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習ったことは全部忘れろ!まずはそれからだ メルクル、PMFオーケストラ マーラー5   

2013年7月31日 @サントリーホール

武満:ア・ストリング・アラウンド・オータム
マーラー:交響曲第5番

ダニエル・フォスター(ヴィオラ)
準・メルクル/PMFオーケストラ


PMFオーケストラの音楽会が東京であると知って、慌ててチケット取ったんだけど、意外や意外(わたし的には)、チケット、最安値の席を含めて結構残ってた。PMFって東京では人気ないのかしら。日本最強のアマチュア・オーケストラだと思うんだけど。
東京では2回公演があって、わたしが取ったのは、有名なソリストが来る高い方ではなく、迷わず、2日目、PMFオーケストラの音楽会の最終回。だって、ソリストにヴィオラのフォスターさん♡わたしが、ナショナル・シンフォニーの定期会員だった頃から、ヴィオラのトップを弾いていた人。懐かしすぎる。ナショナル・シンフォニーではお父様の隣(お父様も元ヴィオラのトップ)で弾いてたんですね。それを見るのがいつもなんだかほほえましくて。彼はヴィオラの講師としてここ最近ずっとPMFに参加しているんですね。

会場について、あれ?お客さんが少ない。ううむ。今まで行った東京の音楽会ってどれも人、入ってたんだけどなぁ。もったいない。

1曲目は、フォスターさんのソロで、武満の「ア・ストリング・アラウンド・オータム」。小さなオーケストラの曲かなと思ってたら大編成。そして、わたしが知ってる(といっても大して知らない)武満の音楽とはちょっと違ってた。調性的で分かりやすい。そしてひたすら美しい。抽象的なドビュッシーというか、脱力弱めのシルヴェストロフ風というか、中心になるぱらぱらと上昇する音列主題がシュトラウスの「ドン・キホーテ」っぽい。あとで調べたら、後年の武満は作風を調性的なものに変えていったのね。角が取れすぎてる感じもしたけど、武満の作品はもっとちゃんと聴いてみたいと思いました。実はわたし、武満をあまりいいとは評価してこなかったので。
ヴァイオリンではないヴィオラのソロが、オーケストラの中に溶け込む感じで、人肌のでもチェロのようには歌いすぎない感じがとっても合っていました。多彩な音色を要求されるので難しそうな曲でした。フォスターさんのソロは、オーケストラの後ろの方で聴いてたせいもあったと思うけど、前に出ずに静かに佇む感じで良かったです。彼を見るのは、USでの最後の音楽会以来なのでかれこれ8年ぶりくらい(?)。でもちっとも変わってなかったよ。オーケストラの方は、上手いんだけど、まだ熟成が足りないというか、オーケストラの音がひとつにまとまっていない感じでした。長い間、一緒に演奏をしてきたひとつの丸くブレンドされた音になるのには、長時間の熟成が必要なんですね。もちろん、百戦錬磨のプロのオーケストラ奏者や室内楽の奏者は、短期間でも全体を感じ取って音楽を作り上げることができるのでしょうが、そこまでは、経験の少ない若い人たちには難しいのかも知れません。ここのレヴェルが高いので、こちらの要求も高くなっちゃいます。

休憩のあとは、マーラーの交響曲第5番。今年は東大のオーケストラに続いて聴くの2回目。今やマーラーの音楽の中で一番多く演奏される曲ですね。
PMFオーケストラについて言いたいことの全ては、始まりのトランペットのソロに含まれてました。死刑宣告をされる被告人のように逃げ場のない緊張。これからの音楽の全てがここに集中する。PMFオーケストラのトランペットの人はとても丁寧に吹いていたんだけど、楽譜に丁寧すぎたんです。細かな音量の調整や音符の速さ。とってもよく分かるくらいに丁寧で、とってもたくさん練習したんでしょう。きっと、PMFの期間にいろんなことをたくさん習ったに違いない。習ったとおり、指揮者に要求されたとおり、楽譜に書いてあるとおり、しっかりと吹いた感じ。なんだけど、それが分かっちゃったのが難点。音符と音符の間の休符で音が消えてしまうと同時に音楽もちぎれてしまっていたように聞こえました。習ったことも、技術的なことも全部忘れて(それは身体に染みこませて)、音楽に没入して欲しかったです。そんな感情を引き摺りながら聴き始めたので、第1楽章の葬送行進曲は、表面的に引き摺っているように感じてしまいました。若い人たちではどろどろした感情は無理なのかなぁって。それならドゥダメルさんが9番の交響曲で聴かせてくれたように、敢えてさらりと演っても良かったかもなんて。
メルクルさんの演奏は、主役となる各パートを、弦楽セクションでは第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラときちんと分けて聴かせる感じです。第1ヴァイオリンに歌が少し欠けていたけど、チェロはとっても良かったです。目覚ましかったのは、最初の中間部。かなり速いテンポでぐいぐい引っ張っていきます。あとで分かったのだけど、この曲にある速い部分(第2楽章とか第3楽章の部分、フィナーレ)を基準にここから音楽を組み立てているのですね。第1楽章ではのれなかったけど、第2楽章からは、だんだんと良くなっていくのが分かりました。情念はあまりないけど、楽譜に忠実に襟を正した感じのマーラー。非常に細かなところまで丁寧に作り込んでいます。理知的で細部まで分かりやすいの。その分、不条理なわからなさが消えてましたけど、それは両立し難いことだから。もうひとつ、メルクルさんは場面転換の巧みさ、大胆なゲネラル・パウゼに息を飲みました。
3楽章のホルンのソロは、とても上手かった。そして、弦楽器の人たちが、後ろの人までおまえらみんなコンマスか、というように弾いていて、前に前に出る感じが若者らしくて好感度大。そういうのがはまったとき、例えば、アダージエットの中間の部分とか、フィナーレのフーガの部分とか、涙が出そうになるくらいステキな瞬間がいくつも現れて、最後、ファンファーレ来るな!終わらせないで、なんて思いながら聴いていました。この曲は本当に素晴らしい演奏を幾度も聴いているけど、今日のフレッシュな演奏も、いい、と思わせてくれました。メルクルさんかっこいいし。観に来て、じゃなかった聴きに来てほんとに良かった。

アンコールには、PMFオーケストラのテーマ曲(あらなんて言ったんだっけ?メルクルさん向こう側を向いて話したのでよく聞き取れませんでしたが)、ホルストのジュピター。トランペットのファンファーレがちょっとへろへろでメルクルさん苦笑いでしたが、むふふ、ちょっぴりロンドンに浸かっていたわたしには嬉しい。びっくりした仕掛けが施されていて、最初の部分が終わると3拍子の部分を飛ばして、すぐ中間部の有名なメロディ。さらに、トムトムが加わってロック調にも。お終いは、すぐコーダにつながって、ただ、原曲とは調が変わっちゃってるのでこれだけは違和感があっていただけなかった。ああいいな、音楽。

