どうして壊れてしまったの ハンス・ロットの命日に   

1880年、多分10月の22日、ウィーンからアルザスのミュールハウゼン(当時はドイツ)に行く汽車の中で、失意のハンス・ロットは壊れました。一緒に乗った乗客がたばこに火を点けようとしたのをピストルで制止しようとして。ブラームスが汽車に爆弾を仕掛けたという妄想に捉えられて。翌日ウィーンの精神病院に入れられ、翌年の2月には低地オーストリアの州立の精神病院に移されて、そのままほぼ回復することなく、1884年6月25日に亡くなります。享年25歳。彼の残された作品を聴くと、この天才の早すぎる死が惜しいと言わざるを得ません。彼自身も素晴らしい作品を書いていたに違いないし、マーラーの音楽も違ったものになっていたでしょう。

ロットはミュールハウゼンで音楽監督、合唱指揮の仕事に就くために仕方なくウィーンを離れようとしていました。お金がない。彼がこの仕事を受けざるを得なかったのはお金がなかったからです。この週週間前、彼は作曲生活のための奨学金を得ようと奔走しています。8月に出したオーストリアの教育省の奨学金の審査員と会うため、9月の始めには教育省に掛け合い良い結果を得ます。その審査員とは、ゴルドマルク、ハンスリック、ブラームスです。彼は9月17日に尊敬するブラームスに会います。これが、最悪の結果を生んでしまった。ブラームスは「作品はたくさんの美しさ、たくさんのつまらないもの、たくさんの無意味なものを含んでいるけど、その最初のものはロット自身のものではない」と酷評します。なんて残酷な。彼にとって偉大な芸術家と仰いでいた人に完全否定されてしまうとは。

その3日前の10月14日、ロットは指揮者のハンス・リヒターとの面会にこぎ着けます。ロットは、9月から何とか、リヒターに会って自分の交響曲をフィルハーモニー(ウィーンの)に演奏してもらおうと動きます。何回かの失敗のあとついにこの日に意見を聞けるのですが、リヒターは、彼に作曲することを励ますんですけど、この交響曲をフィルハーモニーで演奏することを拒否します。
ロットが亡くなったあと、彼を高く評価していたマーラーも自身がフィルハーモニーの指揮者のとき、演奏を検討しますがそれも実現していません。彼が敢えて採り上げなかったのか、フィルハーモニーの指揮者を辞めたため演奏できなかったのか(フィルハーモニーを辞めたあとニューヨークで彼の地のフィルハーモニー協会の指揮者になるまで、自作以外のコンサートの指揮をほとんどしていません)それは分からないままです。その結果、ロットの音楽は100年も眠ることになってしまいました。

そう、いくつかの作品を鬼神の如く仕上げた直後のこの'最後の'ひと月、ロットを襲った悲劇の連鎖はロットの精神を破壊するのに十分だったのでしょう。でも、もうひとつだけ、これに加えましょう。彼は心からウィーンを離れたくなかったんだって。
ロットには恋人がいました。ルイーズです。交響曲は彼女のために書かれました。青年の潔癖症と妄想の入り交じったこの恋。ロットは彼女に身を捧げるべく死ぬまで童貞だった。彼は振られていますが、でも、彼自身、彼女の不幸な結婚を彼が救うと考えていたようです。なんて、青いんでしょう。青すぎます。ここが多くの浮き名を流したマーラーとの違いでしょうか。
ロットは、ルイーズのいるウィーンを離れたくなかった。それが、お金がなく、奨学金も得られる当てがなく(皮肉なことに奨学金は無事通ったのですが)、自作が演奏される当てもなく、失意のまま、恋人(片思い)のいる町を離れたくなかった。これが、彼の精神の崩壊の最後の引き金を引いたのではないか。そう想像してしまいます。ウィーンに仕事があればもしかして彼の運命も変わっていたのでは、と、わたしも妄想癖ありすぎかなぁ。青いぞ。

ロットの死から3日後の10月28日にウィーン中央墓地に埋葬されました。ブルックナーはお葬式にずいぶんと早くに来てひとりで棺のそばにいました。お葬式のときブルックナーは涙し、不誠実で厳しい扱いをして若い作曲家を死に至らしめてしまったブラームスを公然と非難したそうです。ロットは、本当にブルックナーに愛されていたのですね。

(いくつかの資料を基に再構成しました)
[PR]

by zerbinetta | 2013-06-25 22:31 | 随想

<< 一般参賀 わたしが指揮されちゃった 小笠... >>