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パパ来たる K.ヤルヴィ/都響 ペルト、ライヒ   

2016年5月18日 @サントリーホール

ペルト:「フラトレス」、交響曲第3番
ライヒ:「デュエット」~2つの独奏ヴァイオリンと弦楽オーケストラのための、
   「フォー・セクションズ」

クリスチャン・ヤルヴィ/東京都交響楽団


なんかとってもアウェイ感の強い音楽会でした。

踊る指揮者クリビーを見に来ました~。クリビーというと、最初に聴いたのが中南米の作曲家の特集だったのでそちらの人かと思ったら、パパヤルヴィさんの息子だったのね〜。踊る指揮者。ブラームスの交響曲でも遺憾なく踊って、隣で聴いていた高校生たちも真似して踊り出す始末。秘かにヤルヴィ家で一番好きかもなんです。
チケットの引き取りにホールの窓口に並んでたら、見知った感じの人が前を横切って、、、おや?と思ったらパパ・ヤルヴィさんでした。ちょうどN響を振るので来日中なんですね。ご両親も次男坊の演奏が心配だったのでしょうか?

プログラムの前半は、クリビーと同郷で交流もあるペルトのシグニチュア・ワーク、「フラトレス」と’ペルト’になる寸前の蛹の時期の交響曲第3番(パパ初演で、パパに献呈されていたハズ)。後半は、クリビーの第2の故郷、というかわたし的にはクリビーはアメリカ人、USのライヒ(ほんとはライシュ)の2曲。わたしの苦手なミニマリズムの曲です。

「フラトレス」は打楽器と弦楽合奏の版(この曲いろんな楽器編成のヴァージョンがあります)。わたしのペルト・ブームで2番目に来た曲(出逢いは「ヨハネ受難曲」でした)。彼独特のティンティナブリ様式の代表作のひとつですね。とても静謐。シンプル。なので演奏するのはとっても難しい。打楽器の音のあと、低音の持続音の上に、静かにノンヴィブラートで歌い出される高音のヴァイオリンは、オーケストラの実力がもろに出てしまいそう。都響の音は枯れた感じで、落ち葉がかさこそ鳴るみたいな。わたし的には、弱音の中に艶のあるつーっと引かれる蚕の糸みたいな音が好み。枯れ葉の転がる晩秋ではなくて、つららの伸びる厳冬のイメジ。打楽器も譜面面はわたしにも叩けそうなたった3つの音が音楽の節目節目で出てくるんだけど、微妙にクレッシェンドしたりしなかったりものすごく神経をとがらさせられそう。音のばらつきがほんのちょっとあったのが気になったんだけど、そんな細かいところまで聞こえてしまうこの曲って鬼よね。

交響曲第3番は、ティンティナブリ様式に至る前の作品だけど、外交的な表現への欲求に加えてグレゴリオ聖歌への傾倒とか内向的な後の作風も混じってきて、過渡期というか、自身を模索している感じの音楽。ただね~、交響曲ってペルトさんにとってはアウェイだと思うのよね。交響曲って形式というか器だと思うんだけど、ペルトさんの音楽ってその器に合わないんだもの。少なくともそれ以前のペルトさんは、交響曲の器に合う曲を書こうとしてたりもしたけど、後期の様式の萌芽の見られる第3番になるともうどうしようもないずれが。交響曲なんてある時代のローカルな様式でしかないのだから(交響曲こそクラシック音楽の最高峰という意見もあるけど、今のオーケストラにとって重要なレパートリーではあるけれども、現代の音楽にとって交響曲はもはや中心的な役割を負ってないし、過去だって、重要な音楽の中心地、イタリアやフランスではあまり交響曲は書かれていないよね)、無理に書く必要はないよ、と余計なことを考えながら聴いていました。というかそういうことを考えさせられる演奏だったんです。なんかこうピタリとはまってなくて座り心地が悪いというか。フォルテで現れる金管楽器の聖歌もなんかちょっと雰囲気壊してた。
後年はティンティナブリ様式を確立して交響曲とは決別した、、、と思ったら第4番を数年前に書いてるーーーぎゃぽーーん。

音楽会後半は、ライヒ。わたしには縁遠くて、多分バレエの伴奏で「エレクトリック・カウンターポイント」くらいしか聴いたことがないハズ。どんな音楽なのかワクワク(でも苦手なミニマムだろうからしょぼんかな)。
「デュエット」は、ふたりのヴァイオリン・ソロ(都響トップの山本さんと双紙さんのソロ)、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの合奏の編成。弦楽合奏は、普段の席で弾いたので、ステージの上手側だけに人がわらわら(ソリストは指揮者の正面)の異様な様相。でも、今日の音楽会で、この曲が一番クリビーらしい良い演奏でした。踊ってたし。音楽は、ヴィヴァルディの「四季」(というか本当は「調和の霊感」の中の2つのヴァイオリンのための協奏曲)を思い出させるようなソロの掛け合いのある競奏曲風のそしてだんだんと盛り上がっていくビート感がUSのライトで明るい雰囲気。ここにはクラシックとポピュラー音楽が溶け合ってる。合奏に沸いてくる煽動するリズムがあればもっと良かったんだけど、ソロを弾いたおふたりの自発的な掛け合いがステキでした。

「フォー・セクションズ」(日本初演)は、2台のピアノ(とシンセサイザー)、マリンバ、ヴィブラフォンが2台ずつと大きなオーケストラのためのミニマム作品(なんて矛盾)。こちらもアメリカンな、わたしは行ったことのない癖に、西海岸の空気感を感じさせる明るいけれども退廃的な雰囲気も匂わせる音楽。やっぱり、ジャズの伝統のあるアメリカのインプロヴィゼイションを感じさせる曲だと思うのだけど、、、、
これが強烈なアウェイ感。オーケストラはこんな音楽も至極真面目に弾いていて、譜面的には正しいんだけど、マンガのセリフを生真面目に朗読したみたいでちょっとつまらない。アメリカの音楽に慣れていないことがありありのオーケストラ(しかもミニマルの曲って数えるだけで大変)なので、まず、音符を弾くことに精一杯で、クリビーも正確に振ることに重きを置いていて踊らない。多分、USのオーケストラがやったら嬉々として自分たちの音楽を奏でてくれると思うんだけど。。。途中で落ちても気にしな〜〜い。
それに、慣れないお客さんも生真面目に聴いていて、寄席で笑わずにシーンと真剣に落語を聞いているお客さんみたい。クリビーの異分子感ったら。孤軍奮闘。笛吹けど踊らず。