今日演奏した若者たちは、これからプロの音楽家として、どこかのオーケストラや室内楽団、あるいはソリストとして活躍していくのでしょう。日本で経験した1ヶ月が、その礎として豊かなものでありますように。世界に羽ばたいていって欲しいです。PMFが世界中の音楽家をつなぐひとつの紐であることを願ってます。今日の武満の曲に引っかけて、ア・ストリング・アラウンド・ザ・ワールドですねっ。
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by zerbinetta | 2013-07-31 22:29 | アマチュア | Comments(0)

わたしが指揮されちゃった 小笠原吉秀/東京大学フィロムジカ交響楽団、マーラー5   

2013年6月23日 @文京シビックホール 大ホール

シュトラウスII:「こうもり」序曲
フォーレ:組曲「ペレアスとメリザンド」
マーラー:交響曲第5番

小笠原吉秀/東京大学フィロムジカ交響楽団


東京のクラヲタさんたちは、多くがハーディングさんと新日フィルのマーラーを聴きに行ってるさなか(えっ?)、わたしは文京シビックホールというところに別のマーラーを聴きに行ってきました。東京大学フィロムジカ交響楽団の音楽会。大学のオーケストラはずいぶんと久しぶり。東京大学はわたしのなんちゃって母校なのに、こんなカタカナのオーケストラあったっけ?って見たら、新しめのオーケストラだったんですね(わたしのいた頃にはできてたようだけど)。今はいくつか学内オーケストラあるみたいだし。それにしても、大学オケって若いなぁ。4分の1くらいはこの間まで高校生だったんだもんね。この際若いエキスをタップリ吸わなきゃ。
ずいぶんと人数の大きいオーケストラ。プログラムによると160人くらい?アマチュアゆえの音量のなさを人数でカヴァー?シモンボリバルとかGBナショナル・ユースもそんな感じだったな。でも、音楽の仲間がたくさんいるのはいいよね。

文京シビックホールには初めて来ました。お客さんがずいぶん並んでいたのにびっくり(ただだから?)。ホールはほぼ満員。いつの間にかできてたんですね、こんなきれいなホール。1階は傾斜がゆるくて少し見づらいかもとも思ったけど、ここも明るくて良いホールだなぁ。東京には良いホールがいっぱい。ただ舞台が箱状になってるので、音が舞台にこもってから聞こえてくるみたい。上手なオーケストラだと上手く音を飛ばしてくるのかな。

「こうもり」はなかなか楽しい演奏。すらっとして田舎くさいウィーン訛りがなくて、ラ・ヴァルスのようなワルツ。わざわざへたくそな東京人の大阪弁みたいにぎこちない方言でやるより、そういうのはウィーンの人たちに任せて、スマートにやっちゃうのもいい。演奏は正直とても上手いとは言えないけど、みんなができる精一杯のことをやっていて、弦楽器の後ろの方でムニャムニャと適当にごまかしたり落ちたりする人もいなくて、好感度大。指揮者の小笠原さんは、とても良くオーケストラをコントロールしていて学生と共に音楽を上手に作っていました。大変なことはやらせないけど、音楽のポイントは掴んで自分の音楽を出していたと思います。

「ペレアスとメリザンド」は、小編成で。こうなるとオーケストラの実力が出ちゃうのね。最初のノンヴィブラートの音は、あら、大丈夫かしらと思いました。でも、音楽が動いてきてヴィブラートもかけるようになるといいかな、と。こういう音楽の方が個人の力量がもろに出ちゃうし、実は、この曲、あまりこのオーケストラに向いてないんじゃないかと思いました。

さて、マーラーです。マーラーは、勢いでなんとかなりそうって思っていたのですが。。。始まりのトランペットのソロを聴いて難しいかなぁ、と。ちゃんと吹ける人だと思うんですけど、緊張や音色に注意して丁寧に行こうとするあまり、萎縮しちゃったかな。まあプロでも緊張するでしょうし、聴いてるわたしも緊張するんですけど、すかんと行った方が良かったかもね。第1楽章、第2楽章は速めのテンポでスマートに進みます。オーケストラが、レガートでたっぷり歌うというのには力不足だったので、このスタイルは上手くいってたと思います。
小笠原さんは、エキセントリックなことはしないけど、とても細やかにフレーズを作って、アクセントをしっかり付けたり、並走する旋律群を上手く絡めたり、音楽と一体となって分かりやすい身振りでオーケストラを導いていきます。こんな風に全霊を込めて指揮されたら、オーケストラはついて行っちゃいますね〜。ステキ。小笠原さんとフィロムジカ交響楽団は長く関係を続けている(今年5年目)ので、指揮者とオーケストラの間に良い信頼関係があるのですね。オーケストラの実力は、例えば、トランペットがオーケストラの全奏にかき消されてメロディが消えちゃったり、チェロとかももう少し音量が欲しいところで来なかったり、ピアニッシモが甘かったり、確かに聞こえてくる音は、プロのオーケストラで聴かれるような音ではありません。でも、オーケストラの真剣さや音楽感の統一度、指揮者の指揮ぶりから、彼らが演奏しようとしている音楽が頭の中にしっかり聞こえてきて良かったのです。小笠原さんの指揮で、わたしの中で彼らの音楽が鳴っていた。トロンボーンとティンパニを筆頭に打楽器は上手かったですよ。ティンパニの音楽を引っ張る叩き方かっこよかったし。マレットを表情に合わせて変える工夫をすればもっともっと良くなるでしょう。

正直、聴く前と聴き始めは、このオーケストラにマーラーは難しいんじゃないかなって思いました。このオーケストラがマーラーを採り上げるのは初めてみたいだし、それなら交響曲なら第1番が先じゃないかしらって。それに、新入生が入ってすぐの夏の音楽会じゃなくて、オーケストラの音ができる冬の音楽会でじっくり採り上げた方がいいのかなって。オーケストラのみんなが議論して第5をやろうって指揮者に報告したとき、えええっ!ってびっくりしたんじゃないかしら(内心無理だろーっ、どうしようって)。でも、出された結果はとてもステキでした。第3楽章のスケルツォがよく作り込まれてとても良かったです。そして、第4楽章の清楚な美しさ。このふたつが一番の収穫です。小笠原さんは、音楽をただ進めるだけじゃなく、しっかり自分の音楽を作っていたこともステキでした♡

マーラーはこの演奏を聴いたらどう思ったでしょう。下手くそって思うのかな。それとも、演奏は下手だけど、彼の音楽を愛してできるだけのことをしようと全霊で挑んでくるのを良しとするか。マーラーの当時は、マーラーが指揮していたオーケストラはこのオーケストラより上手いでしょう(プロだし)。でも、彼の反対者がオーケストラの中にもたくさんいて、嫌がらせをしたり、まさに前衛と言える彼の音楽への無理解を考えると、アマチュア好きのマーラーのこと、今日の学生オーケストラの、彼の音楽を理解し、必死に表現しようとする意欲を取ったんじゃないかなって勝手に思います。少なくともわたしにはマーラーの音楽が聞こえました。

