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男前っ   

24.03.2011 @barbican hall

shchedrin: lithuanian saga
shostakovich: violin concerto no. 1
tchaikovsky: symphony no. 2

leonidas kavakos (vn)
valery gergiev / lso


今シーズンと来シーズンにわたるゲルギー、ロンドン・シンフォニーのチャイコフスキー交響曲シリーズ、第2弾は交響曲第2番。かなりマイナー。全曲を順番に演るのでしかたないんだけどね。

オーケストラの音合わせが終わったあと、ステージの隅にMD(米語だとCEO)のマクドウェルさんとゲルギー、カヴァコスさんが出ていらして、マクドウェルさんが、ロンドン・シンフォニーと日本との関係、今日のコンサートを日本の方々に捧げる旨の挨拶。ゲルギーとカヴァコスさんの表情を観てたら、心痛してくださってる気持ちがきりきりと伝わってきてじーんと来ました。今日も音楽会の前に泣かされるぅ。

始まりはシチェドリンさんのリトアニアン・サーガという作品。今日はタコとチャイコフスキーの2曲とばかり思っていたから、おまけが付いたみたいでお得な気分。リトアニアのナショナル・フィルハーモニック協会の委嘱で作曲されて、ゲルギーとロンドン・シンフォニーによって2年前に初演された曲。ロシアの聖歌を元にしたような旋律が聴かれて、とても分かりやすくて美しい音楽。シチェドリン好きのわたしには嬉しい。今シーズンはこの作曲家をゲルギーはたくさん採り上げてくれたけど、どれもステキな音楽ばかり。ゲルギーとシチェドリンさんの相性もとってもいいし、わたしも好きなんだな〜って再確認。シチェドリンさんは会場に来ていらしていて、ミーハーなわたしは奥様のマイヤ・プリセツカヤさんを一目見ようと探してしまいました。遠くからしか見えなかったけど、美しい人。あとで彼女が85歳と聞いてびっくり。美しい人は年を経ても美しいのね。

そして、タコこと、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲。有名な第1番。カヴァコスさんとゲルギーはどんな演奏をするのでしょうと思って聴き始めたら、もう最初っからノックダウン。とんでもなく凄い音楽が。まるで次元の違うタコ。ブラックホールに吸い込まれるように、二度と再び引き返せない世界に連れ込まれてしまう。カヴァコスさんは、魂の深い淵から音楽を紡ぎ出すようにヴァイオリンを弾いていく。リズムが切れるようにしっかりしていて、それでいて横の線も豊か。ものすごく余裕のある音作りで、これ以上の演奏はまず聴けないだろうと唸ったくらい。筋肉質で、こういう音は女性には出せないだろうな、だって筋肉の付き方が違うもの。わたしのアリーナが秋に日本でこの曲を弾く予定になってるのだけど、わたしは聴けないけど、今日の演奏を聴いたら、アリーナといえども太刀打ちできないなって素直に思いました。もちろん音楽は多様なアプローチがあるので、アリーナはアリーナのステキな演奏をするはずですけど、今日のカヴァコスさんのはタコの演奏のひとつの究極だと思います。特にパッサカリアの鋼のような何かを拒絶した無機質さ(それでいてどこかあたたかいのは雪の優しさ?)から長大なカデンツァに移行するあたりは、音楽の重力の大きさに身体ごとつぶされそう。そしてバックのゲルギーとロンドン・シンフォニーが輪をかけて良かった。なんか今日の音楽会、ゲルギーの集中力がいつにも増して(いつもものすごいんですけど)凄かった。曖昧なところが全くなくリズムが切れまくり。音が重いから、速いところはものすごいエネルギーが発散されてる。タコはこうでなくちゃ。演奏者にとっても一期一会の演奏だったように思えます。会場は割れんばかりの拍手と歓声(半分は便乗して騒いでる高校生)。アンコールにバッハのソナタ第2番からアンダンテ。下で等間隔でリズムを刻みながら上で旋律を弾くというとんでもなく難しい曲だと思うけど、リズムむちゃきちんと刻んでました。重くどっしりしたバッハ。今日の音楽会のテーマは重厚さです、って言っちゃえるかも。

チャイコフスキーの交響曲第2番は愛称、小ロシア。日本語だと、小日本。あっこれだとなんだか侮蔑されてるみたいだから、ちょっとスケールは違うけど、小京都とかそんな感じですかね。もしくは谷中銀座とか。なんてくだらないことを思っていたら、オーケストラのトゥッティ一発あと裸のホルンが民謡風のメロディを吹き始めてびっくり。なんて大胆な管弦楽法。そして第2楽章にいきなり行進曲。うひょひょ〜チャイコフスキーぶっ飛んでるよ〜。で、思い出したのは、シューベルトの交響曲第8番の第2楽章も見方によったら行進曲。音楽の冒頭も裸のホルン(ユニゾン)だし、シューベルトはグレート、チャイコフスキーはリトル。うふふ、なんたる符合。ははは、もちろん偶然のこじつけ。チャイコフスキーのはウクライナの民謡がいくつか引用されてるので、このニックネームが付いたのです。
ゲルギーのチャイコフスキーは、抒情的な要素を押しとどめて、音楽の勢いや構成を大きく構築する方向性。これは前回の交響曲第1番のときも感じました。ロンドン・シンフォニーもそれに応えてとっても立派に演奏していたんだけど、曲が曲だけに叙情性をもうちょっとブレンドしないと面白くないなっても思いました。なんかドライすぎてぱさついちゃうみたいな感じ。わがままかも知れないけどちょっぴり潤いが欲しかった。

今日もゲルギーとロンドン・シンフォニーは本当に凄い演奏をしていたのだけど、今日はお客さんが悪かったです。同じ曲目で2夜(録音のためだと思います)、しかもマイナーな曲だったのでお客さんが入らなかったのでしょう、わたしの近所には先生が引率してきた高校生のグループが何組か座って、クラシックの音楽会にあまり馴染みのない人が多かったのです。もちろん、そんな人たちも音楽のステキさに目覚めてくれたら嬉しいのだけど曲目がね。一般受けしないから。で、タコの協奏曲のときは楽章の合間に拍手が入ったり、チャイコフスキーも1回拍手が入ってゲルギーが手で制したかな、最後はフライング・ブラヴォーに寛容なわたしでもまゆを顰めたくなるタイミングで拍手をされた方が。ちょっと演奏者がかわいそうでした。わたしも集中するのに精一杯。こんな日もあります。
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by zerbinetta | 2011-03-24 10:30 | ロンドン交響楽団 | Comments(2)

マーラーの9番聴き比べ? 続きはまた明日   

02.03.2011 @barbican hall

shostakovich: cello concerto no. 2
mahler: symphony no. 9

mario brunello (vc)
valery gergiev / lso


久しぶりにゲルギー登場のロンドン・シンフォニー。今日は食傷気味のマーラーの交響曲第9番です(今年に入ってから聴くの3度目)。でもその前に、タコのチェロ協奏曲第2番。タコ好きを自称してる割に、この曲も聴くの初めて(前回もヴァイオリン協奏曲の第2番を聴くの初めてって言ってましたね)。ヴァイオリン協奏曲第2番に続いて、今日のチェロ協奏曲第2番も鬱々と暗い曲。3楽章からできていて真ん中のスケルツォを挟んで前後がゆっくり目の楽章。構成は次のマーラーの音楽に似てる。始まりからぶつぶつと呻くようにつぶやくようなチェロのグリッサンドを含んだタコらしいいささかひねくれた感じの旋律で、ああやっぱタコ好き〜って喜んでました。木管楽器が出てくるところで曲想が急転換するところも面白い。しみじみととっても精神的に深い曲。もともと交響曲第14番として着想されたそうです。あのバビヤールのあと、死者の歌の前ですね。なるほどと思わされます。ところが、なんと間抜けなことに、ちょっと疲れていたせいか集中力が途切れて、音楽は聞こえてるんだけど、聴いていない状態。こんな深い音楽に今のわたしでは太刀打ちできない。この曲はじっくり何回も何回もかみしめながら聴いてみたいと思いました。
チェロを弾いたのはブルネロさん。イタリア人です。プログラム・ノートによると1986年のチャイコフスキー・コンクールで優勝してその決勝ラウンドで、まだ無名のゲルギーと共演したそうです。ゲルギーとは深い因縁(?)で結ばれているのです。初めて聞く人だけど、とっても深い音色で渋い男性って感じでステキです。イタリア人だからちょい悪オヤジ系かなぁ。でも、こんな人にナンパされたら、一晩ならついて行っちゃうなぁ(あっ楽しい会話をするのですよ)。