日本って、USからもヨーロッパからも等しく遠く離れてるので、ドイツもフランスもイギリスもアメリカ音楽も分け隔てなく音楽会のプログラムに乗るし、それを等しく受け入れているという点では、ものすごく貴重な国。と同時に等しく遠いので、自分の音楽として理解できているかは微妙。もしかすると和風な理解をしているのではないか。と、今日のオーケストラとお客さんを見て感じたのでした。ベートーヴェンやブラームスも。ベートーヴェンやブラームスはもう慣れてるけど、アメリカ音楽はまだ、体が自然に動くところまでには慣れていないの。こういうプログラムこそ、客席の椅子を取り払ってオール・スタンディングでやったらいいのにな。

USとかヨーロッパとかでこういう曲の音楽会をやると、必ずと言っていいほど、髪をまっ赤に染めた人とか、パンクとかロックやってるみたいな人とか、普段は、クラシック音楽会では見かけないような人たちも来るんだけど、ここでは普通の定期演奏会と全く同じ客層。クラシック音楽を聴きに来る人たちが、アメリカやエストニアの現代音楽を受け入れていることを慶賀すると同時に、鋭いアンテナを持つロック兄ちゃん、パンク姉ちゃん、との間にはまだ高い壁があるのかなぁとも思って寂しくもなるの(日本のアヴァンギャルドの人たちのアンテナが低いのかも知れないけど)。ライヒを聴いてダンスする日はいつか来るのかしら。


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by zerbinetta | 2016-05-18 00:43 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

出逢いそして別れ ツァグロゼク/読響   

2016年3月17日 @サントリーホール

ベンジャミン:「ダンス・フィギュアズ」
コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」

ローター・ツァグロゼク/読売日本交響楽団


あとで気がついたら、今日がわたしの読響さんのシーズン最後の音楽会になってしまいました。来シーズンはサブスクライブしないので、読響さんとはお別れです(お客さんとしていくつかの公演はシングル・チケットで聴きに行きますよ)。指揮者のツァグロゼクさんは、全然知らない人。なので、ヘンに期待もせず、平常心で聴きに行きました。

始まりはイギリスの存命の作曲家、ジョージ・ベンジャミンさんの「ダンス・フィギュアズ」(2004)。で、今日の収穫その1は、ベンジャミンさんを知ったこと。
と、初めて聴く人のように書いてしまいましたが、あとで調べたら、わたし、この人のオペラ聴いているんですね。すっかり忘れてました(というか誰が書いていたか意識してなかった)。バレエのための音楽ということで、どんな踊りになるのか妄想しながら聴いたら楽しかった。とは言え、どんな踊りになるかあまり想像できなかったんですけど。わたしは物語バレエの人なので、まず物語を想像するんだけど、ちょっとそれが難しかったな。初めて聴く曲だし。でも、これ、とってもステキな音楽でした。響きがとってもきれいなんですよ。その響きを作るための楽器の選択がとっても色彩的でいいの。

「ハーリ・ヤーノシュ」は、今日の最後の「英雄」とナポレオンつながり。ほら吹きヤーノシュがナポレオンを打ち負かした話が、第4曲なんですね。この曲は、前にも聴いたことあるのだけど、ツィンバロムをちゃんと見たのは初めて(前に聴いたときはかぶりつきだったので楽器がよく見えなかった。今は亡きマズアさんがしきだいから落っこちたのを鮮明に覚えてる)。打楽器だとは知りませんでした(正確には打弦楽器と言うんだそうです。ピアノの弦のようなものをばちで叩くの。
ツァグロゼクさんの演奏は、即物的。物語性や絵画性を強調することはあまりしないで、音をあるがままに音にした感じ。ドライでわたしは好きな演奏でした。ただオーケストラにはもちょっとがんばって欲しかったな。特に金管楽器。弱音と強音での音の力に差がありすぎて、弱音では音に芯がないというか、ただ小さい音で吹いたという感じで響きが薄かったです。あと、トップ奏者はまだしも、セカンド、サードの人たちが少し力不足でした。

ベートーヴェンの「英雄」は、「ハーリ・ヤーノシュ」の演奏から予想されたように、やっぱりさくさくとドライなある意味ピリオド・スタイルに近い演奏でした。ティンパニも固いマレット使っていたし、鋭く付けたアクセントとか、もったりしないテンポとか、甘いケーキ系ではなくておせんべい系な感じ。この間の、広上さんのベートーヴェンが時代遅れ(そういうロマンティックな表現も音楽に説得力があればいいのですけど、昔聴いた巨匠の演奏をなぞってみました的な演奏ではダメです)だったので、今日のツァグロゼクさんの演奏で溜飲を下げました。第2楽章のお終いでティンパニのマレットを柔らかなものに代えていたのも心憎いです。あっでも、ホルンにはもっとがんばって欲しかった。

ツァグロゼクさん、好みのタイプのイケメンおじいちゃんだったわ。音楽が老いぼれてなく尖っていたのもステキ。
読響さんとはこれでお別れ(定期会員として)だけど、上手いっぽいのに物足りなさを感じることが多かったのは、多分、トップ奏者と後ろの方の人たちの音楽の力に差があるからだと思います。読響がもう一段のレヴェルアップを図るには、後ろの人がその他大勢ではなくひとりひとりがオーケストラの音楽に前の人と同じように参画するようにならなければいけませんね。全員がひとつの音楽を奏でられるように。良いオーケストラなのでそうなって欲しいです。
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by zerbinetta | 2016-03-17 00:07 | 日本のオーケストラ | Comments(3)

周回遅れのベートーヴェン 広上/日フィル   

2016年3月4日 @サントリーホール

シューベルト:交響曲第7番
尾高惇忠:ピアノ協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第5番

野田清隆(ピアノ)
広上淳一/日本フィルハーモニー交響楽団


初めて聴く広上さんと日フィルの名曲系プログラムに挟まれてぽつんと本日初演のピアノ協奏曲。プレコンサート・トークで広上さんは、定期演奏会でクラシックの定番に新しい(現代)音楽を挟むというのは珍しい、とおっしゃっていたけどええぇそうなの?当の日フィルも新作を定期演奏会でいつものレパートリーの中に入れて初演してるし、珍しいことではないのではないかしら。