と、マーラーを褒めた舌の根が乾かぬうちに、一番良かったのはアンコールの「雷鳴と稲妻」。指揮者もオーケストラものびの〜び弾いてましたね。絶対こういう曲、向いてる。このコンビでニュウ・イヤー・コンサートみたいなのも聴いてみたいなぁ。
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by zerbinetta | 2013-06-23 23:13 | アマチュア | Comments(3)

ベートーヴェン賞の混乱 ロットとマーラー   

ベートーヴェン作曲賞って確か、ウィーン国立音楽大学、というかコンセルヴァトリウムが1875年に作った作曲賞だと思うけど(今でも続いているのかしら?)、その賞はフランスのローマ賞と共に悲喜こもごも。というか、ベートーヴェン作曲賞ってマイナーですよね。名が知られてるのは、マーラーやハンス・ロットが落選してるから。

ということになってるんですけど、本当でしょうか?
マーラーに関しては、あやふやなことはあるんですけど(マーラーが言った記憶がこんがらがっていて)、「嘆きの歌」で参加していることは間違いなさそう。ただ、マーラーが言うような年ではなく、多分、1881年のコンクールに提出したらしいんです。もちろん、残念ながら賞は取れなかったです。

ロットの方はどうかというと、交響曲の第1楽章をベートーヴェン作曲賞に出したということが、ときどき書かれてもいるのだけど、ロットが1878年にこの曲を出したとされるコンクールは、コンセルヴァトリウムの奨学金を得るためのものだったんです。ここで、ブルックナーの(ロット・ファンには)有名な言葉、「笑うな諸君、この男から将来、素晴らしい音楽が聴かれるのだから」が出たんですね。このとき、7つの作品が提出されて(マーラーもピアノ5重奏曲のスケルツォ(?)で参加して一位(満場一致のではないので最高位ではありません)を取ってます)、奨学金を得られなかったのはロットのだけ。苛めじゃないですか。ロットにというよりもロットを庇護したブルックナーに対する政治的な当て付け感いっぱいです。でもね、結局ロットは奨学金を受け取るんですね。まずはめでたし。

次の1879年にロットがベートーヴェン作曲賞に応募したのかは、資料が見つからないので分かりません。
そして1880年。
この年はロットは2つの作曲賞に応募します。ひとつは、オーストリアの教育省の奨学金。もうひとつはベートーヴェン作曲賞です。何しろ、ロットは貧乏に貧していてお金は喉から手が出るほど欲しかったから。8月が締め切りの国の奨学金の方は、急いでできたばかりの交響曲と田園前奏曲を提出します。9月末締め切りのベートーヴェン賞の方には、弦楽6重奏曲を出しているようです。

悲劇のひとつを生んだ、1880年9月のブラームスとの面会は、国の奨学金のためのネゴシエイション(ブラームスは審査員のひとり)だったんですね。

ロットは結局、10月に精神に異常をきたしてしまうんですけど、皮肉なことに、ブラームスの反対があったにもかかわらず、翌年には奨学金の授与が決まります。ただ、ロットには、作曲に打ち込む術は残されていませんでしたが。

(自分の覚え書きのために)
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by zerbinetta | 2013-06-17 23:56 | 随想 | Comments(0)

私の周りで友達が狂っていく〜 明朗なロットと鬱屈したマーラー   

神経を研ぎ澄ます芸術家だから変わった人が多いのは当然と言えば当然と言えるのかも知れないけど、突き抜けて精神を病んで亡くなった作曲家って意外(?)と少ないの(少ないと言って良いのか分からないけど)。有名なのはライン川に入水自殺を図ったシューマン。それは上手く行かずに亡くなったのは精神病院。もうふたり、精神を患って亡くなった作曲家、フーゴ・ウォルフとハンス・ロット(ロットの直接の死因は結核ですが)。19世紀末ウィーンの作曲家(とその卵)。そしておふたりともマーラーと友達(だった時期がある)。マーラーをはさんでふたりの若い作曲家が精神を病んで亡くなるとは。。。(もちろん、マーラーのせいではないんですが。ウォルフ(とシューマン)は梅毒による精神障害だったらしい) 弟まで自殺で亡くして、マーラーはどんな気持ちだったでしょう。彼の音楽に死の影がつきまとうのは、こんな境遇が影響してるのかも知れませんね。まわりで人が亡くなっていくのに自分だけがぴんぴんと元気。

同じウィーンの音楽院で学んだ、ロットとマーラー。ロットの交響曲(20歳の作!)を聴いた人は、マーラーのような音楽がときどき聞こえてびっくりする体験をしたはず。才能を高く評価していた早世した友人へのオマージュとして彼の書いた旋律を引用したという説もあるくらい。実際にマーラーがロットの交響曲を知っていたかどうかは、今後の研究によると思うんだけど、これだけ似てると、マーラーは知っていたと思うのが自然かも知れませんね。

ハンス・ロットの交響曲とマーラーが同じ年齢の頃書いた「嘆きの歌」を聴き比べると、でも、全く違った印象を持ちます。マーラーの音楽の方が、なんだか屈折してて、思うように書けてないような上に向かおうとする焦燥感のようなものを感じるのに対して、ロットの方は、第4楽章の始めのような部分的な例外はあるけど、全体的には明朗で、とってもまとまっていてやり遂げた感が感じられるの。音楽の始まりなんかは、爽やかすぎて、みんなに大声で「おはよう!」と声をかけてしまいそう。マーラーのはまだ未完成というか、閉じてない感じなのに、ロットはきっかりと作品として閉じている。それは決してこぢんまりとまとまっているということではないのだけど、音楽にブルックナーやブラームスのエコーを強く感じてしまうんです。それに対して、マーラーは多分自身よく分かってないと思うけど、マーラー。ウェーバーの影をはるかに感じたとしてもマーラー以外ではなさ過ぎる。

それにしても、こんなに明るい音楽を書いてた人が、精神を病んで死んでしまうのに、鬱々としてた人が、襲い来る困難や敵をなぎ倒して精力的に生きてしまうなんて。人間って分からない。
マーラーが交響曲第2番や3番、5番、7番で引用した(?)ロットの音楽(Banks, The Musical Times 125: 493-495, 1984)は、マーラーに憑いたロットの霊が書かせたのかしら。それとも実は死んだのはマーラーでロットが成り代わっちゃった?

