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それが美しければ美しいほど、幸せであればあるほど   

19.02.2011 @royal festival hall

mozart: sinfonia concertante
maher: das lied von der erde

stefan jackiw (vn), richard yongjae o'neill (va)
sarah connolly (ms), toby spence (tn)
yannick nézet-séguin / lpo


大好きなネゼ=セガンさんのマーラーの大地の歌。期待していた反面、とっても不安だったんです。若い指揮者があの寂寥感を出せるのかって。確かに最近聴いた、ドゥダメルさんやネルソンズさん(こちらは放送)の第9番の美しく肯定的な演奏には、はっと感動させられたけど、歌詞を伴う大地の歌はあのような解釈はなされ得ないだろうと思って。だとしたら、やはり枯淡の境地にならないとこの音楽の感動的な演奏は無理だろうって。で、聴いた結果は。。。

その前に、ふたりの韓国系イケメンソリストを迎えてのモーツァルトのシンフォニア・コンチェルタンテ。韓国系と言っても共にUSで活躍している人で、ジャッキーさんの方は韓国人とドイツ人の両親でUS生まれ。石田衣良さん似。かな? ヨンジェ=オニールさんは、ソロが終わったあといちいちジャッキーさんに向かってどや顔するのが面白かったの〜。
音楽は最初っからびっくり。ネゼ=セガンさん、最初のふたつの音符を弱く、3つ目をフォルテで弾かせるという荒技に出て。ネゼ=セガンさんのアクの強いモーツァルトはモーツァルト的ではないと言ったら言えるけど(表現主義的というか新古典派を通った古典派)、それを面白く聴かせてくれるのは、なんだか感心しちゃった。第2楽章は、お金持ちの邸宅をそのまま使った美術館の匂いがして(思い浮かべたのはニューヨークのフリック・コレクション)、中庭を観ながらそぞろ歩いてるような気がしてステキでした。ソリストのおふたりももちろんステキ。わたしは韓流ドラマというのにちっとも興味がなくて(っていうか日本のも、ドラマって見続けるのめんどくさいのよね)、韓国ブームには疎いんだけど、今日はちょっと韓流もいいなって思いました。ステキな音楽家に次から次へと出逢えてとっても嬉しい。

