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マーラーの9番聴き比べ? この後に続くもの   

03.03.2011 @barbican hall

mahler: symphony no. 9, no. 10 (adagio)

valery gergiev / lso


今日の音楽会のプログラムがアナウンスされたとき、わたしはてっきり、交響曲第9番の前に第10番のアダージョが演奏されるものだと思っていました。普通そうでしょ? 第10番は未完成で第1楽章だけの演奏だし、あの消え入るように終わる、演奏するものも聴くものも精魂の最後の一滴まで使い切る第9番のあとに音楽が演奏できるとは思えなかったし、そうあるべきでしょ? でも、なんと今日のプログラムは交響曲第9番のあとに休憩を挟んで第10番のアダージョが演奏されるのです。

交響曲第10番のアダージョって単独で、他の作曲家の作品とかと演奏されるときはプログラムのどこに置いてもあまり違和感なく成り立つんですけど、交響曲第9番と組み合わさるとちょっと事情が違ってくる。曲の長さ、重さからいうと第9番がメインプログラムとして後半に来るのがふさわしい。でも、音楽的には交響曲第10番は確実に交響曲第9番の先まで行っている。だとすると、交響曲第10番をあとに持ってくるのがいいのではないかという考えもありうるのです。悩ましくてどちらをとってもとても据わりが悪いように思えるんです。ただ、この順番って、大事で、どちらのやり方でプログラムを組むかは、交響曲第9番をどう解釈しているのか、どういう立ち位置で考えているのかにかかわってくると思うんですね。そしてゲルギーは、第9を先第10を後という選択をしました。ゲルギーは交響曲第9番をマーラーの完成形とは捉えていない、白鳥の歌とは捉えていないということだと思うのです。

ゲルギーのマーラーの交響曲第9番の演奏は、とっても力強いものでした。第一楽章の歩み(アンダンテ)もゆっくり逍遥するような感じではなくあっさりさっさと(コモド)歩くようです。ただ、昨日も書いたように溜めを取らずに、すらりと流れるところはわたしの好みではありません。でも演奏自体は強い意志を持ったとても良いものです。それは全ての楽章に言えます。音楽が常に生命力を持って力強く鳴ります。わたしは8年前にゲルギーの指揮でこの曲を聴いています。そのときのオーケストラはマリインスキーのオーケストラだったんですが、なんかとても冷たい恐怖感みたいなものを感じたのです。やっぱりそのときもかなり変わったマーラーだと思ったんですが。。。でも、時が経って、オーケストラが変わって、ずいぶん違った印象になりました。まず、ロンドン・シンフォニーの音があたたかくて柔らかいので、一番強く感じた怜悧な恐怖感はなくなりました。とは言え、懐かしさがこみ上げるような、むせかえるような青春の輝きへの郷愁はやはりあまり感じられません。ゲルギーは、マーラーが楽譜にメモか落書きのように書き込んだ言葉を敢えて無視して(多分それらの言葉は、マーラーがもう少し長生きしていたら印刷されたスコアからは消されていたでしょう)、五線の中に書かれた音符だけを頼りに音楽を作っているように思えます。マーラーの書き込みは、それが作曲者によるものでひとつの指針になるものであるとしても、それは解釈のひとつでしかなくって、必ずしも負わなくてもいいと思うんですね。というか、作曲者の手を離れて演奏家に委ねられてきた音楽ってそういうものだと思うんです。でも、かといって情念がなくなっているというわけではないのが不思議なところなんですけど、わたし的にはちょっと困ったことに、ゲルギーがどういう思い出この音楽を表現しようとしているのかが、まだつかめないのです。何かはあると確信できているのにそれがなんであるか分からないもどかしさ。というものをどうしても演奏から感じてしまいます。
第2楽章や第3楽章は、そのまま音楽を受け取ればいいので、素直に楽しむことができます。変わったことはやっていないし、とても丁寧にきちんと演奏されているので、頭の中が混乱することもないのです。そして、このふたつの楽章はゲルギーの音楽にとってもよく合ってる。ゲルギーの音楽は錯乱した音楽ではなくとても肯定的。ゲルギーってちっとも爆演系の指揮者ではないんですよ。第2楽章のお終いは可愛らしい感じだし、第3楽章はアグレッシヴではあるけれども、オーケストラが上手いせいもあるけど、ひとつひとつの音がきっちりとコントロールされていて、ひっちゃかめっちゃかにはなっていないもの。勢いはあるけれども勢いで押すこともない、そんな感じかな。
そして、フィナーレ。最初のヴァイオリンの上から降りてくるひとつひとつの音へのなんと強いアクセント。これがゲルギーの音楽なんでしょう。ひとつひとつの音への力強い意志がみなぎる音楽。ゆっくりと重みを持って流れる音の河。この楽章でも、例えば木管楽器で出てくる第2主題の部分でもあまりテンポを落とさずに音の素直な流れを重視してる。急いでいるわけではないけれども決して立ち止まらない音楽。未来に対する確信。最後は消えゆくように終わるんだけど、あっ実は終わらない。マーラーは終わりを避けるような音使い、和音の基音を希薄にする書き方を、ゲルギーは強調していたように思えます。マーラーはこの音楽で終わりたいと思ってはいなかった。この音楽に対する答えを次の音楽で書こうとしていたのかも知れないって思えました。実際に音楽会はここで終わらなかったのです。