次の機会にはロットについて調べてみたことと、彼の悲劇についてわたしの突拍子もない仮設について書いてみますね。ルイーズ〜〜♡
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by zerbinetta | 2013-06-12 23:47 | 随想 | Comments(2)

大地の歌の入れ子式シンメトリー マーラー随草 その五   

マーラーの「大地の歌」の形式については、すでにいろんな説が出されています。6つという偶数の楽章を持っていることで、上手くシンメトリーにならないのだけど、曲の半分の長さの最終楽章を2つの部分に分ける、もしくは第1楽章と第2楽章をひとつのグループとして考えて外側の枠組みとして組み立てるという考え方が出されています。そして、第4楽章を中心にするシンメトリーとして考えるとか、真ん中の3つのスケルツォふう楽章をひとまとまりにして中心に置くとか、これまたいくつかの考えがあります。
そんな中、蛇に足を描くように、わたしもひとつの考えを言ってみましょう。

ひらめきは、ネゼ=セガンさんの音楽会を聴いたときに来ました。そのときの日記に書いた蛇足。

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(照れ隠しに蛇足)
そして今日初めて気がついたんだけど、大地の歌の構成。マーラーの交響曲って真ん中に中心となるスケルツォを挟んだシンメトリックな構造が多いのだけど・・・、大地の歌は6楽章なのでしっくり来ない。第1と第2楽章をひとつの対として、第6楽章の間を3つのスケルツォ(のような音楽)で挟むということも言われてて、そうだとも思ってたんですけど、実はそれぞれの歌手の歌う3つの楽章がスケルツォ(のような音楽)を挟んでシンメトリックな構成を取っていることに気がついたんです。テナーが歌う奇数楽章は「大地に郷愁を寄せる酒の歌」「春に酔えるもの」という厭世的な雰囲気のある酔っぱらいの歌に挟まれて「青春について」。アルトもしくはバリトンが歌う偶数楽章は、「秋に寂しきもの」と「告別」という孤独な離別の歌に挟まれて、若き日の仄かな恋を歌った「美について」。形式的にも内容的にも明確な一幅の対をなしているではありませんか。中心にあるのは若き日の美しい思い。そしてそれへの別れ。これは今日の音楽会のおまけみたいなものですけど、今まで気がつかなかったことにびっくりするくらい、わたしには大きな発見でした。
ーーーーー

そう、テナーが歌う3つの奇数楽章でひとつのスケルツォ(第3楽章)を中心に置くシンメトリー、アルト(バリトン)が歌う偶数楽章がもうひとつの、スケルツォ(第4楽章(の中間部))を中心に置くシンメトリーと分けて考えることができると思うんです。それぞれ、暗ー明ー暗の対比。真ん中の楽章が過ぎ去りし日への美しい憧れというのも共通しています。しかもそれが入れ子になってる。こうして考えると音楽の雰囲気だけではなく、詞の内容からもとてもすっきりと形式を説明することができると思うんです。奇数楽章は酔っぱらいの歌。どの楽章にもお酒が出てくる。水辺のイメジ(生と死を分け隔てるもの?)を内包する偶数楽章は、死と乙女。かな?(このことについてはいつかまた)
こういうふうに考えるといいことは、第5楽章の立ち位置がとっても分かりやすくなること。この楽章が、中間のスケルツォではなくてフィナーレになる。第1楽章と対をなして(音楽的にも酔っぱらいの歌詞の内容的にもそうなってるよね)、ぴたりと正しいピースに納まる感じ。

そして中心になる第3楽章と第4楽章には水面のイメジがあって、どちらも景色を逆さに映しだしてる。なんか、マーラーがシンメトリーの謎解きのヒントを隠してるように。そして、曲の最後の最後でついにその水面を超えて向こう側の世界に入っていってしまうんでしょう。

(第3楽章)
逆さまに映り立たないものはない
この緑の陶土と
白磁なる陶土とともになる東屋の中
半月のごとき太鼓橋はかかり
その弧となる姿も逆さまに
美しく着飾り、盃をあげて 談笑交わす

(第4楽章)
金色の陽は差し照りて、
その乙女たちを包んで
きらめく水面に映し出している
陽は乙女たちのたおやかな肢体と
愛らしい瞳とを逆さまにして映し出している
(この訳では、敢えて「逆さま」という言葉を入れているけど、英語訳を見ると(わたしドイツ語読めないので),逆さという言葉はないみたいです。ただ、水面に映る反射、とか鏡という言葉が出てくるので鏡像であることは間違いありません)

どちらの楽章も明るいけど,この世のものでないような儚さがある。ゆらゆら揺れる水の面の夢の世界のような。遠い過去が憧れや理想の綿にくるまれて,柔らかく温かく心を包む。それはもはや現実ではなく心の中に現れる陽炎。第9交響曲では、青春への焦がれるような憧憬が迸ったけど、この曲では,青春は彼岸の彼方にあるみたい。現実のものではない走馬燈。

もちろん形式は複雑に絡まり合う。第2楽章の反映になる第6楽章は、ついに友(死の使い?)と出会い、別れの杯を交わして,この曲の終結を迎える。第1楽章と第6楽章の後半は対立しつつ対をなしてる。

(第1楽章)
天空は永久に蒼(あお)く、しかも大地は
永遠に揺るがずにあり、春ともなれば花咲き乱れる。

(第6楽章)
愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く
緑は木々を覆い尽くし 永遠にはるか彼方まで
青々と輝き渡らん
永遠に 永遠に……

ともに、大地の永遠を歌うのだけど、でも、第1楽章はまだ水面の上。永遠に還り来る大地の春の前に,人生の儚さ、人の小ささに絶望して酒を飲む。でも、最後の楽章で、別れの杯を交わしたあと(お酒の回帰!)、ついに水面を超えて、魂は大地に溶けて同化して永劫回帰の中に安らぎを得る。キリスト教的世界観から踏み出したマーラーの新しい音楽の世界。ニーチェの影を強く感じるけど、ニーチェよりも人工的ではなく、自然に溶け込むよう。まさに大地が繰り返してきたように。そこにはきっと、悲嘆もなければ希望すらない、ただものごとが有りの侭にあるだけ。マーラーはこの主題をもう一度、第9番の交響曲で繰り返して、ついに未完の第10番で未知の新しい世界に踏み出して行くのではないかしら。多分テーマは、re-creation。そのこともいつかまた。

(歌詞の日本語訳はウィキペディアから引用しました)
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by zerbinetta | 2013-04-25 23:27 | 随想 | Comments(0)

マーラー交響曲第7番「復活」 マーラー随草 その四   

多くの非キリスト者の日本人が誤解しているように思えるんだけど、キリスト教の教義って死んだら天国にすうっと行くのではありません。死んでから、死んだままお墓で復活を待つんです。昔は、その(肉体的な)復活のために,死者の心臓とか腸とかを壺に入れてとっておいたとも言います。昔、ウィーンのシュテファン寺院の地下のカタコンベに見に行きました(あとで調べたら,シュテファン寺院は心臓以外の内蔵を置いてるんですね。心臓は別の場所)。イエス・キリストだって死んでから墓に入って3日目に復活します。天国に行くのはそれから。というかキリストの場合は、しばらく地上に現れては弟子を教え、昇天するのはちょっと後なんですね。そして、これが一番大事なことなんですが、天国に行くのは本人の善行でも努力でもなく,ただひとえに(神の)恩寵なんです。いわゆる信じる者は救われる,デス。何も努力しなくても神さまさえ信じていれば,ポワンと天国に行けるわけです。だからそこに人間的なドラマはありません。

