇を、自分の裡にあるものを、ニヤリと見せられた感じ。悪魔か、ラザレフさん。

カーテンコールでは、(長いソロがあった)フルートの主席の人を引っ張ってきて指揮台に立たせたり、あちこち歩き回ってオーケストラを称えるいつものラザレフ流。しっかりお客さんと目を合わせるところもステキ。でも、ニコニコオーケストラを称えてるのはきっと仮の姿。こんな演奏をしたんだもん、練習では、嫌と言うほど鍛えまくったに違いない。それが本番で解放され、エネルギーを放射する。オーケストラの人たちもその快感を知っているからラザレフさんを信頼して付いて行くのでしょう。彼らの良い関係が窺えるよう。いよいよ次回は、主席指揮者ラザレフさんの最後の定期登壇です。


.
[PR]

by zerbinetta | 2016-05-21 13:33 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

謎はなかった インバル/都響 ショスティ15   

2016年3月29日 @東京文化会館

モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

クンウー・パイク(ピアノ)
エリアフ・インバル/東京都交響楽団


都響と深いつながりのあるインバルさんとの音楽会。来月のサントリーホールでの「カディッシュ」は聴きに行けないので、こちら。ショスティとアヒルの群れにぽつんと白鳥の雛が混じっちゃったようにモーツァルト。インバルさんとモーツァルトがどうしても結びつかないんだけど、ピアニストの希望?
絶対似合わない~~って思ったけど、ふたを開けたらほんとにそうでした。ピアノのパイクさんは、少しロマンティック路線のピアノ。オールドスタイル。対するインバルさんは、ロマンティックとは距離を置いているけど、ピリオド・スタイルではない、これまた別の往年のスタイル。正直ふたりの音楽がかみ合ってるのかかみ合ってないのかよく分かりませんでした。よく分からないまま進められるモーツァルトの名曲。まあ、協奏曲ですから、インバルさんはパイクさんに合わせて付けていたと思うんだけど、このスタイルの演奏にちょっと戸惑ったまま終わってしまいました。わたしの度量の狭さゆえだけど、悔しい。無地になってまず音楽を受け入れる訓練をしなければ。。。
パイクさんのアンコールは、ブゾーニの「悲歌集」から「トゥーランドットの居間」という曲だそう。初めて聴く曲だけど、モーツァルトよりこちらの方がパイクさんのピアノの雰囲気に合ってたかな。音に落ち着きがあって速い部分でもメカニカルにガチャガチャとしない感じがいいの。グリーンスリーヴスが聞こえてくるとやっぱりしっとりしちゃうから。

ショスティは謎が多い。最後に書かれた(死の床で書かれたわけではない)交響曲第15番はとりわけ謎だらけの作品だと思います。「ウィリアム・テル」や「神々の黄昏」からの露骨な引用ゆえにその意味がかえって分からなくなってるというか、本当に謎かけなのかすら謎。メタ謎かけ。それを考えながら頭で聴くのがショスティの魅力のひとつだと思うんだけど、さて、インバルさんの演奏は、即物的ゆえに謎がなかったかのように消えているの。音楽を、書かれた音符に即して、音だけを取り出してわたしたちに聴かせてくれる。クリアに理知的に。音そのものには確かに意味はないし、意味を考えるのはかえって音楽を聴くことを邪魔するのかも知れないけど、でも、わたしにはそれが物足りなく思えました。永遠に答えが得られないのなら(多分交響曲第15番の謎はそういうものなのです)、答えを見つけるより、問いかけはいらない、という割り切り方にね。ひとつのアプローチの仕方としてとても正しいんだと思うんですけど。。。
ドライな都響の音もインバルさんの解釈に縁取りを与えていたと思います。なので、両者の方向が一致していて、この音楽にはまる人には、もう素晴らしい演奏なのでしょう。ただ、チェロのソロや金管楽器にもう少し奮起を求めたいところはありました。
インバルさんと都響の長き良きコラボレイションは、今の都響をインバルさんの楽器にしているので、これからもインバルさんとの共演が楽しみです。でも、同時に、大野さんが音楽監督になられて1年。大野さんの下、これからどう変わっていくのかを聴き続けるのも楽しみです。




.
[PR]

by zerbinetta | 2016-03-29 11:24 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

はみでろっ!! ザンデルリンク/都響   

2015年12月10日 @東京文化会館

ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番
チャイコフスキー:交響曲第1番「冬の日の幻想」

アレクセイ・スタドレル(チェロ)
ミヒャエル・ザンデルリンク/東京都交響楽団

日本人がいいお酒を造るとき、吟醸とか大吟醸とかお米を徹底的に精米して半分以上も米粒を削って捨てちゃうよね。それで雑味がなくなった純粋な味で、上善水のごとし、とか言っちゃって、上等なお酒は水のようだと。ということ外国人に説明したら、えっ?っと目を丸くして、何で水なの?おいしくないじゃん、と言われて、良いものは水のように純粋とかなんとか説明したけど、きっと分かってもらえてない。一方、フランスのワインは、最高級のものでもわざと、ブドウの種や茎を入れて雑味を出したり、本質的に違うのよね。音楽だってそう。日本のオーケストラって、雑味を削って水のような味わいを求めているような気がする。都響もそう。削りに削って純粋で切れ味の鋭いシャープな音を求めているように思うの。それが良い悪いかは別にして。