こんな長い曲(40分くらい)を聴いたあとに、マーラーの交響曲。ゲルギーのプログラムって相変わらず重いです。
ゲルギーは、わたしが最も長くそしてたくさんの演奏を聴いてきた指揮者です。USに住んでいた頃には、メトの主席客演指揮者で毎年何公演かを振っていたし、手兵のマリインスキー・オペラやマリインスキー・オーケストラとよく来米公演に来ていました。そういえば我らがナショナル・シンフォニーにも客演したことも。そして、今、ロンドン・シンフォニーの主席指揮者としてたくさん聴いています。US時代にたくさん聴いた指揮者は、ヨーロッパにはあまり来ないし、今ロンドンでたくさん聴いている指揮者はUSではあまり聴いたことがありませんでした。アメリカとヨーロッパ、遠い。

だからゲルギーの音楽はよく聴いていて親しんでるはずなのに、ゲルギーのマーラーはわたしには、どこかポイントがはっきりしないのです。昔のマーラー指揮者、バーンスタインやテンシュテットのようなマーラーの音楽にのめり込んだような演奏ではないし、かといってブーレーズさんやサロネンさんのような客観的分析型でもない。アバドさんやMTTのような楽譜をそのまま音にしたような演奏でもないし、最近聴いたドゥダメルさんやネルソンスさんのように新しいマーラーを聴かせてくれるわけでもない。なんかどんなカテゴリーにも入らないんですね。音楽は充実してるんです。それにゲルギーは自信を持って演奏している。んだけど、わたしの手からスルリと抜けていってしまう。象徴的なのは第1楽章。ほとんど溜めを取らない演奏で、わたしの取り付く島がないんです。さっさと歩いて行っちゃう彼をちょこまかちょこまかと追っかけていく感じ。

ゲルギーはマーラーのこの音楽を白鳥の歌として演奏していない気がする。プログラムの解説にも書いてあったけど、マーラーは晩年、言われる程には死を意識していない。確か、ラグランジュの本だと思うけど、心臓に欠陥があると診断されたあとでも、健康に気をつかって運動を自粛したということはなく、自転車や水泳は欠かさなかったようだし、第一、ニューヨーク・フィルの最初のシーズンは46回も指揮してる。マーラーは交響曲第9番の作曲当時、エネルギッシュでぴんぴんしていたと見なすのが妥当だと思うんです。それでもこの音楽には離別の匂いがするんだけど、それは生への分かれというより、若き日への別れ、豊穣な19世紀への別れではないでしょうか。と書きつつ、ゲルギーの音楽には別れ、なんてキーワードがちっとも感じられないんです。
ゲルギーこの曲を第8番のあと第10番、未完に終わったけど、の前に書かれた音楽として、たまたま、作曲者が死んでこの曲が完成された最後の作品となったけど、という音楽として演奏しているのではないかって、感じました。そう、明日のプログラムは、なんと、この曲のあとに交響曲第10番のアダージョが演奏されるのです。

明日も聴きに行きます。なのでマーラーの続きはまた明日。明日はうまく聴けるかな。
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by zerbinetta | 2011-03-02 09:44 | ロンドン交響楽団 | Comments(2)

甘いケーキが食べたいときもある   

23.01.2011 @barbican hall

shostakovich: violin concerto no. 2
tchaikovsky: symphony no. 1

sergey khachatryan (vn),
valery gergiev / lso


去年の11月以来お久しぶりのゲルギーです。2シーズンにかけてのチャイコフスキーの全交響曲演奏シリーズが始まりました。今シーズンは1番から3番まで順番に、珍しく2回ずつの音楽会が予定されていて録音されます。今日は第1番の2回目の日です。カップリングされたのはタコのヴァイオリン協奏曲第2番。えっ?第2番? タコ好きなのに知らない。あれれ、CDは持ってるんだけどなぁ、あまり聴いたことがない。というマイナーな曲なのです。何故マイナーかというと、この曲結構鬱々なんですね。最終楽章は、いつものタコらしいリズムの速い音楽なんだけど、でも控え目。そしてあとは裡へ裡へと沈み込んでいく。それにしてもこの曲が、オイストラフの60歳の誕生日プレゼントとして書かれたなんて。オイストラフはさぞかし鬱々としたお誕生日を迎えたでしょう。でも実際はショスタコーヴィチは勘違いして1年早くこの曲を書いてしまい、本当のお誕生日には、ピアノとヴァイオリンのためのソナタをプレゼントしたそう。
若いヴァイオリニスト、おっ! アリーナと同い年、のセルゲイ・ハチャトリアンさん。しっかりと鬱々と裡にこもっていきます。ハチャトリアンさんを聴くのは2回目。大物の片鱗を見せるヴァイオリニストですが、今日もそう。音色がたっぷりとしていてとってもきれい(でも派手やかというわけではなくシックで落ち着いている)。やっぱり上手い。それにしても若いのに(偏見??)、よくこんなに鬱々弾けるなぁ。第1楽章のカデンツァもひたすら内面に落ち込んでいくようだし。井戸を掘るような音楽。遠くに小さな円い空しか見えない井戸の底。ごめんなさい。最近村上春樹さんの本読みました。

チャイコフスキーの冬の日の幻想。ゲルギーの音楽って、甘ったるいロマンティシズムとは一線を画してるように感じます。冬の日の幻想ってもっと軽い夢見るような音楽だと思っていたのに、こんなふうにリアリスティックに演奏されると、何か違うものを聴いたような気がします。繰り返し出てくるロシアの民謡調の甘く切ない旋律も力強さを感じて、ロシアの広大な大地の土のにおいを感じました。甘さよりも厳しさみたいな。好みの問題もあるでしょうけど、わたしはもちょっと甘い方が好きです。ケーキ好きだし。
そうそう、今日はオーボエがおふたり、見かけない人が座っていました。メンバー表を見ると、やっぱりロンドン・シンフォニーの人ではないですね。ファーストを吹いたのは、nora cismondiさん。調べてみたらフランス国立管弦楽団の主席の方なんですね。めっちゃ上手かったです。ロンドン・シンフォニーの主席の人も上手いんですけどっ。
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by zerbinetta | 2011-01-23 10:26 | ロンドン交響楽団 | Comments(0)

