人気ブログランキング | 話題のタグを見る

僧形の音楽 わたしのポゴレリチ事件ふたたび?   

2013年12月6日 @ミューザ川崎

ショパン:ピアノ・ソナタ第2番
リスト:「メフィスト・ワルツ」第1番「村の居酒屋の踊り」
ショパン:ノクターン 作品48-1
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調

イーヴォ・ポゴレリチ(ピアノ)


ポゴレリチさんを初めて聴いたとき、あまりの音楽の破壊っぷりとそこから来る深い絶望感を全く受け付けることができず、生まれて初めて、わたしの全てをもって拒絶するという経験をしました。サイアクの音楽会。プロとしてあまりに下手くそすぎて聴くに耐えなくなった、というような生やさしいものではなく、積極的な拒否感。そんな気持ちが音楽会を聴いてわき起こるとは、微塵にも考えられなかったので、自分でもびっくりしたのです。
それは、確かな痼りとなって心の中に留まりました。いろんなことを考えもしました。不思議なことに、全否定した気持ちを確かめるために、もう一度聴いてみたいとも思いました。今度は、オーケストラとの協奏ではなくて、彼ひとりのリサイタルで。
その機会がやって来ます。リサイタル。オール・ベートーヴェンとふたつのプログラムがありましたが、より彼の音楽の特徴が出ると考えた(多分、初めて聴くには分かりやすい)、ショパンとリストのプログラムで。安くはないチケットです。また、打ちのめされてしまう、わざわざ怖いもの見たさで聴きに行くこともないと躊躇する気持ちもなくはなかったですが、こんなチャンスがまたいつか分からないし、もう一度聴いたら答えが見つかる、かもと思いチケットを取りました。

川崎のホールには早めに着きました。ホールに入るとステージのピアノで帽子を被った私服のおじさんが客席を眺めながらピアノをぽろんぽろんと弾いていました。調律かなと思ったら、そんな感じじゃなくて和音を連ねた静かで瞑想的な即興曲のようで、耳を疑うくらい上手い。というのが、ただ和音を弾いているだけで分かるくらいすごいの。ものすごくきれいな音で。ポゴレリチさんでした。音楽会の前に心を静める禅を組んだような寂静。なんだか、宗教的な気持ちにさえなってしまう。

演奏についての細々は、あまり書きません。ピアノの音楽についてつべこべかけるほどわたしはピアノをよく知らないから。
ショパンの葬送行進曲付きのソナタは、葬送行進曲を除いて、ゆっくり目のテンポ。音を靄に包むような深いペダル。いきなり、三途の川の霧の中に連れ込まれた、立ってる世界が変わった。ひとつひとつのフレーズ、音がばらばらに、自由に浮遊して音楽の関連性が曖昧になった感じなのに、でも全体はひとつの世界を形作ってるような。全体を通してほぼ切れ目なく演奏されて(わたしとしたことが、第1楽章から第2楽章に移ったことに気がつかず、全体で3楽章の曲だったかしら?なんて恥ずかしいこと思いました)、ばらばらの音の間に、重力のようなまだ正体の分からない見えない力が作用しているように、もっと直裁的に言えば、音の間にエーテルのようなものが充満しているように感じられました。第2楽章の慰めのような第2主題は、お終いに再現されてくるときには、ばらばらに壊されて、甘やかな記憶は幻影でしかないと感じられたし、葬送行進曲の中間部の主題はもうめちゃくちゃ美しいんだけど、淡々としていて平安よりも何か大切なものを失った虚無感があるがままに感じられるんです。でも、なぜかそれはそこにあって、だから、何もない絶望ではないと感じられるのです。第4楽章は、もしかしてこの演奏の白眉。深いペダルが音を曖昧に滲ませて、でも音は決して濁らないし、音が聞こえると言うよりそこに質量を持った空気がある、というか人が死ぬとき魂が空気の玉のように口からすうっと抜けて空に流されていくような昔の景色を思い浮かべました。崇高だけど日常的な人の死。どこか懐かしくてでも現実ではない、心象風景。

リストの「メフィスト・ワルツ」のピアノ版は実は聴いたことがありません。オーケストラ版なら知ってるんですが。これは。原曲がどんなだったか想像できないような音楽。オーケストラ版で知ってるメロディはときどき聞こえてくるんですけど(オーケストラ版はピアノ独奏の曲の編曲ではないんですね、でも)、(わたしは知らないくせに)普通に弾いた演奏とはまるっきり違って聞こえるんだろうって分かる感じ。踊ってないし。陽気じゃないし。

ショパンのハ短調のノクターンもおよそノクターンらしからぬ演奏。速度を失って浮遊しているような自由落下しているような音の配列のような音楽は、色即是空。でも、それは絶望ではなく、でも満たされているわけでもなく、あるがままにそこにある感じ。ものすごく丁寧に音が置かれて、音と音の間につながりがあるようなないような、でも、濃ゆいエーテルが音と音の間に充満していて音が相互作用をしている感じ。危ういところで踏みとどまって、音たちに関係性が保たれているのは音楽が成り立っているってこと?音楽って必然的な音の連なりよね。

最後のリストのソナタは、素晴らしかった。この曲は以前に、エマールさんの圧倒的な演奏を聴いているけど、ポゴレリチさんのは全くアプローチも音楽の作り方も違うけど、ずしりとくるものでした。この長大な難曲を、ひとつの音もおろそかにすることなく完璧にコントロールされて、しかもその完璧さの、技術的ではない音楽的な、重箱の隅も完璧に突き切っちゃうところが唖然。ひとつひとつの全ての音がそれしかあり得ないように、強さ、音色、響き、重さ、大きさ、肌触り、意味、を持って心に届いてくるんです。流すところがなく、全ての音を磨き上げてる。特に印象的だったのは、フーガの部分で長い音を長めに、続く短い音符を速く弾いているのにそれが重なり合うときの空間を曲げるような小さな軋みと最後の部分、ひとつひとつ音が降りてくるところのあまりに音のディーテイルこだわりにこだわった緊張感。キュビズムの絵のようにひとつのものを全ての方向から同じ重さを持って見つめるように、音楽に含まれる全ての音を同じ重さを持って弾いているみたい。それ故、細部のひとつひとつの音にまで主役と同じ意味を与えられていて、そのために異形になってる。ポゴレリチさんの音楽は、破壊と創造。作曲家の作曲したきれいなお城のレゴブロック、それをいったん壊して再創造して全く違ったお城に組み上げているの。影に隠れて見えなかったブロックまで外に出して光を当ててる。いいえ。再創造と言っても「編曲」ではなく、楽譜に書いていることを再現しながら「演奏」してるの。でも楽譜には書かれていることよりも書かれていない大事なことが圧倒的に多いんですね。膨大な世界。ポゴレリチさんのそれは宇宙でした。無限に広がる全てを包み込む宇宙。音楽を聴いていたと言うよりも霊的な宗教的な体験でした。やっぱりポゴレリチさんは修行僧だわ。雷に打たれるような天啓を与えてくれる僧形の音楽家。

ポゴレリチさんの音楽はポゴレリチさんの音楽以外の何ものでもありません。そこにはショパンもリストもない。と、今のわたしは思います。もっと聴き続けてみればそこからショパンやリストが現れるのでしょうか。ポゴレリチさんを追うわたしの巡礼は始まったばかり。音楽の新しい彼岸に巡り着くことを期待して。

by zerbinetta | 2013-12-06 01:36 | 室内楽・リサイタル

<< そんな馬鹿な!喜。史上最強の幻... 超ハッピー アントネッロ最強!... >>