今日の音楽会でもそういうのを強く感じました。
ショスティのチェロ協奏曲は確か、献呈されたチェリストの誕生記念に書かれたのにめっちゃ暗い曲になっちゃったのよね、しかも誕生日に間に合わなかったし、と思って聴き始めたら、明るい音楽でびっくり。違う曲でした。チェロじゃなくてヴァイオリンだしーー。いつものわたしの勘違い。
今日のおふたり、ザンデルリンクさんとチェロのスタドレルさん、イケメン。眼福。って言っても遠目だし、目が悪いのでよく見えないんだけど。若いスタドレルさんのチェロは、今も上手いけど将来への伸びも感じさせる音。曲が明るいのでリラックスして弾いてた感じです。もともと腕利きのチェリストだったザンデルリンクさんの伴奏もチェロをサポートするようにとても上手く付けていて、ソロとオーケストラが一体となった音楽を作っていました。凄くまとまりのある演奏でした。音楽的主役はむしろザンデルリンクさんだったのかな。
スタドレルさんが弾いたアンコールは、バッハの無伴奏組曲第2番(短調のやつ)からサラバンド。あれ?こんな曲だったっけって思ったのは、旋律の作り方がわたしの思ってたのと違ったからかしら?ちょっと不思議な感じでした。

「冬の日の幻想」は、都響の研ぎ澄まされた音ゆえに幻想的ではなくてリアリスティック。カミソリの刃のように鋭い雪が降ってきます(北国では本当に冷たさが刃物のように痛い雪が降ることあるんですよ)。この冷たさは、あっそうだ、ムラヴィンスキーのレニングラード・フィルに似ているような気がする。切れ切れの鋭いアンサンブル、銀色の怜悧な音色。レニングラード・フィルは、ミスしたらシベリア送りという噂がまことしやかに囁かれていたけど(ほんとかなぁ)、都響の場合は自然にそうなっているところがなんか凄い。ある意味とても日本人的なオーケストラという感じもしますね。わたし的にはこの曲にはもっと柔らかな明るい雪が似合うと思うのですが。それに都響さんにはもっとやんちゃやって欲しいし。枠からはみ出して。
だから、ザンデルリンクさんと都響って根っこの部分で相性がいいというか同じ方向を向いているような感じがしました。都響の音も特に木管楽器にいつになく潤いがあって、これから一緒に仕事をしていけばとても良いマリアージュになるんだなと思う、と同時に、都響には変化が必要と思うので違う指揮者の方がいいんだろうな、とか思ったりして。でも、ときどき客演して欲しいなと思うザンデルリンクさんでした。





[PR]

by zerbinetta | 2015-12-10 22:38 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

わたしの名演ノート P.ヤルヴィ/N響   

2015年10月24日 @NHKホール

トゥール:アディトゥス
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番
バルトーク:管弦楽のための協奏曲

みどり(ヴァイオリン)
パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団

ミドリさんって海外(USとかヨーロッパ)では、midoriの表記なんですけど、日本では名字が付いて五嶋みどりになるんですね。不思議〜〜。
ということで(?)、またパーヴォさん(もう兄ビーとは言えないな)とN響。+みどりさん。以前のN響をよく知っているわけではないけど、パーヴォさんが来られてN響がずいぶん変わっていく(良い方に!)感じを、周りからもわたし自身もひしひしと感じていて、外すことができない注目の音楽会(そう言う割にサントリーの方には不参加なんですが)。

始まりのトゥールさんは、パーヴォさんと同郷のエストニアの作曲家。プログレッシヴ・ロックから音楽活動を始めたそう。ううむ。カラフルで聴きやすい音楽だと思ったけど、1回聴いただけでは、何も残らなかった、かな。リンドベルイさんとかサロネンさんとか、北欧系の作曲家に流行りなのかしら、こういう感じの音楽。その中で、際立つというか頭が抜けるのは大変みたいかも。よく分かってないのに言うのも何ですけど。。。

みどりさんをソリストに迎えたショスティのヴァイオリン協奏曲、予想通りのピンと張り詰めたエッジの効いた演奏でした。わたし、実は、みどりさんが苦手なんですね。ものすごくいいのに、良すぎて、苦しいんです。集中しすぎて息ができなくて窒息してしまう感じ。神経が研ぎ澄まされすぎて鋭利な刃で、いい加減なわたしが切り刻まれてしまう。ショスティの協奏曲だと、中間のパッサカリアはそれが凄くいいんだけど、第1楽章の愚痴には真面目すぎるし、最後はもっとはっちゃけて音量とグラマラスさが欲しかったです。みどりさんは鬼神のようにのめり込んで弾いてたけど、少し潤いがあればって思いました。彼女の特徴のホールを鳴らす弱音(最弱音なのにホールから響いてくる!それもNHKホール!)は健在で、もうこれには参りましたと言う以外に言葉がない。苦手だけれどもやっぱり凄いヴァイオリニストだわ。パーヴォさんとN響は、みどりさんに添って音楽を付けて、みどりさんにのせられた感じもしてとても良かったです。活躍するティンパニも素晴らしかったです。この曲は、カヴァコスさんとかサラ・チャンさんとかいろんな人で聴いてきたけど、みどりさんのもわたしの名演ノートにしっかり記録されたのでした。

バルトークの管弦楽のための協奏曲も輪をかけて素晴らしかったです。各楽器がソロも合奏も含めてしっかりとコントロールされつつ、自発性を伴った音楽で、今のN響の好調ぶりを遺憾なくアピール。インターナショナルで(N響は日本ドメスティックなオーケストラなのに)、バルトーク訛り(ついでに日本訛りも)は聴かれないけど、バルトークの書いたスコアをパーヴォさんのレシピで丁寧に音にしたら、自然に作曲家の心情までもが音楽に立ち現れた名演。後ろに回ったときの弦楽器の絶妙なニュアンス。聴いたことのないそして記憶に刻まれるオケコンでした。この曲のひとつの理想的な演奏ではなかったかしら。哀しみでもない、スポーティなヴィルトゥオーゾでもない、ものすごくスッキリとした感動。あらゆるものが悲しみさえも昇華され純化されて心臓を包みました。





[PR]

by zerbinetta | 2015-10-24 20:54 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

絶望、諦観、自棄 ラザレフ/日フィル ショスティ9   

2015年10月23日 @サントリーホール

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「妖精の口づけ」
チャイコフスキー/タネーエフ:二重唱「ロメオとジュリエット」
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番