マーラーの音楽は、少なくとも交響曲第8番までは、とてもキリスト教的な背骨を持っているように感じます。最初の頃、ベートーヴェンばりの暗から明へ、人間は努力して幸せを得る、みたいなドラマを描いてたけど、だんだんとそんなドラマツルギーからは離れていったように思えます。マーラーの時代は、ベートーヴェンの頃のような未来を単純に信じられる時代ではなくなってきていますからね。未来への閉塞感がある。また、マーラーは強い疎外感を持っていました。彼の言葉、「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」は、彼の疎外感を端的に表していると思います。どう足掻いても抗いようのない出自。だからこそ、彼は人間の努力に対する諦めに似たものを感じていたのではないでしょうか。そして彼は、ブルックナー以上に宗教を考えた人だったように,彼の音楽から感じます(ブルックナーは完全に宗教の中にいたので、闘争も悲しみもドラマもない)。
ヒューマニズムとキリスト教は相容れないものです。なぜならキリスト教は神の論理なので人の論理とは別物だからです。だからこそ、ひとえに神を信じることで救われる。どんな悪人であろうともです。
そんな、ドラマ性のなさが、マーラーの音楽には見られると思うんです。努力でも自分で掴み取るでもない,結局、天から振ってくる恩寵。そんな自己実現の弱さが、例えば、まだ、暗から明への交響曲を書こうとした第5番のフィナーレの弱さにつながっているんじゃないかって思います。幸せは棚からぼた餅、天から降ってくる。

交響曲第7番のフィナーレの、KY気味の唐突さは、だから、これこそが神の恩寵の神髄です。マーラーは、闘い、努力を積み重ねて、最終的な喜びを得る人間的なドラマを交響曲第7番には持ってきていない。人生は全てチャラになる、偉大な神の勝手な意思を音楽にしていると思うんです。苦しかろうが,楽しかろうが、悪いことをしようが、努力しようが怠けようが、そんなことは結局何の意味をなさない、恩寵による天国行き。勝手に現れる白昼の喜び、お祭り。だから、フィナーレが弱いなどと言うアドルノの批判などは,本質を外れてるんです。だって、描いているものが違うのだから。むしろ、意思に関係なく唐突にやってくるから最強。その代わり、第10交響曲の真ん中のスケルツォ、「この世の生活」(敢えてプルガトリオと言わない)に象徴されるように、スケルツォは現世の人間の営みを強烈にカリカチュアライズしてる。

マーラーは現実の生から、死んで天国に行く,「復活」というタイトルを付けていい音楽を3曲書いてます。本家「復活」の交響曲第2番、天国の扉が開いて天国の情景が音楽になる交響曲第4番、そして、唐突に天国の馬鹿騒ぎがやってくるこの第7番です。
フィナーレが天国の音楽、復活の音楽だとすると、その前の楽章は死の音楽です。だって死ななきゃ復活できないから。4つの楽章全てが死の音楽かどうかは分かりません。きっとこの世での闘争もあるでしょう。でも、最初の3楽章の暗さは、夜の音楽ですね。夜と言っても言葉通りの意味だけではなく、その言葉に内包している意味も含めてですが。マーラーのこのグロテスクだけれどもロマンティックな音楽は、ロマン派的な死への憧れかも知れません。風が吹き抜けた夏の世のセレナーデを含めて。そして夜は何の脈絡もなく裂けて真昼の燦めきに取って代わる。交響曲第1番のフィナーレの半ばで、マーラーが天の啓示と言った、ニ長調が突然降ってくるところ、同じことがフィナーレが鳴り始めたとたん、最も強烈な形で現れる。

この曲のドラマツルギーは、だから、キリスト教的な恩寵をフィナーレに持ってくることで崩れているのだけど、だからこそ、わたしは、マーラーの交響曲第7番は、カラフルでロマンティックで艶やかな音楽だと思っています。各楽章がそれぞれに対比されて枯山水の石組のように、観る(聴く)人の裡に波紋を作るように置かれてる。もしくはカラフルな抽象画のように、それぞれの絵の具が観る(聴く)人の神経細胞を活性化するように配置されている。
マーラーの最もハイドンチックな交響曲。眩い光りに目が眩みながら音楽会をあとにできればステキですね。
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by zerbinetta | 2013-04-18 23:43 | 随想 | Comments(0)

シンメトリー マーラー随草 その三   

ごめんなさい。そんなことよく言われてることだし、何を今更っておっしゃるのも分かります。でも、あとのお話にも必要なので話させて下さい、シンメトリーのこと。もちろん、そんなこともう知ってるよという方は笑って飛ばしちゃって下さいな。

お話ししようと思うのは、マーラーの交響曲によく見られるシンメトリカルな構成のこと。交響曲様式による音詩「巨人」、交響曲第2番、第5番、第7番、「大地の歌」、第9番、第10番、そして、変則的だけど,第3番、第4楽章をプロローグとしてとらえたときの第4番にみられるものです。ということは、シンメトリカルではないのは、「嘆きの歌」、「さすらう若者の歌」、「亡き子をしのぶ歌」、「巨人」を改訂して4楽章にした交響曲第1番と第6番、第8番ですね。交響曲と名が付くものは、ほとんどがシンメトリカルな形式を持っていることが分かります。

マーラーの前に,シンメトリカルな形式を持った交響曲はあるでしょうか?ハイドンの初期の3楽章の交響曲までさかのぼっちゃうとあれだから、形式が確立して意識的に交響曲が書かれた頃からの作品を見てみると、ベートーヴェンの「田園」。それからベルリオーズの「幻想」。それくらいかしらね〜。本当のところはただ5楽章あるだけで、作曲家はシンメトリーを意識したわけじゃないと思うけど、シンメトリーを意識させるのには十分打と思うんです。どちらもマーラーが生涯にわたって10回以上指揮した愛奏曲ですから、ヒントを得たとしても不思議ではありません。

マーラーはシンメトリックな構成を意識してたんでしょうか。それは分かりません。わたしの知る限り、ってもほとんど何にも知らないんだけど、そのことに言及してる彼の言葉は見つからないので。でも、交響曲のシンメトリックな形式への偏愛をみると、意識的にせよ無意識にせよ内的な欲求はあったんじゃないかなって思うんです。

