ポゴレリチ事件   

25.11.2010 @royal festival hall

liadov: the enchanted lake
tchaikovsky: piano concerto no. 1
shostakovich: symphony no. 5

ivo pogorelich (pf),
tugan sokhiev / po


いまだに混乱しています。支離滅裂な文章(いつもだけど)お許しください。

ソヒエフさん聴きたさにとったチケットでした。で、協奏曲があって、ピアニストがポゴレリチさんでした。名前は知っています。ショパン・コンクールで有名な事件を引き起こしたことも知っています。なんだか変わった演奏をする人だということは、友達に聞きました。どんな変わった演奏なんだろうと思って、普通の演奏を知らなきゃ始まらないということでCDで予習したりもしました(珍しいっ!)。 
ステージに現れたポゴレリチさんは、取り立てて変わった人には見えませんでした。でも、有名なオーケストラの前奏のあとにフォルテッシモの和音のリズムがピアノに出た瞬間からびっくりしてしまいました。場違いな強音。一音一音が重くねっとりと鍵盤にまとわりつく。オーケストラを完全に無視した独善的な演奏。テンポもめちゃくちゃ。そして、多すぎるミス・タッチ。わたしはミス・タッチや楽器奏者の小さなミスはあんまり気にしない方ですが、ここまで酷いと気になります。ミス・タッチを恐れず強い表現をしてると反論されるかもしれないけど、わたしには不必要なミス・タッチに聞こえました。表現したいことに技術がついて行けてないのはプロフェッショナルとして許されないことだと思います。もしかしたら彼は、わざと予測不可能な音を入れているのかもしれませんが。主部の速いところにやっと入って、って、ここまででぐったり疲れちゃったもん。何が起こるか分からない緊張感。普段はアンサンブルの上手いフィルハーモニアが合わせるだけでこんなに苦労しているのを初めてみました。主部の速いところに入って、ってずいぶんと遅い。なんだか指が回ってない感じ。これもわざとなのでしょうか。オーケストラとピアノは相変わらずかみ合わず。指揮台に立ってるソヒエフさんは針のむしろでしょうね。ピアノになんとか合わせるだけで精一杯で音楽を作るところまでいってない。リハーサルでだいたいのテンポ設定までは合わせていることは、ピアノが入る前のオーケストラのテンポ設定で分かります。でも、それ以上のことを勝手にやってくる。指揮者も小節の頭の音が弾かれてから次の音が弾かれるまでテンポが分からない。ポゴレリチさんは自分のことだけで他の人と合わせることなんて頭にないのでしょう。こんなの合奏する音楽じゃない。
動揺しながら、わたしはポゴレリチさんの美質を見つける試みをしてみました。オーケストラが消えてピアノのソロの部分では、ポゴレリチさんはうんとゆっくりとピアノを弾きました。時が止まるように。その音楽は悲しいほどに美しいのかもしれないとも感じられるような気がします。でも、フォルテッシモの部分があまりにわたしを壊してしまったので、ちゃんとは聴けません。音楽を聴くことにこんなにも嫌悪感を感じたのは初めてです。わたしにはポゴレリチさんが絶望を持って音楽を破壊しているようにしか思えませんでした。音楽の廃墟。音楽を信じることのできない音楽家が自暴自棄になって弾いた音楽。ならば弾かなきゃいいのに。
確かに、ポゴレリチさんは音楽にある絶望を表現していたと思います。本当に絶望的だった。悲しくなった。ポゴレリチさんは自分自身に絶望しながらピアノを弾いていたように思いました。もっと良く弾きたいのに弾けない。唸るような息を出しながら鍵盤を叩いてた。自分の出す音に納得していないようにも見えた。途中で放り投げて帰ってしまうんじゃないかとさえ思った。こんなに悲しい音楽をする人を初めて見た。もちろん悲しい音楽なんてたくさんあるし、悲しい演奏だってたくさんある。でも死に至る病で音楽を塗りつぶすのは初めてだ。
目の前にちゃぶ台があったらひっくり返したかった(実は一度やってみたい)。もし、席が端っこだったら、席を立っていたでしょう。30分間が苦痛でした。胃の腑に鉛を入れられて重い感じ。心をヤスリで削られてささくれ立たせられる感じ。