黒澤麻美(ソプラノ)、大槻孝志(テノール)、原彩子(ソプラノ)
アレクサンドル・ラザレフ/日本フィルハーモニー交響楽団


今シーズンから、定期会員になってみた日フィル。主席指揮者のラザレフさんがショスティの交響曲のサイクルをやっていることは風の噂に聞いていて、うううーくやしいって思いをしていたんだけど、今日やっとその4回目から参加。ショスティの交響曲としては軽い、虚を突いた第9番。ベートーヴェン以降、呪いがかかったというか特別の番号感のある9番。しかも終戦後最初の交響曲。当時のソビエト共産党の期待を見事に外したショスティの皮肉なセンス、なんて勝手なこと言ってるけど、実際のところショスティの心境はどうだったのでしょう?この曲でまた致命的な批判を浴びてしまうのだし。でも、軽妙な交響曲だと思っていた時代も今日で終わり。とんでもない演奏が聴けたのでした。

初ラザレフさんとの出逢いはあまり良くなかったかな。せかせかしてあまり落ちつきない感じで(指揮も音楽も)。ストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」は、カラフルなはずのストラヴィンスキーのオーケストレイションが、モノトーンに聞こえて、タイトルからすると甘いロマンティックなバレエのように思えるんだけど(物語を知らないので間違ってたらごめんなさい)、オーケストラの音色の特徴もあってちょっと殺伐とした感じがありました。

「ロメオとジュリエット」はチャイコフスキーが未完で残した2重唱曲をタネーエフが完成させたもの。有名な幻想序曲の叙情的な部分に歌を付けた感じの曲だけれども、わたし、こんな曲があったなんて初めて知りました。2重唱なのに歌手は3人。ソプラノの黒澤さんがジュリエット、テナーの大槻さんがロメオ、もうひとりのソプラノの原さんがロザラインで見事な三角関係、なハズ無く、原さんはほんのちょい役、逢い引きするふたりに朝を告げる乳母役で、出番も一瞬。トリスタンとイゾルデみたいな逢い引きシーン、プロコフィエフのバレエだったら3幕のベッドルームのシーンかな。
ほの暗いロマンティックな音楽は夜の香りがして、オペラのワンシーンのよう。実際チャイコフスキーはオペラを目論んでいたこともあるのですね。歌のおふたりの親密さとか、もう少し肉感的なエロスの香りがあっても良かったとは思いましたが(意外とさっぱりしてた)、珍しい曲を聴けて良かった♡思いがけず知らない曲に出逢うのも定期演奏会の醍醐味ですしね。

そして、ショスティ9。これが。。。
軽妙?洒脱?小さな音楽?とんでもない。ラザレフさんの音楽は、重く、嘲笑と諦めに満ちている大交響曲。胃に鉛を飲みこんだようなずっしりと淀んだ悲しみ。そして自棄。そう言えば、青春の快活な交響曲第1番を第15番の次の曲のように壮大に演奏したスクロヴァチェフスキさんのことを思い出しちゃいました。
第1楽章からある種の恐怖。はしゃぎ方に目が据わってるというか、昔チェコの小さな町で、大勢の(多分)学生が昼間っから酔っぱらって歌って行進してるのを聞いて覚えた恐怖。言葉の通じない異国の町で独りで。そんな孤独な不安がはしゃいでる音楽の向こうから聞こえてきます。尋常な音楽ではない、今日の演奏。ラザレフさんはこの音楽をどういう思いで指揮してるんだろう?ショスティの音楽って一見とは違って、皮肉や暗喩、作曲家のねじ曲げられた思いが絡まった音楽だから、一筋縄ではいかないけど、この曲を淵の底で演奏するなんて。皮肉も暗喩も真実(マジ)になって攻めてくる。深く暗くどろどろした音楽。諧謔は何処?
木管楽器のソロが、3楽章のおどけたクラリネットでさえ、孤独。そして、それは、第4楽章でついに極限へ。怪獣が現れるようなトロンボーンとシンバルの合図で立ち現れるファゴットのソロ。ついにラザレフさんが壊れてしまう。絶望。諦観。自棄。そうとしか思えない表情。指揮棒がリズムを刻まない。背筋が凍る。
そのまま引き摺るようにファゴットが粘るように駆けだして音楽が喧噪しても気持ちは重いまま。もうこうなったら、やけのやんぱち。やけっぱちのどんちゃん騒ぎ。肯定でも否定でもない。救いのない、、、いいえ、刹那で永遠の救いを音楽の喧噪に。。。それは幻影。それともリアル?
すぐには拍手は出来なかった。これが本当の第九?多分、異形のものすごく異端な音楽。でもこれもひとつの真実。だからこそ音楽って怖ろしい。こんな音楽を作り上げてしまうラザレフさん。それに応えた日フィル。我に返って熱い拍手を。

それにしてもラザレフさん。カーテンコールのときステージ上を縦横無尽に(どなたかロボット掃除機のルンバのようにっておっしゃってらしたけど言い得て妙!)歩き回って演奏者を湛えていました。ステージドアの向こうの行き止まりで戻ってきたのもルンバっぽい。そして、演奏する側としてではなく聴く側としても音楽(ご自分の演奏)を楽しんでいる様子が拍手にも表れていて、ステキでした。

日フィルって今、都下で一番面白い演奏をしそうなオーケストラだな。多分オーケストラの技量が指揮者の要求に応えることでいっぱいいっぱいで素直に指揮者の音楽を表現するからだよね。それに個々の奏者の積極性がステキ。
[PR]

by zerbinetta | 2015-10-23 21:11 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

未来への拳をあげろ! ショスティ11 都響   

2015年6月29日 @東京文化会館

ブリテン:ロシアの葬送
タンスマン:フレスコバルディの主題による変奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」