マーラーだってベートーヴェンを強く意識していたので、シンメトリカルな形式の交響曲でも音楽のドラマ、暗から明へみたいな、を描いているように思えます。多分、「巨人」と交響曲の2番、5番は。だからこれらの曲には、暗から明への一方向のドラマと真ん中で方向が逆転するシンメトリカルな形式の間で軋みが見られるような気がするのです。ドラマの筋がはっきりしている第2番は形式が隠れ、形式への志向が強い第5番ではドラマ性が弱くなってると思うんです。
ドラマ性が薄くなり、形式が音楽を支配するようになるのは交響曲第7番からだと思います。マーラーの第7はベートーヴェンのそれと同じように形式の音楽です。さらに、晩年のマーラーを捉えた永劫回帰の思想は、ついに音楽の形式との完全調和を成し遂げるんです。(この辺、わたしの主張というか思い込みが強いのですが)

マーラーの交響曲のシンメトリック構造の1番目立つ点は真ん中がスケルツォなんです。交響曲って昔は第1楽章とそれに続く3つの楽章の仲間たち、みたいな感じで、第1楽章が中心でした。そのうちモーツァルトの最後の交響曲やベートーヴェンの頃から、ドラマの結論を担う第4楽章(最終楽章)が大事になって、「合唱」なんかはその最たるもので、多くの普通の日本人は第九と言ったら最後の楽章しか知らない、なんてことが起きちゃいます。諧謔性を持ったスケルツォが曲の中心になるなんてなかったんです。こんなのマーラーだけ。
そしてマーラーのスケルツォには,交響曲の真ん中に置かれているだけではなく、中心のテーマ(音楽的に、ではなく哲学的に)、場面の転換のポイントになってるように思えます。

そのことに気づかされたのが,ニューヨークで聴いた,ブーレーズさんとウィーン・フィルの交響曲第3番の演奏。ブーレーズさんは第3楽章の森の童話を思い出させるようなおどけたスケルツォの最後を遅いテンポで,ティンパニをはっきりと際立たせて演奏したのです。その結果、見事な場面転換。夜の帳が降りて後半の夜の音楽につながったんです。トリスタンの昼と夜。表と裏。スケルツォを介して世界が転換するのをまざまざと聴いてはっとしたのです。この曲のシンメトリカルな構成が浮かび上がった瞬間です。

さて、この間の第6交響曲。マーラーが、スケルツォを作曲過程で置いていた第2楽章ではなくて,最終的に第3楽章にしたのは、マーラーのこのシンメトリカルな形式への(無意識な)偏愛があったからではないかと秘かに妄想しています。だって、スケルツォを第2楽章に置くと、第1楽章と繋がっちゃって(曲想が近いから)、マーラー的スケルツォの役割を果たせないんですもの。長大なフィナーレと他の楽章とのスケルツォをはさんで形式的なバランスを取るということもあります。本当のところはマーラーのみぞ知る、ですが。

わたしは、こういうマーラーの謎かけを妄想して勝手にあーだこーだと考えるのが大好きなようです♡
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by zerbinetta | 2013-04-16 20:28 | 随想 | Comments(2)

AS−SA? 交響曲第6番の順番のこと マーラー随草 その二   

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交響曲第6番「悲劇的」のウィーン初演のプログラム

ーごめんなさい。前置きが長いので,めんどくさい方は、(本文はおよそここから)からお読み下さい。ー

マーラーの交響曲第6番の真ん中のふたつの楽章。およそ15年ほど前に,国際マーラー協会が声明を発表して、1963年のラッツによる(意図的に?)間違った順番が35年の時を経て正しいものに訂正されましたね。でも、その間のレコード、CDの普及やマーラー・ブームで、今では間違った順番の方が好きとか正しいとする人も多いのも事実。マーラーが聞いたらびっくり。ラッツの順番は、ベートーヴェンの交響曲第9番の楽章順は、歴史的に見て、アダージョースケルツォが正しい、と言い出すのと同じくらいの衝撃でしょう。マーラーがやっぱりスケルツォーアンダンテにするって書いたものが見つかる可能性は絶対ないとは言えないけど、現時点で確定しているのは,アンダンテースケルツォだからそれは素直に受け入れるべきよね。ベートーヴェンが、第9はアダージョースケルツォにするって書いたものがいつか見つかるかも知れないから、アダージョースケルツォの順番で演奏するのがナンセンスなのと同じように。

マーラーは、作曲してたときはスケルツォーアンダンテの順番にしてたけど、自身が指揮した、エッセン、ミュンヘン、ウィーンでの演奏は、アンダンテースケルツォの順だし、その後、指揮者のメンゲンベルクとのスコアのやりとりで改訂をしているけど楽章の順番の入れ替えはしてないのね。それに、マーラーが生きていた時代に他の指揮者が演奏した4回の音楽会(そのうち1回はマーラーも臨席)もその順番。だからどう考えてもアンダンテースケルツォが正しいのだけど、1919年にメンゲンベルクが指揮するときにうっかりアルマに確認したのがいけないのね。アルマもうっかりスケルツォーアンダンテって電報送ってしまったものだから。これが不幸の始まり(でも、メンゲンベルクは以前1916年に指揮したときは正しい順番で演ってるし、アルマも後に本を書いたときには正しい順番で書いてるとのこと)。でも、当時、スケルツォーアンダンテは一般的にはならなくて(だって出版されてる楽譜が正しい順番だから)、例えば、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで、この曲のプログラムを検索すると、1955年のミトロプーロスさんは正しい方、1965年のスタインバーグからは、スケルツォーアンダンテ。ラッツの改訂版が出てからはほとんどの指揮者がラッツによる順番で演奏してる。国際マーラー協会がアンダンテースケルツォを宣言した後もラッツの順番で演奏する指揮者も多いし,マゼールさんなんかは、アンダンテースケルツォを受け入れたのに(ニューヨーク・フィルと)、再びラッツに戻してたり(フィルハーモニアと)。ラッツの罪は大きい。

でもね、正しい順番ではなく、スケルツォーアンダンテで演奏してもちゃんとできちゃう、というかこっちに聴き慣れてる人にとってこっちの方が良いとさえ言われてしまうのはどうしてでしょう?この方がわたしには興味がある。最後イ長調の爆発で終わる第1楽章にイ短調の第2楽章を続けることで,この曲のモットーのような同主音調の上での長調から短調への動きで繋がるからかな。出だしもラの音の刻みで似てるし。

例えば「田園」。第2楽章と第3、4楽章を入れ替えたらどうでしょう。田舎へ帰ってきたら村人たちがお祭りしてて,突然の嵐。嵐が収まって水かさが増した濁流の小川のほとりで牧歌的な気分に、、、ならない。例えば「幻想」。阿片を飲んで夢見心地になって片思いの恋人を追いかけていたら飲み過ぎてどんどんダウナーになってしまいひとり野原を彷徨って、雷。慌てて舞踏会に乱入して彼氏と踊る恋人を発見、殺害。死刑になっても覚醒剤を飲んで魔女とらんちき騒ぎ。とまあ、作曲家が考えたオリジナルとは全然別のストーリー。プログラムのある交響曲だったら中間の楽章の順番を変えるだけで全く違ったものになってしまいます。絶対音楽の古典だって、初期の頃のいくつかの楽章を並べただけの音楽ならいざ知らず、全体を見越して作られた曲ならベートーヴェンにしろブラームスにしろ、楽章の順番を変えちゃったら作曲家の思いとは全然違うものになってしまいますよね〜。
でも、マーラーのこの曲に関しては、楽章の順番が変わってるのにそんな議論があんまり出ない不思議。マーラーはあんまりストーリーを考えてないのかな。もちろん、古典的ともいわれるような音楽だから、プログラムはないのかも知れないけど、それでも、楽章の順番が入れ替え可能だなんて、楽章を全取っ替えできたブルックナーじゃあるまいし。最終楽章の1話完結とも言えるドラマが凄まじいので、中間楽章の配置はあまり気にならないのでしょうか。