ポゴレリチ事件   

25.11.2010 @royal festival hall

liadov: the enchanted lake
tchaikovsky: piano concerto no. 1
shostakovich: symphony no. 5

ivo pogorelich (pf),
tugan sokhiev / po


いまだに混乱しています。支離滅裂な文章(いつもだけど)お許しください。

ソヒエフさん聴きたさにとったチケットでした。で、協奏曲があって、ピアニストがポゴレリチさんでした。名前は知っています。ショパン・コンクールで有名な事件を引き起こしたことも知っています。なんだか変わった演奏をする人だということは、友達に聞きました。どんな変わった演奏なんだろうと思って、普通の演奏を知らなきゃ始まらないということでCDで予習したりもしました(珍しいっ!)。 
ステージに現れたポゴレリチさんは、取り立てて変わった人には見えませんでした。でも、有名なオーケストラの前奏のあとにフォルテッシモの和音のリズムがピアノに出た瞬間からびっくりしてしまいました。場違いな強音。一音一音が重くねっとりと鍵盤にまとわりつく。オーケストラを完全に無視した独善的な演奏。テンポもめちゃくちゃ。そして、多すぎるミス・タッチ。わたしはミス・タッチや楽器奏者の小さなミスはあんまり気にしない方ですが、ここまで酷いと気になります。ミス・タッチを恐れず強い表現をしてると反論されるかもしれないけど、わたしには不必要なミス・タッチに聞こえました。表現したいことに技術がついて行けてないのはプロフェッショナルとして許されないことだと思います。もしかしたら彼は、わざと予測不可能な音を入れているのかもしれませんが。主部の速いところにやっと入って、って、ここまででぐったり疲れちゃったもん。何が起こるか分からない緊張感。普段はアンサンブルの上手いフィルハーモニアが合わせるだけでこんなに苦労しているのを初めてみました。主部の速いところに入って、ってずいぶんと遅い。なんだか指が回ってない感じ。これもわざとなのでしょうか。オーケストラとピアノは相変わらずかみ合わず。指揮台に立ってるソヒエフさんは針のむしろでしょうね。ピアノになんとか合わせるだけで精一杯で音楽を作るところまでいってない。リハーサルでだいたいのテンポ設定までは合わせていることは、ピアノが入る前のオーケストラのテンポ設定で分かります。でも、それ以上のことを勝手にやってくる。指揮者も小節の頭の音が弾かれてから次の音が弾かれるまでテンポが分からない。ポゴレリチさんは自分のことだけで他の人と合わせることなんて頭にないのでしょう。こんなの合奏する音楽じゃない。
動揺しながら、わたしはポゴレリチさんの美質を見つける試みをしてみました。オーケストラが消えてピアノのソロの部分では、ポゴレリチさんはうんとゆっくりとピアノを弾きました。時が止まるように。その音楽は悲しいほどに美しいのかもしれないとも感じられるような気がします。でも、フォルテッシモの部分があまりにわたしを壊してしまったので、ちゃんとは聴けません。音楽を聴くことにこんなにも嫌悪感を感じたのは初めてです。わたしにはポゴレリチさんが絶望を持って音楽を破壊しているようにしか思えませんでした。音楽の廃墟。音楽を信じることのできない音楽家が自暴自棄になって弾いた音楽。ならば弾かなきゃいいのに。
確かに、ポゴレリチさんは音楽にある絶望を表現していたと思います。本当に絶望的だった。悲しくなった。ポゴレリチさんは自分自身に絶望しながらピアノを弾いていたように思いました。もっと良く弾きたいのに弾けない。唸るような息を出しながら鍵盤を叩いてた。自分の出す音に納得していないようにも見えた。途中で放り投げて帰ってしまうんじゃないかとさえ思った。こんなに悲しい音楽をする人を初めて見た。もちろん悲しい音楽なんてたくさんあるし、悲しい演奏だってたくさんある。でも死に至る病で音楽を塗りつぶすのは初めてだ。
目の前にちゃぶ台があったらひっくり返したかった(実は一度やってみたい)。もし、席が端っこだったら、席を立っていたでしょう。30分間が苦痛でした。胃の腑に鉛を入れられて重い感じ。心をヤスリで削られてささくれ立たせられる感じ。

わたしは、作曲家の意思は尊重すべきとは思いますが、それは絶対ではなく、演奏家にかなりの自由が許されると思っています。再現芸術である音楽は、作曲家と演奏家が芸術家として対等な立場にあると思っているからです。何が何でも楽譜通りに弾かなければならないとは考えていません。でも、それは自分勝手に弾いて良いということではありません。正しいということはあると思うんです。ポゴレリチさんは今回、チャイコフスキーの協奏曲から絶望を表現していた。何に絶望しているのかよく分からないけど、音楽そのものに対して絶望しているのかもしれない。確かに、ヴィルトゥオーゾ協奏曲のようでもあるこの音楽の底にもひとかけらの絶望はあるのかもしれない。チャイコフスキーは常に心の中に絶望を秘めていたのかもしれない。だからそれを取りだして表現してみた、というかもしれない。でもそれは正しい? そんな小さな絶望も希望も誰でも持っている。気持ちが絶望に傾くこともあれば希望に満ちることもある。
例えば、多分、世界で最も力強い希望の書である新約聖書の中には、イエス・キリストの言葉として「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、究極の絶望の言葉があります。でも、この言葉だけを取りだして聖書は絶望の書と主張するのは間違いでしょう。聖書の全体を通して聖書を語らなくては間違いになってしまうのですから。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というイエスの言葉もあります。じゃあクリスチャンは大いに不正を働こうというのも間違いでしょう。チャイコフスキーのピアノ協奏曲に含まれているかもしれない小さな絶望のかけらを曲に敷衍して演奏してしまうのは、間違いだと思うんです。もうひとつ、わたしは、演奏に戸惑って(というか腹が立って)、家に帰ってからネットで過去のポゴレリチさんの演奏に関する感想を読んでみたのですが、他の曲に対してもポゴレリチさんが同じような姿勢を取っているらしいことを知りました(他の人の感想なので確信は持てないでいるけど何人かが今日のわたしと同じような気持ちを例えばショパンの音楽から感じています)。もしそうだとすれば、彼はどの音楽を弾いても同じようなことを表現していることになります。これって、おかしくない? 違う音楽には違う感情が込められてると思うのです。ポゴレリチさんの演奏は、例えば白いものも薄ピンクなものも、青と白のしましまもようなものも全部黒く塗りつぶしてしまうような、全部自分の主張で塗りつぶしてしまうような演奏。これ正しい?

わたし、正しいこと、と言い過ぎでしょうか。わたしだって正しいことが今ではそんなに単純なことではないことも知っています。ひとつの正しいことがいつも正しいとか限らないことも。でも、それでも正しいことはあると信じたいのです。言葉を換えていえば希望でしょうか。でなければ、何でもありの絶望のカオスになってしまう。今日の演奏のように。でも、好意的に解釈すれば、彼は全く異なるものを見せてくれたのかもしれません。悪魔的なもの、ダークサイド。わたしがそれにもの凄く嫌悪感を示すのは、わたしの裡にあるそれを見せつけられたからかもしれません。普段できるだけ封印しているもの、パンドラの箱をこじ開けられそうになったからかもしれません。聴いてはいけないものを聴いた感じです。わたしの裡にある黒いどろどろとした負の感情は絶対に封印しておきたい。でなければ、わたしは簡単に悪のサイドに行ってしまう。なんだかダース・ベイダーになったアナキンみたい。

確かにポゴレリチさんの演奏はブラック・ホールのような引力があったかもしれません。2度と再び聴きたくないかというと、リサイタルだったら、安ければ、怖いもの聴きたさで聴きに行ってもいいかも、いや行くべきではないと逡巡すると思うし。わたしが最後にとっても違和感をもったのは、拍手の大きさ。この演奏を拒否したわたしは拍手しなかったけど、たくさんの人が拍手している。あの絶望を受け入れることができたのかしら。それとも礼儀だから。何も分からないから。わたしの勝手な気持ちかもしれないけど、絶望を受け入れられる人って、あまりたくさんいて欲しくない。わたしだって自分のダークサイドなんて見たくない。