休憩の後は、交響曲第10番の第1楽章として書かれたアダージョ。多分クックによる改訂版(楽譜を見て聴いていたわけではないので自信はありませんが、音の厚みが感じられました)。ゲルギーはこの音楽を第9番のアダージョの続きとしては演奏していなかったように思えます。音楽的な空気はむしろ第1楽章の続編的。というか、第9番全体を昇華して新たな音楽を、しかもかなり新しい音楽世界に踏み込んだ形で書いているものとして演奏していたと思います。だから、アダージョといってもお終いのアダージョではなく、始まりの、アダージョというよりアンダンテかな。主部のかなり無調的な部分はアンダンテですものね。やっぱり第9番のときと同じように力強さに溢れた演奏でした。こんなことなら、ゲルギーはどう考えているのか分からないけど、全曲版で聴いてみたい。ゲルギーはどんな世界に踏み込んでくれるのか。とっても興味あります。

結局、不思議な魅力に満ちているけれども、ゲルギーのマーラーはわたしにはよく分かりません。ゲルギーの演奏は今回と前回の第1番しか聴いたことがないので(録音は聴いたことがないのです)、全体像がどうなのか分かる由もないのですが。でも、ゲルギーってなんか不思議ですよね。思い出してみれば、実はわたし、ゲルギーでいわゆる独墺の王道のハイドンやモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスの音楽すら聴いたことがないのです。もちろんゲルギーは豊潤なロシアの音楽を背景に持っているので、敢えてそれらの音楽を演奏しなくてもいいし、ロンドンではそういうレパートリーはデイヴィスさんやゲストの方にまかせている感じもするのですが、確かに彼のロシアものはうんと良いのだけど、ベートーヴェンとか聴いてみたいです。いったいどんな演奏をするのか。いつかそんな日が来るのでしょうか。

ちょっと気がついたことを拾い書き。
チューバの奏者が楽器をふたつ使っていました。ひとつは普通の、もうひとつはミュートを付けたの。普通は演奏中にミュートを付けたり外したりするんだけど、楽器ごと変えるとは。重いのに。
第4楽章のホルンのソロ。トップの人と、補助の人(どちらもプリンシパル奏者)でひとつの長いフレーズを吹き分けてました。ひとりで十分吹き切れると思うのだけど、これは前にマリインスキーのオーケストラでもやっていましたね。ゲルギーに何かこだわりがあるんでしょうか。
ゲルギーの手のひらひら。弱音のときの方がひらひら度が大きいと思いました。でもあのひらひらはどういう意味。ヴィブラートとかそんなのじゃなさそうだし。。。
そして言い訳。昨日今日と同じようなプログラムの音楽会に続けて行ったのは、マーラーの交響曲第9番命だからではもちろんなく、今日は招待券をもらったのです。ロンドン・シンフォニー太っ腹。ペアでもらったので、ふふふ、デートデート。

もうひとつ気がついたことの覚え書き。
交響曲第9番の最初のシンコペイションを伴う動機。心臓の不整脈、っていう説もあるようだけど、わたしは、交響曲第3番の第5楽章で初めて出てきて(独唱が「心の広い神よ、わたしは泣いてはいけないのでしょうか」と歌われるところ)、第6番の第4楽章ではまさに英雄(というかマーラー自身)を表す主題、さらには交響曲第8番で、法悦の神父が歌う歌に発展する動機の変容ではないかと思いました。だから何?と言われればこれから考えるとこなんですが。

by zerbinetta | 2011-03-03 08:32 | ロンドン交響楽団

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