シューベルトの「未完成」とベートーヴェンの「運命」の間に挟まれたのは、尾高惇忠さんのピアノ協奏曲。惇忠さんは指揮者の忠明さんの兄。お父さんの尚忠さんは指揮者、作曲家だったから父の仕事を兄弟で分け合った感じ(?)。で、広上さんは、惇忠さんの教え子。
そのピアノ協奏曲は、和風の入ったちょっとメシアンっぽい、一見複雑そうで、実は至極単純な細胞の積み重ねでできている感じ。変拍子のような第3楽章もなれてくると頭でリズムが取れるようになったのでやっぱり単純な繰り返しなんでしょう。尾高さんは、プログラムノートの中で、斬新な音楽の語法に囚われないで真に新しい現代音楽を模索していると書いていましたが、わたしには、この音楽が、今の人の心を突き刺す音楽のようには聞こえませんでした。でも、もしかすると今の人は、心に突き刺さるような音楽を求めていないのかも知れませんね。ちょっと背伸びをすれば分かりやすい、耳に入りやすい音楽で、クラシック音楽の文脈からは、普通の音楽会でラフマニノフの協奏曲の代わりに入ってもいい感じの曲だと思いました。
野田さんのピアノは、難しさを感じさせずにこの曲を弾きこなしていたし、今日初めて演奏される音楽を癖なく紹介している感じは好感持てました。広上さんは、なんかものすごく気合いが入っていて、シャドウボクシングのようにしゅっしゅと発しながら複雑なリズムを右に左に捌くようにオーケストラをドライヴしていてアスリートみたいでした。

ピアノ協奏曲を挟んで前半の「未完成」は、初めて聴く広上さんの指揮だったんですけど、わりとオーケストラを自由に歌わせるような演奏だったんだけど、オーケストラはなんかおとなしく、あまり積極性が感じられなかったのが残念です。ベートーヴェンにも言えるんですけど、ダイナミックレンジが狭く、正直退屈でした。弱音の純度がもっと上がらなければ、こういう曲は難しいかも。

「運命」は、残念ながら完全に時代遅れ。敢えてそういう音楽をしたいという、必然性や覇気も感じられず、昔レコードを聴いて育ってきた往年の巨匠の演奏の表面をなぞってるだけのように思えました。ベートーヴェンって常に新しくされ、それぞれがもう本当にエキサイティングで新しい発見に満ちている音楽だと思うのだけど、ロンドンではいつも最新鋭のベートーヴェンを聴けたのだけど、それは贅沢で、日本では難しいのでしょうか。広上さんの指揮は見ていて楽しいのに、楽天的な性格なのか、音楽が深い淵をぞくりと見(魅)せることはありませんでした。演奏慣れしている名曲系は演奏者にとってむしろ怖いかも知れませんね。



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by zerbinetta | 2016-03-04 00:04 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

創立60周年 ただ今絶好調 新交響楽団第232回演奏会   

2016年1月24日 @東京芸術劇場

芥川也寸志:交響曲第1番
エルガー:交響曲第2番

湯浅卓雄/新交響楽団


新交響楽団、絶好調でした。
新交響楽団の創立60周年演奏会その1です(今年がその年なので、今年の音楽会の分、その4まであります)。曲目は、新交響楽団の創立に深く関わっている芥川の交響曲となぜかエルガーの交響曲第2番(第1番に比べて滅多に演奏されない曲ですけど(ロンドンの4年間で1回も聴かず)、なぜか日本のアマチュア・オーケストラで2回目です。第1番は1回なので日本では2番の方が人気?)。プログラム冊子には、新交響楽団の創立時の歴史を振り返る興味深い座談会が掲載されていました。今から思うと隔世の感ですね。労音とか。

今の新交響楽団に芥川を直接知っている人がどのくらいいらっしゃるのか分かりませんが、オーケストラのDNAとしてこの交響曲(約20年ぶり、4度目の演奏だそう)の演奏には特別な思いを感じるのかも知れません。
1954年(29歳)作の交響曲第1番は、3楽章はちょっぴりショスティ、4楽章はばっちりプロコフィエフ風のとても分かりやすい音楽。彼らの影響を強く受けていると言っても充実した力作。似てると言っても安易な真似ではなく、音楽が作曲家の血になってる。そしてその血は、オーケストラにも流れている。もちろん、オーケストラの皆さんはどんな曲にも真剣に取り組むと思うんだけど、芥川の曲は、チェコ・フィルが「我が祖国」を演奏するのと同じようなルーツを新交響楽団の演奏に感じさせるんです。染みついているもの。財産ですよね。湯浅さんも戦後日本のオーケストラ作品をたくさん演奏している方で、迷いのない指揮。オーケストラと作品との親和性や熱のこもった演奏と相まってこの曲の魅力を存分に引き出してくれました。若書きの作品って筆の走りが大切で、熱く演奏されてこそ、な感じがします(マーラーの最初の交響曲とか)。とても良い意味で新交響楽団のアマチュアリズムが生きていました。わたし、新交響楽団って下手したらプロ並みの演奏をするオーケストラだと思ってるんだけど(昔の地方オーケストラのレヴェルくらい)、温度の高い迸る音がアマチュアならではの音のように思えて、それが今日は聴かれて(このオーケストラを初めて聴いたとき、芥川の別の曲もあったんですけど少しおとなしく感じました)嬉しかった。このオーケストラ、今、絶好調というか旬な感じがしました。

エルガーの交響曲第2番は、わたしにはうねうねと何かつかみ所のない音楽。なので、シンフォニックな音を楽しむという聴き方なんですけど、オーケストラが十分上手くて音がちゃんと開放的に解き放たれているのですかっとしました。ひとりひとりが情熱を持って音楽を弾いてるので、ほんと、下手なプロのオーケストラを聴くよりずっと好き。残念ながらプロのオーケストラってときどき弾いてる音楽を分かってない人がいるのよね。プロを聴くからこそ耳がとんがって厳しい聴き方になるからかも知れないけど。

60周年の記念年で、特別な思いのある新交響楽団、次も楽しみです。こういうのほど聴いた方がいいと思うのよ。


新交響楽団の次の音楽会は、創立60周年シリーズ2、第233回演奏会が4月10日、東京芸術劇場にて、飯守泰次郎さんの指揮でマーラーの「復活」他です。
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by zerbinetta | 2016-01-24 23:41 | アマチュア | Comments(0)

わたしも体液になりたい 作曲家の個展2015 原田敬子   

2015年10月27日 @サントリーホール

原田敬子:響きあう隔たり III、第3の聴こえない耳 III
     ピアノ協奏曲、変風

廻由美子(ピアノ)
稲垣聡(プリペアド・ピアノ)、シュテファン・フッソング(アコーディオン)
加藤訓子(打楽器)、曽根朗(音響)
中川賢一/アンサンブル・モデルン、桐朋学園オーケストラ