ー(本文はおよそここから)ー
とはいえ,演奏する方は別ですよね。指揮者は多分、全体を見てそれぞれの楽章をどう演奏するかプランを立てているのに違いないし。だから、手持ちのCDで好みのままに楽章の順番を変えて聴けば良いというのでもないみたい(といいつつ、アンダンテースケルツォの順番で演奏していたバルビローリさんのCDには楽章順をひっくり返して出されたものもあるそうですね)。ただ、それほど外見は極端に変わるものでもないのかもしれません。

わたしがこんなことをまたほじくり出して書き始めたのは(10年くらい前にも1度書いていて、秘かにウェブ上に残ってたり)、そう、去年のプロムスで目の覚めるような演奏を聴いたからです。シャイーさんとゲヴァントハウス・オーケストラの演奏。この演奏でのスケルツォ(第3楽章)が良かった。第1楽章にスケルツォをつなげると、出だしの楽想の類似や、曲想の類似からどうしても第1楽章とスケルツォが繋がっちゃうのね。そんな例は,すぐ前の第5交響曲の第1楽章と第2楽章(ふたつで第1部)にみられるし。これは決してマーラーが意図したことではないようなのね。でも、単純にスケルツォをアンダンテの後に演奏した、というだけじゃだめなのね。アンダンテースケルツォの順番の演奏を何回か聴いたけど(でもCDとかを含めるとスケルツォーアンダンテ経験の方が多い)、アンダンテ・モデラートの演奏が少し変わったような気がしたけど、スケルツォはそんなに変わらないな、という印象を持っていました。
ところが、シャイーさんの演奏では、スケルツォが第1楽章とはまるで違って演奏されたんです。リズムの扱い,音の重心が全く違う。初めて,第1楽章の呪詛を離れて独立した楽章になった。マーラーにとっていつもスケルツォは,音楽の転換点になる重要な楽章だと思うんですね。決して他の楽章にくっついて(依存して)るんじゃなくて。
わたし思うのだけど,これこそが、マーラーがこの曲に見たものじゃないのかなって。それはマーラー独特の形式感からくるものだけど,その話はあとで、いつかまたね。

第6交響曲の楽章順についての詳細な論考は,カプラン財団の本(ISBN 0-9749613-0-2)の中の、ブルックの論文「undoing a "tragic" mistake」がウェブで読めます。
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by zerbinetta | 2013-04-11 23:31 | 随想 | Comments(2)

ユダヤ的のこと マーラー随草 その一   

過日のマーラー記念年に、何となくマーラーのことについて書こうと思ってたんだけど,いつの間にかに百代の過客。音楽会にもあまり行けなくなった今、このブログにも閑話を挟む余地を見つけて重い腰を上げてみようかな,と思ってみました。

でも、マーラーって人気の作曲家だからもうすでにたくさんの人がいろんなことを言ってるし,そこにわざわざわたしが口を挟むのもなんだけど、そこは笑顔(苦笑)で許してもらうとして、だってわたしのブログだし〜,自己中許して。

で、わたしがいつも目にして??に思ってるのはユダヤ的。マーラー自身の音楽にも、(特にユダヤ人の指揮者が演奏した)マーラーの音楽の演奏にもどうしてか使われちゃう言葉。ユダヤの情念だとか,どろどろした粘りとか。でも、ユダヤのってなあに?
ユダヤ人に共通の性格ってあるのかしら?わたしの周り3メートルの観察によると、どう見てもユダヤ人に共通の性格って見つからないのよね。日本人だと突拍子のない人はほとんどいないので日本人っぽいって言えるような気がするんだけど、イスラエルに住んでるユダヤ人ならともかく、いろんな国に住んでるユダヤ人はユダヤ人と言うより、ロシアやアルゼンチンやUSや、その人の生まれ育った国で全然違うような気がするもの。
って、わたしの3メートル四方じゃ全く説得力ないけど、じゃあ、作曲家の人を,勝手に情念とか粘りの順番に並べてみよう。ってもわたし、すでに書いたようにユダヤ的情念とかって分からないから,わたし基準の粘っこさでね。

ワグナー≒ベルリオーズ>マーラー≒リスト>シュトラウス≒ツェムリンスキー≒シマノフスキ≒ベルク>シェーンベルクコルンゴルド>>メンデルスゾーンミヨー

こんな感じ。もちろんいい加減ですよ。当然マーラーだって交響曲第2番と第10番では全然違うし。赤がユダヤ人。わたしは、ユダヤ人と粘りってあんまり関係ないと思うんだけどなぁ。いやそんなことないっ!ユダヤ人作曲家にはユダヤ人の特徴がある、ちゃんと赤と黒はきれいに分かれるって言う人がいたらぜひ教えて下さい。お願いします!

さらに、ユダヤ人指揮者のマーラー。わたしが実際に聴いたことあるのは、スラトキンさん、MTTさん、マゼールさん、レヴァインさん、ビシュコフさん。全然違うよね。この中ではマゼールさんが粘り系かなぁ(ってか変態)。CDだったら、バーンスタインが典型的なユダヤ人のマーラー演奏だとよく言われるけど、ワルターやショルティとは全然違うしねっ。

それにしても,ユダヤ的な音楽って誰が言い出したんだろう?「音楽におけるユダヤ性」を書いたワグナーじゃないよね。斜め読みした感じでは、もっと大ざっぱな背景的なことを批判してる感じだし、情念だとか粘着だとかそんな言葉は出てこない。どこかの音楽評論家さんがレコードの解説に書いたのかしら?バーンスタイン指揮のマーラーのレコードで。

ちなみに、わたしはマーラーの音楽からは’ユダヤ’を感じません。宗教的にもマーラーって音楽を聴く限りむしろキリスト教的ですよね。最後の方は、ニーチェの思想が色濃くなってる気がするけど。
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by zerbinetta | 2013-04-06 23:45 | 随想 | Comments(0)