もうこの演奏に心をかき乱されてしまって他のことは覚えてないんのです。もちろん、ポゴレリチ前のリャードフの音楽は印象派の音楽を彷彿させるステキに演奏されたし、ポゴレリチ後のショスタコーヴィチの交響曲はあんなことがあったにもかかわらずきちんと演奏されたと思います。でも、わたしには音楽を聴く力はもうなかった。音はなっていてもわたしの上を素通りしていく。音楽を聴きたくないって思ったのは多分初めて。昨日近くの席に座ってたカップルが、今日も隣の席に座って、話してみたら、タコが好きでタコのある音楽会ばかりチケット取ってるのよ〜って、タコ好きのわたしもびっくり嬉しい。やっぱ女子はタコよね〜って鼻息も荒く、今度タコやるときまた会えるといいね〜なんて言ってたのが唯一の救い。
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by zerbinetta | 2010-11-25 07:10 | フィルハーモニア | Comments(6)

拳をおろせ   

24.11.2010 @royal festival hall

stravinsky: scherzo fantastique
prokofiev: piano concerto no. 3
shostakovich: symphony no. 11 'the year 1905'

oleg marshev (pf),
vasily petrenko / lpo


ペトレンコさんと言ったらわたしは初めて聴く指揮者さんですが、実は一部のタコファンから絶大な支持を集めていて(大袈裟?)、タコの交響曲サイクルのCDが大変好評だそう。ということをずいぶんと前から知っていたので、ロンドン・フィルの2010/11年シーズンが発表されたとき、彼の名前を見つけて、そしてタコ11の文字を見て小躍りしたのです。タコ11は実は高校生の頃、初めて聴いたときからずうっと好きだったのです。今思い出したのですが、この曲を元に小説まがいのものを書いて、先生に褒められたりもしました。そして、この音楽を聴くと、熱い血がカラダにたぎって最後は拳を振り上げてしまうのです。そういえばあの頃のわたしは、共産主義に共鳴していましたっけ。というか今でも、資本主義または自由経済主義は立ちゆかなくなっていくと思っています。なあんてことは音楽には関係ありませんね。

ペトレンコさんの第一印象は、髪の毛七三でした。なにそれって感じです。でもだって、指揮者さんって、変わったおしゃれな髪型の人多いじゃない。金髪のきれいな髪がきっちり分けられていたのはわたし的にはちょっとインパクトだったんです。そして若い。今日初めて知ったのですが、彼34歳なんですね。びっくり。

最初の曲は、ストラヴィンスキーの初期の作品、幻想的スケルツォ。ふわふわと浮遊感のある軽い音楽と演奏で、今日の肩慣らしと言うところでしょうか。でも、ふわりと羽のような音をオーケストラから上手に引き出していて、とっても良かったです。そして。ペトレンコさんの動きはとってもかわいかったです。最初、クルミ割り人形(魔法が解けて王子様の姿になった方)みたいって思っちゃいました。首を振って表情を表すところなんてそんな感じ。でも、もっと似てたのはミスター・ビーン。手の動きがなんだかミスター・ビーンの指揮姿に似てる。似てる似てる絶対似てる。ひとりほくそ笑むわたし。

プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は、オレグ・マルシェフさんのソロで。この人も初耳のピアニストです。強烈な個性で印象に残るピアニストではない感じがしましたが、きっちりと弾いてきます。この人指が長い。プロフィールによると、ロシアの4大作曲家、チャイコフスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチの協奏曲を全部録音した最初の人だそうです。ロシアものには自信があるんですね。今日も安定していましたから。でも、わたしが面白いと感じたのはオーケストラ。ペトレンコさんのオーケストラはアイディア満載で、いろんな音が聞こえてきました。わりとよく聴く曲なのに、こんな音あったのってたくさんの発見。そして、打楽器の叩かせ方がいいっ。これはタコに期待できる。

タコの交響曲第11番は、ミスター・ビーン封印で完全にシリアスモード。さっきまでの柔らかな表情を捨てて真剣な顔つきで指揮していきます。始まりの凍てつく冬の広場は、でも、氷点下20度とかじゃなくて、マイナス4度くらい。タコって、わりと暖色系の音を混ぜてるんですね。そして美しい。緊張感の中にも艶々とした美しい音楽。ペトレンコさんは、この音楽を映画としてではなく、音楽的に磨き抜いて演奏している。白黒の記録映画としてではなく、それを新たにリマスタリングしてヴィヴィッドな映像としてよみがえらせるのでもなく(だってそんなことしても読み取れる情報量には大きな差はないし)、音楽として交響曲として演奏している。音楽の心に直接訴える強さ、エモーショナルな昂揚を信じて。そしてそれはとっても成功していたように思います。第2楽章の市民の行進と、それに発砲する皇帝軍の血なまぐさいシーンも、映像が目に浮かぶと言うより、音楽が耳からではなく心に直接入ってくるよう。盛り上がるところは金管楽器や打楽器をはじめ、十分に強奏されるのだけど、決して音の美しさを捨てることなく、音楽としてまとまってる。全体的にはむしろ淡々と進む音楽は、それでいてとっても悲しい。第3楽章のヴィオラのメロディも素っ気ないほどの弾き方で、かえって悲しみが深くなる。この楽章でペトレンコさんは泣いていたように思います。何回か手で目を拭っていました。もちろんわたしだって。
タコの音楽って謎の引用が多くて、特に1905年という副題(ロシア皇帝軍が民衆に向かって銃撃する血の日曜日事件があった年です。これを機にロシアは革命に突き進みました)を持つこの交響曲は、民衆の歌っていた歌とか革命歌とか、レーニンの愛唱曲とかがたくさん引用されていて音楽に意味づけを行っていると、解説書には書かれています。各楽章に情景描写を思い起こさせる副題も付いてます。革命に向けて立ち上がる民衆の力が最後には示されていて、ソヴィエトの意にかなった音楽なのでしょう。それはそうなんでしょう。表面的には。でも、今日の演奏にはそれを感じることはできなかった。引用とか意味とか、全部外したところに現れる音楽の本質が読み取れたんです。この曲が決して、1905年の悲劇的な出来事について書かれた音楽ではないこと。発砲する兵士は、皇帝軍だけじゃない、当時のソヴィエト政府でもあるし、現在だって、悲しいけど同じことがたくさん繰り返されてる。そんな普遍的な悲劇、わたしたちも加害者に簡単になりうる悲劇(視野を広げれば暴力は戦争だけではなく、経済的な暴力もあるし、個人の心の中にだって他者に対する暴力は潜んでる)をこの音楽は描いているんだって素直に思えました。記録的な映像では具体的すぎて感じることが難しい奥に潜む普遍的なものをいともあっさり音楽は見せてくれます。そういう演奏でした。
引用からタコが音楽に隠した意味を読み取るのは知的興奮を覚えることも事実だし、そこから多くを得られるのも事実でしょう。わたしもいろいろ穿った捉え方をしたりしています。でも、タコが交響曲第5番で引用したビゼーのカルメンの有名なハバネラのメロディ。あの歌の歌詞から読み取れる意味を推察したりしていますが、わたしは、実は、引用なんて意味ないよ、なんてタコの皮肉も聞こえるのです。だって、ハバネラってビゼーがカルメンの中に間違えて借用した音楽なんだもん。スペインの雰囲気を出すのに引用したのはキューバの音楽。引用を詮索しても何もないことだってあるとタコは言ってるのかもしれません(メタな感じですが)。
最後の楽章は、ちっとも勝利ではありませんでした。少なくともわたしはここから市民の未来と勝利を感じることはできませんでした。広場の朝の回帰は歴史が繰り返すことを象徴してると感じたし、音色は常に暗く重い。特に打楽器が打ち鳴らされて静かにコーダが始まってからは、もう全く勝利感なし。そして最後、鐘を含む打楽器が打ち鳴らされてそのまま音を止めずに音が減衰していくフェルマータ。音楽は静かに終わったのです。拳は振り上げられなかった。わたしが今まで聴いてきた(そう感じてきた)音楽は間違いだったんです。現実はもっと複雑で深刻。正しい勝利なんてない。ぞっとして静かに音楽が終わるのを待ちました。残念ながらオーケストラのトゥッティの大音響が切れた直後に拍手する人もいました。これはでもしょうがないですよね。そういう音楽だと思ってた人も(わたしを含めて)多いと思うし。でもその拍手は会場には広がりませんでした。多くの人は指揮者が手を下ろすのを待っていただけかもしれないけど、そこに音楽の意味を感じ取った人もたくさんいたと信じて思いたい。打楽器の音が切れたあと会場から大きな拍手が始まりました。ほんとは、指揮者がまだ音楽の中にいたのでもうちょっと待ってもという気持ちもありましたが。わたしはしばらく拍手できませんでした。日本で発売されたペトレンコさんのこの曲のCDの帯には「この曲にブラヴォーは似合わない」のコピーがあったそうです。まさにその通りの演奏でした。このキャッチ・コピーほんとに秀逸ですね。カーテンコールに呼び出されたときもペトレンコさんはまだ音楽の中に沈んでいました。なので写真はありません。そういう気持ちにはなれなかったので。ただ、最後に出てこられたときはやっとにこやかな顔をされて動きが剽軽だったです。そのときわたしもほっと嬉しくなりました。良い音楽会を共感できた気持ちです。ペトレンコさん、ステキです。ロンドンにはまた来てくれるのでしょうか。それともわたしがリヴァプールまで追いかけていこうかしら。
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by zerbinetta | 2010-11-24 22:08 | ロンドン・フィルハーモニック | Comments(6)