御招待に応募してみたら当たった(!)ので聴いてきました。サントリーホールの作曲家の個展、今年は原田敬子さん。
原田さんは、初めて聴くお名前。全く予備知識が無いので、せめてどんな人か調べるためにウィキってみたら、なんかとっても凄い人で、でも作品(作風)の特徴については書いてあることがちっとも想像できない体たらく。
音楽会に先だって、音楽評論家の高橋健太郎さんを聞き手に、原田さんとピアノの廻さんを交えてプレコンサート・トーク。これがね~~~。ぐだぐだだったのぉ~~。高橋さんが全く仕事で来てなくて、お終いも原田さんに促されて終わりにするという、まず司会者としてダメ。聞き手としても上手くお話を引き出すふうでもなく。ちゃんと仕事しろよー。

さて、原田さんの創作のアイディアは『演奏家の、演奏に際する内的状態を創造する』(以下、二重カギ括弧はプログラムに書かれていた原田さんの言葉)が根底にあるそうです。『音楽を聴くと体液が変化する』というキルヒャーの言葉(1650)。聴衆側の変化が「体液」だそうですが、わたしは果たして体液になれるんでしょうか。
「響きあう隔たり III」(2000-01)では、それは「『自らの音を聴き、他を聴き、そしてその隔たりを感じ取りながら全体を聴く・・・』ことになり、「第3の聴こえない耳 III」(2003)ではさらに、『響きを連結する際に必要な音楽的エネルギーを、物理的には音が発音されない”間”の領域にまで』広げられていきます。10年を隔てた新作、今日が初演のピアノ協奏曲(2013-15)では『強烈な個の自律的な出会いとしてのオーケストラ曲』、そしてさらに「変風」(2015)で『強烈な個性の集合体が、他律的に各々の場所で存在する音楽』と変化していく。その兆しとこれからのキーワードが変風。

分かりましたか?わたしは、プログラムの説明を読んでもやっぱり分かりませんでした。ただ非常に観念的に、頭の中で論理的に組み立てられている音楽だとは分かります。ただそれを耳で聴いて体得できるか?そこが、わたし自身の問題、体液の欠けなんです。聴いたときに少しもやもやした気持ちも残りました。それはきっと、プログラムにも書いてあった彼女の音楽的主張がよく聴き取れなかったから。現代の音楽がまだ、聞き分けられないの。

でもね、頭では理解できなくても素晴らしい音楽!もっと聴きたいしもっと聴かれても良い音楽と感じました。原田さんの音楽は、楽器の音を壊すような極端な特殊奏法を使っていなくて、普通にオーケストラを聴いてきた耳にも素直に入ってくる音で構成されています。多分楽譜を見ると、そして演奏する奏者にとってはものすごく神経を使う難しさがあると思うんだけど、聞こえてくる音は涼やかで、耳を澄ましたくなるけど、緊張を強いるような音楽ではありませんでした(もっと鋭く聴かなきゃいけないのかもしれないけど)。

1曲目の「響きあう隔たり III」ー年譜によると彼女の2作目のオーケストラ作品ーが、外見的には一番複雑で、3人の独奏者(プリペアド・ピアノ、アコーディオン、打楽器)にエレクトロニクス、客席に数人のヴァイオリンを配しています。ただわたしの席からは、客席のバンダを見下ろす格好になっていたので効果はよく分かりませんでした。
外見とは反対に作品が下るにつれて、シンプルだけど、音の関わりは複雑になっていたように思えます。2曲目の「第3の聴こえない耳 III」は、もしかしたら音を伴う「4分33秒」のようなコンセプトの音楽なのかも知れませんね。ただ、実際、わたしは音を聴くしかないので(ステージを見つめているにせよ)、少し頭でっかちかもって思いました。

休憩のあとのピアノ協奏曲(初演)は、音楽としては凄く良かったけど、ブラームスの以上にピアノが目立たなくて、きっとものすごく大変なこと弾いてるのに、え?これ協奏曲?みたいになって残念(採り上げるピアニストがいないと演奏機会が減るから)。内部奏法も多いし、繊細な音をピアノに求められているんだけど、もっとガシッとピアノが前に出てくれば、ピアノとオーケストラの対比や対話、対決が生まれて良かったのにと素人のわたしは思いました。でも、原田さんの興味はそういうところではなく、もっと内面的な音が出る前のエネルギーのやりとりなのかも知れませんね。
最後の「変風」(初演)では、部分部分を細部から組み立てて全体を作る、少し即興的な(楽譜にはきっちり書き込まれているのかも知れませんけど)揺らぎのある音楽でした。
それにしても原田さんの明確な論理性とその論理を離れて音自身が自由になる自律性のせめぎ合い、というか偶然性までが説明可能なフラクタルな方向に進んで行くのかしら。わたし、この曲好きでした。

うーーむ。それにしてもトホホな感想。原田さんが引用していた、安富歩さんの言葉「3歳の女の子の鼻歌が、そのまま複雑化していった音楽」って本質を突いた素晴らしすぎる言葉だな。わたしも音楽を聴いて、一言で的確に中心を射貫く感覚と言葉を身につけたい。センシティヴな体液として。

中川さんの指揮するオーケストラは桐朋学園の学生さんのオーケストラに、アンサンブルモデルンのメンバー7人が入って核を作ります。とても献身的にプロではないけれどもしっかりと仕事をした演奏は素晴らしかったです。作曲家もこういう演奏をしてもらえると、しかも東京のクラシック音楽の中心のひとつのプレステジアスなホールで。
今日はわたしにとってもステキな出逢いでした。
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by zerbinetta | 2015-10-27 21:37 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

サントリーホール宇宙船になる 下野/読響「ハーモニレーレ   

2015年10月13日 @サントリーホール

ベートーヴェン:「コリオラン」序曲
ヒンデミット:「白鳥を焼く男」
アダムズ:「ハーモニレーレ」

鈴木康浩(ヴィオラ)
下野竜也/読売日本交響楽団

なんかちょっとぼんやりしててね〜。開演直前にホールにふらふらと向かっていたら、当日学生券の方に誘導されてしまった。大人なのに。く や し い

気を取り直して。いつかプロのオーケストラで聴いてみたいと思っていた、下野さん。読響さんで実現です。
まずは、「コリオラン」。厚い弦楽器の音は読響さんらしい充実。ただ、弱音で柔らかな旋律を弾くところで、音量と共に力も抜けてしまったのが残念でした。緊張感を抜いて音をふわりとさせて慰めを意図した演奏だと思うのだけど、力の抜けてしまった音は、膝かっくんされたときみたいに地面に落ちちゃったのよね。弱音でも強い音が出せるようになればもっともっと表現の幅も広がるしいいんだけどなぁ。