オレグ・カエターニ/東京都交響楽団


「沈黙」の衝撃に心が沈んだまま、上野に移動して、都響。ショスティの交響曲第11番。交響曲第11番というと、最近の流行りは、最後の打楽器の音を止めないで沈黙のうちに音楽を終える演奏(無責任に流行りと言ったけど本当に流行っているかどうかは知らず、わたしの知ってるのはペトレンコさんが指揮した演奏なんだけど、その衝撃が大きいからにわかにその流れが来ているような)。実際には、最後余韻を残さずに切るのが楽譜通りだと思うんだけど、フライングブラヴォーやフライング拍手にやたらと厳しい日本の聴衆さんのこと、この曲の最後もしっかり余韻を味わって拍手をすべきとまことしやかに語られそうで怖いの。この曲ってそういう解釈もできるとは思うけど、最後、未来へ向かって民衆が蜂起して拳をあげて「うぉーーっ」とシュプレヒコールをあげて終わる音楽という解釈もありだと思うの。というわけで色々心配しつつ。

始まりは、金管楽器と打楽器のみのブリテン「ロシアの葬送」。あとのショスティ11の第3楽章の主題が繰り返される音楽。ロシアのお葬式の情景を描いた音楽だと思うけど、本当にこれでお葬式をしても大丈夫な偽りのない純度の高い葬送曲。昔、車で房総半島の田舎道を走っていたとき、土地の伝統的なお葬式の行列に出会ったことがあって、その素朴だけど死者を弔う悲しみに満ちた無声映画のような情景に感動したことを思い出しました。都響さんの演奏は、とても柔らかく丁寧な発音で吹いていたけど、わたし的にはもう少し思い切りの良い発音でも良かったんじゃないかな、と思いました。音の頭からシャープに聞こえても、と。

今日、一番心に浸みたのが「フレスコバルディの主題による変奏曲」。お昼の「沈黙」で完膚なきまでに心が沈んでいたし、1曲目もお葬式だったから。弦楽合奏で、バロック音楽の旋律による変奏曲は、しみじみとした旋律と弦楽合奏のささくれのない音色で、わたしは、音楽をなんでも’癒やし’で片付けてしまうのが大嫌いなので、癒やしという言葉を避けまくってるんだけど(多分、’癒やし’という単語を使うのはこのブログで初めてです)、心が透きとおるように柔らかくなりました(あっやっぱり癒やしと言わなかった)。演奏は、良くも悪くも都響さんらしいシャープな演奏で、もう少し柔らかさがあればもっといいのになって感じました。

ショスティの交響曲第11番は、大好きで(高校時代、この曲の第1楽章を下敷きにして小説を書いたことがあります)、そうなるとドキドキで平常心では聴いてられません。カエターニさんの演奏は、速めのテンポで少しドライ。でも、ショスティが音楽で描いた情景(彼の交響曲の中で一番映画的というか具体的な絵が見えてくる音楽です)をしっかりと描いていきます。都響さんも、第1楽章の最弱音の響き(の強さ)にもっと欲しいものがあったけれども(最弱音の美しさが、ヨーロッパのトップ・レヴェルのオーケストラにはあって日本のオーケストラにはまだないものですね)、持ち前のアンサンブルの正確さで応えていました。モノトーンでクリア。第2楽章の大爆発も盛り上がりつつ統制の取れたもので、軍隊の怖さを感じました。第3楽章では、ブリテンの音楽が重なってプログラミングの妙を感じたんですけど、大太鼓が打ち鳴らされるんだけど鐘は鳴らないことに気がつきました(ブリテンでも)。ロシアのお葬式では教会の鐘は鳴らないのでしょうか?鎮魂の鐘とかお葬式には鐘が付きものみたいな感覚があるんですけど。そして、この交響曲で鐘が鳴らされるのは最後の最後。鐘の意味を考えさせられてしまいました。まだ答えはありません。表現として、今日一番ムフフとなったのは、第4楽章を予想に反してゆっくり始めたかと思ったら、すぐに急速なアチェレランドをかけて走り出したとこ。ああ、ここで仕掛けてきたかって。
最後はポジティヴ。もちろん、血の日曜日事件を経て革命は成功したけど、それが本当に良かったのか?って疑問と共に終わるのもありだとは思うけど(ショスティの時代はまさにスターリンの粛正の時代だったし)、民衆の力を信じて未来を掴む(掴み取ろうとする)重い希望を共に抱いて終わるのもありでしょう。もちろん希望と言っても明るい希望ではなくて、苦渋と共にある見えるか見えないかくらいの。怒りと共に未来を見つめて手を握り拳を振り上げる。心の裡に燃え上がってくるものを押さえきれずにうぉーーっと叫んじゃいそうな。
バンと音を切って(打楽器の人、必死で止めてた)終わった演奏はまさにそんなそのまますぐシュプレヒコールになだれ込むような演奏でした。音楽が終わって微妙な間があって、カエターニさんが、あれ?拍手は?演奏上手くいったよね?みたいな感じできょとんとして見えたので、一番乗りで拍手を始めてみました。余韻を残さずにどっと拍手がわき起こった方が良い演奏だったと思います。音楽をしっかり受け止めてちゃんと拍手できる聴き手になりたいです。
[PR]

by zerbinetta | 2015-06-29 23:29 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

ピアニストはクールビズ イェンセン/読響 モーツァルト、レニングラード   

2015年5月13日 @サントリーホール

モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番

アンドレアス・シュタイアー(ピアノ)
エイヴィン・グルベルグ・イェンセン/読売日本交響楽団


うわ〜久しぶりのテミルカーノフさんの「レニングラード」だわと期待して行ったら、ありゃ?違う人?テミルカーノフさん、読響を振りに来ると思ったのに今日じゃなかったっけ?という音楽会の始まり。