解き放たれる喜び   

arvo pärt: cantus in memoriam benjamin britten
britten: four sea interludes from peter grimes
huw watkins: violin concerto
shostakovich: symphony no. 5
alina ibragimova (vn)
edward gardner / bbcso @royal albert hall


感動してしまいました。タコ5で。ホールからの帰り道、泣きながらどうしてこんなにも感動してしまったんだろう? そんなハズないのになぜ? って考えながら、音楽を思い出す度にまた新しい涙がこぼれてきて。チューブに乗ってもまだ、涙が頬を伝わる。

タコの話はまた後で。わたしはこの音楽会、アリーナ(・イブラギモヴァさん)を聴きに来たのです。ご存じの通り、わたしが今一番応援しているヴァイオリニスト。今日はアリーナのために書かれた新作の協奏曲の初演なんです。でも、その話も後にして、音楽会は、ペルトの「ベンジャミン・ブリテンの思い出に」という、短いけどとっても美しい曲の追悼の鐘から始まりました。わたしは一時期、ペルトにはまったことがあって、この曲やフラトレス、タブラ・ラサとか大好きなんだけど、目の前で演奏されてるのを聴くと、心から感動できます。遠くで聞こえる鐘、重なり合う弦楽器の響き。そして重なり合う思い出。幸いわたしは今、身近に追悼する方がいないので、直接に思い浮かべる顔はないのだけど、でも、大事な人を亡くしたときの気持ちが思い出されて、純粋に悲しむことができた。音楽がその悲しみを浄化してくれる。
引き続き、短い拍手の後に、ブリテンの「4つの海の間奏曲」。この曲もう何回か聴きましたがシンプルな美しい響きのする音楽ですね〜。そしてこの曲でも鐘の響きが聞こえてきて、また何か厳粛な気持ちにさせられたのです。

そしていよいよ、アリーナがソロを弾くヴァイオリン協奏曲。5年くらい前に作曲者のヒュー・ワトキンスさんが作った独奏ヴァイオリンのためのパルティータをアリーナが初演したときに、すぐに協奏曲の話が持ち上がったとか。自分のために協奏曲を書いてもらえるなんて演奏家冥利に尽きますよね。さてどんな音楽になるのでしょう。アリーナは今日は黒のロングドレス。すらっと背が高く見えます。音楽は古典的な3楽章からできていて、始まりの速い楽章は、ヴァイオリンが細かい音符をアグレッシヴに弾いてオーケストラと対峙します。オーケストラは、決して独奏を邪魔することがないように書かれていて、作曲者が演奏家(ピアニスト)でもあることが生きているのですね。技術的にはものすごく難しいと思うんだけど、でも決して楽器に無茶をさせる書き方をしてはおらず、演奏者が気持ちよく弾けるように書かれていると思いました。それにしてもアリーナ、細かい音符たちを全身を使ってダンスするように弾いていくにびっくり。ベートーヴェンのクロイツェルはアグレッシヴだったけど、わりと静かにそよぐように弾く人だなって印象だったけど、こんなに身体を動かすなんてってちょっぴり印象が変わりました。でも、全く無駄な動きがなくって、あの身体の使い方から音楽が迸っていました。ワトキンスさんの作品はとってもステキで、また聴いてみたいと思いました。そしてアリーナの音楽も。ものすごく難しいと思うのに、全く破綻なく、自在にとっても音楽的に弾きこなしたのはやっぱり凄い。アリーナの演奏からはいつも音楽が聞こえるのです。こう書くと何をと思われるかもしれないけど、技術的に無茶なレヴェルを要求されるし、耳に馴染みのない分かりづらい音楽を聴いてそこに音楽を感じるのってなかなかないのです。凄いとか、かっこいいとか、響きがきれいとか、音楽の手前で止まってしまうことが多いのです。アリーナの演奏には現代の曲を聴いてもベートーヴェンで感じるような音楽が聞こえてくるのです。初めてリゲティの協奏曲を聴いたときを思い出しました。そういえばあのときもガーディナーさんとBBCシンフォニーでしたね。
演奏の後、ワトキンスさんもステージの上に呼び出されて、アリーナとワトキンスさんがハグしたときのアリーナの幸せそうなステキな笑顔ったら。残念ながら写真に撮ることはできなかったけど、あの笑顔は目に焼き付いています。アンコールは、彼女のアナウンスで、同じ作曲家のパルティータから最後の楽章、アレグロモルト。これまたステキな音楽と演奏。しばらくの間、これらの曲はアリーナが育てていくことになると思うんだけど(前にヒラリーがおっしゃってたんだけど、自分に献呈された作品はしばらく独占して演奏する権利が与えられるらしいの。ヒラリーはその間に曲を育てていくと語っていました)、ゆくゆくはいろんな人が演奏してヴァイオリニストのレパートリーになって欲しいなって思いました。そして、アリーナには是非、録音して欲しい。会場からはまたしても大きな拍手。わたしのまわりの席の人たちは口々にアリーナを賞賛していました。わたしのことのようになぜか嬉しい。