温かなぬくもりのホールの音楽 鈴木雅明、東京シティフィル モーツァルト、マーラー   

2013年1月18日 @東京オペラシティ コンサートホール

ヨーゼフ・マルティン・クラウス:交響曲 VB146
モーツァルト:交響曲第25番
マーラー:交響曲第4番

森麻季(ソプラノ)
鈴木雅明/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


初めて行くオペラシティ。日本で音楽会聴くのも超久しぶり。ワクワクしないわけありません。同じビルにあるICCでやってる「アノニマス・ライフ」展も観に行って充実。スプツニ子!さんの「菜の花ヒール」観たかったの〜。わたしにはちょっと大きすぎるヒールでした。でも菜の花のアイディアはステキだな〜。

音楽会は東京シティ・フィル。初めて聴くオーケストラです。指揮の鈴木雅昭さんも初めて聴く指揮者。バッハ・コレギウム・ジャパンを結成して海外でもめちゃくちゃ評価の高いバッハのカンタータ全曲を録音している指揮者さん。バッハとか専門と思ったら今日はマーラーも指揮するのでびっくり(とはいえ、古楽の演奏家が古楽専門って訳ではないですものね)。

まず、ホールの印象。木組のぬくもりのある高い天井の美しいホールは、見た目もとってもステキで、音もとってもまろやか。なんか高原の避暑地の教会に来たみたい。ロンドンだったら規模は違うけどキングス・プレイスのホール1が近いと思うけど、こんな贅沢なホールを持ってる東京の人は羨ましい。ひとつ欠点を言えば(これを難癖をつけるというのですね)、音がとても良く響きすぎてお風呂で歌うように、オーケストラが上手く聞こえすぎることかな。あれ、これ欠点とは言えないかぁ。

東京シティ・フィルは舞台上で音出ししていた奏者もいったん袖に引っ込んで、みんなで出てくるスタイル。拍手しようとしたら、お客さんは粛々と出を待っていてちょっとどぎまぎ。拍手しないのがルールなのかなぁと思いつつ、モヤッと気持ちをもてあましてしまいました。なんかとんでもない宗教的な儀式が始まるみたいでびっくりしたよ(パルジファルなんかはこんな雰囲気だものね)。

最初のクラウスは名前も初めて聞く作曲家。モーツァルトと同い年で、スウェーデンのモーツァルトと呼ばれた人なんだって。単一楽章で、フーガに特徴のある音楽は、ホールが響きすぎるせいか、オーケストラの音が豊かなせいか、わたしにはちょっと曖昧に濁ったように聞こえて残念でした。現代楽器では丸くなっちゃうので音を短めに切ればいいのかなと思いました。ピリオド楽器や奏法をすれば良いとは思わないけど、音の作り方に工夫ができるようになればもっといいのにって外野席から勝手に思いました。

モーツァルトのト短調の交響曲は、マッシヴに聞こえてくる弦楽器の速いパッセージの音の掛け合いが、バロックのコンチェルトグロッソみたいに響いてとっても爽快でした。これはいいなぁ。決して重くならない青春の疾風怒濤。小林秀雄が疾走する悲しみと書いたのはこの曲じゃないけど、でもその言葉がぴたりとはまる(元々この言葉を作ったのは小林秀雄じゃないし、そして、元になる言葉を書いたアンリ・ゲオンと小林秀雄がこの言葉を使った曲はふたりで違ってる)。だから、モーツァルトは悲しく疾走するんだ。あなたが思ったその曲で。そう言えば、ツイッターでは、切れ味の良い包丁でキャベツの千切りを切るような爽快感、と書いたけど、わたしにとってはキャベツを切る悲しみ?なんて馬鹿なことを言ってないで、疾走して涙が置いてけぼりを食らうような晴れ上がった悲しみなのよね、この曲も。

休憩の後はマーラーの交響曲第4番。この曲大好きなので楽しみにしてました。それにバッハで名をあげた鈴木さんがどんな音楽を作るのか。無伴奏ヴァイオリン曲みたいな点で対位法を作るので鈴木さんの音楽にますます興味がつのったのです。
鈴木さんはゆっくり目のテンポでとても丁寧に音楽を作っていきます。モーツァルトを聴いてるときからもわもわとオーケストラの上手さに満たされてきたんですが、このマーラーもとっても良い音で弾いていきます。鈴木さんの棒にきちんと反応してひとつの楽器のように音を紡ぐ。美しさ、天国的な平安を全面に押し出した演奏。軋んだり反発したりする音たちをひとつの整った音の絵にまとめる演奏だったのだけど、わたし的にはタイプの演奏ではなかったんですけど(わたしは、軋む音たちからなる対位法を強調した演奏が好きです)、でも、音楽の豊かさ、美しさはこの演奏をとてもステキなものにしていたし、わたしもとても楽しんでいました。
特に第1楽章が良かったです。音の薄い室内楽的なアンサンブルの多い、ちょっとした失敗ですぐ崩壊してしまうような華奢な音楽を流れるように豊かにまとめたのが素晴らしかった。反対に、第2楽章はもう少し、突っ込んだ表現をして欲しかったなと思います。せっかく高く調弦されたヴァイオリンのソロが普通のヴァイオリンの音とあまり変わらなくて、オーケストラの中に入ってしまっていたのが残念です。これはソロイスティックにKYで弾いてもらいたかったです。
第3楽章は、この演奏が一番ぴったりはまるハズなのですが、少し油断したのか、多少の弛緩と停滞がみられてしまいました。もったいない。音楽がわりとストレイトに書かれているので、かえって仕掛けが欲しくなっちゃうのかなぁ。それとも、究極の美を求めちゃうので(MTTとロンドン・シンフォニーで聴いたとき、この楽章をぜひわたしのお葬式にと思った)、少しでも欠けると(なんと贅沢な!)目立っちゃうのかしら。
ソプラノの森麻季さんが入った第4楽章。麻季さんのまっすぐで素直で軽やかな歌は、マーラーの子供の世界のイメジにぴったりでステキ。ただわたしの席のせいか、声がいいときと悪いときの差がはっきり出ちゃったみたい。麻季さんってずいぶん前にワシントン・オペラ(現ワシントン・ナショナル・オペラ)で歌っていたのを聴いたことがあるのだけど、今は日本を中心に活動してらっしゃるのかな。1998年のオペラリアのコンクールで第3位入賞してドミンゴさんのワシントン・オペラに引っ張ってこられたんだと思うのだけど、この年の入賞者って1位にシュロットさん、2位がディドナートさんという錚錚たるメンバー。因みにわたしが初めて彼女を聴いたのは、ネトレプコさんの代役でジルダを歌ったときだけど、そのネトレプコさんと麻季さんとコンクールを競ったシュロットさんが後に結婚するんですね(って全然本題に関係ないワイド・ショウ・ネタでした)。

今日はステキなホールで、ステキなオーケストラ、ステキな音楽を堪能しました。素晴らしい夜。シティ・フィル良いですね〜。ヴィオラにちょっと難点があったけど、これからも聴いていきたいオーケストラでした。
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by zerbinetta | 2013-01-18 21:40 | 日本のオーケストラ | Comments(0)