今日はモーツァルトのピアノ協奏曲から。第17番。ピアニストは、初めて聴くシュタイアーさんだけど、思い出した、この人フォルテ・ピアノ弾きよね、シューベルトのソナタのCD持ってる。でも今日はモダン・ピアノを弾きます。
モーツァルトのこの協奏曲は、音楽会では初めてです。CDは持っているんだけど、もっぱら20番以降の協奏曲ばかり聴いていて、初めて聴くようなものです。で、この曲めちゃ名曲じゃなーーいっ。と今更気づくわたし。明るくて、快活で、いわゆるモーツァルト満開。若くて屈託のないモーツァルト。ヴィルトゥオーゾのためではなくお弟子さんのために書かれたということで、シンプルなピアノがまたその雰囲気を醸しだしてていいの。ピアノ協奏曲というかピアノ自体が黎明期で、オーケストラとの絡みとか、モーツァルト自身ののあとの協奏曲から見ても未熟だと思うけど、かえってそこがいい、っていうかまさにそういうような音楽として書かれているところがもう言うことなし。シュタイアーさんもソロが始まる前からさりげなく通奏低音のパートをピアノで弾いて、雰囲気をもり立てる。でもね、ちょっぴりオーケストラが残念。フレーズのお終いの細かな音符が少しずれていく感じがして、なんか音楽がほころびていくんじゃないかって気になったの。ほつれてしまうことはなかったんだけど、ちょっとだけ居心地悪かった。
シュタイアーさんは、白シャツにジャケットでタイ無しのクールビズ。知的でちょっとハンサムな感じのナイス・ミドル。そんなシュタイアーさんのピアノはもうわたしのイメジ通りのモーツァルトの音。窓から聞こえてくるピアノを練習する音、と言ったら失礼かもしれないけど、音楽のイメジ通りの音が風に乗って聞こえてくるうっとり感。軽やかで無垢な音たち。ほんとに音がきれい。それに、シンプルすぎてかえって音楽にするのが難しいと思うんだけど、もうそこは完全にシュタイアーさんとモーツァルトの世界。彼らの音遊びが楽しくて幸せな気持ちに包まれる。第2楽章のドキリとするような蔭や、ベートーヴェンの第4番の協奏曲を先取りするようなオーケストラとピアノの対話、打って変わってフィナーレの明るくはしゃいだ気持ち。最後のコーダの突然の行進曲。どこを切ってもモーツァルトの音楽しか感じさせない不純物のないピアノの音。シュタイアーさんが普段弾いてらっしゃるモーツァルトの時代のフォルテ・ピアノだったらどんな風に聞こえるんだろうって想像しながら、でも、この現代楽器のオーケストラで、モダン・ピアノから泉のように湧き上がってくる屈託のない明るい音たちも紛れもない極上のモーツァルトの音楽なんだよね。古楽器も現代楽器も楽しめる今の時代を生きてる幸せ。だってどちらも等しくステキなんだもの。
シュタイアーさんのアンコールは、ハ長調のピアノ・ソナタK.330の第1楽章。協奏曲と同じ頃書かれた同じような雰囲気の音楽つながり。歌うようなフレージングもステキでした。

後半は、ショスティの交響曲第7番。通称「レニングラード」。正直なところ、ショスティの交響曲の中であまり好きな曲ではないんだけど、ある意味ショスティのストレイトな気持ちが出ている音楽と言えるかもしれない、レニングラードがんばれ交響曲。というのが最近のわたしの感じなんだけど、イェンセンさんはどんな音楽を聴かせてくれるでしょう。
のっけから速めのテンポで物語の渦の中心に切り込んでいきます。この語り口は、前に聴いたネルソンズさんのを思い出しました。でも、なにか説得力が弱い?指揮者とオーケストラの間に少しずれがあるような気がする。オーケストラのショスティの音楽への理解が不足しているように思えるの。特にショスティの楽器である、小クラリネットやピッコロ、トランペット、それに今日の主役と言える小太鼓。。。戦争の行進を告げる小太鼓のソロが、音を小さく絞りすぎていて(これは指揮者の指示なのかな)、リズムが何をやっているのか分からなかったし、リズムで音楽を先導するところまで至ってなかった。1楽章の最後のドキリとする悪夢の回想のようなトランペットのソロもあの音はないだろうと。ホルンの低音での強奏も音がよれよれで締まりなかったし。。。わたし、読響さんとはとことん相性悪いのかな。でも、弦の厚みは魅力的だし、第3楽章の主題がヴィオラに戻ってくるところなんてすごく良い音で素晴らしかった。シンバルやバンダの金管楽器もとても良かったし。読響って、ひとりひとりは良い音持ってると思うんだけど、いつも音楽への理解度が足りてないと思ってしまうのはどうしてだろう?
イェンセンさんは、若手というかもう40代だから中堅どころの指揮者。オーケストラを見事にドライヴした指揮ぶりはとても好感度高かったです。でも、彼の「レニングラード」は混沌なのかな。第1楽章の見事なカオス、混沌ぶりには自然に涙が出たし、最後の何だか強引な盛り上がり方にも混沌が見えたのは、彼がこの音楽をそう捉えているからでしょう。答えのない、勝利?皮肉?わたし的には、もっと素直に愛国的な音楽だと思うんですけど、ショスティっていろいろ考えされちゃうからなぁ。
最後、曲が終わったときの拍手までの気まずい時間(イェンセンさんはゆっくりと手を下ろしていった)も何だかそんなことなんだろうと思います。わたしは、この曲は音楽が終わると同時に、感極まってわーーっと拍手が巻き起こる音楽だと思うんですよ。愛国の曲なんだから。どんな皮肉屋だって戦争嫌いだって、自分の町が不条理な敵に包囲されて攻められていたら、自国の勝利を願わずにはいられないでしょう。ショスティに煽られて素直に心を熱くしてもいいと思うんですよ。
[PR]

by zerbinetta | 2015-05-13 15:36 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

自然に湧き出たブラヴォー 新交響楽団第229回演奏会   

2015年4月19日 @東京芸術劇場

ショスタコーヴィチ:祝典序曲
橋本國彦:交響曲2番
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番

湯浅卓雄/新交響楽団


池袋の東京芸術劇場のエントランスにはなぜかたくさんのインド人。ウェストゲートパークで何かイヴェントがあったのでしょうか。雨が降ってきたので雨宿り?
そのたくさんのインド人の間をすり抜けて、音楽会は新交響楽団。ショスティの10番。ショスティの交響曲の中では第5番に次いで人気よね。カラヤンも演奏してたし。そして今日のもうひとつのお楽しみは、ショスティと同年代の日本の作曲家、橋本國彦。っていっても名前さえ初めて聴くんだけどね。