作曲者に拍手を送るアリーナ
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ワトキンスさんとアリーナはなんか親密そう
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前にリゲティを聴いたときは、もうそれだけで感激しちゃって、その後に演奏された音楽は正直もうどうでもよくなっちゃったんです。今日もそんな気持ち。第一この後なんの曲が演奏されるのかプログラムを見るまで知らなかったのですから。あっタコだ。タコ好き失格ですね。
でも、ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、もう何回か聴いたことあるし、ポピュラーだし、まあ名曲ではあるけれどもクラヲタ的には物足りない、通俗名曲なんて言われちゃう(でもこれってほんと失礼な言い方)くらいな感じで、アリーナの演奏も聴いたしもうどうでもよくなっちゃってるんです。ガーディナーさんとBBCシンフォニーの演奏もきっとたいしたことないだろうと。そして音楽が始まったとき、あまりにも無為に流れるのにああやっぱりねって思ったのでした。激しく切り立つように重い出だしが、羊羹を切るような重さを感じさせず、まるですうっとういろうにナイフを入れたときのように、あっさりと力みなく通っていく。確かに透明な響きは美しいんだけど、音楽の厳粛さはあまり感じないなぁって思ったのです。音楽は終始とっても美しく余裕を持って鳴らされていきます。タコは、社会主義体制の中で悲痛な苦労をした人だよ、音楽と政治の狭間で翻弄されて、音楽の中に悲痛な叫びや悲しいくらいの諧謔、皮肉、秘密を盛り込んだ人だよ。きれいなだけの音楽を書いたんじゃないよ。でも、これは前にオルソップさんの演奏を聴いたときにも抱いた感想。音楽を聴いてるさなかそのことを思い出さなかったのは、ガーディナーさんの演奏が、そのことを忘れさせるように徹底して初めて聴いた音楽のように演奏していたからでしょう。こんなタコでもタコはタコ。ついつい耳を澄ませて聴いているうち音楽が身体に染み込んでくるのでした。
そして第2楽章のスケルツォもなんとてきぱきとリズミカルでチャーミングなこと。スタッカート気味の音楽が跳ねてる。こんな元気に明るいスケルツォでいいのと思いつつ、とっても面白く新鮮でステキに感じたんです。純粋な音楽の力。各セクションのトップのソロの人たちがみんなとっても上手くて、全曲を通して特にフルートが印象的だったんだけど、BBCシンフォニーやるなあって感じでした。
第3楽章は一転ゆっくり目のテンポ。透明な音色の演奏が心を揺さぶります。なんと哀しい音楽なんでしょう。涙がほろり。チェロのユニゾンのなんと悲しい音楽。音を突き放すように弾き切る弾き方のなんて力強い表現力なんでしょう。でも、この悲しさはひねくれた悲しさなんかじゃない。真っ直ぐな純真な悲しみ。体制とか政治とかそんな限定的な要因の悲しさじゃなくてわたしたちの心の中に持っている普遍的な悲しみ。だからこそ、だからこそ思いっきり音楽に共鳴してしまう。そしてフィナーレは遅いテンポ。でも重苦しくなくむしろ爽やか。音楽は晴れ晴れとしている。中間部では普通に速くなったけど、音楽が盛り上がって、急に静寂が訪れてホルンがステキなメロディを奏でるところからまた遅め。そしてそのままコーダでも遅いテンポ。愚直なまでにインテンポ。うわっこのままいくの?って思ってしまった。そして最後、金管楽器のファンファーレよりも、ティンパニの連打よりも、主役は執拗に同じ音を繰り返す高音の弦楽器。これがとっても効果的。青空のように澄み切って。ここに来たとき、あっ第一楽章の始まりの音楽が帰ってきたと思いました。始まりのあの演奏が、しっかり意味を持って思い出されました。なんとステキな音楽設計。歓喜?強制された歓喜。そんなことどうだっていいじゃん。最後の大太鼓も覆い被さることなく、ティンパニと一緒に思いっきり行進していました。
音楽が終わって、ああわたしもショスタコーヴィチも解き放されたんだって感じました。いろいろ頭の中に持っていたわたしのしがらみ。ショスタコーヴィチにまつわりつく政治的、歴史的なしがらみ。それら全てから音楽が解き放されて天高く解放されていくようです。それがわたしの涙の原因ではないかしら。解放された喜び。ついに新しい時代が来たみたいです。ショスタコーヴィチの音楽も純粋に音楽的な力のみに頼って演奏されることがこれからますます多くなることでしょう。そこで初めてショスタコーヴィチが楽譜に書いた音楽の力が音楽のみの言葉で聞こえてくるんだと思います。それにしても、、、わたしまでもが解放されたなんて。わたしはまだまだ音楽を純粋に聴き取る力が足りなかったんだ、ということに気がつかされて、恥じ入るとともにやっぱり嬉しいっ。すがすがしいっ。

トランペットのサイモン・コックスさんはゲスト・プリンシパル。1000人のとき最初の方でとちって眉毛をあげてしまった〜っていう表情をしたのがいい味出していたので、今日はとちってないけど記念にぱちり
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ガーディナーさんもまだ30代 やんちゃ坊主風
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by zerbinetta | 2010-08-17 08:36 | BBCシンフォニー | Comments(2)

音楽を子宮で感じる   

tchaikovsky: serenade for strings
rachmaninov: rhapsody on a theme of paganini
shostakovich: symphony no. 6
nikolai lugansky (pf), alexander lazarev / po @royal festival hall


なんてタイトル、一度言ってみたかったのよ。ほらよく、女って何かを子宮で感じるとか言うじゃない。ちょっとかっこいいっぽいでしょ。だから真似してさ。って、ぎゃーーー間違ったぁ。子宮で考えるが常套句。子宮で感じるをググってみたら、もうエッチ関係しか出てこないっ。それに子宮で考えるをググってみたら、これもあまりよい意味には捉えられてないのね。何事も考えないわたしは知らなかった〜。まっいいや。でも、今日の音楽は、バスがぐんぐんと響いてきて、お腹の底から音を感じたのよ。音って振動なんだ〜って。
チャイコフスキーの弦楽セレナーデ。ラルゲット・エレジアート。子供の頃、パパの書斎の鍵を閉めてふたりだけで聴いたパパの好きな曲。パパとわたしの秘め事。なんちゃって。I.W.G.P.のひとこまに浸ってたりして。その弦楽セレナーデ、熱かった〜。指揮棒の代わりに老眼鏡(?)を手に持って出てきた指揮者のラザレフさん、指揮しまくり。これでもかというくらい、腕振りまくって頭振りまくってオーケストラを煽りまくり。眼鏡が落ちるんじゃないかと心配しちゃった。火傷をするくらいの熱いチャイコフスキー。アンサンブルに意思の統一が取れていないところがあった(例えば延ばす音でどこからデミュニエンドをかけるとか)けど、これはオーケストラの責任かな。第3楽章のラルゲット・エレジアートが静かに消え入るように終わってラザレフさんが手をゆっくり下ろしたとき、会場から拍手がわき起こってしまいました。確かに音楽が終わった感じで気持ちも分かるんだけどね。振り向いて挨拶するわけにもいかず、ラザレフさんちょっと困ってました。

2曲目はルガンスキーさんのラフマニノフ・チクルス。今日はパガニーニのラプソデー。ピン・ポイントに大好きなんです。ほらあそこですよ。あの有名なところ。あれが16分音符4つだなんて信じらんない。ルガンスキーさん、相変わらずとてもきれいな音で端正に、過度にロマンティシズムに溺れることなく、さらさらとラフマニノフを弾いていました。折り目正しいというか、お姿もそんな人なんですけど、わたしはもうちょっと崩したところがあってもいいなって思いました。オーケストラの方は、控え目でピアノの引き立て役に徹していた感じです。わたしの好きなところ、もちょっとタメを効かせてとろとろにとろけるように弾いて欲しかったです。アンコールにはラフマニノフの多分前奏曲のひとつ。こちらもとっても美しい演奏でした。ラフマニノフの音楽に何を求めるかで、評価がだいぶ変わってくるでしょうね。わたしは、とろけるような甘いロマンで聴きたい日もあれば、硬派な音楽で聴きたい日もあって、一定しないんだけど、ルガンスキーさんの演奏はちょうど中間で、いつ聴いてもある程度満足できる代わりに、心の針がどちらかに大きく振れているときは、端正すぎてちょっと物足りなさも残る感じです。きょうはわたし、ロマンティックに振れてたかなぁ。チャイコフスキーで体が火照ってたから。

最後はタコですよ〜。交響曲の第6番。今日は春のようなぽかぽか陽気(ってもう5月も半ばじゃないっ。カモン温暖化)なのに会場は凍てつく冬の雰囲気。ショスタコーヴィチってわたしにとって冬の音色を聴かせてくれる数少ない作曲家のひとりなんですね。この曲は眼鏡なしです(譜面台の上に置いてました)。なので、楽譜も置いてあったけど暗譜。これはとても良い演奏だったのでしょう。なのにわたしはちょっと置いてけぼりを喰らった気分。自分でもどうしてだか分からないんだけど、ってウソ、今日はオーケストラの後ろの方に座っていたので、オーケストラの人の楽譜を見ながら聴いていたので、休符を数えたり出る準備をしたり、そんなことをしてたんです。オーケストラの中にいる人と外にいるお客さんじゃ聞こえてくる音違うんですかね〜。面白いですね〜。
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by zerbinetta | 2010-05-15 08:04 | フィルハーモニア | Comments(0)