さて、後半の大地の歌。結果は。最初に答えを言っておくと、最後は涙でぼろぼろでした。まさか、こんなことになるとは。。。
ネゼ=セガンさん、コノリーさんとスペンスさんと一緒に、いつものようににこやかにステージに登場。指揮台に立って、少し間を置いて手を左右に広げて上げたとたん、稲光のように緊張が走る。この空気の転換のあまりの見事さ。光りが走ったようでした。そんな見事な緊張の中始まった音楽は、アグレッシヴ。速めのテンポで、音の輪郭をはっきりさせて、容赦なくテノールの歌に襲いかかるオーケストラ。でも、音は濁らないし、とてもクリアで色彩的な音色。激しい中でも美しい。でも、このときは、わたしの不安が的中したって思ったんですよ。美しいだけじゃなくてもっと、厭世的な暗い気分が必要なんじゃないかって。若いゆえの限界みたいなものを感じてしまったんです。オーケストラは見事にドライヴされていて、オーケストラ音楽として聴く分には良いのですけど。ああ、やっぱり今日は音楽の外にいて眺めているのかなぁて思ったんです。
でも「秋に寂しきもの」を歌い出したコノリーさんの歌を聴いて、心が融けていく。なんて寂しげにこの音楽を歌うんでしょう。コノリーさんは、ロンドンではとてもたくさん歌ってる人で、レパートリーもめちゃ広くて、こんなにいろんなのをしょっちゅう歌って大丈夫っても思うんですけど、聴いていて全く外れがないんですね。とても実力のある方。でも、今日はそれに輪をかけて凄かった。この人の歌、気持ちの入れ方が半端じゃないような気がします。歌詞の世界を創ってる。そんなふうに歌われるとオーケストラだって黙ってはいられません。マーラーの世界にしっかりと沈み込んでいきます。
「青春について」と「美について」はもともと若者を歌った音楽ですから、若い指揮者のアプローチが生きないはずがありません。とっても美しく、夢のように溌剌と。でも、これが今日の演奏の重要なポイントになるんですね。この2曲はターニング・ポイントになる重要な音楽ですし、そして、音楽が美しくなれば美しくなるほど、最後の結論が切なく心に刺さるのです。わたしはずうっとこの世界にいたい。東屋で友達とお酒を飲んでいたい、池のほとりで花を摘んでステキな男の子にナンパされたい、そういう若い時代が永遠に続きますように。
いよいよ後半は、それらへの惜別の音楽です。まずは酒の中に自暴自棄に逃げ込むの歌。今日のテナーはスペンスさんでしたが、この人も声に張りがあってとっても良かったんです。少しお上品な感じもしましたが、でも、美しさを強調する今日の音楽には合ってました。この音楽の中では、まだお酒に溺れるだけで希望はあるんですね。現実を見なくて済むから。一生酔っぱらって暮らせればきっとなんといい人生なんでしょう。
もちろんそれは、深い淵から聞こえてくるような、ホルンやハープ、ドラやコントラバスの低い音色に打ち砕かれます。ここのホルンの低い音、とっても雰囲気のあった音色でした。音楽はゆっくりと進みます。心の淵を覗くように黒く。でも美しく。コノリーさんの歌の孤独感も寒々と冴えわたって世界にひとりで別れを告げる気持ちを聴くのは身につまされる思い。永遠に美しいもの、憧れ、永遠に青春のままの友、にひとり時間の歩みを進めてわかれていく悲しさ。無限なものと有限なものの対比。世界が美しすぎるゆえに音楽が美しすぎるゆえにいっそう心に冷たく沁みます。それにしてもマーラーは最後、なんというとんでもないことそしてくれたんでしょう。美しい世界にさらにマンドリンとチェレスタで光りを与えるなんて。もうずいぶんと前から涙がこぼれていたんですが、これで我慢ができなくなりました。ぼろぼろとこぼれる涙。
こんなにいい演奏なのに、最後しばらく拍手できませんでした。ネゼ=セガンさん、コノリーさん、スペンスさん、ロンドン・フィルのひとりひとりの音楽家たちは本当に素晴らしいものを聴かせてくれました。これを書きながら、思い出し泣きしています。本当にたくさんの心からの感動を経験しているロンドンの音楽生活。この幸せな時から離れるとき、わたしは、今日の大地の歌と同じ思いを味わうのでしょう。でも、失っていく幸せは、それがわたしにとって一瞬のものでも幸せなことに違いはありません。

(照れ隠しに蛇足)
そして今日初めて気がついたんだけど、大地の歌の構成。マーラーの交響曲って真ん中に中心となるスケルツォを挟んだシンメトリックな構造が多いのだけど(典型的なのは交響詩「巨人」や交響曲第5番や第7番。第2番や第9番(ふたつの中間楽章がスケルツォ)、第10番(3つの中間楽章がスケルツォ)も変則的だけど似たような構造ですね)、大地の歌は6楽章なのでしっくり来ない。第1と第2楽章をひとつの対として、第6楽章の間を3つのスケルツォ(のような音楽)で挟むということも言われてて、そうだとも思ってたんですけど、実はそれぞれの歌手の歌う3つの楽章がスケルツォ(のような音楽)を挟んでシンメトリックな構成を取っていることに気がついたんです。テナーが歌う奇数楽章は「大地に郷愁を寄せる酒の歌」「春に酔えるもの」という厭世的な雰囲気のある酔っぱらいの歌に挟まれて「青春について」。アルトもしくはバリトンが歌う偶数楽章は、「秋に寂しきもの」と「告別」という孤独な離別の歌に挟まれて、若き日の仄かな恋を歌った「美について」。形式的にも内容的にも明確な一幅の対をなしているではありませんか。中心にあるのは若き日の美しい思い。そしてそれへの別れ。これは今日の音楽会のおまけみたいなものですけど、今まで気がつかなかったことにびっくりするくらい、わたしには大きな発見でした。

by zerbinetta | 2011-02-19 03:02 | ロンドン・フィルハーモニック

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