まずは、ショスティの祝典序曲。吹奏楽で聴いたことがあるので、クラリネット活躍するし、吹奏楽版がオリジナルと勘違いしてましたが、オーケストラがオリジナルなんですね。こういう、スポーツカーでハイウェイを疾走するような曲と演奏は、高性能オーケストラにぴったりですね。軽々とさすがでした。スカッと。

2曲目は橋本國彦の交響曲2番。初めて聴く人。1904年生まれ49年没で、戦前から戦後にかけて、アカデミズムでも大衆音楽の分野でも活躍した人みたいです。お弟子に、矢代秋雄や芥川也寸志、黛敏郎らがいるんですね。戦前、戦中は、軍歌とか皇紀2600年奉祝曲として交響曲第1番を書いて時流に乗った活動をしています。その(戦争)責任を自ら取って大学を辞めたみたいですけど、今日の交響曲第2番は、新憲法制定を記念して書かれた音楽。というのは知らなくても全然オッケー。
びっくりしたんですけど、弟子にアヴァンギャルドな黛とかいるのに、それに反してなんて平明な曲。頭をからにして素直に楽しむのが吉な音楽。聴いててニコニコしてくるような明るくて、だれが聴いても楽しめる、クラシック音楽は聴いてみたいけど難しそうって敬遠している人に聴いてもらいたい音楽なんです。あからさまな5音階とか和風なところは、ほとんど聞こえない西洋音楽(ロマン派風のシュトラウスを加味したドヴォルザークに近い感じでしょうか)。それでも、日本人と思わせるのは、底に流れるある種の血かな。前に、USにいた頃、ラジオからインストゥルメントのポップスの音楽が流れてきたの。知らない曲だったけど、なんとなく親近感を覚えたら日本の曲だった。完全に西洋音楽なのに。という経験があるので、わたしにはまだ説明できない日本人の血、みたいなのが日本人の作る純西洋音楽にもあるんだと思う。橋本の交響曲にもそれを感じました。
それにしても青い空を思い浮かべるような音楽だなぁ。そして、ホルンに出てくる旋律がわたしの涙腺を直接刺激する。まずいよまずい。泣いちゃうぢゃないか。それに、1楽章の真ん中の盛り上がりもなんか涙腺わしづかみにするのよね。第2楽章も明るく楽しいマーチで始まってそれがいろいろ変奏されて、作曲家の腕の良さを感じるの。構成感といいきちんと計算されている感じ。こんな音楽が日本で書かれていたのね。前に聴いた、安部幸明のときも思ったけど、日本人の敢えて純西洋音楽って知らないだけで意外と名曲あるんだわ。和風ばかり(あと武満)が日本の音楽じゃない。
演奏は、ステキでした。だって、過不足なくこの音楽の魅力を伝えてくれたから。こういう音楽に目を開かせてくれたのも嬉しい。発掘していろいろ聴かなきゃ。わたし、日本人なのに日本のクラシック音楽のこと全然知らない。これじゃダメ。

休憩後はショスティの交響曲。暗くうねうねした始まりからショスティの世界に引き込まれていく。湯浅さんの指揮も真摯にこの音楽に向き合って、音ではない音楽を伝えていたし、それに応えてるオーケストラもすごい。木管楽器のソロも、それぞれめちゃ上手いし、参りました。もうここまで来るとアマチュアだのプロだのと言ってられない。そして、超高速で疾走する暴れ馬のような第2楽章。モーツァルトが疾走する哀しみだとするとショスティは疾走する狂気。これが暴走にならなくて、びしびしと決まるからスリリングで、息を飲んで一緒に走ってゴールを切ったときは、ぷはーっと爽快感。思わずひとりのお客さんからブラヴォーが出たけど、分かるよ分かる。ここではブラヴォーこそ自然。そういう演奏だもの。
続く、ちょっとおどけたような、でも途中で痛烈に孤独になる、緩徐楽章のようなスケルツォのような楽章。ここでちょっと疵が。前の楽章をパーフェクトに乗り切った安堵感か、疲れからか、アンサンブルが乱れたり、音程がずれたり。だんだん修正してきて小さな疵でしかなかったんだけど、せっかくブラヴォーが出て間がちょっとあいたんだから、音合わせをして音楽をリセットする余裕があっても良かったかなと思いました。これでもかこれでもかと現れるショスティ自身とホルンのソロの愛人さんのシグニチュア音型の諧謔と孤独感といったら。ずんと身につまされる思いでした。絶望が音楽になってる。
一転、フィナーレでは孤独の後に妙に浮かれ出して、楽しげに終わる支離滅裂さ。これが20世紀の人間だよね。いろいろ引き裂かれてしまった自我。演奏の方は、全てを出し尽くした感じ。オーケストラの上手さももちろんだけど、それ以上に、ショスティの音楽をいろいろ考えさせられたのが良かったのです。会心の演奏だったと思います。大好きなショスティに新発見の橋本。わたしも満足感でいっぱい。


♪♪
新交響楽団の第230回演奏会は、7月26日、東京芸術劇場です。
[PR]

by zerbinetta | 2015-04-19 22:52 | アマチュア | Comments(0)

よりもどし パーヴ・ヤルヴィ/NHK交響楽団 ショスティ5   

2015年2月13日 @NHKホール

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

庄司沙也加(ヴァイオリン)
パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団


来シーズンから音楽監督に就任するパーヴォ・ヤルヴィさんのフライング音楽会2回目は、シベリウスの協奏曲とショスティ。これも楽しみに、でも苦痛の渋谷を通って、出かけてきました。もちろん自由席。さて今日はどうなることでしょう。