答えられた質問   

ives: unanswered question
bernstein: the age of anxiety, symphony no. 2
shostakovich: symphony no. 5
nicolas hodges (pf), marin alsop / lpo @royal festival hall


今シーズンのサウスバンク・センターでは、マリン・オルソップさんがプロジェクト監督になってバーンスタイン・プロジェクトというのをやっています。音楽会は8回。バーンスタインの音楽ばかりが演奏されるというわけではなく、バーンスタインに縁のある音楽、例えばベートーヴェンやモーツァルト、コープランドなんかの作品も採り上げられています。もう何回かの音楽会は終わっているのですが、わたしが聴くのは今日が初めて。オルソップさんの指揮でバーンスタインの「不安の時代」とショスタコーヴィチの交響曲第5番が演奏されます。会場に着くと、ホールの入り口の外にたくさんの譜面台が。あれ?舞台裏での演奏がある曲あったっけ?と訝しがりながらプログラムを見ると、始まりはアイヴスの「答えのない質問」。おおお、なんという粋なプログラムなんでしょう。「答えのない質問」といったら、バーンスタインの有名な著書のタイトルですから。そして今日の音楽会のテーマはそのひとつの答え。だと思いました。

「答えのない質問」は舞台に4本のフルート、舞台袖にトランペットのソロ、会場の外に弦楽合奏の配置です。トランペットの孤独な質問に誰も答えない音楽。わたしたちは実際多くの答えられない質問を抱えています。幸せってなに?どうして生きているのだろう?わたしは誰? 音楽が胸に突き刺さってくるようです。今まで何回かこの曲は聴きましたが、こんなにストレートな感情になったのは初めて。いったいわたしに何があったんでしょう。

そして答えのない質問は不安の時代に引き継がれます。答えが見つけられないことによる不安。まさにわたしたちの時代。この音楽を生で聴くのは初めて。でもとっても大好きな曲なんです。バーンスタインはこの曲や交響曲第1番「エレミア」、チチェスター詩篇、ピアノのための作品がほんとに大好きで、学生時代よく聴いていました。なので、今日の音楽会とっても楽しみにしていたのです。クラリネットの独白のような孤独な対話から始まって、ああこれだ〜って長年会ってない旧友に会う感じ。この曲、聴くの10数年ぶりだものね。そしてピアノが静かに入ってくるともうダメ。心はとろとろ。ニコラス・ホジェスさんのピアノも心憎いばかりにステキな音色。バーンスタインのピアノってほんと大好きなんです。彼のピアノ独奏曲全集っていうCDを持っていて、ひとつひとつは短いスケッチのような音楽なんですけど、交響曲で使われるメロディが出てきたり、彼の音楽のとろけるような倦怠感がもうたまらないんです。そして同じことは「不安の時代」にも言えるの。多分わたしはバーンスタインの持ってる和声や音の配列の感覚に共振しちゃうんでしょう。ツボにはまっちゃうというか。だから不安の時代というより心溶かされる幸せな、でも、消えていく刹那。ノスタルジー。オルソップさんの演奏はCDで聴いてたバーンスタインの自作自演とは違うけれども、とてもステキな音楽。バーンスタインの音楽っていいんだわ。

そして答えはなんとタコ。これがもうどんな答えになるのかドキドキわくわく。だってタコですよ。しかも交響曲第5番。もちろんバーンスタインも得意としていた曲。そしてこの曲の答えが一筋縄でいかないことはタコ・ファンには周知の事実。勝利の音楽に見えて実は’証言’以降は’強制された勝利’だとか、’証言’が当てにならないことが分かると、勝利への皮肉とか様々な解釈が可能。タコの音楽自身が謎めいてる。音楽はこんなにも明快なのに。それを最後に持ってくるなんてオルソップさん、なかなかやるぅ。そして彼女はどんな答えを出したんでしょう。
それは純粋に音楽の力。音楽の裏に意味ありげに張り付いているまことしやかな不純物を取り除いて、作曲者が書いた楽譜の音だけを使って純粋に音楽を創った演奏。タコが汎用した引用や象徴は意味ありげに見えて実は作曲者のいたずらかも知れない、本当はなにも背景を持っていない音なのかも知れない、なんてことだって誰が否定できましょう。ちゃんと重厚なのに、明るい音色で深刻になりすぎない音楽。こんなに開放的でなんだかタコらしくないなんて最初思ったけど、音楽の力はそんな思いを軽く超えていたのね。わたしたちはついつい頭で考えた意味づけをしちゃうけど、それは間違いかも知れないって気をつけていなければ。もちろんそれを正しく音楽にすることもできるんですけど。第2楽章のスケルツォの中間がかわいくて良かったな〜。ヴァイオリンのソロ、今日もゲスト・リーダーのナタリア・ロメイコさんが弾いたんですけど、こんなにかわいく弾けるのかって。皮肉のないタコ、これもとってもいいですよん。
最終楽章なんかは、びっくりのゆっくりテンポで始まったんですけど、だからといって暗くなく、むしろ爽やか、そしていつテンポを上げるかなって思ってもなかなか焦らして速くならない、気がつかないように少しずつあげて中間部は普通のテンポで。最後もゆっくりから始まって、トランペットとトロンボーンにテーマが回帰するところからテンポアップ。爽やかに希望に満ちて華々しく音楽は終わったのでした。カルメンとか、大太鼓とかDSCHとか、あっこれはこの曲には出てこないか、そんなこと考えないですっきりできた異色のタコでした。未来に希望がある、というのは力ずくでも信じるに足る、というか信じなければいけないのです!

ちょっとだけ、追記。
演奏はとっても良かったのですが、オルソップさんの要求(かなり細かくテンポを変えていました)にオーケストラがついて行ってないところがときどき聴かれました。もしかして、オルソップさんをなめて見てるのかな、なんて頭によぎりました。でもお客さんの反応は素直にオルソップさんの音楽に暖かいものでした。とっても好意的に受け取られていたと思うし、わたしもとっても良かったと思いました。
それでふと思い出したのが、オルソップさんがボルティモア・シンフォニーの主席指揮者に内定したとき、オーケストラから反発があって、「我々はこの決定を認めていない」という異例の声明が出されたことです。USのメジャー・オーケストラの中で初めての女性主席指揮者であったことが原因かも知れません。ニューヨーク・フィルとかを振っていた経験はあるけど、まだそんなに名の知れた指揮者ではない、ということだったのかも知れません。でも、その後は上手くいってるみたいで、彼女の契約は2015年まで延ばすという発表が最近あったとのことです。オルソップさんの活躍を心から望むものです。

今日のリーダーはナタリア・ロメイコさん。後ろのヴァイオリンの人、ムーティさん似
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オルソップさんのファッション・ポイントは袖口の赤
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by zerbinetta | 2010-04-21 09:44 | ロンドン・フィルハーモニック | Comments(0)

世界が音楽になる   

rimsky-korsakov: russian easter festival overture
shostakovich: piano concerto no.2
stravinsky: le sacre du printemps
yevgeny sudbin (pf), tugan sokhiev / po @royal festival hall


実は今日、仕事で非常にやっかいな結果が出て泣きそうだったので、音楽会に行く足取りも重かったのです。音楽聴ける気分じゃないなって。でももしかしたら気分転換になるかも知れないし。と、無理に出かけてみました。何が演奏されるのか知らなかったんですけど。会場に着いてメインが「春の祭典」だと分かると気分がどーっとダウン。泣きっ面に蜂の巣というか、ちょっときっついな〜。