初めて聴く、「白鳥を焼く男」は、ヒンデミット特有の無機質感があるかと思えばそうではなく、民謡から採った題材で作曲されてて、とても聴きやすい曲でした。「白鳥を焼く男」から「パルジファル」を連想したんだけど、ちっともそうではなくて、タイトルの元になった最終楽章は、楽しげな俗謡。「子供の魔法の角笛」のようなシニカルな童謡の世界観なのかな。ヴィオラは、読響ソロヴィオラの鈴木さん。ソロとオーケストラとの掛け合いも気が置けない感じでとても楽しい。ステキな曲だし、ステキな演奏でした。良い曲に良い演奏で出逢う、幸せなときですね。

最後は「白鳥」つながり(?)(作品についてアダムズさんは「パルジファル」に言及しています)で「ハーモニレーレ(和声学)」。この曲が日本で演奏されるのは30年ぶり、まだ2回目だそうですけど、でも、アダムズさんは、存命の作曲家なのに、人気があって音楽会でもよく演奏される現代作曲家ですね。大オーケストラを使ったミニマリズムの作曲家と紹介されることもあるけど、確か本人もおっしゃっているとおり、わたし的にもミニマリズムには分類したくない作風だと思います。
「ハーモニレーレ」は、あれ?アダムズさんってこんな感じだっけ?と感じるところもあって、わたしの知ってるアダムズさんとは少し違うと思ったら、初期の頃の作品なんですね。わたしが聴いてきたアダムズさんは、新しめのものが多かったみたい。でも、大オーケストラで奏でられる色彩的で音がレーザー光線みたいに放射される音楽は、巨大宇宙船がカラフルな光を放ちながら宇宙を巡航するようなSFチックな感じ。リズムのずれと重なりに、オーケストラの音色の重なりや配合のずれが加わって、巨大な銀河の渦を現せる様はアダムズさんの面目躍如。読響さんもこういう曲得意よね(とは言え、中の人は数えるのに必死だったかも)という感じで、読響さんのカラフルな音色にピッタリ。サントリーホールがついに地上を離れ、東京の、地球の夜景を外に見ながら宇宙空間に旅立って行く。わたしたちは音の光りを浴びながら宇宙を遊泳して気持ちがいい。途中で、マーラーの交響曲第10番の象徴的なトランペットの叫びが聞こえたとき、びっくりしたけど、あとで読んだプログラムによるとマーラーの書かれなかった交響曲へのオマージュでもあるのですね(アルフォンタスの方はよく分かりませんでした)。

下野さんは、どの曲も的確な指揮でやっぱりステキでした。これからどんどん活躍していくんでしょうね。って、最初にプロのオーケストラでいつか聴いてみたいって思っていた下野さん、と書いて、最後に今思い出しました。この間都響さんと聴いたのでした。うーうーうー、わたしの記憶力の悪さに。。。あああ、情けない。でも下野さんは良い指揮者ですよん。




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by zerbinetta | 2015-10-13 14:29 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

声と歌の呪術と愉悦 太田真紀 シェルシ「山羊座の歌」   

2015年10月12日 @スーパー・デラックス 六本木

シェルシ:「山羊座の歌」

太田真紀(ソプラノ)
溝入敬三(コントラバス)、大石将紀(サックス)
稲野珠緒、神田佳子(打楽器)、有馬純寿(エレクトロニクス)

いつか聴いてみたいと思っていた、現代音楽歌いの太田真紀さん。いつか聴いてみたいと思っていたシェルシ。その彼の歌曲の代表作、「山羊座の歌」をシェルシの研究もしている新しい世代のスペシャリストで聴けるなんて。何てステキな機会でしょう。もうワクワクして、チケットも発売日に朝一番で買いました!(チケット争奪戦があったわけでもないのに。しかも自由席だし)

でも実は、わたしは根っからの現代音楽聴きではない。シェルシについてもウィキペディアで読んだような知識しかなく(去年日本でも賑わった、ゴーストライター音楽家の本家というか大家)、会場で解説を書いたプログラムなりパンフレットも配られなかったので(これが今日唯一の不満。せめて、大ざっぱに(というか多分歌詞にあまり意味がないので、本当に大ざっぱに)何を歌っているのかヒントになるような解説があればもう少し音楽に近づけたかな。反対に無垢な状態で音楽に出逢えたのは良かったんですけど、あとで音楽のことを知ったり考えたりするのに、何か手がかりが欲しかったのも事実。太田さんのエッセイみたいなものがあったら最高だったんですけど、それは勝手に望みすぎかな。音楽家は音楽が勝負だし、この音楽会のインプレッション(ごめんなさい。どうしてもピッタリの日本語の単語が思い浮かばなかったので。敢えて言えば刻み込まれた感動かな)は、決して揺るぎないものなんですが。

会場は、100人くらいが入るライヴ・ハウス。久しぶりのライヴ・ハウス(むかーーしヘンなバンドとか変なバンドとか聴きに行ったの)。狭い階段を地下に降りていって暗い空間に入るのもクラシックの音楽会にはない雰囲気でステキ。熱心なファン(なのかな?)で満杯。嫌が上でも気持ちが盛り上がります。

「山羊座の歌」は、全曲(と言っても未完)20曲で1時間ほど。そのほとんどがソプラノの無伴奏の独唱で、何曲かに歌手自身が叩く楽器やリコーダー、コントラバス、サックス(2枚舌のリードを付けて吹いてませんでした?)、ふたりの打楽器、ライヴ・エレクトロニクスがそれぞれ入ります。とてもシンプルに削り取られた音楽。
ただ、わたし、現代音楽が分かる人ではないし、現代音楽クラスタに入る聴き手(現代音楽関係の音楽会に行くといつも同じような顔を目にしますよね)でもないし、それに、実は歌が苦手。音楽界、最後まで楽しめるか期待する反面凄く心配もしてたんだけど、ぜんぜーん、もう素晴らしくて音楽の世界に浸ってしまいました。

始まりは客席袖から、胸に鉦みたいのを下げた歌い手が歌いながら(発声しながら)静かにステージに歩いてきます。何か儀式的な雰囲気もあり、ああそうか、巫女さん。アマゾンのジャングルで訪ねたシャーマンを思い出しちゃった。この音楽ってシャーマンな感じなのかな。3つの曲が組になって構成されていくのかな、なんて一所懸命耳を澄ましながら聴いていたんですけど、予想は崩れて、複雑な展開に。だんだん巫女濃度が下がっていって、かわいらしい音楽もあったり。シェルシの音楽ってステキ。原初の音というか、羊水で鳴っている音が感じられたのもステキ(リゲティの「ロンターノ」にも同じように感じるものがあるのだけど、リゲティの方は民族の根的な集合体なんだけど、シェルシは個人の記憶的)。世界が自在に広がってくる。霊が宿る世界なのかな。歌詞にあまり意味はない(でも多分ときどき聴き取れる単語に点描的に意味が描写されるんだろうな)とは思うのだけど、フランス語のグテ(goût(er))みたいに聞こえる言葉があってなんか大事な意味なのかなと思ったり。でも、よく分からないので雰囲気だけでも楽しんで、でも、それもステキなんですね。シェルシの声の扱いは、もちろんベルカントとか古典的な声ではないのだけど、とても素晴らしい。現代の音楽は、なぞれる旋律を拒否したところにあって歌とは相容れないのだけど、でも、シェルシはこの問題をすっと飛び越えて、声を楽器としてではなく声、歌としてちゃんと扱ってるのがいいのね。