まずは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲。演奏される回数では、というかわたしが聴いた回数(選り好みほぼ無し)では、ヴァイオリン協奏曲の中で多分ダントツトップな感じ(2番目はブラームスかな)。わたしも大好き。
ソロは庄司さん。彼女を聴くのは2回目です。さわさわと空気が揺れて、ヴァイオリンが歌い出したとき、おや、となってしまいました。蒼穹を高く、すうっと雲を引くように鳥が滑っていくのがわたしのイメジなんですが、庄司さんのはもっとふくよか。ヴィブラートをかけて歌ってました。第2楽章の前半もそうだったんですけど、わたしの好みからいうと歌いすぎ。透きとおった演奏が好きなのですが、庄司さんはうっすらと色を塗り込めた感じなんです。ただ、切れのあるヴァイオリン、アグレッシヴな突っ込みは健在。彼女の思うところの音楽を何の障害もなく表現しきれるところは凄い。誤魔化しのない明確な音たち。圧巻だったのは第1楽章のカデンツァ。上下に駆け巡る速いスケール(音階)にバッハを感じました。ヴァイオリン・パートはバッハの無伴奏の光りが射しているんだけど、ここまで直接的にバッハを感じたのは初めてでした。好みでないとこもあったけど、ここまで演奏されたら納得。兄ビーとN響の伴奏もとっても良かったしね。この曲の伴奏って、すごく難しいと思うんですよ(ものすごく失敗した演奏も聴いたことある)。ヴァイオリンを圧倒してしまうことなく、でも燃えるところは燃えた積極的な演奏で素晴らしかった。こうでなきゃ。
庄司さんのアンコールは、バッハかと思ったら、ピチカートだけでかわいらしい、シベリウスの「水滴」。とてもセンスのある選曲。

ショスティの交響曲第5番は、前回のマーラーほどではないけど兄ビーの面白さが出た演奏。最初の厚い弦の切り方に強い意志を感じました。太い筆でとめる筆遣い。おお、これは。と、ニヤリとしたんだけど、残念なことに、金管楽器がいつものN響に戻っていたのが残念。オーケストラの意地なのか、曲がマーラーのようにはっちゃけてないので極端な表現を避けたのか、面白い演奏にこそ聴き甲斐を見いだしているわたしにはちょっと不満。兄ビーのショスティは、意外と中庸なんだな。2楽章のスケルツォもわりとストレイトフォワードで音楽としては成功してるんだけどね〜、わたし的にはあまり新しい発見はなかったの。全曲の白眉は弦が主体の3楽章。オーボエのソロの孤独感も素晴らしかったし。ひとりの人間の奥深くにあって誰にも届かない孤独のようなものを感じることができました。この前のマーラーのときもそうだったけど、オーボエのトップの人はひとり(じゃないけど)気を吐いていましたね〜ステキでした。第4楽章もほぼ予想通りの展開。’らしさ’を見せたのは、最後の弦楽器のラの刻みの強調。プログラムによるとこのラの叫びは、不倫相手(の愛称)と私(作曲家)を暗示しているらしいんだけど。それはともかく、ラの音を執拗に鳴らすのは好き。とは言え、前に聴いたガードナーさんの演奏がホールいっぱいラの音で満たしたような凄い演奏だったので、それからすればおとなしいかな。ということでおもしろ好きのわたしからみると足りないんだけど、音楽的にはとてもとても素晴らしい演奏でした。最後のラだって音楽的な要求だったし、暗喩とか背景とかそういうのあまり意味をなさない、純粋な交響曲として演奏されていたと思います。逆説的だけど、だからこそそこから、ショスティが描きたかった普遍的な苦悩や希望が聞こえてきたんでしょう。

来シーズンから始まる、兄ビーとN響の共同作業。お互いに一筋縄ではいかないことを予感させたけど、N響が殻を破って世界のトップレヴェルのオーケストラへの足がかりがつかめることを期待しちゃいます。井戸が埋められて蛙が本当の世界に飛び出すことができすように。兄ビーの音楽会にはなるべく参加しなくちゃね。
[PR]

by zerbinetta | 2015-02-13 22:37 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

わたしもバビヤリスト♡ オーケストラ・ダスビダーニャ第21回定期演奏会   

2014年2月11日 @すみだトリフォニーホール

ショスタコーヴィチ:「女ひとり」より抜粋、交響曲第13番「バビ・ヤール」

岸本力(バス)
長田雅人/コール・ダスビダーニャ、オーケストラ・ダスビダーニャ


最近、ショスタコーヴィチをタコ呼ばわりするのにちょっと心を痛めてるのだけど、代わりにショスティーと呼ぼうかなと思いつつ今日もやっぱりタコ。そのタコの交響曲の中で今一番大好きなのが第13番「バビ・ヤール」。タコの最高傑作のひとつとわたしは信じてるけど、内容が鬱々と暗いせいか、音楽が少し分かりづらいせいか、声を使うのでコストがかかるせいか、残念にもほとんど演奏されません。わたしも聴くの2回目です。東京でアマチュアのオーケストラが演奏するなんて思ってもいませんでした。でも、オーケストラ・ダスビダーニャは、タコに特化したオーケストラ。ウィキペディアにもなぜか詳しい記事があるくらい。裏世界で蠢くタコファンの本気を見た。わたしだってタコに魅了されたタコラー。嬉々として革命歌を歌いながらはせ参じましたよ。トリフォニーホールはそんな同好の士で溢れるというか、タコ13がメインで、サブはタコの名も知らぬ映画音楽、アマチュアオケで、チケット代が2000円もする(アマチュア・オーケストラでは高い方)というディスアドヴァンテージがありながらホールをいっぱいにするという東京の底力を感じました。タコラーもしくはバビヤリストすごい。