始まりはリムスキー・コルサコフの「ロシアの復活祭、序曲」。これこの間も聴きました。賑やかだけど、わたしてきにはちょっとどうでもいいや〜みたいな。気分が落ち込んでるので今日のわたしは投げ遣りです。この曲がものすごい感動を呼ぶなんてことあり得ないんですけど、でも、なんかちょっとあれっ?良くなくない?みたいな感触があって。

2曲目はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番。かわいいやつです。ピアノはスドビンさん。聴くのは2度目。細っこくて背の高いイケメン系(でも髪の毛かたそう)な若者です。彼のピアノの音とっても繊細で、透明できれいなんです。そういえばこの曲、この間バレエで聴きました。でも音楽は純粋に音楽だけで楽しむのがいいですね。もともとバレエのための音楽ではないし。さくさくと極めて明晰な演奏。タコのリズムがとっても生き生き。スドビンさんのピアノはモーツァルト弾き系の軽やかな音がするのでこの音楽にぴったり。特に第2楽章のシンプルなロマンティシズムの美しいこと。月明かりの下の恋人同士の語り合い。とっても幸せな気分に浸れました。ここでハプニングが。この楽章が静かに終わったタイミングを見事に見計らったように客席から携帯電話の音が。それがおもちゃのようなメロディでタコの音楽にちょうどはまってしまったというか。迷惑ではあるんですけど、このはまり方が可笑しい。指揮者はすぐ次の楽章に続けたかったみたいだけど、携帯が鳴り終わるまでちょっぴり待ちました。でも全く緊張は途切れることなく、次の楽章もステキに活発で、とても充実した美しいタコの音楽でした。この時点でわたしの憂鬱は吹き飛んだみたい。

お終いは「春の祭典」。考えてみたら今日はオール・ロシアものなんですね。今気がついた。始まる前は春の祭典なんて泣きっ面に蜂の巣だって思っていたのに、さっきのタコで気分は反転、そしてこのハルサイがとおっても良くってもううきうき変拍子を踊りたくなる気分、ではもちろんなくって、というのはこの曲って最後暗いですよね、生け贄として献げられちゃって、ものすご〜っく感銘を受けたのです。指揮者のトゥガン・ソヒエフさん、前髪が気になったけど、ただ者ではないってか、彼まだ33歳(くらい)なんですねっ。凄いです。まず、完璧にオーケストラをコントロールしていました。そしてリズムの切れがいい。フィルハーモニアももともとリズム感は良いオーケストラですが、全体がざくざくと正確にリズムを刻んでこれでこそハルサイって感じ。リーダー席にはイワブチさんが座ったんだけど、彼女髪を振り乱しながらガシガシと弾いていく、のがオーケストラ全体に伝わってた。音も全ての音がクリアに聞こえてでも、原初的などろどろ感もあってとってもバランスがいいし、コントラバスの弾かせ方とか、結構アグレッシヴでワイルド。普段聴き慣れない表現もあって春の祭典もまだまだいろんな表現ができるのねって思った。フィルハーモニアのティンパニが相変わらず凶暴なのはわたしのツボだし。ただ、最後は多分わざとリズムをもったりさせてたような感じだったけど、死んでいく生け贄の踊りですからその意図は分かるんだけど、切れのあるリズムのまま、上手く表現できなかったかなあって無い物ねだりを思ってしまいました。でも、わたしの聴いた中で最良の春の祭典だったことには間違いありません。
トゥガン・ソヒエフさんは、音楽を上手に演奏できるだけじゃなく、ホールの空気を世界を音楽にすることのできる指揮者のひとりだと思います。これからがますます期待できる指揮者できそうです。

フィルハーモニアをリハーサルするソヒエフさんのインタヴュー(youtube)
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by zerbinetta | 2010-04-15 22:15 | フィルハーモニア | Comments(2)

もっとタコを   

mahler: lieder eines fahrenden gessellen
shostakovich: symphony no. 10
bo skovhus (br), mariss jansons / bavarian radio so @royal festival hall


もちろん! わたしもおめあは当然タコ。わたしはタコが大好きなのに、どうしてこんなに演奏される機会が少ないんでしょう。例えば交響曲だってわたしが今まで聴けたのは、第4番、5番、7番、8番、15番だけ。一番好きな第13番が聴ける日は来るのでしょうか。で、今日は第10番の交響曲です。この曲も傑作なのに、聴くのは今日が初めてです。だからチケット取ったときからわくわく。ショスタコーヴィチってなんかとっても微妙な立ち位置にいると思うのね。音楽は力強くてかっこいいのに、純粋に音楽について語ろうとすると、政治との葛藤とか、暗号とか音楽の後ろにあるイディアが邪魔をする。蘊蓄くんになってしまうと音楽が遠ざかる。もちろん、作曲者は何かを込めたかったに違いない。でもここでは、「作曲家は、自分としてはこうやってみたのだが、などと言いたがるものである。だがわたしはそういうふうに語ることはひかえよう。聴衆が何を感じたかを知り、その意見をきくことのほうが、わたしにははるかに興味ぶかい。ひとことだけいえば、この作品のなかでは、人間的な感情と情熱とをえがきたかったのである。」という彼自身の言葉に勇気をもらって、音楽を楽しみましょう。ファウストや、ドミトリやエミリーラのことは頭の片隅に避けておきましょう。

ってここまで書いたのに、音楽会はマーラーの「さすらう若人の歌」から始まったのでした。歌うのはバリトンのボー・スコウフスさん。この人は前にメトで聴いたことがあります。そのときは髪の毛あったんだけど、刈っちゃったんですね。そういえば、買ったはいいけどまだちゃんと観ていない、ザルツブルグのフィガロの結婚にも出ていました。実はこのスコウフスさんの歌がよく分かりませんでした。わたしにはちょっとねっとりしすぎてるような気がして。もうちょっと音の粒がはっきりしていてもいいかなと思ったの。もちろん、この音楽は青春の恋の歌とはいえ、爽やかな甘酸っぱい恋ではなくって、少し病的な幻想的な風景なので、感情表現としては正しいのかもしれないんだけどね。好みの問題。ヤンソンスさんとオーケストラは音楽にとってもステキな雰囲気を作っていました。暗く柔らかな心の痛み。誰でも持っている青春時代の失恋。わたしも思い出してしまいましたよ、何もかもが深刻に見える世界を。それにしてもスコウフスさんって大きな人だなぁ。
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休憩後はいよいよタコ。暗号とか隠喩とか付け焼き刃のわたしには無理なので、とにかくかっこいいタコを希望。そして希望は叶えられました。ぞくぞくするような切れのある演奏。ヤンソンスさんとバイエルン放送響は去年も聴いてとっても好印象だったのでうんと期待してたんです。バイエルン放送響上手いです。第2楽章の暗い疾走感は凄くて、こんなところで涙が出てしまいました。そしてかっこいいです。タコは純音楽的に聴くだけでいいんです!ってわたしの主張が通ったみたいです。もちろん、ヤンソンスさんは、音楽の上っ面だけを音にするんじゃなくてとても良く考えているんだと思うんですけど、それを個人的なもの(例えばドミトリのサインとか)から普遍的なものに昇華させていると思います。だからこそ音楽が力強くて圧倒的な説得力を持って迫ってきて、それがかっこいい。ひとつだけ難点を言えば、弦の音色がバイエルンの山並みみたいに明るくて牧歌的なので、タコの音楽の切れるような冷たさはなかったことです。いやこれは言ってもしょうがないというか、暖色系のタコもありなんですけど。例えばロシアのオーケストラとかニューヨークとか、ロンドンだったらロンドン・フィルとかと演ったらまた違った感じになるんじゃないかなと思っていました。
バイエルン放送響は若い奏者が多い感じです。これからぐんぐん伸びていくのでしょう。あっオーボエの主席の人がかわいかったで〜す。
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by zerbinetta | 2010-03-06 08:36 | 海外オーケストラ | Comments(0)