演奏については初めて聴く曲なので、感想でしかないのだけど、太田さん、これはきっと、歌ってて楽しいというか気持ちがいいだろうなって思いました(いろんなテクニックを駆使する曲なのでものすごく難しそうだけど)。だって、歌と共に世界が広がって行くんだもの。そしてその中心に歌が君臨してるの。それと多分きっと、太田さんの「山羊座の歌」は、重々しくないんだと思う。なにかすっと抜けた感じで、魂が純化されたというか、カラフルで透明。おどろおどろしさがなくて、奇異でなく、ものすごく自然に音楽が体に入ってくるの。決して聴きやすい音楽ではないのだけど、親しい感じで。

自分でもびっくりするくらい心に響いた音楽会でした。新しい世界が目の前に広がった、そんな感じがします。広大な音楽の世界。それと、恐山にイタコ見に行きたくなりましたw





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by zerbinetta | 2015-10-12 22:40 | 室内楽・リサイタル | Comments(0)

世界を創造 ヤマカズ/日フィル   

2015年9月4日 @サントリーホール

ミヨー:世界の創造
ベートーヴェン:交響曲第1番
イベール:アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲
別宮貞雄:交響曲第1番

上野耕平(サクソフォン)
山田和樹/日本フィルハーモニー交響楽団


日フィルさん、今度の秋シーズンから定期会員になってみました。日フィルさんって確か、1年を4つのシーズンに区切ってるけど、年度の始まりはいつになるのかな?秋始まり?春始まり?
会場に着くとわたしの椅子の上にカードのようなものが。新しい定期会員へのウェルカムカードでした。なんて心憎い。プチフールもあれば完璧だったのにと思いつつ(オイオイ)、音楽会が始まる前からわたしをうんと喜ばせる。

今日は、わたしの一番、期待の指揮者、ヤマカズさんです。日フィルの正指揮者(というものがどんなものなのか謎ですが。。。(主席指揮者も別にいるので))になられたのですね。正指揮者に関しては言いたいこともあるのですが、それは置いておいて、やっぱり楽しみにしていた音楽会です。

ミヨーの「世界の創造」は確か、クラシック音楽の世界に初めてジャズを採り入れた音楽ではなかったかしら。バレエの音楽。小さな編成の室内楽的オーケストラに混じって、あとで独奏者として共演する上野さんがサックスで参加していました。ヤマカズさんも指揮台無し。演奏は、オーケストラ、こういう音楽にちょっと慣れていないな、と感じさせるところがありました(多分、個人個人はこのような語法も平気なんだと思うけど、アンサンブルになったら顔を見合ってしまうみたいな)。活躍する、トロンボーンのソロがちょっとだけ浮き気味だったけど、やんちゃで良い感じ。

小編成の1曲目からステージを直して、って指揮者の譜面台の高さをメジャーで測って調節してるの初めて見たよ、2つ目はベートーヴェンの交響曲第1番。がプログラムに載っててびっくり。早く帰れる音楽会と思ったら大きなおまけが付いてて得した気分。そしてそのベートーヴェンが面白かった!
まず大きな(倍管した)オーケストラ。最近のピリオド・スタイルの影響を受けた演奏では、モダン・オーケストラを使っていても編成を小さくしてきびきびと演奏するのが流行りだと思うんだけど(特にピリオドを当たり前に聴いてきた若い世代は)、ヤマカズさんはその逆。とは言っても、逆説的にこれもピリオド・スタイルだと思うんだよね。ヤマカズさん自身が、音楽会の前のトークで語っていたように、プログラム・ノートにも書いてあったように、作曲家はできるのなら大きなオーケストラでの演奏も(それがいいのか悪いのかは置いといて時代の雰囲気として)してみたいと思っていたかもしれない。それに、ピリオド・スタイルの先駆者のひとり、アーノンクールさんの言葉を借りると、ピリオドって、単にその時代の楽器を使って当時の演奏を忠実に再現する博物館的な演奏を目的としているのではなくて、当時の人の驚きを今の時代のわたしたちに再現する現代の音楽だから。ベートーヴェンの音楽から新鮮な驚きを生み出していたのは、当時の驚きを今のわたしたちに見せてくれたということ。
ヤマカズさんの音楽は、いつものことながら音楽が今生まれてくるフレッシュさがあって、’古楽器的な’速いテンポの演奏とは反対だけど良い意味で全然巨匠風じゃないのがいいの。大きなオーケストラゆえのもたつきはあるけれどもそれを超える流れはあるし。そして、ヤマカズさんが仕掛けたびっくり箱。第1楽章の最初の主題が戻ってくるところ(再現部の頭)を半分のテンポでゆっくり始めたのに、もうニヤニヤが止まらない。第2楽章の始まりも弦楽器のソロで初めてトゥッティに持っていくとか、楽譜に書いていないことをやっちゃった。と言うかこの清々しいやっちゃった感。普通やらないよね。神聖なベートーヴェンを。案の定、意見は割れたというかやりすぎ、意味わかんねーって批判的な意見が多かったみたいだけど、わたしはヨロコんだ。若さゆえの過剰は、ベートーヴェンの本質だもの。流石ヤマカズさん。こんなことが臆面もなくできちゃうなんて。もっとやれやれーー。パチパチパチ。

休憩後は、イベールのサクソフォーンのための室内協奏曲と別宮の交響曲第1番。さりげなく、休憩前の2曲と対を為してるところが憎いの。
イベールは、有名な「寄港地」とか無名な「祝典序曲」が妙に大好きなんだけど(あとフルート協奏曲とか)、滅多に音楽会にかからないし、サクソフォーンの協奏曲は初めて聴く曲。ガチャガチャしているところと叙情的なところの対比がいべーーーるぅ。ステージの後ろで聞いていたので上野さんのサックスがおとなしく聞こえたけど、バランスは良さ気(普通の席で聴いたらサックスがもっと浮き上がって協奏曲ぽかったのかも)。そのせいもあってか、上野さんのソロは、アグレッシヴに音楽に突き刺さると言うより、柔らかく音楽に沿う感じ。第2楽章の始まりのサックスのソロが春の祭典の始まりのパロディに聞こえてびっくりしました。上野さんかっこいいし、いいな。