わたしは、作曲家の意思は尊重すべきとは思いますが、それは絶対ではなく、演奏家にかなりの自由が許されると思っています。再現芸術である音楽は、作曲家と演奏家が芸術家として対等な立場にあると思っているからです。何が何でも楽譜通りに弾かなければならないとは考えていません。でも、それは自分勝手に弾いて良いということではありません。正しいということはあると思うんです。ポゴレリチさんは今回、チャイコフスキーの協奏曲から絶望を表現していた。何に絶望しているのかよく分からないけど、音楽そのものに対して絶望しているのかもしれない。確かに、ヴィルトゥオーゾ協奏曲のようでもあるこの音楽の底にもひとかけらの絶望はあるのかもしれない。チャイコフスキーは常に心の中に絶望を秘めていたのかもしれない。だからそれを取りだして表現してみた、というかもしれない。でもそれは正しい? そんな小さな絶望も希望も誰でも持っている。気持ちが絶望に傾くこともあれば希望に満ちることもある。
例えば、多分、世界で最も力強い希望の書である新約聖書の中には、イエス・キリストの言葉として「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、究極の絶望の言葉があります。でも、この言葉だけを取りだして聖書は絶望の書と主張するのは間違いでしょう。聖書の全体を通して聖書を語らなくては間違いになってしまうのですから。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というイエスの言葉もあります。じゃあクリスチャンは大いに不正を働こうというのも間違いでしょう。チャイコフスキーのピアノ協奏曲に含まれているかもしれない小さな絶望のかけらを曲に敷衍して演奏してしまうのは、間違いだと思うんです。もうひとつ、わたしは、演奏に戸惑って(というか腹が立って)、家に帰ってからネットで過去のポゴレリチさんの演奏に関する感想を読んでみたのですが、他の曲に対してもポゴレリチさんが同じような姿勢を取っているらしいことを知りました(他の人の感想なので確信は持てないでいるけど何人かが今日のわたしと同じような気持ちを例えばショパンの音楽から感じています)。もしそうだとすれば、彼はどの音楽を弾いても同じようなことを表現していることになります。これって、おかしくない? 違う音楽には違う感情が込められてると思うのです。ポゴレリチさんの演奏は、例えば白いものも薄ピンクなものも、青と白のしましまもようなものも全部黒く塗りつぶしてしまうような、全部自分の主張で塗りつぶしてしまうような演奏。これ正しい?

わたし、正しいこと、と言い過ぎでしょうか。わたしだって正しいことが今ではそんなに単純なことではないことも知っています。ひとつの正しいことがいつも正しいとか限らないことも。でも、それでも正しいことはあると信じたいのです。言葉を換えていえば希望でしょうか。でなければ、何でもありの絶望のカオスになってしまう。今日の演奏のように。でも、好意的に解釈すれば、彼は全く異なるものを見せてくれたのかもしれません。悪魔的なもの、ダークサイド。わたしがそれにもの凄く嫌悪感を示すのは、わたしの裡にあるそれを見せつけられたからかもしれません。普段できるだけ封印しているもの、パンドラの箱をこじ開けられそうになったからかもしれません。聴いてはいけないものを聴いた感じです。わたしの裡にある黒いどろどろとした負の感情は絶対に封印しておきたい。でなければ、わたしは簡単に悪のサイドに行ってしまう。なんだかダース・ベイダーになったアナキンみたい。

確かにポゴレリチさんの演奏はブラック・ホールのような引力があったかもしれません。2度と再び聴きたくないかというと、リサイタルだったら、安ければ、怖いもの聴きたさで聴きに行ってもいいかも、いや行くべきではないと逡巡すると思うし。わたしが最後にとっても違和感をもったのは、拍手の大きさ。この演奏を拒否したわたしは拍手しなかったけど、たくさんの人が拍手している。あの絶望を受け入れることができたのかしら。それとも礼儀だから。何も分からないから。わたしの勝手な気持ちかもしれないけど、絶望を受け入れられる人って、あまりたくさんいて欲しくない。わたしだって自分のダークサイドなんて見たくない。

もうこの演奏に心をかき乱されてしまって他のことは覚えてないんのです。もちろん、ポゴレリチ前のリャードフの音楽は印象派の音楽を彷彿させるステキに演奏されたし、ポゴレリチ後のショスタコーヴィチの交響曲はあんなことがあったにもかかわらずきちんと演奏されたと思います。でも、わたしには音楽を聴く力はもうなかった。音はなっていてもわたしの上を素通りしていく。音楽を聴きたくないって思ったのは多分初めて。昨日近くの席に座ってたカップルが、今日も隣の席に座って、話してみたら、タコが好きでタコのある音楽会ばかりチケット取ってるのよ〜って、タコ好きのわたしもびっくり嬉しい。やっぱ女子はタコよね〜って鼻息も荒く、今度タコやるときまた会えるといいね〜なんて言ってたのが唯一の救い。
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by zerbinetta | 2010-11-25 07:10 | フィルハーモニア

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