最初のは、タコが書いた映画音楽、「女ひとり」からいくつかの曲を抜粋したもの。大きなオーケストラ、バンダの金管楽器(オルガン席での吹奏)、それにテルミン!初めて聴く曲、初めてテルミン見た!
映画の内容は、分からないけど(プログラムには書いてあったような気がするけど読んでない)、ファンファーレから始まって、昔の無声映画のカクカク動くコミカルな感じになって、テルミンが入るところでは宇宙人が地球を征服にやってくるようなおどろおどろしさがあって、何だか支離滅裂。音楽を聴いてたら逆に映画を観たくなっちゃった。ライヴの演奏で映画をやれば(すごく贅沢で)面白いのに。
演奏は、このオーケストラ音が大きいですね(いいこと)。予想以上に上手かったです。金管楽器と打楽器がきんきんと鋭く耳に突き刺さってくるのは座った席のせいかな。音楽については初めて聴いた曲だし、映画に付けた音楽なので何とも言えません。でもタコはユーモアの人だなぁって思いました。

テルミン・アンコールは、タコのこれも映画音楽、「馬あぶ」からの音楽。テルミンってどこにも触れないで演奏するので、エア楽器みたいだなぁ。楽器弾いてるふりしてるみたい。わたしでもできそうって思っちゃうけど難しいんでしょうね。それにしても、この奇妙な世界初の電子楽器、日の目を見ないうちに歴史的な楽器として消えていくのでしょうか。それともマニアックな楽器として愛好者が増えるのかしら。タコがもう少し曲を書いてくれれば良かったのにね。

で、いよいよ「バビ・ヤール」。
大好きなので期待も無限大。でも、2回目だから少し落ち着いていたかな。初めてのときは興奮しすぎて、何だかよく分からないうちに終わっちゃったもの。
音楽が始まったとたんゾクゾクときちゃった。タコ愛に満ちたオーケストラはタコの音で弾いていたし、合唱が上手い。実は、チラシで合唱を歌う人を募集していたのを見て、わたしもバビ・ヤール歌いたい!って思わず応募しちゃう勢いだったけど、ちくしょーバスだけなのよね。せめてわたしがトライアングルの名手だったらオーケストラに無理にでも混ぜてもらうのに。ひとつ残念だったのは、独唱の岸本さんの声がこの曲を歌うには少し軽く、音量に乏しかったことかな。大きなホールで巨大なオーケストラと対峙するのでマイクを(上手に)使っても良いかなと思いました。でも、身振りをたっぷり使った表現意欲や思い入れは素晴らしく、音楽にあるものを全身全霊で表現していました。これはひとり岸本さんだけではなく、指揮者の長田さんやオーケストラ、合唱の全員がそうでした。愛の力って強い。
歌詞の日本語訳がプロジェクターで表示されたのも良かったです。改行や文字サイズのネット世代的なこだわりも、う〜ん、わたしは、ところどころの文字サイズを大きくして強調するのはやりすぎかなとも思いました。詩の力はそれだけで十分あるので。詩人が相田みつをさんのように書にもこだわっているのなら話は別ですけどね。実はわたし、音楽を聴くときには、歌の意味には無頓着な方なんです。この曲を聴くときも、詩の言葉についてはほとんど気にしていませんでした。これは、バビヤリスト失格ですね。すごく恥ずかしい。そんな当たり前のことが、今日、詩を見ながら聴いてやっと分かったなんて。

第1楽章「バビ・ヤール」は、これはもう烈しく心を突き動かされました。今日の演奏は、とても真摯で、真面目。その分、タコの持つユーモアが少し後ろに下がりましたが、それでもざらついた、心を削る音楽は素晴らしかった。特に、この第1楽章ですね。それに、詩の言葉が、今のわたしの日本に痛烈に突き刺さってきて、ユダヤ人を韓国朝鮮人や中国人に置き換えればまるで。わたしたちの国は、タコが批判したソヴィエトのようになっていくんでしょうか。タコの音楽は、20世紀にあって調性の枠を超えない、古びた音楽のようにいわれるけど、背後にある精神はまさに現代そのもの。先鋭的な現代芸術でないと誰が言えるでしょう。研ぎ澄ましたメスで死体を切り刻むよう。

「ユーモア」「商店にて」「恐怖」とさらに暗く鬱々した音楽が続くんだけど、今日の演奏はまったく隙無く、呼吸を重苦しくするほどにショスタコーヴィチ。ふっと日の差す瞬間があってもいいとも思うんだけど、指揮者もオーケストラも歌もざらざらとした世界に沈潜していく。なんか救いのない絶望感。ここまで徹底的に音楽を追い込んでいくなんて。さっき書いたように、わたしは皮肉な笑みを見せる、少し滑らかな部分がある方が好きだけど、ここまでやられると肯くしかない。ずううっと心を削られっぱなし。それが「ヒトラーを体験してしまった後の人類のための第九」なのかもしれませんね。でも、ヒトラーを体験してしまったのに、また同じようなことを繰り返そうとしている人類。記念碑はない。立てられることもないのだろうか。

ふうっと優しい瞬間が訪れる音楽に、いつもわたしは涙するのだけど、今日は、ふふふ、「お花畑」ではなく冷たい風が吹き抜けていた。ここで、世界が変わって、諦観というか、届かない希望への憧れというか、心が砕けちゃうんだけど、今日の演奏は、そこまで至らず殺伐とした思いを残したまま。涙が涸れるほどに圧倒的に絶望的な音楽のあと、ふうっと抜け出した魂のように自由になるというのは、望みすぎでしょう。わたしには、満足以上の衝撃的な音楽会でした。音楽も演奏もすごかった。

それにしても、ダスビダーニャってタコラーのわたしにとって素晴らしすぎるオーケストラだわ。音楽会は1年に1回しかないけれども毎年それを楽しみに待ってられそう。充実したプログラム冊子もタコ愛に満ちて読み応えがありそうで、タコラーにはずっしり。リポビタンDのDがドミトリのDだったことを知ってニタニタ。喜んでリポD飲んで興奮してみたり。オーケストラの名前、ダスビダーニャはロシア語で「またね〜」という意味。皆さんダスビダーニャ!来年は何を演るんだろう。今から楽しみ。
[PR]

by zerbinetta | 2014-02-11 22:44 | アマチュア | Comments(2)