別宮の交響曲は、日フィルの委嘱作品。1961年の作曲なんですが、昔委嘱した作品の再演シリーズをやってるんですね。委嘱作品だから、1度は演奏されるものの、新作が再演の機会を得るのはとても難しいので、ぜひ聴かせたい、演奏したいと思えた作品をこのように再演する企画ってすごくいいよね。
で、いきなり、映画かテレビのスペシャルドラマ(年代記みたいなの)の音楽のようなロマンティックな感じの音楽が流れてきてびっくり。へ〜〜こんな音楽書いたのかーーって。前にニッポニカさんで安倍幸明の曲を聴いたときも思ったんだけど、わたし、日本の音楽というと、武満さんや細川さんみたいなコスモポリタンな現代的なものを書く人か、伊福部に代表される分かりやすい民族風の作風の人か、もしくは黛とか矢代とか現代の古典になってる人くらいしか知らなくて、日本のクラシック音楽の黎明期からの人の作品をほとんど知らないんですね。吉松さんが調性的なネオクラシカルな音楽を作る以前の戦後の日本で、ロマン派的というか西欧では20世紀初頭くらいのまだ分かりやすい音楽が書かれていたなんて知らなかったんです。別宮の音楽も、日本風なところはあまりなく20世紀初頭のヨーロッパ風というかもっと言うとミヨーの頃のフランス風。実際にミヨーの教えを受けているんですね。この作品が、日本の音楽史の中でこれからどういう風な位置に納まっていくのか、単に時代遅れの(同じ頃、日本でも涅槃交響曲のような交響曲も生まれてるし)忘れられた曲になるのか、クラヲタさん的に大切にされる知られざる佳曲になるのか、日本の名曲のひとつとなるのか、分からないんだけど、わたしの中では少なくとも、わたしだけが知ってる的な佳曲になるんだわ。
ヤマカズさんと日フィルの演奏は、その音楽の魅力を欠点も含めて正直に伝える誠実なラヴレターのような演奏だったと思います。わたしには魅力が伝わったもの。

今日の音楽会は、始まりの音楽会。前半と後半の対比の妙もいい感じだったけど、ふたりの作曲家の最初の交響曲を採り上げて、それと「世界の創造」を組み合わせるなんて、音楽の生まれるところを聴かせてくれるミューズの粋な計らい。そして、ヤマカズさんってミューズに祝福されたひとりだと思うんだわ〜。
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by zerbinetta | 2015-09-04 19:26 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

たゆたう時間 サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ <ホリガー>   

2015年8月27日 @サントリーホール

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
グザビエ・ダイエ:2つの真夜中のあいだの時間
ホリガー:レチカント
ホリガー:デンマーリヒト ー薄明ー
シャーンドル・ヴェレシュ;ベラ・バルトークの思い出に捧げる哀歌

ジェヌヴィエーヴ・シュトロッセ(ヴィオラ)
セーラ・マリア・サン(ソプラノ)
ハインツ・ホリガー/東京交響楽団


サントリー財団サマーフェスティバルの今年のテーマ作曲家は、ハインツ・ホリガーさん。稀代のオーボイスト。わたし的にもやっぱりオーボイストで、作曲もしているというのは一応知っていたし、確かうちにCDがあるはず、と思って探したら、むむむ、他の人の現代のオーボエ作品で、ホリガーさんは演奏者だった。
この音楽会、サントリーホールのウェブ会員になると(ちょこちょこと必要事項を入力するだけ。無料だし、ホールからのご案内は来るけどそれでメイルボックスがいっぱいになっちゃう程ではないし、特典もあるからオススメですよ)、毎年このシリーズのオーケストラの部のチケット・プレゼントがあって、今年も当たっちゃった。でも、去年、一昨年と偶然同じ席が当たって、わたしの指定席かなと思っていたら今年は違う席でした。

ホリガーさんが作曲家として関心を持っている作品を自作に添えての音楽会。始まりは、出発点とも言えるドビュッシーの「牧神の午後」。ホリガーさんがどんな音楽をするのだろう?と観ていたら(聴いていたら?)、最初のフルートのソロから、細かく振りまくり。奏者を信頼して自由に吹かせても(練習でしっかりと欲しい音楽をたたき込んで)良いんじゃないかしら、窮屈よねって思ってしまいました。ソロだけじゃなくて、ずうっと細かな拍で振り続けて、なんかそよ風の薫る音楽なのに目には嵐が吹いているみたい。目を瞑って聴いている分にはものすごく繊細な音楽(お終いの方の古代シンバルの扱いが面白かった)に聞こえるのでしょうけどね。ホリガーさんの音楽の特徴は、縦の線を合わせるというより、ゆらゆらと伸縮しながら重層する横の線の流れを大切にするみたい。全てがコントロールされていて、コントロールされないところに官能があると思っているわたしは、微細な精密画を観ている驚きはあるけど、牧神の夢想したエロスは感じませんでした。

2つめの「2つの真夜中のあいだの時間」は、作曲者の言葉を借りると「いくつかの時間の合っていない大時計が予期せぬ時を告げるように」、オーケストラの中で時間が曖昧になって、楽器(群)の間の時間の位相のずれがたゆたうような音響を作っていくような音楽なんですけど、あっそうか、ホリーがさんの関心事って、音楽の縦に存在するリズムではなくて、横に流れる時間なのねって納得。

それはホリガーさんの作品にも色濃く示されていて、ヴィオラのソロとオーケストラのためのレチカントは、しゃべるような(レチ(ターレ))歌うような(カント(ターレ))ヴィオラの独奏と、それに絡んでたゆたうようなオーケストラ。ヴィオラとオーケストラの対話というより、ヴィオラとオーケストラが何となくそこにいてゆるやかな化学反応をしている感じ。完全に自分の音楽として演奏しているヴィオラのシュトロッセさんがとても素晴らしくて、この曲に新たな解釈者を得て(献呈者はツィンマーマンさん)広がりを持っていくんだろうなって思いました。

もうひとつの「デンマーリヒト」は今日が初演。ホリガーさんが大晦日に皇居のそばの公園で作った俳句(ドイツ語で)を元にした5つの歌。和風かというとちっともそうではなく、でも、時間の流れの曖昧さはもしかすると、雅楽のような規定されない時間のゆらぎに共感があるのかなとも感じました。厳格な書法を超えて自由に歌われる歌(サンさんがとても自然に歌いました)と暗くて清廉なイメジのオーケストラ。今日の音楽の中でこれが一番好きでした。

反対に、「バルトークの思い出に捧げる哀歌」は、打楽器が一定のリズムを打っている音楽で、わたしには、それがホリガーさんの微妙に伸縮する音楽とは矛盾するなって思えました。むしろ、きちんとした一定のリズムで進めた方が、有無を言わさないビート感(それが悲しいものであれ)が生まれて音楽が自然に力を持つように思うからです。でも、初めて聴く曲なので、確固たるリズムでやると違った音楽になってしまうのかもしれません。いろいろ聴いてみたいな、と思いました。

それにしても、ホリガーさんの作品を初めて聴いて、わたしにはまだ知らない、知るべき世界が豊かに広がっていて、これからもまだまだたくさんの出逢いがあることを確信して嬉しく嬉しく思いました。今日演奏した東京交響楽団もなにげにとても良くて、このオーケストラ、まだあまり聴いていないけど、これからたくさん聴かなくちゃ。若手のフレッシュな名手たちが管楽器に多いのも将来性を感じさせますね。
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by zerbinetta | 2015-08-27 23:48 | 日本のオーケストラ | Comments(0)

予想外のちゃぶ台返し ツィンマーマン「レクイエム」   

2015年8月23日 @サントリーホール

ツィンマーマン:レクイエム

長谷川初範、塩田泰久(ナレーター)
森川栄子(ソプラノ)、大沼徹(バス)
新国立劇場合唱団
スガダイロー・クインテット
有馬純寿(エレクトロニクス)
大野和士/東京都交響楽団
原島大輔(字幕映像)


初台を離れて今度は、サントリーホールにツィンマーマンの「レクイエム」を聴きに。オーケストラ、3群の合唱、テープのための大作。ツィンマーマンという作曲家についてはちっとも知らないくせに(小さな曲をひとつ聴いたことがあります)、何かすごいイヴェントのようにワクワク。マーラーの交響曲第8番の初演を聴きに行った人たちもこんなふうにワクワクしていたに違いないと想像しながら。

それにしても、聴きやすいとは思えないツィンマーマンの1曲だけの音楽会で大ホールがいっぱいになるなんて、東京の音楽受容の懐の深さはすごいですね。東京は世界に冠たる(クラシック)音楽都市のひとつという意見にはちっとも賛同しないけど、音楽に対する許容力、受容力には素直に頭を垂れざるを得ません。これで発信力、創造力があれば胸を張って誇れる音楽都市になるのに。

普通の音楽会と違って、まずは今回のサントリー芸術財団・サマーフェスティバルのプロデュサー、長木誠司さんと今日の指揮者の大野さんの対談から。プレコンサート・トークじゃなくて(言葉的にはじゃないこともないのだけど)、開演時間からの音楽会にしっかりと組み込まれたもの。都響さんのシーズン・オープナーのとき、大野さんがひとりでマーラーの交響曲第7番について語ったときは、熱血で感情の迸るままにまとまりのなさ気な話しっぷりだったので少し心配したんだけど、聴き手の長木さんのリードで、今日は静かに冷静なお話が聞けました。プログラムノートの言葉を読んでも、大野さんって理知的な方なんですね。知と情のバランスがいいのだわ。音楽についての聴き所も教えてくれたんだけど、最後の方に「指輪」の愛の救済の動機が出てくると聞いてワクワク。

1時間と少し、休みなく続く音楽、というか音響、は最初の50分くらいは、テープ主体。指揮者の譜面台の横に大きな時計(タイマー)が置かれていて、それを目安に、テープで流される、詩の朗読や編集された音楽に、生のオーケストラや語り、歌を付けていくの。ミキサーというかエレクトロニクス担当の有馬さん大活躍。

まず音楽だけど、今日の演奏は、音楽以上に大名演だったと思います。ホールの中が音響で満たされて特別な空間になっていました。ただ、これが、最高の音楽かというとそうではなくて、メッセージを伝えたくて力んでいるけど、ちょっと引いちゃうみたいな。直裁的すぎるように思えるんです。もっと含蓄的で余韻を残す方が音楽としては優れているんじゃないかって。例えて言うなら、交響詩「モルダウ」にモルダウ川に沿って採取された川のせせらぎやフォークダンスや町の音をのせちゃう感じ。もしくは、印象・日の出の絵にルアーブルの港で撮った写真やらゴミになった新聞やらを小さくちぎってキュビズム風に貼っちゃった感じ。過剰でしょう、わたしの文章も。具体的なイメジが強すぎて何か強引に作曲者の弁舌を聴かされたみたいな。わたしは少し置いて行かれた。人間の愚かな行為(戦争とか独裁とか)に対する批判と悲しみの音楽は、今の時代、日本で演奏される意義が指摘されていたけれども、わたしの気持ちとは違うなとも思いました。今のわたしたちの周りの悪はもっと巧妙で、こういうストレイトはプロテストでは太刀打ちできない、気がつかないうちに進むゆっくりとした死のようなものかもしれませんから。

テキストは、背景として関連のないものがいくつも朗読され、長木さんが指摘をしたように、それを一字一句追う(追える)ものではないのだけど、ところどころで耳に留まる(外国語なので字幕で目に留まる)単語を拾っていくことで意味が形成される、個々人で拾える単語は違ってくるから、受け取るものの自由さが担保されているんだと思います。字幕にも工夫が凝らされていて、平行するテキスト、意味不明なもの、を視覚を通して感じられるようになっていたのは秀逸でした。

いろいろ思うところを言っちゃったけど、今日のこの公演に携わった人、全ての人の熱意と高いスキルが胸に迫る記念碑的音楽会であったのは間違いありません。たくさんのことを考えさせられる経験でもありました。

あっ、ちょっと残念だったのは、愛の救済の動機、うっかり気がつかないうちに終わっちゃいました〜〜。最後に出てくると勘違いしていて、実は最後じゃなかったんですね。注意深く聴いていたつもりだったのに聴き逃すなんてわたしの耳は節穴だわ。

それともうひとつ、ジャズコンボが演奏に加わっているんですけど、本編の中では聞こえるけどあまり(はっちゃけた)活躍がありません。ということなのか(?)アンコールに、ジャズコンボの演奏が。本領発揮で気前よくはっちゃけていました。破壊力抜群。この短い演奏で、意識的ではなかったにしろ「レクイエム」の全てがちゃぶ台のようにひっくり返された気がしました。ああ、わたしたちは平和な時代、ところで生きているんだ。世界はフクザツになった。レクイエムの世界はちゃらになって遠くの記憶に。。。
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by zerbinetta | 2015-08-23 23:44 | 日本のオーケストラ | Comments(0)